第7章 アールヌーヴォー

中庸の精神絵画からの脱皮都市の文化/ミュシャ:故国への回帰/装飾への志向/大衆性/モリスと生活文化/雪岱:だれもいない都市風景/挿絵画家の悲哀/春信:なよやかな平和主義/浮遊する魂


第77回 2021年11月23

中庸の精神

画家という存在の危うさというのがある。ゴッホに象徴されるように、絵が生涯の間に一枚しか売れない。それでも描き続けるという、それが純粋芸術だという方向性が、今までの美術史の根幹をなしていた。そこでモネなど印象派が行き着くところまで行った。モネは最終的には認められて、画家としての生涯を終えることができた。ダヴィッドやクールベのように主義を掲げて社会的に制裁を受けることなく、中庸をゆくことで印象派の立ち位置を明確にした。

バロックを代表する二人の画家の生きざまが対比を通して、教訓として見えてくる。クールベはカラヴァッジョの無頼が再来したように見えるが、ルーベンスは権力に対立することなく、バロック的情念を抑え込んで、中庸の精神をかかげることでラファエロを引き継いだ。印象派も反アカデミズムを掲げた出発だったが、いつの間にかアカデミズムに受け入れられていった。いいなおせば中庸はいかなるセクトにも属さないという意味で、世渡りの処世術にもつながるが、底辺にあるのは孤独でアナーキーな思想だった。

画家が職業となるということは、大変なことだ。ここから以降、意地でも絵を描き続けて、筆一本で名をなすというのが、絵画史の中心的なものとしてはある。しかしそうでない方向性というのがあって、それがうまくバランスをとって、歴史が展開していく。

日本文学でいえば芥川賞と直木賞がいつも抱き合わせになっているのと似ている。芥川賞作家は簡単には直木賞は取れない。取りたい気持ちはよくわかる。実をとるか名をとるかの選択を背景にしている。今では直木三十五の名は知らないが、芥川龍之介は誰でも知っている。現世か来世かの選択肢は、古くからの宗教や哲学の課題だった。高校教科書の「現代の国語」では小説を使わないという約束を破ってまでも、「羅生門」を掲載したいという魔力を、文学はもっている。

第78回 2021年11月24

絵画からの脱皮

世紀末の象徴主義と同調するアールヌーヴォーは、職業とならない画家を求めるのではなくて、現実社会のなかにどう対応していくかということが課題となる。外的刺激としてはこの時代の万国博覧会に注目が集まる。一般大衆の興味と今まで見たこともないようなものがパリやロンドンにもたらされ、そこで作品から商品へという展開が始まっていった。

芸術から産業へともいえるだろう。デザインという意識は、世紀末の大衆性から誕生してくる。現代ではデザインは、わが子がゴッホにならないことを願う親の代名詞、あるいはアートを学ぶために子が親を説得する隠れ蓑になっている。とはいいながら現状ではデザインは産業大学より以上に、対立するはずの芸術大学に属している。

デザイナーがアーティストを毛嫌いする場合は多い。その意味ではデザインはポストアートということになるが、これはいわば内ゲバであってアートがなければデザインは成立しない。一般庶民にとっては中核も革マルも大差なく、なぜそんなにも仁義なき戦いを繰り返すのかは、謎でしかなかった。デザインとアートは同居することで、これまで鍛え上げられてきたとみるのがよいだろう。

その後アールデコがデザインや装飾美術を受け継いでいく。ところがアールヌーヴォーにしてもアールデコにしても絵画史の上からみると、長らく評価は低かった。いわゆる挿絵という領域は、日本の場合でもまともな日本画家ならイラストなどには手を染めないという考えかたが根強くあった。画家の片手間で文学の挿絵を描いたり、新聞のコマ絵を担当したりして、余技のような意味で評価されていなかった。

それがそうではないという大衆化路線が、日本でいえば竹久夢二あたりから、夢二の評価を通して浮上してきた。夢二自身はエンターテイメントをめざしていたとしても、後世それを再評価するなかで、純文学やファインアートとしても優れたものを秘めていたと改めて考え直すことになる。夢二評価は、西洋ではミュシャなどの今日での人気や絵画史での重要性に対応する。

アールヌーヴォーという美術運動が約半世紀をかけて見直されてきた。これまでは絵画一辺倒できていたが、絵画をベースにしながらも、どこまで広がりをみせるか、あるいは地に足が着いた生活文化のなかに浸透していくかということになる。トゥールーズ・ロートレック(1864-1901)などもその段階で、再評価されていく。画家としての評価に加えて、アールヌーヴォーの再発掘のなかで、ポスター制作が見直される。版画にしても一点物ではない広告にまで広がっていくような、絵のなかに文字が入ってくるような、今までは不純なものと見ていたものが、そうではない世界が開けてくる。

今ではアールヌーヴォーと象徴主義は、大きなウエイトを占めており、近代絵画史では抜きにできない。純粋な絵画の流れからすると、逆方向の揺れ戻しにはなるのだろう。それをまた軌道修正するのが、その後のフォーヴィスムやキュビスムという絵画運動ということになる。世紀末にメディアの勝利が果たされる。今までは絵画が重要だったが、ここでは絵画を捨てさえする。そして、それ以外のところに活路を見出していく。

第79回 2021年11月25

都市の文化

重要なのはパリやニューヨークの「都市」なのだろう。アールヌーヴォーの場合はパリ、バルセロナ、ミュンヘン、ウィーンという、16世紀以来何百年という時間を経てくたびれてきた諸都市だった。ロンドンなどもその典型で、先が見えない陰鬱さ、都市文化の退廃のなかで、一種独特の雰囲気があふれ出してくる。そこでは絵画のなかで枠組みを作るというよりも、現実世界と地続きで音楽も同時に聞こえてくる。建築とも連動しながら、工芸作品など手にとって触感するものに展開していく。

20世紀になってからそれとは逆の方向で絵画は、表現主義に特化していく。絵画史の上ではフォーヴィスムとキュビスムは重要だが、それの前にアールヌーヴォーがあり、それの後にアールデコがある。フォーヴとキューブを高く評価しすぎると、アールヌーヴォーとアールデコがおとしめられる。1920年代のエコールドパリもアールデコと連動する都市の文化だが、それは新しい絵画運動ではない。

ここではそれに先立つ世紀末とアールヌーヴォーを取り上げる。象徴主義絵画と歩みをともにするが、実際には建築でいえばアントニ・ガウディ(1852-1926)、工芸でいえばエミール・ガレ(1846-1904)、さらにはアメリカにも飛び火していく高名な建築家と工芸作家の時代だ。デザイン運動と連動している点で、特徴をもっている。画家の場合も絵画という領域を飛び出していて、クリムトやムンクも、もちろん純粋なタブローもあるが、大規模な壁画や建築の装飾など、都市空間のなかで絵画だけにこだわらない空間造形への興味をもった。

ロートレックも同じように都市空間のなかにポスターを広げていった。ポスターは一種の壁画であり、ロートレックは壁画を描くための身体的要件を備えていなかったと見ることができる。壁画のもつ建築との連動性が、あちこちに散りばめられたポスターの実像だろう。絵柄はもちろんあるが、絵画からはみ出してしまって、「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」(1891)や「ジャンヌアヴリル」(1893)では踊り子は脚をあげ挑発しながら、巷に向かって広がっている。画家本人にとっては不自由であった脚が、室内を離れ、外出を企てる。建築の壁ではなく、都市や通りの外壁を装飾するような方向に行き着いたのではないか。

80回 2021年11月26

ミュシャ(1860-1939):故国への回帰

アルフォンス・ミュシャはチェコの人で、活躍地はパリであるが、パリ中心から周辺の地域に拡大していく。アールヌーヴォー独特のエキゾティズムを形成する。浮世絵もまた異国趣味だったがミュシャの場合はスラブ系の情緒を温存する。パリの洗練とローカルのもつ民族色が交じり合う。カラーリトグラフを用いたポスターに飽き足らず、「スラブ叙事詩」(1911-28)を油彩画20点の大作で描きあげる点が注目に値する。版画の場合も二メートルをこえるものもあるが、一点限りしかない油彩画に比べればワンランク下がると見られた。

後年は版画を離れタブロー作家をめざす。版画というメディアのインターナショナルを捨て、民族主義を油彩画に託したということだろうか。古風な色調をもち、そこにはパリ時代の華やかさはないが、意志の力が充満している。天井にまで達するような20点の連作を一堂に会して見渡すと、淡い色合いのポスターのほうに世紀末の不毛を感じ取り、民族性の自覚と意識の高揚感を思い知ることになるだろう[i]

これまでは世紀末のパリを飾るポスターなど石版画が中心だった。それらは原色に根ざした絵画の革新には背を向けて、色彩は用いてもグレーゾーンに引き下がり、朦朧体といってもよいものだった。グラフィックデザイナーとして一世を風靡したのちに、故郷のチェコに戻り、画家として大作にのぞむ。しかしこれらの評判はあまりよくない。

アヴァンギャルドが先行する絵画史にあっては、決して斬新なものではなく、大作とはいえ当時のサロンを見慣れた目には、さして珍しいものではない。一昔前の手堅い古典派の様式にロマン派の情熱をかぶせた復古調のものとして、評価外の扱いを受けても、当時としては仕方なかったかもしれない。サロンを見慣れない現代の私たちには、もちろんきわめて新鮮に目に映った。

ミュシャが自身の名声を捨ててまで祖国に思い入れをしたという限りでは、エコールドパリにとどまらなかったという点で、アイデンティティを確実なものとしたようにみえる。デラシネ(根無し草)となって芸術家気分を満喫しなかったという点でも、健全な芸術のありかを求めていたのではなかったか。「ジスモンダ」(1894)をはじめミュシャがポスターに映し出した女優サラ・ベルナール(1844-1923)は、身近にいる魅惑に満ちたアイドルだった。その小悪魔的なイメージはのちのフランス映画に引き継がれていくものだ。悪の華が咲き誇るパリの寵児として、シンデレラボーイを経験した者にとって、退廃から逃れるすべは、祖国復帰しかなかったのかもしれない。フジタと比較して考えれば、回帰するにはよい年代記上にあった。

ロートレックの場合は、ポスターに向かいながらも油彩画にとどまったという点で、これまでも絵画史に名を連ねていた。その周辺にいたミュシャやジュール・シェレ(1836-1932)の名は大衆文化のなかで眠っていた。それがアールヌーヴォーの再評価とともに、第一線に躍り出てきた。ミュシャだけでなく当時のグラフィックデザイナーの掘り起こしが進んでいく。ポスターであることから作品数も多く、個人のコレクションにも広がりを見せており、手の届く範囲の収集欲を満足させることになる。

世紀末を過ぎてフォーヴィスムでは原色が目に飛び込むが、ミュシャの淡い独特の色合いは、浮世絵ともちがうものだ。スラブの血のあこがれはウィーン、ミュンヘンを経てパリにたどり着く。ミュシャの色彩論は、板谷波山(いたやはざん1872-1963)の葆光彩磁を通じて日本の美意識にも反映していく。日本画で朦朧体を指導した岡倉天心の影響が背景にあるのだろうか。波山は東京美術学校で天心の薫陶を得ている。


[i] 「ミュシャ展」2017年3月8日(水)-6月5日(月)国立新美術館

第81回 2021年11月27

装飾への志向

絵画からデザインへという文脈で登場する「装飾」という語は、美術の領域では否定的な響きをもっている。装飾をなくすことが絵画の純粋化を求める方向だと、長らく考えられてきた。デザインではそれを逆手にとって、装飾こそすべてだと切り返す。人間にはたいした本質などはなくて、うわっつらしか目には見えないし、それこそが重要なのだという立場に立ち向かう。

もちろん装飾を敵視する機能主義もデザインにはあって、それとは対立する。装飾イコール、印象派が出てきたときの空気やヴェールに対応する。印象派とそれをこえて、骨組みを重要だとするセザンヌなど後期印象派との対比が、デザインとファインアートとの間には見えてくるように思う。世紀末の一連の現象は、装飾に目が向いていた。ミュシャなどはポスターの歴史では必ず出てきたのだろうが、絵画史ではほとんど無視されてきた。それが近年逆転して、繰り返しミュシャ展が開催されている。

ゴーギャンの影響はここでは重要だ。株の仲買人という一般人から絵にのめりこんでいった画家だ。まともな美術教育を受けたわけではない。もって生まれた個性に魅力を感じた若者たちが、ゴーギャンのもとに集まり、画家グループを形成する。時代的には世紀末ぎりぎりの頃だが、ナビ派やポンタヴァン派というグループも活動を起こす。ことにドニの装飾的絵画は、同グループのボナールなどよりも人気を誇っている。

ドニのくだした絵画の定義が重要で、絵画とは「色の塗られた平面」、正確には「一定の秩序で集められた色彩によっておおわれた平面」(1890)といっている。二つの要素だけで絵画は成り立つ。「色」と「平面」という限りでは、「形」はもはやどうでもよいということだ。実際にはドニの描いたものを見ていると、形はしっかり残っていて、色と平面だけで成立しているわけではない。形は自明のものとして、その後の抽象という発想にまでたどりつくには至らないというほうが正しいか。

タブローから壁画へという動向もドニのなかにはある。壁画運動はその後のメキシコで大輪の花を開かせるが、タブローを否定する方向性をそこに読みとる必要がある。額縁をもったなかで完結する世界ではなくて、日常生活と地続きにあるという意識である。もちろんタブローも写実主義や印象主義の出てきたときには、日常のひとこまを枠のなかで展開させてはいた。同じ日常性なのだが、そこで断ち切られて異空間を形成する。壁画だと場合によれば天井にまで広がるし、日常の自分の立っているその場という空間意識がつねに成立してくる。建築家もそれと連動するような形で参加する。ガウディは自分では絵は描かないが、曲線を多用した流れるような建築によって、絵画的な要素を強めている。

バルセロナでのアールヌーヴォーの実験は、スペイン語ではモデルニスモと呼ばれる。ドイツ語圏ではオットー・ワーグナー(1841-1918)が登場して、クリムトとともにウィーン分離派を結成してアールヌーヴォーに同調する。ガウディとは同じ時期のものだがウィーンとバルセロナではずいぶんとちがう。フランス語のアールヌーヴォー(新芸術)はドイツ語圏ではユーゲントシュティール(若者様式)の名をもつ。イギリスではチャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928)がグラスゴーで新様式の建築を展開させていく。ウィーンのものに似て水平垂直がしっかりとしていて、こまごました手すりや取っ手などに曲線が多用される。

アールヌーヴォーは国際様式になっていったが、フランスではこの名称は美術雑誌名でもあり、日本からのエキゾティックな趣味も下地をなしている。日本の浮世絵や工芸は印象派にも影響したが、アールヌーヴォー周辺のウィーンやミュンヘンでも大きな刺激を与えていく。浮世絵に加えて宗達や光琳の琳派の特徴とするデザイン的感性が好まれた。ウィーンではクリムトなどに江戸時代の琳派を思わせる異国趣味が入り込んでいるようにみえる。

第82回 2021年11月28

大衆性

フランスではエクトール・ギマール(1867-1942)の名が捻じ曲げられた鉄の連想をともなって見え出してくる。「エッフェル塔」(1889)が出来上がる時代で、鉄を使った建築様式だ。ガラスと鉄骨という新時代の武器が象徴性を帯びる。ブロンズ彫刻が一世を風靡する時代を過ぎ、鉄は彫刻を見限って建築と手を結んだ。建築と連動して工芸ではガレやルネ・ラリック(1860-1945)がガラスの曲線美を希求する。

技術美の勝利を誇り、鉄もガラスも溶かされて飴のように引きのばされる。現代でも様式は受け継がれて、カンパニーが組織され商品として売買が続いている。現代建築を象徴する鉄とガラスとコンクリートという三種の神器は、中世以来忘れられてきた古代ローマへの憧れと賛辞を含んだものだった。

絵画ではピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-98)やウジェーヌ・カリエール(1849-1906)など象徴主義の画家が大衆性を背景に名をなす。現在ではゴッホやゴーギャンの知名度の影に隠れてしまっているが、当時の評価は逆転していた。日本でもともに大原美術館などに収蔵され、魅力を放っている。ことにカリエールなどは憂鬱げな時代の気分を伝え、美術史的評価をこえて人気のあるものだ。憂鬱げな表情はルネサンス以来、思索を象徴するメランコリー像の系譜に属するが、オランダ絵画の17世紀を経由した近代人の目には、恋わずらいか虫歯に悩む都会人の肖像にも見え出してくる。

イギリスではアールヌーヴォーはリバティ様式の名をもつ。ラファエロ前派が先行するが、ヴィクトリア朝の気品ある貴族性に支えられた装飾的色彩が香り立つものだった。文学性の強いメロドラマ的な側面を有した。イギリスではプロテスタントに根ざす宗教感情から、裸体表現が遅れたのだという。これに対応して、エドワード・バーンジョーンズ(1833-98)の「ピグマリオンの彫像」(1878)をはじめ当時のイギリス人画家たちの描く裸婦像は、確かにみずみずしい。まだ成熟していない、少年がはじめて裸婦を目にした時のような初々しさがある。それは母親の乳房を忘れ去った少年が、あらたな第一歩を踏み出す瞬間だ。

これを裸体表現の成熟したイタリアやフランスなどの目から見ると、表面的で深みに欠けたものに見えたにちがいない。このうぶで無垢な魂は、ラファエロ前派の画家たちが敬愛したボッティチェリに起因するものだろう。「ヴィーナスの誕生」には、はじめての裸婦に驚嘆したイタリアルネサンスの喜びがある。長い中世を通して忘れていたものといったほうが正確だろうか。

イタリアでの裸体表現の再発見が数百年の時を経て、イギリスで再燃したということだろう。下村観山がイギリス留学中に模写をしたラファエロ前派の裸婦もまた、ヌードに免疫のなかったイギリスと日本が共鳴しあって誕生したものだろう[i]。騎士(ナイト)と裸婦というぞくっとするような組み合わせは、シュルレアリスムの予感を嗅ぎ取ったものだ。紳士と裸婦という組み合わせとみるなら、フランス画壇の怠慢を前にマネがしかけた挑戦とも共有する。封建的な日本画の土壌に根ざしたあふれるような初々しさがうかがえる。


[i] 「生誕140年記念 下村観山展」2013年12月7日(土)─ 2014年2月11日(火)横浜美術館 「ナイト・エラント(ミレイの模写)」

第83回 2021年11月29

モリス(1834-96)と生活文化

ラファエロ前派はバーンジョーンズ、ロセッティ、エヴァレット・ミレイ(1829-96)など大衆的基盤に立って台頭してきた流行作家群を擁していた。挿絵ではオーブリー・ビアズリー(1872-98)が一世を風靡する。あるいはウィリアム・モリスはデザイン運動に結びつけて、産業革命から続くイギリスの革新を加速させた。絵画史としてはフランスに先導されたが、デザインの領域ではイギリスの立ち位置が重要だ。純粋美術というよりも大衆に基盤を置いたデザインへと興味を移していった。

デザインはイギリスがフランスに先行している。それはこの語が英語であることからもわかる。デザインにあたるフランス語はデッサンだが、フランスではまだ素描のままだったということだ。もちろんそれは芸術の原点という栄光の地位にはあった。ラファエロ前派にしても絵画理論を追求するものではなくて、文学性を内包しながら薫り高い英国的格調を重んじた。美術館のなかで鑑賞するものではなく、街中に氾濫するポスターと同調する社会性を有するものだった。

モリスの壁紙が今日ではフレームに入れてタブローとなって展示されている[i]。ただの壁紙なのに、みごとに絵になっている。装飾美術は長らく評判が良くなかった。それ自体が自己主張をしないで、他のものを飾ることだけを考えていたからだ。しかし、作家に自己主張が強すぎると、壁紙のような存在でいてほしいという主張がでてくる。

絵は中心を無くして拡散する。上下左右へと広がって行く。近代のデザイン運動は、そういう主張から始まった。しかしそれが主張であるという点では、一歩下がって目立たないものに向かうのではなくて、目を引くものを追いかけていたことは確かだ。それが近代という意味である。

自己主張を抑え込むために、ヨーロッパ中世が利用される。キリスト教精神が根づいていた頃、神に飾るという一言で、すべてが平等であった時代への哀愁が、成立要件となる。美よりも快適さを求めるためには、アートよりもデザインが必要になってくる。他と異なった個性を追求し、オリジナリティを金科玉条のものとして暴走してきた絵画運動を解体して、生活レベルへと引き下げる。

すべてを絵画へと集約するのではなくて、絵画を日常空間へと開放するのだ。建築には壁紙やステンドグラスが埋め込まれる。テーブル上には書籍や食器や椅子が趣味のよい絵画のように散りばめられる。トータルな生活文化向上運動は、個人の主張をこえてカンパニーを組織することで、互いを牽制しはじめる。モリス商会はそんな願望のなかから誕生した。


[i] 「ウィリアム・モリス 原風景でたどるデザインの軌跡」2018年2月17日~3月25日 豊橋市美術博物館

第84回 2021年11月30

雪岱(1887-1940):だれもいない都市風景

タブロー離れのなかから再発見される絵画史の動向は、イギリスと同様に日本でも挿絵や書籍の装丁に向けられた。小村雪岱(こむらせったい)もそんななかから21世紀になってよみがえった画家だった[i]。雪岱はデビューまもない1915年(大正4)頃の本の装丁がいい。泉鏡花(1873-1939)によって見出された無名の日本画家が、一躍名が知られるようになっていく。

その頃はのちに雪岱調といわれる美人画ではなくて、都市風景ともいえる登場人物を欠いた舞台設定が特徴的だ。ことにハードカバーの見返しに、見開きで全面を使って描いた風景が心に染み入ってくる。センスのよさは色彩感覚にもみえるが、これからはじまる泉鏡花のフィクションを予感させるものだ。繊細な線は震えるようにデリケートで、人物をなくしたたたずまいが、かえって余韻を残す。

室内画も多いが、泉鏡花「日本橋」(1914)の見返し絵では、誰もいない畳の部屋に三味線と鼓がぽつんと置いてある。畳のへりの線が震えるようにか細く、それだけで物語のありかを伝える。それは自立できるものではなく、文学に寄り添った予感であり余韻でもある。フランスではこれに同調するように、アンリ・ル・シダネル(1862 - 1939)がテーブルと椅子だけでテラスの食卓を描き、人物不在の象徴性を語るのは1920年代のことだ。

日本画家ではあるが挿絵画家といったほうが正しい。そこに小村雪岱の現代性がある。大作ではなく小品で、印刷によって仕上がる原画ということだ。たまたま残ったという点に、美術のありかたを再考する材料が潜んでいる。雑誌の表紙絵があるが、仕上がりは絵の前面に雑誌名の大きな活字が置かれ、絵は完全につぶされてしまっている。何という暴力だと憤りを覚えるが、それも原画が残されていての話だ。

原画というよりも下絵という扱いだが、その仕上がりは職人技で、破棄されてもよい消耗品が、残るべくして残ったということだ。新聞小説の挿絵などは、仕上がりと下絵を比較すると、紙質ひとつとっても、その差は歴然としている。仕上がりがモノクロなので下絵に色がないのが惜しいとさえ思える。カラリストである雪岱の無念が目に浮かぶ。


[i] 「生誕130年 小村雪岱—「雪岱調」のできるまで—」 2018年1月20日(土)から3月11日(日)川越市立美術館 「小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンヘ」2019年12月21日~2020年02月16日 岐阜県現代陶芸美術館

第85回 2021年121

挿絵画家の悲哀

原画の扱いの悲惨は挿絵画家の悲哀を伝えるものだ。それも今日では絵本の原画展を通して復権した。印刷物をオリジナルだとすれば、原画は下絵にしか過ぎない。下絵がみちがえる出版物に変身することもあるだろうが、逆の場合もある。

いわさきちひろの原画に書き込まれた編集者のさまざまな指示や返却をもとめるスタンプ跡をかつて「いわさきちひろ展」(1979)を担当したときの舞台裏でみたことがある[i]。手書き原稿が作家の手元にない文芸作家のあきらめが常態化してしまったものだ。21世紀に入って美術館の役割は主役を出版や印刷にうばわれた作家の悲哀を救いとることに専念しはじめている。

雪岱は装丁でもなく、装幀でもなく、装釘という語を好んだようだが、この分野だけで一仕事を終えていた。その次に人物画がくる。「おせん」というキーワードで私たちは鈴木春信と出会うことになる。目じりのつり上がった小粋な娘だ。折れそうな華奢な身体を着物がなぞる。

大正ロマンの洋装の時代に、江戸情緒をぶつける。時代小説の庶民性は根強く、江戸への憧れとなって、明治維新を反芻するのだ。大衆小説家よりも挿絵画家のほうが輝いている。今でも新聞小説を挿絵に目がとまって読みはじめることは多い。

滲み入るようなデリケートな描線が奏でる繊細なメロディが、今にも消え入ってしまおうとする後ろ姿と横顔にあらわれる。黒髪がほつれる微妙な階調が心にとどまる。こんなに細い線が木版画になるのかという驚きは、制作工程に立ち会わないと実感はできないはずだ。春雨や夜雨というタイトルに込められたリズミカルな季節感が、黒髪を照らし出している。

おせん・傘」(1937)のランダムな傘のリズムがいい。大正のリベラリズムに支えられた古き良き時代を回顧する。雨足もまた一様ではなく、雨傘がそれに対応している。規則正しく戦靴の響きが高まりはじめる頃の、ささやかな抵抗にもみえる。江戸情緒を豊かに語る小道具である。都会の雨をいろどる傘の開花は、のちにニューヨークのソール・ライター(1923-2013)や「シェルブールの雨傘」(1964)で映像として定着するものだ。

漆黒を活かした闇の叙情が、小舟を浮き上がらせて、何でもない夜景を包んでいる。それは挿絵をこえて多くのドラマを語りはじめる。人物不在の風景は少なくないが、どこかに人の立ち去ったあとの、余韻を残している。香りといってもいいが、江戸情緒をかたちづくってきたものだろう。イギリスの出版文化がビアズリーというイラストレーターを生んだように、小村雪岱も世紀末の退廃的気分を引きずりながらの登場だった。江戸と大正をまたいで、古き良き時代の確信が現代によみがえっている。


[i] 「いわさきちひろ展:野の花の心」1979年7月14日~8月5日 福井県立美術館

第86回 2021年12月2

春信(1725-70):なよやかな平和主義

雪岱を通して鈴木春信がよみがえるが、欧米では逆に春信を通じて雪岱に出会うことになる。世紀末の西洋は春信の育てあげたロリータに夢中になったはずだ。浮世絵で美人画といえば歌麿が最高と思っていると、鈴木春信は何かひ弱げで頼りなく、見過ごしてしまう。振り返って見返ると、なよやかな感じが実に繊細でいいのだ。

それは図柄のことだけでなく技法のことでもある。版画とはいえ複製という認識は当たらない。錦絵というが淡い色の階調が際立っている。中間色の微妙なぼかしを基本とし、印象派を魅了したけばけばしい原色の自己主張とは異なる。ミュシャのポスターにも通じるニュアンスは、版画というメディアで共鳴しあうものかもしれない。

印刷物にはない肌触りは、空刷りという色を施さない凹凸のニュアンスに実現している。女性の白い着物に目を凝らすと繊細な打ち込みが見えてくる。この影は印刷物では実現できないものだ。西洋版画のエングレーヴィングでの刻印のもつしっかりとした傷痕に近く、浮世絵もまたプレスなのだと再認識する。凝縮された濃密な美のありかを伝えている。

細部への目のゆき届きは、男女の恋愛の機微を描いたときに、最高潮に達する。「雪中相合傘」(c.1767)をはじめ、よく見ないとどちらが男かもわからない。男女平等に描かれているという点では、高度に発達した文明の力を感じさせる。爛熟というにはさわやか過ぎる。成熟した文化の片鱗は、江戸の平和を物語る。物足りなさを感じてしまうとすれば、それは慣らされた平和ぼけに甘んじる現代日本人のほうに原因があるのだろう。

春信をこよなく愛したのは欧米人だった。幼い表情を残す男女には、ロリータ願望が含まれていた。バイセクシュアルな美少年に寄せる嗜好は、古代ギリシャ以来の文明のステータスを証明するものでもあった。ラファエル・コラン(1850-1916)との同質性から「ダフニスとクロエの浮世絵師」(三浦篤)という指摘もある。明治のはじめにやってきたお雇い外国人のなかで、ウィリアム・ビゲロー(1850-1925)が大量に春信をもち帰った理由もわかる気がする。次々と欲しくなってくるのだ。

一枚あればあとは同じようなものだという大まかな理解では、コレクターのこだわりはわからない。ボストン美術館には、東京国立博物館の何倍もの春信が所蔵されている。サムライや武士道とは相反する心優しい男の実在は、戦いを捨てた江戸の春を象徴するもので、このめめしさがある限り、平和は守られているということだ。この平和は知的遊戯に満ちている。見立てという名で、古典を現代に蘇らせる。古典の素養を試され、画面に隠喩が隠し込まれる。高度な文化水準のあらわれだが、庶民に古典の教養を伝える役割も果たす。

ドーミエが古典のパロディを盛んに石版画に描いたのは、浮世絵の見立てと対応関係をなす。ドーミエの石版画「古代史」(1841-3)では、ナルシスが水面をのぞきこむ顔つき、サッフォーの身を投げる絶壁で躊躇する姿、グラックス兄弟の母が威張る鼻たれ小僧の表情は、古代の栄光を世俗に引き出されたユーモアの勝利だった。

第87回 2021年12月3

浮遊する魂

江戸の知的文化が、明和という年号の代名詞となる。それが短命な春信の舞台であって、幕末に向かうなかで、18世紀中期以降の春信から歌麿への女性像の変化は、ロココからロマン主義へと変貌をとげる西洋美術史に対応している。ナポレオンの時代、女性像もまた変容をとげる。ドラクロワが描く「民衆を導く自由の女神」(1830)は、ロココのもつ貴族社会の美意識を駆逐した、たくましい女性の誕生を象徴する。

歌麿の女性像もまた、はっきりとした目鼻立ちをもち、力強い意志を感じさせるという点で、春信の男女が運命に翻弄される危うさを含んでいたのと対照的だ。運命を切り開くのではないという限りにおいて、近松の心中世界と置き換え可能なヴィジュアルが春信の描くユートピアには、潜在化している。浮遊する魂は浮世を謳歌する平和の象徴であり、きな臭い昨今の世界情勢を見るにつけ、春信的日常が続いてほしいと思うのだ。

浮世絵が残酷なまでの嗜虐美を求めて終焉を迎えるのは、戦いに明け暮れる殺伐とした明治の夜明けのことだが、その引き金となった西洋人の美意識には、春信の浮世絵は平和の象徴として、この上なく美しく映っていたにちがいない。でなければこれほどまでに大量に海外に流出してしまうことはなかったはずだ。一方で日本はその時点で平和を捨てたということだ。浮世絵は江戸という大都市に開花したアールヌーヴォーだった。

明治以降の欧化政策には、西洋は何の興味もなかった。鎖国時代に独自の文化を成熟させた庶民の格調に驚異した。浮世絵はそれを手に取るように伝えるものだった。ボストン美術館は、この消耗品を保存し、修復して、大切に平和を守ってくれていたということになる[i]。ひとこと付け加えておくと、春信にももちろん春画がある。


[i] 「鈴木春信 ボストン美術館浮世絵名品展」2017年11月3日(金)~2018年1月21日(日)名古屋ボストン美術館


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