アンドレイ・タルコフスキー
ローラーとヴァイオリン1960/僕の村は戦場だった1962/アンドレイ・ルブリョフ1966/ 惑星ソラリス1972/ 鏡1975/ストーカー1979/ノスタルジア1983/ サクリファイス1986/
ローラーとヴァイオリン1960/僕の村は戦場だった1962/アンドレイ・ルブリョフ1966/ 惑星ソラリス1972/ 鏡1975/ストーカー1979/ノスタルジア1983/ サクリファイス1986/
第662回 2025年2月10日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、英語名はThe Steamroller and the Violin、ロシア語原題はКАТОК И СКРИПКА、イーゴリ・フォムチェンコ、ウラジーミル・ザマンスキー主演、監督28歳での卒業制作、ニューヨーク国際学生映画コンクール第一位、46分。
ヴァイオリンを習う7歳の少年(サーシャ)と道路工事の労働者(セルゲイ)との心温まる友情物語。なにげない日常の点描だが、何か事件が起こりそうな予感を秘めた、カメラワークに引き込まれる。
少年は一人でヴァイオリンのレッスンに通っている。ヴァイオリンをかかえていく姿を、近所の子どもたちが、音楽家とあだ名をつけてからかっている。いじめられるのを舗装工事をしていた青年が助けてやる。そのことから年齢のかけ離れた、ふつりあいな二人が仲良くなって、友情を育んでいった。
個人レッスンで順番を待っていると、同じ年頃の女の子がやってくる。気になってチラチラと見ていると、向こうも気にしているようで反応を返している。先にレッスンを受けていた、少し年少の男の子が出てきて、うなだれている。付き添いの母親が待っていて、Bでも悪くはないと、励ましながら帰っていった。主人公の順番になった。ポケットに入れていたリンゴを、少女にわかるようにそばのテーブルに置いて、部屋に入っていく。
女の子はリンゴが気になる。はじめは手の届かないところまで遠ざけていたが、主人公が出てきたときには、芯だけになっていた。しとやかそうな少女が、これにかじりついている姿を思い浮かべると、思わず笑ってしまう。その後の映画でもリンゴをかじる女の姿を、タルコフスキーは象徴的に用いている。おそらく、欲望にとらわれてしまった、イヴの暗示なのだろう。
レッスンでは厳しそうな年配の教師から、想像力が強すぎると言われて、演奏法を指導されていた。採点をノートに記入されていて、成績は良くないようで落ち込んでいる。肩を落として目を伏せながら女の子の前を通り過ぎていった。
帰り道で舗装工事でローラーカーを運転している青年に出会う。呼び止めて誘うと、運転席に乗って操作を教えてもらい、夢中になっている。短時間だがひとりで運転できるようになると、見ている私たちはひやひやとすることになる。近所の悪ガキたちが、その姿を目にとめるとちょっかいを出しはじめていた。
仕事を終えても、少年は青年にくっついている。道筋で二人の子どものいさかいに出くわし、大きなほうが暴力をふるっていた。青年は見過ごしたが、少年は正義感を表に出して仲裁に入る。青年は手を貸さないで見守っている。相手が変わり、いじめっ子が迫ってきた。物陰に連れ込まれ殴られてしまう。ひどくならないのを見計らって、青年が顔を出して、睨みを効かせると子どもは逃げていった。
ヴァイオリンを車に置いたままにして出ていったので、大丈夫かと見ているほうが気がかりになるが、悪ガキがやってきて箱を開けて楽器をいじっていた。楽器は無事だったが、箱が傷つけられ、青年が修繕をしてやっている。修理を終えると少年は、演奏を聞かせていた。青年には縁遠い楽器だったが、感心しながら聞いていた。
時間が過ぎ帰宅を促すが、少年は離れたくなかった。映画館の話を持ち出すと、いっしょに見に行こうということになり、7時に映画館の前で待ち合わせることにした。7歳の少年にそんなことができるのかと私たちは思うが、母親は確かにそれをとめていた。知り合いになったおにいさんだと母に伝えるが、許すはずはない。
青年は映画館の前で待つが、少年は現れない。家の正確な位置はわからない。見当をつけて探しにくると、この青年に好意を寄せている女性に出くわす。映画を見に行くのだと言っている。いっしょに行かないかと誘われて、二人で入っていくことになるが、少年のことが気にかかっている。母親が監視をして、部屋に閉じ込められていた。
出ていけなくなったと五線紙に書きつけて、飛行機にして窓から飛ばした。青年の後ろ姿に追いつかない距離で落下していた。青年にいだく少年の妄想が映し出されて、映画は終わる。ローラーカーを運転して去っていくのを、少年は追いかけている。画面を横切って左上から姿を消そうとするときに、やっと追いついて、少年の乗り込む姿があった。
メルヘンのように、穏やかな郷愁に満たされている。ヴァイオリンが壊されているのではと思ったが、壊されたのは箱の留め金だけだった。大事件は起こらないがその予感はあった。ローラーカーのまわりを、自転車で冷やかす悪ガキのひとりが、ふつかってケガをしている。倒れたときに大きなローラーに轢かれて、ペタンコになってしまうのではとも思わせる。主人公も殴られて、顔と手に傷がついた。母親が手を見て、ヴァイオリンが弾けなくなるのではと心配している。
家は裕福に見えるが、家族は母親しか出てこない。子どものレッスンに付き添っては行かないので、過保護ではないようだ。子どもも自立心が旺盛で、正義感もある。まわりの環境は、ヴァイオリンとは結びつかないもので、家庭環境をさまざまに想像させる、余韻を残しているのがいい。
第663回 2025年2月11日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、原題はIvanovo detstvo、ニコライ・ブルリャーエフ主演、ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞受賞、95分。
原題は「イヴァンの子ども時代」と名づけられている。少年(イヴァン)の喜びに満ちた顔立ちが、明るい日差しのなかに、みずみずしく映し出されている。平和そのものの光景にみえる。母親が水桶を運んでくるのを見つけると駆け寄って、バケツに顔を突っ込んでいる。母親が汗を拭った瞬間に、空を見上げて急に険しい視線に変わり、暗転となる。
暗がりのなかで目覚めると、あたりを気遣いながら外に出る。離れると風車が映し出されて、そこに隠れ込んでいたようにみえる。木立は水没していて、沼地に浸かりながら進んでゆく。遠くで照明弾が白光を放って落ちている。一発は近くにも落ちるが、閃光が花火のように美しい。鉄条網をかいくぐって出てゆくと、そこには戦車の残骸が見えていた。
兵士のいる家屋にたどり着き、若い兵士から聞き取りをされ、保護されている。湯舟にも浸かることができて、真っ黒だった顔が正気を取り戻した。ドイツ軍がロシアに攻め込んで、少年は母を亡くしてやっとの思いで、逃げのびてきたのだとわかる。
やがて兵士たちとともに、任務をはたすことになった。年端もゆかないことから、従軍させることにためらいを感じるが、家族を奪われた憎しみは加熱していた。3人で敵地に向かい、ボートに乗って戦火をくぐっている。美しい村が戦場と化した。
若い兵士の恋愛のようすも描き出され、白樺の続く林の中でのひとときの幸福が見える。深い溝に両足を広げてまたがり、娘を抱きかかえて口づけをする、兵士の描写に驚かされる。娘は宙吊りになっている。そのまま落としてしまうのではないかという緊迫感を漂わせる、強い愛情表現だった。
ロシアの豊かな風土と自然の美しさが強調されている。リンゴを満載したトラックが走っていく、印象的なシーンがある。リンゴがどっさりと落とされてしまい、馬がやってきてそれを食っている。豊かさとのどかさは、戦火と対極にあるものだ。
対比をなす水と火の描写が暗示的で、モノクロ画面であるがゆえの光の効果を、極限まで突き詰めていく。水の描写のうちでは、母親と二人いて、井戸のなかをのぞき込む、不可思議な映像に引き込まれる。上からのぞき込んでいるのに、井戸の底から真上を見上げてもいて、水を汲む桶が頭上に向かって落ちてくる。
ぶつかることで夢から覚めることになるのだが、主人公が手を伸ばすと波紋が広がるのを、水底から映し出されている。つじつまの合わない映像をつなぎ合わせて、夢の中での描写であることを知らせるが、独特の映像美を浮き上がらせた。水の底に夜空の星が広がっているとすれば、自然を超越しているが、水面に鏡が張り付いているとみれば、不思議でも何でもなく、水鏡は自然の摂理でもある。
ドイツの敗戦によって、占拠されていた土地が取り返され、整理をするなかで、少年の写真が発見されている。その土地で命を落とした、若い前途の無念を伝える、恐ろしい形相をむき出しにしたものだった。ナチス・ドイツの残した虐殺の跡形が掘り起こされて、同時に明るみに出されている。
少年は夢の中にいて、母親は水桶のかたわらで倒れている。顔を突っ込んでうまそうに水を飲んでいる。顔を上げると母親が立っていて、バケツを手にして去っていこうとしている。前には今までにはなかった海が開けていた。
友だちとかくれんぼをしていて、鬼になったとき、戻ってきて母親は確かに生きていたはずだった。少女が隠れている。生き残った妹だろうか、海に向かって、波打ち際を走り出している。浜辺には一本の枯れ木がある。兄は追いかけて、さらには追い抜いて進んでいく姿があった。妹に振り返りもせずに、母親のもとに一目散に向かっているように、私にはみえた。暗転になる直前に立ちはだかったのは、先に死に絶えて枯れ木と化した、母なる木だったのだろう。
第664回 2025年2月12日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、原題はАндрей Рублёв、アナトリー・ソロニーツィン主演、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞、205分。
1400年頃のロシアの宗教画家(アンドレイ・ルブリョフ)の歩みを追っている。はじまりは気球に乗って遊泳する男の姿だが、地上での大騒ぎのなか、颯爽と空中を飛び続け、やがて海に落下してしまう。凧糸のようにいくつものロープがめぐらされ、地上とのやり取りが聞こえている。落ちた気球の残骸は水に浮かんでただよっている。
暗転となり時代は中世に戻り、3人の聖職者がモスクワをめざして、旅を続けている。雨に出くわし、雨やどりに集落に入り込む。突然降り出した雨の勢いはすさまじく、タルコフスキーの映画を特徴づけるものだ。
なかでは酔っ払いながら踊りに興じているが、取締の役人がやってきて、音頭をとって騒いでいた男を捕まえて、連れ出して前にある樹木にぶつけて、打ちのめし、連行していった。
雨が止んだので3人は先を急いだ。名の知られた宗教画家(フェオファン)が登場し、3人のひとり(アンドレイ)もそれに劣らない画家として、名を成していることもわかってくる。ロシアに残されたイコンや壁画が映し出されている。
キリストが十字架を担いでいく場面も、時代錯誤にはさまれている。マグダラのマリアがキリストの足にすがりついている。処刑されたのはロシアの風土で雪の中だった。時代はタタール人が東方から攻め込んでくる頃で、彼らは処女で子どもを生むなんてばかばかしいと、キリスト教徒をからかっていた。襲撃では激しい騎馬戦が展開する。
東洋人の顔立ちには、日本人を思わせるものがあり、黒澤明の「七人の侍」を彷彿とさせる。激しい雨の描写は「羅生門」でも、特徴をなすもので、タルコフスキーへの影響を読み取れるものだ。黒澤にはドストエフスキーをはじめロシアの風土へのあこがれがあり、招かれてソ連で映画をつくることにもなる。
第二部に入ってタタール人の襲撃は過酷を極めるものだった。画家の弟子も命を落とした。ロシア人は激しい拷問を受けて、財宝のありかを探られている。一方ではタタール人に手を貸したロシア人もいた。大公の弟が同胞の死を目撃しながら、自身の罪を思って暗い表情を浮かべている。
画家もひとりの娘を助けようとして、殺人を犯した。助けた娘は精神を病んでいて、その後タタール人から食料を与えられ、主人公の止めるのも聞かず去ってしまう。もはや絵を描けないと弱音をはくと、先輩の老画家は自分はもっと修羅場をくぐってきたと言う。描いたものがどれだけ破壊されたかと。そんなことくらいでやめるのかと諌めて、破壊を免れた壁画へと目を向けさせている。そこには穏やかな表情を浮かべたマリア像があった。
荒廃した教会に、雪が降ってくる。ちらちらと舞い落ちるようすは美しく目に映る。そこでも老画家は教会の中に雪が降るのは、恐ろしいことだとつぶやいている。戦火の中で屋根が燃え落ちたということを意味している。これまでのタルコフスキーの映画のなかでも、室内で雨が降り、水浸しになる不思議なイメージが登場していたが、同様に考えることができるだろう。彼の村は確かに戦場だったのである。
森の中をゆらめく松明の火が美しい。そのあとでは水に浮かぶ灯籠流しのように、無数のロウソクの火が、舟に乗せられて漂っている。松明の火は逃亡者を見つけ出すもので、その美しさに魅せられて、姿を隠すことを忘れてしまうと捕縛されてしまう。美は確かに近寄りがたく死を暗示する。かつてこの監督は照明弾を美しく映し出してみせた。原子爆弾のキノコ雲でさえ、驚異的な究極の美と見えるものだ。
ラストシーンでもう一度凧糸のような無数の綱が登場する。冒頭では気球につながっていたが、ここでは鋳造されたばかりの大きな鐘とつなげられている。権力者による注文だったが、もしその音が気に召さないものだったら、画家の仲間であった製作者(ボリースカ)は首をはねられることになる。権力に怯えながら創り出した芸術家の成果であり、同時にそれは平和への願いが込められた鐘だった。最後は美術映画の体裁をとってカラー画面となり、画家の描いた壁画やイコンが時間をかけて映し出されていた。アンドレイという画家の名は、監督自身の名でもあり、戦乱をくぐり抜けた画家の苦悩は、そのまま引き継がれることになっただろう。
第665回 2025年2月13日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、英語名はSolaris、ロシア語原題はСолярис、カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞、165分。
人類の未来の話。ソラリスという惑星に出かけた、宇宙飛行士たちが未知の出来事に遭遇する、それを前にして、人間存在の意味をめぐる、哲学的問答が投げかけられる。それは不思議な惑星だった。海におおわれているが、近づくと近づいたものの心を読み取って、不思議な現象を引き起こすものだった。海面が波立って、不気味な様相を呈し、近づく者の前に、過去の記憶やこだわりが、形をとって現れてくる。
記憶の物質化は、飛行士のひとりである主人公(クリス・ケルヴィン)にももたらされた。10年前に亡くなった妻(ハリー)が現れた。知られざる過去が私たちに伝えられていく。仲間は登場したのが妻でよかったと言っている。おびえを抱いていれば、モンスターが出現することもある。
仲間にはそれぞれに謎の女性や子どもが、身近に登場しており、秘密にして隠そうとしているようだった。妻との再会で愛を再確認することになる。妻は自殺をしていた。夫婦喧嘩がもとで、仕事に使うのに夫が自宅に持ち帰っていた、毒薬で死んでしまったのだった。そのとき用いた注射の跡が、上腕に残っている。
女は目に見えて触れることもできるが、人間でないことは、血液を調べればわかるのだと、研究仲間は言う。惑星ソラリスの作用によって生み出されたもので、海綿体によって造られていた。主人公は地球に戻ることを断念して、ここで生き返った妻とともに暮らそうと考える。
男がいなくなると、女はおびえた。激しく力を加えて、扉を打ち破って顔を見せてもいた。男も女を愛していたが、ときおり妻と母親が重なり合うことがあった。母親の年齢は妻とちがわないように見えるのが不思議だ。妻は夫の母から嫌われていると打ち明けている。男の心の中にある苦悶を見透かしたように、形をとって姿を現すのである。
そんなときこの惑星をおおっている海は、小刻みに揺れている。小さな波が押し寄せるように、波動となって動くのがみえる。それはまるで脳を構成する襞が微動しているようにも思える。惑星は頭脳のような機能をしていて、頭部をおおう表皮として、海綿状の液体で構成されているのだ。
男は苦悩して倒れ、死に直面する。救ったのは妻だった。彼女は自身を消滅させることで、夫を生き返らせることになる。それによって主人公は地球に戻ることができた。自宅に帰り着いたとき、父親が玄関で出迎え、息子は父の前で跪いて顔をうずめた。父に反発して地球を離れ、やっと父の思いを理解して帰り着いた。父親が息子の肩を抱いた姿は、キリスト教絵画での「放蕩息子の帰宅」を思わせるものだった。
この典型的な作例は、ロシアではレンブラントの名作がエルミタージュ美術館にある。ただしほんとうに息子は帰宅したのかという疑問は、ラストシーンで起こってくる。自宅が島の上に建てられていて、それが大海原に浮かんでいるのが映されることによって、そこがソラリスであることを暗示して、覆されてしまうのである。
主人公の心のなかに、父に許しを請う悔恨が、惑星上にこんな設定を生み出したように見えた。最初に父親の家が映し出されたときも、外は晴れているのに、家の中には雨が降っていて、びしょ濡れになっていた。なぜなのだろうと不思議に思いながらも、そのうちに忘れ去ってしまった。
驚きの映像美はラストシーンばかりではない。突然何の脈絡もなく日本の高速道路が映し出される。車間距離が狭く重なるように走っている道路には見覚えがある。複雑に交差する車の流れを執拗に追っている。漢字の標識が見えたとき、日本なのだと不思議な気分になった。これが彼らの未来図なのか。ロシアの豊かな自然とは対極にあるものだ。冒頭での水にただよう沈んだ水草が、生きもののように動くようすは美しく、繰り返し映し出されていた。
第666回 2025年2月14日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、英語名はThe Mirror、ロシア語原題はЗЕРКАЛО、108分。
ことば数の少ないセリフのやり取りに、想像力を加えながら、人間関係を組み立てて見ていくのがおもしろい。序章では失語症の若者の治療に、催眠術がかけられている。すらすらとしゃべられるのだと暗示にかけると、人が代わったように、こだわりなくしゃべれるようになっていた。
ここからテロップが続いていく。本編のはじまりは、道に迷った男がやってきて、柵に腰掛けてタバコを吸っている女性に話しかけるところからである。のどかな牧草地が広がっている。女は既婚者のように振る舞ったが、男は医師で結婚をしていないことを見破っていた。医学的知識からではなく、指輪をしていないことからの判断だったが、近づいて同じように柵に並んで腰かけたとたんに、壊れてふたりとも尻もちをついてしまった。
男はもときた道を引き返したが、途中で振りかえって女をじっと見つめていた。これが序章となるが、その後この男が登場するわけではなく、謎めいたはじまりだった。女は引き返すと確かに夫の気配はないが、赤ん坊や幼児の姿が映し出されていた。その後、この女を主人公として、話は展開していく。
印刷所に勤務しているが、細かなことが気になる性格で、印刷にまわっている原稿を確かめに、会社に出向いている。チェーホフの6号室やドストエフスキーの悪霊が話題として出てくるので、知的な生活環境にあることがわかる。夫とはうまくいっておらず、別に暮らしているようだ。長男を引き取りたいと言って、その後に登場するが、その申し出を拒否している。
夕暮れになって、女は火事だと言って大声をあげた。少し離れた小屋が燃えはじめていた。暗がりのなかで炎が燃え盛り、美しく目に映る。女のいる家の軒では、なぜか雨が降りしきっている。謎めいた不思議な空間が尾を引く。突然天井が裂けて、水がスローモーションで落ち込んでくる、印象深いシーンもはさまれる。
男の子を引き取りに父親がやってくる。母親は唐突な申し出を断っている。判断を息子に委ねると、父親の意に反して、ここにとどまることを望んだ。夫婦の不和の原因には、夫の母親の存在があったようだ。夫の目には妻と母親が、交互に入れ替わるように、ダブルイメージとして登場している。
以前会った医師の妻だという女性が現れて、主人公に興味を抱いている。家にも招かれて、息子を連れて出向いていた。映画タイトルの鏡はここで現れる。息子が薄暗い部屋で鏡に対している。鏡を見ているのか、自分自身を見ているのかわからない。医師は出かけていて登場しない。そこにも幼い娘がひとりいた。
主人公は新しくできた恋人の存在をほのめかしている。草むらに寝そべって抱きあっている。かたわらでは幼い姉と弟が、老婦に手を引かれて歩んでいく姿があった。鏡像関係のように、ふたつの人格が同時に写されているが、ここには時間差がある。
説明なく突き放されると混乱してしまうが、妻と夫の母親が同年齢のように見えるとすれば、そこには少なくとも20年を超える一世代の隔たりがある。それをヒントにして、もう一度この難解なイメージの連鎖を解き起こそうと、チャレンジすることにした。
第667回 2025年2月15日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、ソ連映画、英語名、ロシア語原題はСталкер、164分。
ゾーンという近づくことのできない場所を、探ろうとする3人の男がいた。謎めいた場所で、厳重に警備がされていて、入り込むことはできない。立ち入り禁止にして、権力者にとっては見せたくはない場所であることがわかる。主人公は妻と娘を置き去りにして、この場所の秘密にとらわれてのめり込んでいった。ゾーンに向かう水先案内人は、ストーカーの名で呼ばれ、主人公もそれをなりわいとしていた。
はじまりは大きなベッドに、娘をはさんで夫婦が両端に寝ているところからである。殺風景な部屋で装飾品はない。朝早くそっと男がベッドを起き出す。黙って出ていこうとするのを、女が起きてきて言い争いになる。危ない仕事を止めようとする、妻の忠告も聞かず男は出て行く。行けば殺されることになると、女は案じている。
ゾーンとは一体何なのかはわからない。昔、隕石が落ちた場所だとも言う。恐ろしいところであるが、魅力に満ちた未知のユートピアかもしれない。入り込むと幸福がもたらされるとも言われていた。同行者は大学教師と作家先生だったが、ともに自身のおもわくにそって行動を選んでいた。警備兵の銃弾を避けながら、トロッコに乗って線路上を逃れていく。
たどり着いたのは、のどかな田園風景だった。冒険は科学者の真理の探究であったり、芸術家の創作活動であったりしたが、主人公にとっては、幸福を求めての宝探しであったようだ。どちらの方向に進むかもわからない。まちがえれば命を落とす危険性を宿している。ひとりが確信をもって歩みはじめたとき、行くと危険だと言う声が聞こえて、ひきかえしてきた。誰が呼び止めたのだと問うが、誰も何も言ってはいなかった。ゾーン自身が知らせたのだと結論づけ、ミステリアスな解釈へと引き込んでいく。
廃屋を見つけ、部屋に入り込むと、砂だけが山になって広がる部屋もあれば、水浸しの部屋もある。3人の果てしない議論が続く。それぞれの立場が明確になっていく。主人公は二人のインテリ階級の発想に、反発を抱いている。
最終の部屋にまで足を踏み入れることなく戻ってくる。最後の場面は3人が出会った酒場で、安酒を飲んでいる。主人公の妻がやってきて、夫に声をかけている。娘は戸外のベンチに座って待っている。途中からついてきた野良犬が、主人公から離れない。妻に導かれて帰宅する姿には、カメラが引かれることで、娘を頭の上にまたがらせて、取り戻すことのできた家族の絆が見えていた。
家族の生活は裕福なものではない。テーブル上の水の入ったコップが、勝手に動きはじめる。遅れて列車の通過音が響くことで、高架下の雑然とした部屋に住んでいるのだとわかる。冒頭では殺風景だったが、ラストではベッドのまわりの壁には、ぎっしりと書籍が並んでいて、ただの労働者ではなく、教授や作家と対等の口が聞ける存在だとわかる。
コップの移動は、冒頭とラストで二度はさまれる。娘がそれをじっとながめているが、落ちるのを止めるでもなく、コップのひとつは落ちてしまった。列車音を聞いて安心することになったが、コップはほんとうは、列車の通過とは関係なく動いていたようであり、そのミステリーが映画全体を支えている。ここでも謎の部屋で、天井から雨が降り始め、降りしきって、やがておさまるまでを、ロングショットで写していた。タルコフスキー独特の、宗教性をも宿した美しい神秘である。
第668回 2025年2月16日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、イタリア・ソ連映画、原題はNostalghia、オレーグ・ヤンコフスキー主演、カンヌ国際映画祭創造大賞受賞、126分。
監督自身のプライベートなイメージに、こだわりを示してつくられた、映像詩ともいえる作品である。ソ連と決別して、西側諸国の文化圏に身を置く決意を、試行錯誤しながら動揺をまじえて反芻している。最後には母親に捧げるという文字を浮かびあげることで、祖国に後ろ髪を引かれる、心情を明らかにすることになる。
はじまりは霧の立ち込めたいなかの風景で、女性たちの後ろ姿が、去っていく何者かを追うように、遠くを見つめている。早朝の静けさが感じられ、ロシアの風土なのだろう。次の場面では一台の車が同じような風景の中に止まり、女と男が出てくる。短い会話から詳細が読み取れてくる。
男(アンドレイ・ゴルチャコフ)はロシア人、女(エウジェニア)はイタリア人だった。イタリアに来たのだから、イタリア語を話すよう女は要求している。女が先を行き、男がそれに従っている。教会に入って壁画に描かれた、ピエロ・デラ・フランチェスカの聖母を見るが、男は教会に入ろうとはしなかった。慈悲のマリアの表情は、男にとって悲しみの母に見えるのが、つらかったのかもしれない。
ペンションふうの宿に着いて、ふたりは別々の部屋をとっている。宿の女主人は、ふたりの関係に興味をもちながら、身分証を要求している。モスクワからイタリアにやってきたことがわかる。女は男に対して、妻には電話をしないのかと問うているところから、ふたりの関係が読めてくる。
女は男を愛するが、男は厭世観をただよわせていて、通常の恋愛観はもっていない。アンドレイと呼ばれるところから監督自身がモデルであるようだ。父親は著名な詩人(アルセニー・タルコフスキー)だったが、女は父親の詩をイタリア語で引用する。男は詩は翻訳はできないものだと主張して、近親憎悪を示すように、嫌悪感をにじませる。男がトルストイを持ちだすと、女はダンテを対抗させ、単なるお国自慢のように見えるが、そこには翻訳することのできない、分かちがたい文化の壁が立ち塞がっている。
ロシアに残してきた一家には、妻と子どもの姉弟に加えて母親がいた。犬も一匹いつも付き添っている。主人公が女性をともなってやってきたのは、イタリアの温泉地(バーニョ・ヴィニョーニ)だった。湯煙が立ち込めて、ロシアの朝靄にかすんだ風景と対比をなすもので、主人公にとっては郷愁を誘うものとなった。
水と火のイメージは、監督の心の奥に深く刻み込まれていて、ここでもロウソクを手にして、水たまりとなった温泉を、ゆっくり歩く主人公の姿に反映している。ロウソクに火をつけて、プールの囲いの端から端までを、消えないように歩いていく。風があるのか、火が消えてしまうと、出発点まで戻って水泳競技のターンのように、タッチをして繰り返す。三度目にやっと渡りロウソクを立てて、歓喜の声をあげている。意味不明な奇妙な儀式だった。
風の強いときはコートでロウソクをおおっていて、火が燃え移るのではないかと、不安を感じさせる。これに先立って、頭から石油をかぶってライターで火をつけて、焼身自殺をした男の衝撃場面を見ていたので、なおさら恐れをいだかせるものだ。主人公が出会ったイタリア人(ドメニコ)で、リベラルな思想を長演説で語った直後のことだった。主人公はこの男から、世界を救済するための儀式を託されていた。
ローマにある古代の有名な騎馬像の上に櫓を組んで、聴衆に訴えていた。階段に散らばった民衆が聞き入っているなかでの、ショッキングな行動だった。付き添ってきた女もまたそのころ、判断をくだせない主人公に見切りをつけて、新しい相手を見つけインドに向かおうとして、ローマに滞在していた。
主人公はイタリアにいて、ロシアのおもかげを追い求めているようだ。かつて描いていた、教会の内部に雪が降るという、ロシアの風土の思い出を、ここでもイタリアの廃墟となった寺院に見つけている。天井は焼け落ちて壁と柱しか残っていない聖堂は、ロシア以上にイタリアの伝統に根づいている。
主人公はその廃墟をゆっくりと歩いている。それは妄想であるかもしれないが、ラストシーンで再度出てくる。主人公はロシアに立つ、いなか家の前にいて、横座りになって前方を見つめている。かたわらには犬がいて付き添っている。ロシアに残してきた犬であるが、イタリアでも同じ犬が身近にやってきていた。前方には水たまりができていて、光の柱がいくつか映し出されている。
そのときは何が映っているかはわからない。あっと驚くような一枚の静止画が私たちを迷宮へと誘っていく。カメラがゆっくりと引かれていくと、それがいなか家の背後に広がった教会のドームであり、かつて主人公が歩いた廃墟の光景であることがわかる。主人公も犬も静止したまま動かない。微動だにしないのが犬の演技だとすれば、驚くべき演技力である。
犬に比べて主人公は、手のひらを大地についてはいるが、不安定な横座りには落ち着きがなく、遠望する目には望郷の想いがうかがえる。廃墟となった寺院の空間に、ロシアのいなか家が建っているという妄想を、驚きをもって受け入れることになる。そしてやがて天井のない廃寺から雪が降り出すのである。そこはすでに祖国ではなく、かつて描いた惑星ソラリスと同じく異界だった。懐かしい我が家の外形は、優しく守られているが、付き添うのは犬だけだった。ノスタルジア(郷愁)とは、そこにいることではなく、遠くにありて思うことなのだろう。
第669回 2025年2月17日
アンドレイ・タルコフスキー監督作品、スウェーデン映画、原題はOffret、英語題はThe Sacrifice、エルランド・ヨセフソン主演、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞、149分。
バッハの荘重な宗教音楽をバックにして、家族のシリアスな心理劇が展開していく。北欧を舞台にしたベルイマンの映画のもつ深刻さを感じさせるものだ。主人公(アレクサンデル)は海辺に住む初老の男で、就学前の子どもを連れて、日課の散歩をしている。浜辺には枯れかけた一本の木があり、子どもには3年間毎日水をやることで、生き返らせた過去の話を、教訓として聞かせてやっている。
郵便局員(オットー)が自転車でやってきて、誕生日を祝う手紙を手渡したあと、議論をふっかけている。先生と呼んでいて、もと哲学や美学の教授を勤めていたようだ。同時に演劇や文芸の評論家でもあった。子どもも顔見知りであり、自転車にいたずらを仕掛けていた。この子は手術を受けたあとで、口が聞けない。主人公はひたすら噛み砕いて、一方的に話をしてやっている。
散歩中に車に乗って、娘(マルタ)が男とともにやってくる。男が優しく子どもを抱きかかえているので、ふたりは夫婦のように見える。だとすると主人公は祖父ということになる。男は医師(ヴィクトル)であり、その業績が認められ、オーストラリアから招かれているが、判断を保留していた。
主人公が子どもとの散歩の最中、目を離した隙に、どこに行ったかわからなくなってしまう。心配をして探していると、急に背中に飛びついて驚かせたことで、老人は倒れて気を失ってしまった。このとき過去の恐怖の記憶が悪夢のように映し出されていた。暴動の跡形のように、路上で車が横倒しにされ、ものが散乱している。その後も繰り返される記憶で、そのときには若者たちが追われるように、おびえながら逃げ惑っていた。飛びつかれて主人公が振りほどいたときには、子どもの顔も傷つけてしまっていた。
自宅に戻り、誕生祝いにロシアの宗教絵画の画集が贈られている。三人で話をしていると、話を折るようにして妻(アデライデ)が現れた。女優として活躍しており、夫よりは優れた実力をもつと自負している。主人公もはじめは俳優として名を馳せていた。妻は精神的に不安定であり、夫の落ち着いた物腰とは対照的に見える。家には身の回りの世話をするメイドがふたりいる。ひとりは住み込み(ジュリア)、もうひとりは通い(マリア)だった。
郵便局員が再び姿を見せる。今度は私服で誕生祝いを持参していた。額装された1600年頃のヨーロッパ地図だった。男はもと歴史の教師で、今はアルバイトで郵便配達をしていた。死んだ人間が写真に映るという、謎めいた奇妙な話をしたあと、急に倒れてしまう。気味悪がりながら聞いていたが、家内に動揺が走ると、コップがガタガタと音を立てたり、ミルクポットが床に落ちて割れ、ガラスとミルクが飛び散っている。
テレビ放送でミサイルによる世界の危機が報道されると、妻の不安定な感情が爆発する。医師がそばにいたことは幸いだった。鎮静剤で落ち着きを取り戻し、娘にも注射を勧めている。同じ血筋であることを心配したからだったが、彼女はそれをことわっている。
郵便局員が通いのメイドは魔女だと言い出す。主人公に焚きつけて彼女の家に行かせて、関係をもたせることで、世界の危機を回避させようとした。主人公はそのことばを魔に受けて、深夜にメイドの家に向かう。母親に捧げる愛を昔話のように語り、女は同情して男を優しく抱き寄せることになる。
話したのは母のために庭の手入れをしてやったが、手を入れれば入れるほど悪くなったという内容で、女は母親は喜んだのかと問うた。このときレオナルドの描く聖母子像が映し出されるが、郵便局員は薄気味悪いと言って、この複製画を嫌っていた。
次の朝、医師はオーストラリア行きを決意する。乳母のような役目はもうこりごりだと言っている。母親はその決断にショックを受けている。このとき主人公はそっと家を出て身を隠す。子どもも部屋にいないことから、浜辺の木まで散歩をしているのだと、全員で探しに向かう。妻は夫が最近、日本音楽にかぶれていて、日本に行くと言い出すのを心配している。今も日本の着物をガウン代わりに羽織っている。妻はオーストラリアのあとは日本かと言って嘆いた。
家に誰もいなくなったのを確認して、主人公は戻ってきてテーブルに椅子を積み上げ、その上に布をかけている。何をするのかと思っていると、マッチで燃やしはじめた。瞬く間に燃え広がって、家は全焼してしまう。家人は帰ってきて、茫然としている。救急車の出動が要請され、主人公は逃げまわるが、つかまって隔離されていった。通いのメイドにすがりつこうとするが、引き離されていた。
最後に炎に包まれる家屋の撮影は圧巻である。こじんまりした家だが、これまでタルコフスキーの映画で繰り返し登場し、郷愁の象徴となってきたものだった。それがここでは美しく、跡形もなく燃え尽きてしまった。自らの手で過去と決裂したが、心身を喪失したように、火をかけるのに何のためらいもなかった。
誕生祝いにこの家のミニチュアが、子どもによって作られ贈られていた。製作には郵便局員も手を貸していたようだ。庭先に置かれていたので、今後はこれが残り続けることになるのだろう。映画の終わりにこの作品を息子に捧げるという表示があった。映画タイトルの「犠牲」とは何だろうか。燃え尽きた家のことか。あるいは口の聞けなくなった子どものことか。サクリファイスは、生けにえでもあり身代わりとも訳されるものだ。
聖書では父親のアブラハムが、息子イサクを生けにえとして、神に差し出す話がある。ここでは少年はひとりで、聞かされた教訓どおり、土に根ざして枯れ木に水をやり続けていた。いつものように二階の部屋で眠っていたのなら、生けにえとなって焼け死んでしまっていただろう。この作品がタルコフスキーの遺作になったことを考えれば、「イサクの犠牲」は文字どおり監督自身のことだったと思わせるものだった。