第8章 フォーヴィスム

数字の魔力印象から表現へ/モローの教育論/マティス:南仏の光/「窓」のシンボリズム/地中海的気質/

小さな地中海/ブラマンク:行動する絵画/疾走する風景/デュフィ:絵画から服飾へ/ルオー:道化と王の孤独/マティスとルオー/ドイツ表現主義

第88回 2021年12月4

数字の魔力

前章のアールヌーヴォーと象徴主義は、西暦でいえば1900年という区切りの年の前後の話だった。19世紀と20世紀の境目のことだが、世紀末美術というのは一般には19世紀末のことをいう。この数字の区切りはキリスト教世界の話で、キリストが生まれて千年は平和が続くが、それを過ぎると急速に衰えて、悪魔がはびこり終末になるのだという。ミレニアム思想をベースにして、1500年というルネサンスの頃も、同様の現象があった。

1900年という世紀の変わり目に近づくと数字の魔力が手伝って、なんとなく終わるのだなという気分が生まれる。千年、五百年、百年、十年の西暦の区切りが人心の深層部に根を張っていく。パリのような都市はどんどん巨大化していき、悪徳の巣窟を形成する。ロンドンでは霧がスモッグに名を変える。都市生活は窮屈になっていく。美術も大衆性をもったものが同時に出てくるが、俗に根ざした薄気味悪いものがはびこるような、怪奇趣味的なものも多くなっていく。それが前章の世紀末と象徴主義の背景だった。

第89回 2021年12月5

印象から表現へ

20世紀になると急変し、一般にはよき時代「ベルエポック」の名で呼ばれる。気分の変わり目に絵画も仕切り直しが20世紀になって始まっていく。ゴッホとゴーギャンが引き金になりながら、フォーヴィスムの展開を導く。20世紀は表現の時代だという。「表現」エクスプレッションといういいかたは、「印象」インプレッションとは対になる用語だが、日本語ではそのニュアンスは見えにくい。

1880年代から90年代は印象派の頭打ちの状態にあり、そこから吹っ切れて1900年を過ぎたとたんインプレスがエクスプレスに変わっていく。内に向かっていたのが外に向けて爆発していくような現象がまず出てくる。その後「芸術は爆発だ」という岡本太郎にまで引き継がれるもので、20世紀の特徴をなす。エクスプレスは特急の名となって直進する。

カルーセル(回転木馬)に結晶する円環状に回り続ける世紀末の遊戯空間と対比をなし、国際列車となって大陸内を往来する。芸術は表現でなくてもいいと思うが、個性といい出した19世紀はじめのロマン主義の延長上にある。その頃はまだ表現という語は使われなかった。一世紀を経て自己表現が加速化していこうとする。これは文学でも当てはまるが、ことに絵画の領域で注目されるのがフォーヴィスムである。

同時に色をとるか形をとるかという二択では正反対になるが、キュビスムが出てくる。フォーヴィスムのはじまりは1905年、キュビスムは1907年ということになっている。ほぼ同時期に色彩と形態の革命が勃発したということだ。

色と形は絵画の二本柱で、表現といえば色がベースになってくる。それに対して形をなす線やデッサンは知性のなせる技で、フォーヴィスムはゴッホとゴーギャンから、キュビスムはセザンヌから引き継がれていく。絵画上に自然を緻密に再構成していくという立場から、キュビスムは開始される。キュビスムの考えかたはさかのぼればエジプトの絵の描きかたやアフリカの仮面が引き金になっていて、それに個人的な目、何よりも重要なのは人間の一個の目で、すべてはそこから始まる。

世界の美術を太古から見ていくと必ずしも人間のひとつの目からは出発していない。ひとつの目が重要になったのはルネサンスからで、ひとりの目が見た世界を描くというのが遠近法の原理であり、遠近法で描かれた世界は個人の目のみえかたである。この個人の目がやがて表現主義を用意するものとなる。誰にでもそうみえる世界から、自分にはこうみえるという転換が、遠近法からの開放だった。

しかし世界は個人の目だけで出来上がっているわけではなくて、物質世界が加速化していくと個人の目は引っ込まざるを得ない。物質を中心に見たら世界はどうなるのだろうか。それがキュビスム的視点であり、一点でみえる世界ではなくて、多視点図法、つまりひとつのものを見るのに、あちこちから見て、それを総合させて平面上で再構成する。そちらのほうが真実だという世界観だ。

遠近法や写真術は一面的なものでしかなかった。20世紀は人間中心から離れ、物質世界が拡張し、人間も自然のひとつのパーツに過ぎないと考えなおす。そうすると一点集中遠近法は否定の対象になってくる。そこからキュビスム的世界観が登場してそれが受け入れられていく。これは今までの絵画とはちがい、従来の見方からすれば、ピカソを前にしてデッサンが狂っているぞ、どんな目をしているのだという反応になってくる。色と形の二分法は、ことばでいえば音声という肉体と、文字という精神の対比に似ている。色と形が出会うところに絵画が生まれ、音声と文字が出会うと演劇となる。

90回 2021年12月6

モロー(1826-98)の教育論

フォーヴィスムはフランスで始まるが、美術の中心がローマからパリに移動したためにフランスでの動向が注目される。この運動はドイツでもまったく同時期の1905年に火の手を揚げている。そこではフォーヴィスムとはいわないで、ドイツ表現主義の名で呼ばれる。フォーヴ(野獣)という語の由来は野獣に囲まれたドナテッロというフレーズから来る。前衛を掲げる画家たちが旗揚げをしたサロンドートンヌの展示場で若者たちの荒々しい絵に取り囲まれて、ルネサンスふうの小像がおびえているように見えた。

ドナテッロの彫刻を囲んでアカデミックなデッサンを続ける不満げな美術学校の学生たちの姿が目に浮かぶ。イタリアに学んできたフランス美術界への若者たちの反逆と見ることができる。野獣派はそこから定着した名称で、スキャンダラスに展開するフランス絵画史の系譜を踏襲したものだ。マティスでいえば30歳代半ばの頃の話だ。そこには国立美術学校や私塾でギュスターヴ・モローに学んだグループが含まれる。

モローは教授で古い世代に属していたが、モロー教室に属する80人を数える学生に、自身のスタイルを押し付けることはなかった。教育者としての優れたポリシーといえる。モロー自身は象徴主義の画家で、今では作家としても甘美な憂鬱を宿して評価が高いが、マティスやルオーを育てたという点に長らく光があてられてきた。作風を見る限り、マティスとモローでは何の関係もないようにみえる。マティスとルオーでもスタイルは相当異なるが、それぞれが自分のもち味を、師の助力を得て、いかんなく発揮できたということだろう。

ふつうは師匠のスタイルをまねるものだが、弟子のもち味を引き出す教育がありうるのだということを証明して見せた。アカデミズムのなかではそういう形は難しいし、しっかりとした見識をもった教師でないとつとまらないことだと思う。それがなければただの放任主義にすぎない。印象派からゴーギャンやゴッホの頃に比べれば、正統な美術教育からの誕生という点では心強いものであるかもしれない。

第91回 2021年12月7

マティス(1869-1954):南仏の光

フォーヴィスムの出発点である1905年の時点では、マティスは30歳代なかばである。若さのもつ荒々しい情念がほとばしる。しかし荒っぽいというよりも、意識としては装飾性の強さを感じさせる。装飾絵画は奥行きがなくて、平板で壁紙のように見えてしまう。「ダンス」(1910)などの大作を見ていても、平坦な印象は強い。晩年の切り絵を思わせるようなところもあり、絵の具を使ってはいるが、塗っているよりも色面を貼り付けているような感じだ。否定的な評価の残る「装飾」を前面に出して、装飾絵画に移行していった。20世紀に入って絵画の前衛は世紀末のアール・ヌーヴォーを経験しての展開となった。

マティスのよさは自由奔放な色彩画家という点にあるが、美術教育として基本的なデッサンを受け入れているからだろうか、優れた素描も数多く残されている。モロッコ旅行を通じて色彩に開眼する。アフリカのもっている光の洪水にふれたが、これ以前ではドラクロワがアルジェを訪れて、雷に打たれたような経験をしている。マティスはゴッホとも等しいところがあるが、光を求め、南仏からアフリカにまで達した。マティス好みの地中海気質といえるものだ。

印象派の画家が北方の光を浴びて育ったのに対して、それ以降の画家では、デュフィなどに典型的にみられるように、南仏の光を愛した。フランスは北も南も海があり、印象派ふうのしっとりとしたおぼろげな光を愛する部分と、強烈な光に反応する部分とを共有している。この多様性は絵画の様態において重要なものだろうと思う。

フランスでのくっきりとした光の対比は、文学上ではアルベール・カミュ(1913-60)の「異邦人」(1942)に結晶する。南仏からアフリカに至る風土は殺人を太陽のせいにするのである。ここでカミュは確かにフォーヴィストだった。印象派がいとおしく求めた光は、かすかにしか姿をみせない神の存在に似ている。太陽のおかげはやがて太陽のせいに豹変する。カミュの生まれたアルジェはフランスのめざす目的地ではあったが、住むにはあまりに光が強すぎた。

第92回 2021年12月8

「窓」のシンボリズム

マティスの絵では「窓」が頻繁に登場する[i]。カルラ・ゴトリープが「美術における窓」(1981)でデューラーの目に十字架を埋め込んだ窓枠を取り上げた研究に感銘を受けたことがある。マティスもルネサンスからの興味を引き継いで、開かれた窓を繰り返し描いている。光の強弱がそこで交差する。背景に窓が出てくる場合もあるが、窓自体を描いたものもある。なかには抽象絵画のようにシンプルな色面だけで窓枠をとらえたものもある。

なぜ窓にこだわりがあるのかというと、窓は絵画そのものの象徴であって、この古いルネサンス以来の保守的な絵画観をマティスは踏襲したようにみえる。そしてそれを色の塗られた平面という新しいアヴァンギャルドの絵画観にぶつけてみせる。マティスの場合はニースなど南仏の地中海に向けて開かれて、窓からは海がみえる。風景だけを描くのではなくて、つねに一歩下がって窓枠まで描きこんでいる。窓そのものへのこだわりを示すものだ。そんな目で見ていくとさまざまなパターンの窓が描かれていて興味深い。それは絵画とは何かを問う模索として跡付けられる。

そんななかで一点、際立って輝きを放つのが「コリウールのフランス窓」(1914)である。コリウールで描かれた他の窓景とは異なり、ほとんど抽象絵画だが、かろうじて窓ということがわかる。明け放たれているが地中海はなく、みえるのは暗闇である。ここで絵画の二つの定義を見比べてみる。「窓」というのは絵画の機能のことをいっている。それに対して「色」と「平面」というのは絵画を成立する構成要素のことだ。一方は絵画の精神的要素を語り、他方は肉体的側面に目を向けている。対立しているわけではなくて、すれちがっているのだ。

しかし精神と肉体という二分法が有効ではないとすれば、この不可分の存在としての人間をひとことで語った定義には二分法の前提はない。マティスもまたひとつのものとしてとらえたとき、この作品が生まれた。絵画を窓に還元するのは当時のアヴァンギャルドにとっては否定の対象だったが、アカデミズムに身を置いて自由な美術教育で育ったマティスは両者を受容できる立場にあったということだろう。開け放たれたクリアな「窓」ではなく、ゴツゴツとして盛り上がった「壁」に向かうのが、当時の前衛の立場だった。命をなくしても形は生き残る。羽仁五郎の著作「ミケランジェロ」の冒頭のことばは現代でも有効だ。ミケランジェロは生きている、疑うものはダヴィデを見よ。


[i] 「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」2019年11月1日〜2020年2月2日 東京国立近代美術館

第93回 2021年12月9

地中海的気質

こうした地中海的風土は、マティスがもって生まれた気質のうちにあるものだろう。ロシアのコレクターが早い頃からマティスに目をつけて収集し続けたのも、ロシアの風土にはないある種のコンプレックスに由来する民族感情だったのではないか。今でもマティスの代表作がロシアに現存するのは不思議な気もするが、マティスはそこで大作への夢をはせることができた。ヨーロッパでは誕生しがたい大作が、音と色とが同調することで、「ダンス」(1909)と「音楽」(1910)の名で実現した。アメリカでもバーンズコレクションがマティスの代表作を含んでいる。

ふつうはまだ若いころの作家に目をつけて収集するには勇気がいるが、それによって安く手に入れることはできるし、現代絵画は作家の若い頃の作品によってつづられるのだという確信があっただろう。そのためにフランスは遅れを取ってしまったということになる。実業家セルゲイ・シチューキン(1854-1936)のロシアコレクションを対比させると、その後の米ソ対立の冷戦は、現代絵画の周辺ですでに始まっていた。

南仏に最終的には落ち着くが、それは共通した画家のパターンをかたちづくっている。マティスの出身はフランスのノール県で、文字通り北に位置する。パリ自体も北部に位置するが、南下して地中海をあこがれるのはフランス人に限ったことではない。ロシア出身のシャガールも地中海をめざしたし、オランダ出身のゴッホがそれに先立ってアルルに向かっている。北方のもつ薄暗い湿った風土を逃れて、急速に色彩に目覚めていく。

なぜ猫も杓子も地中海をめざすのか。クレーの日記には、山ばかり見て育ったスイス人画家がはじめて海をみたときの驚きがあざやかに語られている。南下の先は地中海だった。何人もの画家が南仏だけに収まらずアフリカにまで回り込んでも行った。南下は光を求めての身体的な生理本能に帰することもできるだろうが、失われた古代ローマへの精神的回帰が水脈としてあるように思う。地中海を庭としたかつてのローマの平和を思い浮かべながら、海岸沿いをなぞって歩む。アルルには古代ローマの競技場があるし、さらにスペインからアフリカへと足を向けると、点在する古代の歴史的建造物を知らぬ間に目にしている。

地中海沿岸で先祖代々住みなれた土地から、ローマ時代の遺跡とはいうまでも、古銭でも出てくれば、そこにローマ皇帝の横顔を見つけるだけで、古代ローマへの郷愁は十分に成立する。ローマに通じる交易路には、舗装された石畳とともに古銭は必ずみつかるものだ。それは西洋を築いたキリスト教中世が東に向かって無意識のうちに移動を強いるのと対比をなしているのが興味深い。古代ローマもまた東にたどればシルクロードを経由して交易は日本にまでつながっている。

第94回 2021年12月10

小さな地中海

壁画まではいかないが、マティスにみる壁紙のような印象は、絵画を室内装飾として機能させるということだ。壁画を描くにはロシアにまで行く必要があるが、油絵だとキャンバスを丸めて送ることもできる。建築との関連性や壁画を意識したような志向性がうかがえる。現実空間への拡張は、舞台装置の仕事にも展開していく。ピカソもバレエの舞台を手がけているが、ロシアバレエ団やロシア演劇とのつながりを予想させるものだ。シチューキンは繊維業で富を得たロシアのコレクターだったが、マティスだけではなくピカソもその傘下にあった。

こうした大作の一方で「金魚」(1912)を描いたマティスの感性も気にかかる。何でもないふと目にする一瞬の光景だが、見過ごされてもよさそうなものに目が向かうデリケートな神経にほっとする。この感性は浮世絵の世界とも共通するが、開かれた窓を通してみえる海景という点では、金魚鉢のガラスもそれに対応する。近視的世界にもかかわらず作品のサイズは意外と大きい。なぜかと考えると、やがてその巨大な金魚鉢が現実の窓枠のサイズをなぞっているのだと思えてくる。金魚鉢のガラスごしに小さな地中海がみえている。

晩年は切り絵を好んで制作するが、手の否定のようにみえる。肉体的疾患ではあるのだろうが、ギクシャクとした線が特徴的で、形や線をはずすと色が前面に押し出されてくる。「ジャズ」(1947)のシリーズもそうだが音楽的要素を組み込んでいる。音楽の七音は、色彩の七色に対応するものだ。音楽と色彩はつねに連動している。色が音楽だとすると、それは楽器の演奏に対応する。それに対して線は歌曲の場合の歌詞にあたるのではないか。歌には二つの要素があってメロディと歌詞だが、感性的な面と理性的な面とが組み合わされているともいえる。そこにフォーヴィスムとキュビスムという同時代でありながら対立する二要素が、それとの対応関係をなしている。

第95回 2021年12月11

ブラマンク(1876-1958):行動する絵画

モーリス・ド・ブラマンクは行動派で力強さからいうと、マティスを上回っている。ゴーギャンの延長上のようにみえる、ことに自転車やボートレースの選手でもあったという経歴は、そのまま絵画に反映している。競輪と競艇の興味は、ジェリコーやマネやドガを魅了した競馬から引き継がれたものだ。半世紀早ければブラマンクは競馬のジョッキーになっていただろう。自転車のあとはレーシングカーにのめりこんで、画家であると同時にスピード狂を思わせる独特の感性が引き出されていく。

戦闘姿のようなマスクをしてオートバイに乗り込む写真が残されている。画家とは思えないがっしりとした体格である。バイクで疾走するときに通り過ぎていく風景は、流れるようにゆがんでいる。雪景色の場合は顕著で、画面全体が加速化され、風景が両目の脇から、空間をゆがませながら後方に向かって急速に過ぎ去っていく。白い絵の具は荒っぽいのだが、流れるような独特のリズムをもっている。時間的経過をたどる風景の動揺が、画家の個性を特徴づけるものに見え出してくる。

競輪の選手であったという経歴は光っている。マティスの前に来ると、くすみがちな画家ではあるが、生涯を通して展観すると、いくつもの栄光が見え出して来る。いい時代といいポジションにいたと思う。ゴッホ(1901)とセザンヌ(1907)の回顧展を、自身の目で見て影響を受け、マティスと歩調を合わせる場にいたということだ。ゴッホもセザンヌも、ひとしれず描き継がれ埋もれても不思議ではない未知との遭遇だった。ゴッホもセザンヌも美術学校で学んだエリートであったわけではない。アカデミズムの嫌悪は、ゴッホが株の仲買人ゴーギャンに感じ取った魅力だった。

キュビスムの動きを知ったブラマンクは、とたんに画面がピカソふうになるし、セザンヌのタッチを彷彿とさせるものもある。独自のスタイルがかたまってくるのは1920年代からで、粗っぽいタッチを残す雪景色が特徴的だ。

第96回 2021年12月12

疾走する風景

冬枯れた鉛色の空と、その前面に広がる真っ白の絵の具の対比は、何度も繰り返し描かれる。かつてパリの裏町を描いて、佐伯祐三を魅了した都会的埋没とは異なった自然主義が、ブラマンクの本領を発揮する。病的な都会派ではない。パリを離れていなか暮らしをするなかで培われた自我は健全過ぎて、これまでの負の美術史からは評価されず、見過ごされてきたものかもしれない。しかしそれがスピード感のある現代に対応した時代性であることを理解すると、レーシングカーの美を宣言したイタリア未来派がめざしたものと同調していたとも思える。

レーサー姿で写真に写された一八〇センチをこえる巨体には、結核に苦しむひ弱な画家とは無縁のものがある。エコールドパリを憧れる日本青年の脆弱をアカデミックといって罵倒した信念を感じ取ることのできる作品群だ。そして前衛の美術運動にさえ飛びつかない自覚を得たときには、未来派がどんな様式を確立しようが構うことはなく、それでいて時代を未来派と共有するに至ったとみてよいだろう。

流れるような風景には、レーシングカーの疾走感がある。通り過ぎる風景には置き忘れた過去の時間が記憶されている。背景にはとても魅力的などんよりとした曇り空が広がっている。それと対比をなすように、白が輝きを増し、風のように通り過ぎようとしている。雪道をスピードアップして暴走するタイヤの跡形が、荒々しく残されているようにみえるものさえある。骨太のホワイトカラーは手と頭で描いたものとは思えないエネルギーを秘めている。

絵筆にしては分厚く、白い絵の具が画面を疾走する。まるで足で描いたような運動量は、「具体」のパフォーマンスから出てくる白髪一雄(1924-2008)やポロック(1912-56)ザオウーキー(1921-2013)の抽象絵画を先取りしているようにみえる。

第97回 2021年12月13

デュフィ(1877-1963):絵画から服飾へ

ラウル・デュフィはいかにも南仏を思わせるオーケストラのリズミカルなメロディが特徴だが、出身はル・アーヴルでノルマンディー地方にあり北の海に面している。そこはモネが育った港町でもあった。フランスでは北に向かう海は暗く、日本でいえば日本海に面した北陸の風土に対応する。南のほうは地中海に面して明るい。印象派周辺の画家にフランスでも北部の出身者が目に付く。暗い海を見て育ち、それが光を求めて南下するのだとすれば、説明としてつじつまは合う。明るいものへあこがれて移動するというのが、印象派誕生の原理かもしれない。

ゴッホはその典型だっただろう。世紀末から加速する楽園思想がその背景をなしている。明暗の海の豊かさは、ともに代えがたい文化の豊饒を築き上げる。たとえてみれば、そこには北陸の画家と東海の画家にみるようなくっきりとした対比がある。パリに似た内陸の京都で展開した日本画のグループ「パンリアル」でいえば三上誠と星野真吾の二人展が思い浮かぶ[i]

デュフィにはオーケストラと並んで競馬のシリーズもある。踊るような線は、音楽のリズムと対応するようだ。音符のように感性のおもむくままに、現世の開放感を楽しんでいる。個性豊かなフォーヴィストのなかでは、存在感は弱く目に映ったのかもしれない。一芸を抜け切れない点で、マティスの才能を横目で見ていたにちがいない。それが活路をデザインに求め、あらたなる可能性を切り開いたように思う。壁紙を思わせるパターンが服飾デザインに向けられる。

近年のデュフィはオーケストラをモチーフにした絵画作品よりも、服飾デザインに提供したパターンが再評価されてきている[ii]。純粋な画家としての側面よりも余芸としてファッションデザイナーとの競演に生活観を楽しむことができた。花を大胆に散りばめた服飾デザインは、ポールポワレ(1879-1944)の力を借りて、ファッショナブルな時代の感性を切り出している。マリメッコに劣らず大胆だが、もちろんこちらのほうが早く、1910年代の話である。音符を散りばめたような装飾的感覚は、絵画よりも音楽に近く、服飾の分野で身を結んだということだろう。

絹地にプリントされた光沢は、絵画では実現できない美のデリケートな一瞬をとらえている。花や昆虫が多い文様のなかに、奇妙にも「蚕(かいこ)」(1920-1)をモチーフにしたパターンがある。美しいとも思えないうごめくような蚕のグロテスクを前に、私たちはユーモアをともなって思わず納得してしまう。典雅な天使が産み落とされるのに気づくのは、絹地の輝きに魅せられた時だ。この黒々としたグロテスク文様から透明感あふれるシルクが生まれるのだという人生訓を思わせるメッセージを隠しこんでいる。


[i] 「三上誠・星野真吾二人展」1985年8月23日~9月16日 福井県立美術館

[ii] 「ラウル・デュフィ展—絵画とテキスタイル・デザイン—」2019年10月05日~12月15日 パナソニック汐留美術館

第98回 2021年12月14

ルオー(1871-1958):道化と王の孤独

ジョルジュ・ルオーの表現主義は初期の頃には頻繁に見られる。それはサーカスであったり道化や娼婦であったり、社会の底辺に生きている人々の、もののあわれをえぐり出すかきなぐりに反映している。情念がほとばしる作風は、1914年に開始した「ミセレーレ」の版画集を典型とするが、やがて落ち着いた宗教性を含むものに変容していく。穏やかな聖母マリアやマグダラのマリアの表情のクローズアップは、聖顔を愛した中世的慕情ともいえるものだ。

ここまでくるとフォーヴィスムのくくりでは語れない。そしてこの「最後の宗教画家」が若き日の野獣の感性からはじまったというのが、ルオーの生涯に論理的帰着をもたらしていることは確かだろう。ステンドグラスを思わせる輪郭線をしっかりとった揺るがない縁取りが、初期の水彩のにじみ出る心の動揺と対比をなしている。

閉ざされた王の孤独という意味では、現代人のもうひとつの悲劇を伝えてもいる。サーカスと娼婦の世界が、世紀末の揺れ動く古い感性だとすれば、新時代の王は冠をつけてはいても閉ざされた世界に幽閉されている。決して新しいタイプの絵を完成させたとはいえないが、なぜか日本ではことに経済人の心をとらえたようだ。日本でのルオーの受容史は興味深いものがある。出光やパナソニックのルオーコレクションが知られるが、それもまた「呪われた王」(1949-52)のなかに孤独な企業トップの心情と通い合うシンパシーがあったからなのだろうか。キリスト教は収税人や金貸しを許す思想だ。あくどく金儲けにあけくれた富豪にとっては、美術品収集は、改悛を通してもう一つの回春を取り戻す術でもあった。

ルオーの絵の具の盛り上がったごつごつとしたマチエールは、茶湯を愛する財閥系の古陶趣味とは共鳴するものだ。さきにタブローを茶碗になぞらえたが、それらはともに持ち運びのきく動産物の典型だという点で共通している。旧ブリヂストン美術館や大原美術館も、ルオーの名品の所蔵先に名を連ねている。油彩画では額縁にまで彩色を施して重厚な感じがして、ますますわび茶の風格とも似通ってくる。額縁に彩色するのは、初期ネーデルラント絵画史で、ファンアイクの肖像画などに共通するものだ。そこでも貿易で富をなした経済人が、半身像で縁取られ、彼らの栄光と苦悩を浮き彫りにしている。

油彩に合わせて版画を連作でずいぶん制作している。キリストの受難シリーズや文学の挿絵の形でも手掛けていて、タブローとは異なった独自の世界を生み出した。黒い縁取りをもって光り輝くような人物像に、キリストの悲しみと栄光を読み取ることが可能だ。フォーヴィスムの流れからすると鮮やかな原色を散りばめるようなものというよりも、黒が目立って、抑え込んだ重厚さがうかがえ、同僚のマティスとのちがいをくっきりさせている。

師であるモローの美術館が開館して館長を拝命するのも、師と共通した陰りのある重厚なドラマのゆえであったかもしれない。道化や娼婦という世紀末に流行したモチーフはそのまま受け継がれている。道化の顔はいつの間にかキリストの顔に重なって見えだす。道化はキリストに見立てられる。キリストはあざけられて頭に王冠をかぶせられ鞭打たれる。ピエロのもっている悲哀、犠牲になって死にゆくもの、犠牲になって笑われるものが通底する。この苦悩の肖像は、日本の小説家では遠藤周作がこだわり続けたものでもあった。

第99回 2021年12月15

マティスとルオー

プライベートな書簡のやり取りを通じて、ふたりの巨匠の身近な姿が写し出される。もちろん彼らはそれぞれがスタイルの異なる画家なので、同時代にどんな絵を描いているかも、それらを二つ並べて比較することはできる[i]。「ゴッホとゴーギャン」の緊張感とは異なった、人と人の対話の真実をそこに読み取ることができる。そしてふたりが国立美術学校で出会った接点には、師としてのギュスタフ・モローがいて、いつまでも同輩という関係を保ち続けることになる。

師はときに自分のスタイルを弟子に強要し、踏襲させるが、その場合ふたりの弟子のライバル関係は健全なものとはなりがたい。マティスにはマティスのよさを、ルオーにはルオーのよさを追求させる。この教育論が友情を育む原動力となった。モローの教育者としての資質が、ふたりの画家を開花させた。そして同時に友情を築かせた。

マティスの開放的な海に向かって解き放たれた窓辺は印象的だが、それに対してルオーの幽閉されたように縁取られた何重もの枠組みは、鬱屈した世界を封印するように、隔離し閉じ込める。しかし両者がともに「窓」を描いているという点で共通しており、ときにそっくりなまでに似かよった作風も見られる。一方は窓を開けようとし、他方は窓を閉じようとする。絵画は開閉を正確には語れないし、ふたつの方向の交点はつねにどこかにあるのだということでもある。


[i] 「マティスとルオー展 —手紙が明かすふたりの秘密—」2017年1月14日(土)~3月26日(日)汐留ミュージアム

100回 2021年12月16

ドイツ表現主義

同時期に出てくるドイツ表現主義は、フランスの理知的な側面に対立し、ルネサンスの頃から表現的要素の強い民族的特性を有していたようだ。ぎょっとするような造形感覚はグロテスクなまでのもので、ルネサンス期のグリューネヴァルトラートゲープなどは、宗教改革の嵐のような情念を共有するものだった。こうした伝統がベースにあって、そこに近代の造形がかぶさっていくが、フランスに比べて日本での紹介は遅れている。カンディンスキーなどもドイツ表現主義から始まって、抽象へと移行していく。荒っぽい色を殴りつけたような具象的イメージが、やがて抽象世界に展開していく。

フランスでは絵画一辺倒だったが、ドイツでの動向は幅広い方向性を示す。絵画から離れて演劇や映画へと広がりを見せていく。文学も含めた総合芸術運動に展開していく。「カリガリ博士」(1919)を起点として怪奇趣味をもった重厚なドイツ映画が1920年代を通じて特徴をなしている。写真をベースにした映像メディアへの発展は特筆できるものだろう。

それではフランスではなぜフォーヴィスムは絵画のみにとどまったのだろうか。絵画はすべての芸術を総合化したものだというルネサンスの絵画観は、レオナルドに結晶した。それはフランスに根づよい古典主義を植え付けた源流である。レオナルドが絵画をオールマイティだとしたのは、それが遠近法と解剖学で武装していたからだ。

このことはフランスの現代絵画が遠近法を目のかたきにして否定したこととは矛盾している。芸術を純化するために科学とたもとをわかち、遠近法を工学に、解剖学を医学に追いやった。絵画は他の学術や芸術領域を従えるという実権を放棄したにもかかわらず、画家にそのプライドだけは残り続けたとみることができるかもしれない。

エミール・ノルデ(1867-1956)の風景画は、表現性が際立っている。キリストをモチーフにした宗教画もあるが、原色を多用してタッチも荒く、フォーヴィスムのフランスに劣るものではない。北ドイツの寒村の寒々とした荒涼とした風景が広がっている。シンプルだが力強く、フォーヴィストたちの好む南仏の地中海ではなくて、北海の「風雲急を告げる」というにふさわしい嵐のやってきそうな海景をみごとに表現している。

 ノルデに対してルートヴィヒ・キルヒナー1880-1938)は、都会的センスをもった才能豊かな画家だったが、比較的早く没した。作品数も少ないが、ベルリンの街角に群がる若者のファッションには、フランスでの絵画運動を牽引したマティスに匹敵する完成度を認めることができる。


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