第464回 2024年5月18日 

アラバマ物語1962

 ロバート・マリガン監督作品、原題はTo Kill a Mockingbird、グレゴリー・ペック主演、アカデミー賞主演男優賞、脚色賞、美術賞の3部門で受賞。原題のマネシツグミは無害を意味し、これを殺すことの是非を問いかけている。人種差別が色濃く残るアメリカ南部アラバマ州での話である。

 弁護士(アティカス・フィンチ)を父にもつ兄(ジェム)と妹(スカウト)がいる。母親は死んでしまったようで、父親がふたりを育て、慎ましい生活を送っている。黒人のメイドがいて、母親代わりに厳しくしつけている。いたずら好きな子どもたちで、妹は女の子のような服装で学校に通うことになったのが恥ずかしく、男の子とも取っ組み合いのけんかをしている。

 隣家に休みの間だけやってきた少年(ディル)を誘って、3人で遊んでいる。もう一軒の隣家に謎の住人(ブー)がいるようだが、引きこもりなのか姿を見たことがない。気にかかり恐る恐る探りにいく。夜中に探検に出かけ、ひとの気配を感じ、逃げるときに柵でズボンを引っ掛けて、兄はあわてて脱いだまま走り去る。あとで取りに行くとたたんで置いてあったのだという。

 ミステリアスな事件が続き、その謎解きも見せ場になっている。父親が黒人の被告(トム・ロビンソン)を弁護することになり、そのことから白人に白眼視され、嫌がらせを受けるようになる。子どもたちにも、その被害は及んでいる。白人の娘(メイエラ)が顔見知りの黒人から強姦されたという訴えだった。弁護側の主張は、犯行は左手によるものであり、被告の左手は事故で動かすことができないため、犯行は不可能というものだった。暴行は片手でも十分に可能だと、検察側は反論を返している。

 法廷では陪審員は白人だけで、黒人の聴衆は二階席に追いやられている。黒人の牧師が傍聴にやってきた兄妹を誘って二階に連れて上がった。兄は固唾を飲んで父親の弁護を見つめている。民主主義のリベラリズムはまだ遠い道のりだった。

 弁護士は第一審での勝利は、無理だろうと踏んでいたが、勝機は十分に感じ取っていた。敗れて法廷を去るまで、二階席は立ち上がったまま、弁護士を見送っている。感謝と激励の表明だったが、被告は悲観して護送中に脱走をして、制止を聞かず撃ち殺されてしまう。弁護士は被告を待つ父親に、悲しい報告をしている。それを耳にした妻は泣き崩れた。白人社会からの人種差別は、まだまだ根深いものだった。

 娘は顔見知りの黒人にさまざまな頼みごとをしていた。そして黒人に誘惑をしかけて、キスを求めたときに、娘は今まで誰ともキスをした経験がないのだと打ち明けていた。黒人はそれを拒んで去ったが、娘の悔しがる姿を発見した父親(ボブ・ユーエル)が、黒人からの暴行だというストーリーを考えついた。

 娘も自身の欲望を正直に語ることはできず、筋書き通りに白人のプライドを守った。弁護士は法廷でこの父親に誘いを仕掛けて、彼が左利きであることを明らかにしていた。娘が正直に話したとすれば、父の怒りは、はじめ娘に向けて爆発したのかもしれない。もちろんこのときは暗示するだけで、父親を名指しにはしていない。

 被害者の父親は攻撃的で、繰り返し弁護士を訪れて、白人なのに黒人の弁護をするのかとののしっている。ハロウィンの日に、兄妹が仮装をして夜道を歩いているときに、暴行を加えられもみあっている。兄は負傷するが、妹は頭からすっぽりとハムと書かれたハリボテの仮装をしていて、のぞき窓からぼんやりと事態を見届けていた。傷ついた兄が抱きかかえられて運ばれる姿を目撃し、自分もやっとの思いで、自宅にたどり着き、父親に訴える。医者に電話をして、やがて保安官(テイト)もやってくる。

 兄はベッドに寝かされていた。妹は部屋のすみにいる影を、父に紹介した。はじめて見る顔だったが、妹は隣家の引きこもりの青年であることがわかっていた。内気な姿は妹に手を引かれている。保安官の現場検証によると、暴行にあった娘の父親がいて、ナイフが刺さって死んでいた。弁護士は息子が揉み合ったときに刺してしまったのだと判断する。正当防衛が主張できると確信して警察に電話を入れようとしたとき、保安官が制止した。

 ナイフの上に倒れ込んだ事故だと言うのだ。潔癖な弁護士は、真相をゆがめる妥協は許さないが、一連の成り行きを理解して、この判断に従うことになる。部屋にいた隣家の青年に近づいて、子どもたちを守ってくれたことに、感謝のことばを述べた。逆恨みの犠牲になった息子を、ナイフで応戦して暴漢の手から守り、自宅にまで運び込んだのだった。引きこもりの青年が、表舞台に引き出されることはなく、妹に手を引かれて自宅へと戻っていった。

 眠り続ける兄の枕元には父親が、明け方に目覚めるまで寄り添っていた。アメリカの良心を体現する頼もしい父親像だった。狂犬病騒動のときには、保安官以上に銃の名手であることがわかったが、力に対して力で対抗することはなかった。愚か者の犯罪は、身近にいた弱者が引き受けることになる。弁護士は彼らを守る職業である。アメリカ社会が生み出した正義であるが、悪と結びついて私腹を肥やすことも少なくない。

 ここでは冒頭、借金を返せずに農作物を持ってきた、貧者に優しく接する主人公の姿を見せて、娘に自分たちの生活は彼らに比べると、少しはましだと語らせている。控えめで裏方に徹しようとする姿は、子どもたちを自然のうちに感化させる力を宿している。グレゴリー・ペックのさわやかな演技は、ハリウッドスターのけばけばしさはなく、説得力をもってみごとに観客の心にしみいっていた。

第465回 2024年5月19 

渇いた太陽1962

 リチャード・ブルックス監督作品、テネシー・ウィリアムズ原作、ポール・ニューマン主演、原題はSweet Bird of Youth、ゴールデングローブ賞主演女優賞 (ジェラルディン・ペイジ)、アカデミー賞助演男優賞(エド・ベグリー)受賞。ハリウッドで成功しようと野心を抱く青年(チャンス・ウェイン)の話。目的は故郷に錦を飾って、愛する娘(ヘブンリー)と結ばれるためだった。

 娘は政治的野望をもった父(フィンレー)から逃れることができなかった。妻を亡くしていたこともあり、父親は娘を溺愛していたが、利用してもいた。財産家や権力者に嫁がせて、自分がのしあがる道具にしようとしていたのである。青年と恋仲になったとき、資産価値はなく何の力ももたないことから、父親は反発を抱かせないように娘から引き離そうと考えた。才能があるのだから、こんないなかに閉じこもっていないで、都会に出て一旗上げてこいと励ましていた。

 男はその気になって故郷を離れ、いったんは娘と別れることになる。ハリウッドで有名になろうと考え、若さと美貌を活かして、往年の大女優(アレクサンドラ・デル・ラーゴ)に近づいていく。運転手という名目だったが、ジゴロとして老いをなぐさめ、私生活に分け入っていく。タイトルは日本語の「若いツバメ」に対応するものだろう。欲望という名の電車、ガラスの動物園、熱いトタン屋根の猫といった魅力的なタイトルをもった劇作家の原作である。これらになぞらえれば、青年という甘い鳥といったところか。鳥とは籠に入れて飼っても、飛び立つと戻ってこないもののことをいう。渇いた太陽では意味をなさない。

 映画のはじまりは主人公の運転するスポーツカーの後部座席で、酔っ払って寝ている女を映し出している。フロリダに向かって走り出して、ホテルに落ち着いた。金持ちの若者が娘を酔わせてアバンチュールを楽しもうとしているのだと思った。女の顔が大写しにされるとそうではないことがわかった。老いた女優だった。映画界に復帰したのだが、試写室で映し出された自身の老醜を正視できずに飛び出し、若いツバメを連れてそのまま行方をくらました。

 そこは男の故郷でもあり、知り合いも少なくなかったが、歓迎されてはいないようだ。女優の体調が悪く、医者を呼ぶと昔からの顔馴染みだった。男はこのホテルにバーテンとして働いていた。医者は顔役の娘とこの男とのいきさつを知っていて、早めにこの町から立ち去るように警告している。男が彼女のことを聞くと、自分との結婚が決まっていると答えた。

 父親は娘に近づけないよう脅しをかける。娘の兄にあたるのか、息子がひとりいて、悪徳組織と関わっており、手下を連れて男の見張りを怠らない。男は一度この町に戻ったことがあった。金はなく貨物列車に忍び込んで、5日をかけての再会だった。ハリウッドで目が出ないままだったが、娘への想いが募っていた。隠れて逢うことができた。薄汚れた身なりだったが、このとき娘はいっしょに逃げようと誘ったが、男は成功して迎えにくるまではと言って拒否した。たがいの情熱が高まって娘は妊娠するのだが、男は戻ってしまい、そのことを知らないままだった。

 父親は男を排斥しようとし、兄の怒りは殺意に近いものがあった。男はチャンスをつかみかけている。女優の紹介で映画出演の契約にこぎつけようとしていた。女優はまだ業界に知り合いも多く、新人発掘に興味をもちはじめていた。男は危ない橋を渡って、女に逢いに行こうとする。やっとふさわしい男になれるという思いからだっただろう。娘のほうも見張りをつけられて身動きが取れない。父親の横暴を見かねて、愛するふたりに味方する叔母がいた。二人を引き合わそうと海辺にモーターボートを用意していた。娘は警備の隙をみて乗り込み沖に出た。岬では男が待っていた。

 ふたりで逃げるのだと思ったがちがっていた。娘は乗ったままで男に向かって、身の危険が近づいているので、すぐに逃げるように叫んで、そのまま引き返してしまった。一夜明け、娘を連れて父親の政治集会が始まっている。娘はおとなしく父のかたわらにいたが、見渡すと観衆のなかに男の姿があった。このとき野次が飛び、娘の妊娠中絶をあげて、ふしだらな印象を与え、選挙活動にダメージを加えようとしている。男の表情は変わる。

 娘の兄と仲間はこの疫病神が、いるのを見つけると、男を追い詰めて暴行を加える。だいじな商売道具を使えなくすると言って、顔を打ちのめした。娘が戻ってきて、男が倒れているのをみて、抱き起こすと顔がつぶされていて悲鳴をあげる。このとき娘は決意したようで、男の乗っていた車で、二人して逃げていった。父親は唖然としているが、横にいた叔母はエールを送り、心で拍手していた。これで男の野望は消えることになるのだろう。

 新人を発掘して男を売り出すという女優との約束は、声をかけていた映画界の重鎮が彼女を呼び戻そうとしたことで、心がわりをしてしまう。男のことなど眼中になくなってしまい、自分の復帰だけに目が向いている。映画出演でやっと胸を張って、愛する娘を迎えに行けると思ったが、娘は野望でギラギラした男の醜さは、父親を見るだけでうんざりしていたにちがいない。

 ポール・ニューマンの熱演は見落とせないが、役柄に好感をもてるものではないことからか、映画祭の受賞には結びつかなかった。これに対して、娘と息子への対しかたを微妙に演じ分けた父親と、老いのもつ哀感をにじませながら、限られたチャンスにしがみつく女優の演技が評価され、俳優賞を獲得した。

第466回 2024年5月20 

終身犯1962

 ジョン・フランケンハイマー監督作品、バート・ランカスター主演、ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞、原題はBirdman of Alcatraz。殺人で収監された男(ロバート・フランクリン・ストラウド)が、刑務所内でさらに看守を殺害し、絞首刑の判決を受ける。母親(エリザベス)の嘆願によって終身刑に減刑されるが、以後刑務所を転々とさせられ、サンフランシスコ沖のアルカトラズ島に移送されてもいた。実話にもとづくが、ただの囚人ではなかった。独房内で小鳥の飼育をはじめ、独学での研究を通じて、鳥の病気の特効薬を開発することになる。

 生まれついてのものだったのだろうが、男の凶暴さは目を見張るものがあった。男の持参した写真がしげしげと見られ、からかって母親なのかと問われると、逆鱗にふれたかのように怒り出した。母への思いは強く、それを指摘されることを、極端に嫌っていた。先に嫌がらせを受けた看守を、全員がいっせいに食事をしているときに見つけ、近寄っていき口論になるが、突然隠し持っていた凶器で、腹を突き刺して殺してしまった。

 刑務所ではスプーンしか使わせないので、食べにくそうにスパゲッティをすくっている映画を以前見たことがある。よく見ていなかったが、ここでの凶器はフォークかナイフだったのだろうか。この異常な囚人を所長(シューメイカー)は、はじめ更生させようと意気込んだが、反抗的態度に接すると、やがて憎しみを増幅させていった。

 母親が面会にきて、判決に不服を申し立て、独自に動きはじめる。たより甲斐のある頼もしい母親だった。粘り強く大統領夫人にまで会いに出かけている。減刑はされるが、人間としての尊厳は失われ、隔離された孤独な生活が続くなか、一羽のスズメが死にかけているのを見つける。助けようと独房に持ち帰って飼育をはじめる。靴下を丸めて巣にしている。大きな口を開けて、エサを待ち構えている。男の表情がだんだんと穏やかになっていくのがわかる。なかなか飛べないのを辛抱強く教え込み、飛ぶことを覚えた。

 調教をして訓練の成果を、新しく赴任した所長に見せるとおもしろがって、鳥を飼うことを許可した。前所長はそのようすを憎々しげに見ている。囚人がペットを飼うことは禁じられていた。これをきっかけに、カナリアなど小鳥が大量に飼われることになり、刑務所の様相は一変した。スズメは元気になり、窓から放たれたが、何日かすると戻ってきた。監獄がいいのかと、男は不思議がっている。

 独房は小鳥だらけになっていった。ほかの囚人も小鳥の飼育を楽しんだ。そんななか、病気が原因なのか、鳥がバタバタと死にはじめた。スズメも命を落とした。男は鳥の研究をはじめ、原因を追究し、治療薬の開発に至る。論文を書くまでになり、これを知ってひとりの女性(ステラ)訪ねてくる。夫を亡くしそのあと小鳥の擁護運動を手がけていた。刑務所に面会に来ただけではなく、男と共同で小鳥の保護活動をする約束をしている。男の開発した薬剤を用いて生じた利益は折半にしようと、具体的な話にまで発展した。

 女性は男に好意を寄せていた。男の活動を快く思っていない前所長は、出世をしてアルカトラズ島の刑務所に赴任していた。政府機関に働きかけたのだろう、刑務所内でのペットの飼育や囚人の商業活動の禁止が言い渡された。これまで暗黙の了解として、取り付けられていたことが許されなくなり、男はマスコミの力を頼ろうと考えた。共同で事業をはじめた女と獄中結婚をすることで、話題を集め新聞に取り上げられることになる。

 女は妻として積極的に動いた。目立った活動を見て、母親が面会にやってきた。それまでの親身な対応とはちがっていた。女は信用がおけないので、別れるよう持ちかけている。わが子を奪われる母親の嫉妬心であることはまちがいなかった。男は妻を選択することを決意し、それまで大切にしていた母の写真を、握りつぶし火にくべた。小鳥の檻は撤去され、男は前所長のいるアルカトラズ島に移送されることになる。

 そこでの厳しい規律に反発して、囚人の不満から暴動が起こる。主犯は看守を襲い、鍵を奪って鉄格子を開けて回った。警備兵が取り巻き銃撃戦になり、逃げようとする囚人は射殺された。主人公は動揺することなく、鉄格子のなかにとどまった。その騒動ののち、また別の刑務所に移動させられるが、終生自由の身になることはなかった。

 原題にある「アルカトラズ島の鳥男」の名の通り、サンフランシスコ沖に見える小島の風景は、今では風光明媚な観光スポットになっているが、かつてはアルカポネも収監された悪名高き刑務所だった。鳥のように自由になれない鳥類学者が、夢想を羽ばたかせた場所であり、その絵になる光景とともに、訓練されたスズメが芸をするシーンは、意地らしく印象に残るものだった。

第467回 2024年5月21 

シシリーの黒い霧1962

 フランチェスコ・ロージ監督作品、イタリア映画、原題はSalvatore Giuliano、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。イタリアが敗戦し、連合国が全土を掌握した頃のシチリア地方で、野望をいだき名の知られるようになった若者(サルバトーレ・ジュリアーノ)の波乱の生涯を描く。23歳で犯罪を犯し、山に逃げ込んで山賊となる。犯罪に手を染めながらも、手腕を発揮して権力を獲得しようとするが、果たせず30歳で殺害されるまでの話である。

 映画は路上にうつ伏せになった死体からはじまり、ミステリアスに推移する。横たえられた位置を、正確に書き込んだ調書を読み上げて、遺体を確認している。報道陣が取り巻いて、暗殺の真相を探ろうとしている。出血が少な過ぎるという疑問も、記者から発せられるが、警察は取材を避けるように、写真撮影を制限している。警察と軍と憲兵とマフィアの入り混じるなかに、山賊が加わり三つ巴になって、勢力争いが続いていく。

 殺害現場を映し出したあと、さかのぼり時間軸に沿って、事件に至るまでを追っていくが、途中に何度か主人公殺害後の場面がはさまれている。急な場面転換に混乱するが、それがかえって効果的で、遺体を検証する母親の取りすがる姿が痛々しく目に映る。記者の聞き込みでは目撃者は見つからず、住人は不可解な証言をしている。銃声は三発が聞こえたが、そのあとしばらくして機関銃が撃たれていたというのだ。

 若者はシチリアの独立をめざすが、国家権力と対抗するためには、マフィアと手を組むことになる。古い地主制度をなくし近代化をかかげて若者を集め、銃をもたせての訓練を強いている。それにもかかわらず、対抗勢力を排斥するように社会主義にも挑みかかる。労働者の集結するメーデーの日に乱射をして、無差別殺戮をおこない、犯罪捜査が進められている。

 村ぐるみで主人公をかくまっていた。太鼓をたたいての外出禁止のふれが出されている。首謀者の息がかかっているものとみなされ、村の男たちが全員連行されていく。家族にかくまわれていた主なる実行犯は、首謀者を除いて捕まったようだ。集められて殺されるのではと案じた女たちが、大挙して軍に立ち向かっていく。犯行に加わった仲間が、割り出されようとすると、全員に口裏を合わせるように指示する。リーダーとして信頼感を得ているが、映画では顔を出さない。

 写真としては登場しても、遺体では顔が大写しになることもない。白いコートを着て先頭に立っているのが、主人公だと思うのだが、わざと顔を見せないでいるようだ。謎めいた影の存在として、興味深いとらえかたである。歴史の闇に葬られたというならば、顔はもたないほうがいい。アウトローを英雄視して、「革命児サパタ」でのマーロンブランドのような、性格俳優を見つけてくるというのが普通なのかもしれない。ここでは監督賞は獲得できても、男優賞は取れないことになる。

 主人公の顔を見せないことと連動して、場面転換に必要以上に長い暗転がはさまれるのも、隠された真実を映し出す闇の表現として効果的だったように思う。俳優賞に代えて撮影賞の期待できるものだった。闇にかぶせて挿入される音楽も適切で、イタリア映画に贈られるナストロ・ダルジェント賞で、監督賞、撮影賞、作曲賞を受賞している。

 片腕として一番信頼を置いていた仲間(ピショッタ)の裏切りで殺されるが、このときも部屋の明かりをつけようとする仲間を制して、暗いなかで声だけしか聞こえない。殺害場面は写されず、銃声が三発聞こえた。死体は殺害されてのち、運ばれて路上に寝かされ、うつ伏せにされて銃をそばに置いて、位置を確かめてのち、機関銃を乱射して立ち去った。工作したのは警察機関だった。

 仲間が警察や憲兵と手を組んで、裏切っていたり、誰も信用ができない不信感が、全篇に漂っていて、サスペンスを盛り上げ、気の抜けない緊張感が高まっていく。法廷でのやり取りも、腹を探り合う問答がハラハラとさせている。物的証拠の扱いも興味をそそる。主人公の残したメモや、犯行の実行犯の名前を書きあげたリストなど、ほんとうに実在したのかという疑惑をともないながら、不安をかき立てていく。

 裏切った仲間もまた、手を組んだはずの権力機構から裏切られ、終身刑を言い渡される。報復をほのめかすと収監された刑務所でコーヒーに毒をもられて殺害されてしまう。死ぬ間際に毒殺されたと仲間に耳打ちすることで、同じ刑に服した仲間は、権力に抹殺されたのだと理解して、報復を誓ったにちがいない。数年後、でっぷりとした権力者のひとりが、主人公と同じようにうつ伏せになって殺害されている姿を映し出して、FINEの文字が入った。

第468回 2024年5月21日 

キューポラのある街1962

 浦山桐郎監督作品、今村昌平、浦山桐郎脚本、吉永小百合主演、ブルーリボン賞作品賞、主演女優賞、日本映画監督協会新人賞受賞。埼玉県川口市の鋳物工場に働く家族の、心温まる話。キューポラと呼ばれる工場の煙突が特徴をなす街並みである。業務上の事故でからだを悪くしていた父親(石黒辰五郎)が、人員整理の対象になり退職してしまうと、とたんに生活が苦しくなる。子どもが3人いるが、さらにもう一人が誕生した矢先のことだった。長女(ジュン)は中学三年生で高校進学をめざしているが、家庭の事情を考えると無理も言えない。

 父親は退職してからブラブラとして、飲んでばかりいる。気に食わないと暴力を振るう。何も言えないで泣き寝入りをする姿を見かねて、若い工員(塚本克巳)が組合に働きかけて、補償の手続きを進めようとするが、職人の父親の昔気質はそれを許さない。先の事故に労働災害の補償もないと、上司に食ってかかったのもこの若者だった。娘は彼を兄のように慕っている。貧乏人は中学を出れば働くのが当たり前だと、父は考えている。

 娘はそれに反発して、自力で進学したいと、友達にアルバイトを紹介してもらい、パチンコ屋で働いて、学費を稼ごうとしている。玉が出ないと怒鳴られて、顔をあげると工員がいて目が会い、たがいにバツの悪い思いをしている。娘には裕福な友だち(中島ノブコ)がいて、部屋を訪れては勉強を見てやっている。父親は技師をしていた。そのお礼でもあったのだろう、求職中の父の仕事を紹介してもらい、楽な仕事で喜んだが、これまでの父の能力ではこなせるものではなく、すぐに辞めてしまった。

 弟(タカユキ)は小学生だがいたずらを通り越して、鳩の飼育で金儲けをしようとして、ヤクザのチンピラの手先のようになっている。姉は心配をして、その兄貴分に掛け合おうと乗り込むが、その仲間からいたずらをされかける。先が見えず自暴自棄になったときも、ならず者から暴行を受けかけるが、工員が心配をして駆けつけてくれた。父だけでなく母親(トミ)もやけを起こしたようにして、酒場にいるのを目撃すると、自分を見失ってしまった。

 学校の担任(野田)が支えになって相談に乗り、修学旅行をあきらめていたのを、公的補助を取り付けてやり、お膳立てを整えてやった。それにもかかわらず娘はみんなと楽しめるとは思われず、旅行を取りやめた。やけを起こしているのではと、工員と教師は心配している。

 友だちにも貧しいものは多かった。朝鮮人家族の娘(金山ヨシエ)と同級生で、パチンコ店での仕事も、彼女の紹介によった。弟(サンキチ)がいて自分の弟を、親かたと言って慕っている年下の子だった。母親(美代)は離婚をして食堂に働いている。弟二人はよく出入りしているようだ。

 当時の帰国キャンペーンに促されて、家族は朝鮮に帰ることになり、悲しい別れをしている。新星なる社会主義国の建設が、夢の王国に見えた頃だった。姉は乗っていた自転車をもらっていた。弟は餞別を渡したあと、鳩を託して、帰郷の途中で放してくれと頼んでいる。ここまで戻ってくるはずの伝書鳩だった。列車の窓から鳩を放ったとき、少年は帰らないと言い出し、途中で降りて引き返した。鳩が帰る先のことを思い浮かべ、母親のことを忘れきれなかったからである。  

 母親は見送りに来ていたが、後ろ髪を引いてしまうことから、顔を合わせないでいた。弟は思い出すように母を探すが、勤め先の食堂にはいなかった。結婚をして去って行ったのだと言う。途方に暮れる少年を見つけた弟は驚いた。何とか力になろうとして、新聞配達をして稼ぎはじめた。姉ももらった自転車に乗っているときに、ふたりの姿を見つけてなぜこんなところにいるのかと驚いている。

 担任教師のアドバイスもあって、姉は進学を断念して、定時制で学ぶことを決意する。あきらめをつけるように、めざしていた進学校を訪れて、のぞき見をしてもいた。校庭では教師の号令に合わせて、組体操をする女子生徒の姿があった。楽しそうに見えるが、それ以上のものではないと思ったかもしれない。

 そんなとき工員が朗報を持ち込む。工場の拡張によって、父親がもとの職場に復帰できることになった。母親は希望していた県内でも有数の高校への進学をうながすが、娘の意志は堅かった。すでに職場を訪問して、働きながら学校に通う仲間の姿に接していた。すべてが前向きに動きはじめていた。

 弟の友も遅れて国に帰る決心をして、ひとり列車で旅立つのを見送った。父の初出勤も、弟と二人して見送った。姉は自分の門出も見送ってくれと、弟にたのんでいる。彼は朝刊の配達の途中だった。時間がないので二人してかけ出す後ろ姿を映し出して、映画は終わった。希望に満ちたさわやかな結末だった。浦山桐郎の第一回監督作品であり、前向きな生き方を体当たりで好演した、主演の吉永小百合のデビュー作でもある。

第469回 2024年5月24 

私は二歳1962

 市川崑監督作品、和田夏十脚本、鈴木博雄主演、原作は松田道雄による同名の育児書、英語名はBeing Two Isn't Easy、キネマ旬報ベストテン1位、毎日映画コンクール監督賞、脚本賞、ブルーリボン賞 監督賞、企画賞受賞。赤ちゃんが生まれて二歳になるまでの、てんやわんやの騒動を描く、ドキュメンタリー仕立てのコメディである。

 赤ちゃん(太郎)が両親おばあちゃんをみながら、おとなびたことばを、つぶやいているのがおもしろい。吾輩は猫であるという調子で、独白なのだが、なるほどと思ってしまうほど、ぴったりとした人間観察をしていて感心する。団地に住んでいて、夫(小川五郎)が勤めに出ているあいだ、妻(千代)は目を離せない。何が起きるかわからない。寝ている間はいいが、動きはじめるとよちよち歩きはかわいいのだが、ますます目が離せなくなっていく。誰もが経験することだが、わかるわかると納得してしまう。

 ドキッとする場面が続く。知らない間に階段をはいあがっていて、降りられなくなって泣いている。柵をはずして降りてカナヅチを振りまわしている。はてはベランダから落ちたのを、通行人がみごとにキャッチしている。母親が必死になって対応しているのに、父親はのんびりとかまえている。妻のいらだちが爆発したのは、父親がテレビで相撲に夢中になっているとき、ビニール袋をすっぽりかぶって、わが子が窒息死をしかけたときだった。

 夫の兄夫婦のもとに老母(いの)が同居しているようで、子育てをめぐる問答を交わしている。兄嫁(節子)は子どもの育て方をめぐる嫁と姑の対立を引き受けている。広い一軒家ではあるが、団地のほうがいいと思っている。他人事のように気の毒がっていたのが、やがてわが身に降りかかってくる。兄が大阪に転勤になり、家族をつれて出ていった。老いた母はひとり東京に残るが、夫は引き取ろうと思っているようだ。妻に切り出して判断を委ねると、同居に合意したので、夫はほっとしている。

 家族を連れて母親の家に引っ越すことになった。子どもの成長には団地でないほうがいいと思い切ったが、家賃も払わなくてすむ打算もあった。家計は厳しかった。子沢山の実の姉が訪ねてきて、借金を無心したが、冷たくことわっていた。嫁は子育てをふたりで協力していけると思ったが、世の常のように簡単にはいかなかった。子どもの発熱や咳の対応も、注射を打とうとしない医者を批判して、自分が連れていくと言って、嫁を困らせている。怒らないおばあちゃんに子どもはなついている。

 元気そうにみえた祖母が、急に倒れそのまま死んでしまう。物を取ろうと手を伸ばしたままの姿で止まってしまった。ふだんから血圧が高かったのを息子も嫁も知らなかった。死なれてみると、対立していたことを嫁は悔やんだが、二歳になろうとする息子は月を指差して、おばあちゃんがいると言っている。亡くなったときに、遠いところに旅行に行ったのだと、答えていたからだった。月にまで旅行しているのだと、二歳の子は思ったのだろう。その日は満月だったが、三日月のときはバナナだと言っていて、子どものイマジネーションの豊かさに驚かされる。

 主役である赤ちゃんの名演技が光る。辛抱強くカメラを構え続けた撮影スタッフの勝利だろうが、適切なときに笑い、大声で泣いている姿はどんな名優よりも、記憶に残るものだった。両親の役は船越英二と山本富士子、老母役は浦辺粂子、赤ちゃんのナレーションは中村メイコが演じた。ロウソクを二本立てて吹き消す、バースデーケーキの前の幼児は、私は二歳と主張する人格を備えるものとしてとらえることができた。赤ちゃんを主役にして、こんな魅力的な劇映画がつくられたことは、意表を突いた鬼才監督の独壇場のものだった。

第470回 2024年5月25 

切腹1962

 小林正樹監督作品、滝口康彦「異聞浪人記」原作、橋本忍脚本、仲代達矢主演、武満徹音楽、英語名はHarakiri、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報主演男優賞、毎日映画コンクール日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞、ブルーリボン賞脚本賞受賞。竹光で切腹するというショッキングな話である。江戸時代がはじまり、天下泰平になり、武士は食ってはいけない。食いはぐれた武士の残酷物語がつづられていく。武士道だけは生き残そうとする建前の世界と、なりふり構わず生きることのはざまで、悲惨な事件が起こる。

 大名屋敷の玄関先を借りて、切腹をさせてくれという浪人があとをたたない。きっかけはみごとな心がけだと感心して、召しかかえられたという前例があったからだった。迷惑な話であり何がしかの金銭を手渡して、帰ってもらうのが無難な処置となった。それを見越して井伊家の屋敷にも他藩の若侍(千々岩求女)がやってきた。

 切腹するつもりもないのだと判断されて、望み通り切腹をさせてやろうということになり、着替えもさせられ丁重に扱われる。次に白装束が登場すると、若侍はあわてて顔色を変え、一両日待ってくれという。必ず帰ってくると約束するが、武士に二言はなく、見苦しいと言われて聞き遂げられない。やむに止まれぬ事情があったが、無理矢理に切腹をさせられる。両刀を見ると、ともに竹光だった。情け容赦もなく嘲笑うように、竹光で切腹させようという、悪魔の判断がくだされる。介錯は剣の使い手(沢潟彦九郎)だったが、腹を十文字に切り裂いたことを、十分に見届けてからしか、手をくだそうとはしない。からだごと体重をかけてゆく凄惨な描写がされている。死にきれず舌を噛み切った。

 若侍には妻子がいたが、ともに病いに伏せっていた。妻(美保)は慣れぬ内職が続き、胸を患って血を吐いていた。子はまだ乳飲み子(金吾)で高熱を発していた。医者を呼ぶにも先立つ金がなかった。武士の魂である刀もすでに手放していた。子ども相手に読み書きを教える乏しい稼ぎであり、もはや刀を必要とする時代ではなかった。

 娘には父親(津雲半四郎)がいて心配をしていたが、武士の身での傘張りの仕事では役に立たなかった。剣豪であり刀を手放すことは考えてはいない。関ヶ原の戦いで活躍をしたが、徳川幕府により平定されると、職を失った。娘は器量良しで出世の道も開かれていたが、若侍との縁を絶つことはできなかった。

 父親にはともに戦った親友(千々岩陣内)がいたが、主人が切腹を命じられる前に、殉死をしてしまった。息子がひとりいてくれぐれも頼むというのが遺言だった。自分の代わりに死んだ友の願いをたがえることはできなかった。そのとき友の息子は15歳、自分の娘は11歳だった。7年後、18歳になった娘は父のもとにいたが、商人の店に養女に出して、その後武家のもとにあげるという話を持ちかけられる。

 傘張りのしがない稼ぎに甘んじるものにとっては良い話だったかもしれないが、亡き友との約束から娘を、友の息子の若侍と結ばせることが、幸せなのだと確信していた。ふたりは幼なじみでずっといっしょだった。父親ふたりが弓の競い合いをしている間、子どもたちもふたりで遊ぶ姿を、カメラは追っていた。父親はふたりの気持ちを確認して、婚礼へと導いた。子どもも誕生し、孫と戯れる日々が続き、幸せな将来が期待できるはずだった。

 娘婿は金を工面できるあてがあると言って出ていった。医者を連れてくるはずだが、いつまでたっても戻ってこない。やっと帰ってきたときは、井伊家の武士に運び込まれた死体だった。立派に切腹をはたしたと報告をして、二本差しを投げ返した。父親はそれが竹光なのを見て愕然としている。竹光で切腹をさせたのかと、卑劣な仕打ちを思い浮かべている。同時に生活苦に直面しながらも、武士の魂にこだわっている自分の愚かさを思い知る。

 このとき父親は決断したようだった。孫が死に、その後娘もあとを追い、天涯孤独になっていた。そして井伊家の屋敷に、切腹をさせてほしいと言って乗り込んだ。家老が出てきて対応し、先に若侍がやってきて切腹をさせた顛末を語っている。自分はゆすりでもたかりでもないが、介錯者を指定させてほしいと言って、剣豪の名をあげるが、その場にはいない。聞くと病気に臥せっているという。それならと別の二人の名をあげると、彼らも同じく病気で休んでいるという。

 不審を感じ家老は何かあると思いはじめている。この三人は若侍をあざけり、むごい仕打ちを与えた張本人だった。主人公がふところから取り出したのは、切られた二人の髷だった。ここに来る前にそれぞれに接して、もう一つの武士の魂である髷を切り取っていた。命を奪われるに匹敵するもので、病気だと言ってまでも、人目には知られたくないものだった。

 剣豪には手こずらされたと言って、一騎打ちになって決闘となった一部始終を伝えたあと、ふところからもう一つの髷を投げ出した。やはり髷を切り落とされていたのである。その後ふたりは髪が生えるまで病欠を続けたが、剣豪は切腹をしたのだという。家老は力づくで命を奪おうと命じる。乱闘が続くが多勢に無勢、主人公は傷つき、鉄砲隊まで登場し、はては槍で自害してはてた。報告を受けて家老は、浪人はみごと切腹、こちらの被害はすべて病死として記録するよう言い渡している。

 正史では記録には残されていない、隠された武士の対面が、醜い姿を露呈する。表面上は、淡々とした形式美が、無階調の前衛音楽にも似た効果音を伴って、感情を押し殺して底流となって響いている。ゆったりとしたテンポは、日本映画独特のリズムをもつものであり、切腹の嗜虐美とともに、いつまでも尾を引く衝撃的な作品となった。