喜多俊之展 TIMELESS FUTURE

20211009日~1205

西宮市大谷記念美術館


 デザイナーの仕事は、まとめて展覧会をすることでやっと個性が見えてくる。個性を全面に出すアートの仕事とは異なるが、個性を殺しているわけではない。スポンサーと消費者のかげにかくれて、見えていなかったものがあり、展覧会を通じてはじめて主役になることで、見え出してくる。この人のデザインだったのだという驚きにいくつか出会うと、なるほど通底しているものがあると、気づくことになる。


 ハイビジョンの時代になって機能しなくなった液晶テレビが家に一台ある。コンパクトでスタイリッシュなので捨てられないまま残していたが、今回の展覧会を通して喜多俊之のプロダクトデザインなのだと知った。捨てられないデザインとは何なのだろうか。古くなれば捨てて買い換えるのがデザインの鉄則だと思っていたが、そうではないものがあった。今回それに出くわし喜多俊之という名が与えられた。アクオスという名は覚えていても、喜多俊之の名は知らなかった。


 そんな目で眺めてみるとプロダクトデザイナーの思想が見えてくる。日ごろは隠れているが、こんなふうに一貫して並べてもらわないと気づくことなく終わってしまう。そんな未発掘の人格が眠っている。個人名が先行して綴られてきた美術史の書きかえがはじまっている。アニメーターや絵本作家の展覧会が増えていることは、この動向を伝えるものだ。


 伝統工芸とのコラボレーションが、プロダクトデザイナーの可能性を広げていく。それぞれは衣食住に結びついていて、太古より古びることのない美の基準を提供する。工芸はただ素材の魅力を引き出すだけではない。生活に根ざした利便を追求している。それがデザイナーの意志と響き合うのだ。


 利便はいつも利潤と抱き合わせにされるが、互いの信頼感がなければ成立しないものだ。上滑りになりがちなデザインにはどめがかかり、ひとりよがりになりがちな工芸には命が吹き込まれる。ギブ&テイクといってしまえばあまりにも味気ない経済効率だけの話になってしまう。それをどれだけ乗り越えられるかということだ。


 日本文化の基調が、畳のサイズの居住空間に反映する。建築と工芸の接点を模索するのも、プロダクトデザインの使命だ。畳二畳の茶室に集約されるとすれば、すべては茶道具のデザインに帰結する。金工や木工や陶芸や漆芸の名で分類されるマルチメディアとのコラボレーションをデザイナーは均等に楽しんでいるようにみえる。


 椅子照明器具は、閉鎖空間を彩る必須のアイテムだ。茶掛けは現代の液晶テレビであるし、持ち歩きできるポータブルを売り物にするアイデアも、仮設を基本形とする茶の文化を引きずっている。漆器陶器和紙のもつ素材の安定性は、プラスティックとナイロンに明け暮れたモダンデザインから解放されて、土地に根ざした地域性が浮上する。


 時系列で並べたときに、一貫したポリシーを感じ取ることのできる多様性だったが、唯一わからなかったのはロボットである。今日ではよく見かけるもので、プロダクトデザイナーの究極の成果なのだとは理解できる。しかしすべてを結集して人工知能に向かうのではない、いわばアナログ的回路に、私自身は魅力を感じていて、なめらかでつやつやした肌をもったロボット工学には、まだ違和感を感じてしまうのだ。


 ロボットは尾を振るペットでもよいのだが、エキスだけを取り込んだ模倣を超える試行錯誤のなかに、等身大の人間性を見い出せるものだろう。そんな目で見るとロボットは汗をかかないし、漆器や陶芸を現代化したデザインもまた、しゃれた現代感覚に引かれはするが、ときになめらかすぎてまるでロボットのように見え出してもくるのである。



by Masaaki Kambara