第4章 印象主義

絵画の革命/ウィーン輪郭線モネ:印象派の体現/積みわらリンゴはなぜ赤い日常性の優位工場の煙印象派と海近代の憂鬱ノクターン(夜想曲)/ドービニー:ゆるやかな逃亡

第40回 2021年10月17日

絵画の革命

 印象主義が第四の流れということになる。前章では写実主義の名の下でクールベやバルビゾン派を見てきたが、彼らのめざしているものは目にみえるものをそっくりに描くということ、物語やお話などロマン派が方向性として求めていた劇的なものはあまり考慮しないで、何気なく見過ごしてしまうようなものに真実があるのだという主張である。それを前面に押し出していったという気がする。そういう社会的な領域でのリアリズムから一歩踏み込んで考えて見はじめたのが印象主義という流れになる。

 社会的な意味での写実主義と、いわば物理的な意味での写実主義とは少しちがうのだという話だ。印象派が出てくる前までの絵というのは、全体から見ても似たようなものとして見えてしまう。印象派が出てきてから以降、彼らの描きかたによって絵画の革命が起こされる。どういう革命かというと、印象派が出てくる以前は主題の問題に過ぎなかった。絵を描くことはどういうことかを考えはじめたのである。あるいは目にみえるというのはどういうことかを考えはじめたのが、この印象派以降の人たちだ。それ以前は絵画でしか表現できないものは何かと問う、純粋性追究の流れはそれほど強くはなかった。

 詩人は詩に書く。音楽家は音に置き換える。何かの刺激を受けた場合に表出するメディアはいろいろある。もちろん大声で叫んでもいい。感情の表現法は多様だが、音楽家であっても文章や絵で描いてもいい。ジャンルにこだわりそれでしか表現できないものを求めていくという立場が、19世紀以降ことにマネやドガ、モネあたりから登場する。純粋な絵画とはいったい何かということを求めていった。

 マネは絵画の平面にこだわり、ドガはどちらからどんな風に見るかという視角(アングル)と構図(コンポジション)にこだわった。そこでテーマになるのは、写実主義者が求めたごく身近なものだったが、それを目にみえるとおりに写すだけではなくて、絵画として画面上に現実とは異なった世界を作りあげていくという考えかたが強まった。マネやドガでは印象主義にいたる前段階だが、色面によって画面を構成するという考えかたはかなり強く出てきている。

 奥行きという感覚をなるべく避けて、平坦な色の塗りかたを考えはじめる。このとき影響を与えたのが浮世絵だった。浮世絵は筆で描いたものではなく版画なので、当然画面に色は平坦に塗られている。それをヨーロッパの油彩画家たちが見たときにまず驚いた。版画だったらそういうマチエールは仕方がないはずなのに、彼らは版画としてではなく、自分たちが筆で絵を描く、油彩に新しい刺激を与えるものとしてみた。浮世絵がもつ色が塗られて平面化されているという画面に驚いた。

ヨーロッパでも版画の伝統は古くからあったが、銅版画が主流だったし、木版画もなくはないが、色彩をそのまま画面に平坦においていくようなものはなかった。やがて絵画の定義は、壁に穿たれた「窓」から、色の塗られた「平面」へと移行する。絵画になるためには是が非でも、それは平面でなければならなかった。

第41回 2021年10月18

ウィーン

都会の日常生活を題材とする絵画傾向は、平面性とともに浮世絵がもたらした成果であったが、その影響はパリにとどまらず、ドイツ語圏内ではウィーンでも開花した。ウィーンを主役として、都市の美術史をつづることができる。ウィーンで万国博覧会が開催されたのは、1873年のことである。 パリやロンドンやニューヨークだけではない。都市美を誇る風格の順位づけが可能なら、ウィーンはバルセロナと人気を二分するものかもしれない。もちろん18・19世紀の江戸もまた世界の文化都市の最右翼であったはずだが、それに気づいている日本人は少ない。

ウィーンは江戸の美的成果に早くから気づき、パリにも劣らないほどにジャポニスムを受け入れていく。出版文化と抱き合わせにされたグラフィックの世界だけではない。男女が折り重なるように一体化する浮世絵世界が、やがてクリムトやエゴン・シーレ(1890-1918)のイメージによみがえる。それは女性を慈しむ文化だ。レイプや強姦ではない。仲睦まじくまぐわっている姿は、江戸の大らかな春画を反響している。

都市としてのウィーンの繁栄は、マリア・テレジア(1717-80)とヨーゼフ二世(1741-90)の母子の肖像画からスタートする[i]。母のほうが一回り大きい肖像画があり、暗示的で興味深い。ゴヤの描いた「カルロス四世の家族」(1800-1)でも圧倒的に王妃マリア・ルイサのほうが存在感を示す。加えてもうひとりのマリーもルイ16世のあとを追って堂々と断頭台に向かった。三人のマリアは、ロココの終焉を飾る華麗なフェミニズムの精華と美学だった。

ハプスブルク家という名家でありながら、異質な奇想を愛する血の本能が、ウィーンの街づくりにも反映する。リンクという今も残る円環道路は、目的地をもたないで回り続ける運命の輪である。外壁を外して拡張した形跡がリンクに結晶する。この回り続ける永久運動は、メリーゴーラウンドやウィーン名物の観覧車にまで引き継がれて、遊戯空間を演出している。

ビーダーマイヤーという小市民の平和を歌いあげた時代様式も、江戸の庶民生活のくつろぎを彷彿とさせるところがある。この頃の絵画は香り豊かなものだが、当時フロイトがウィーンで見た夢判断の挿絵のようなモーリッツ・フォン・シュヴィント(1804-71)の一連の絵画が、この時代の情景をよく写し出している。囚人の見る夢や、雨もりのする部屋で傘を差す姿の、柔らかな心情が心地よく記憶に残る。ドーミエやマネと対応させてみることができるが、おしなべて説明的でフランスの印象派で展開する絵画的実験の目は残念ながらない。


[i] 「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末の道」2019年4月24日(水)~8月5日(月)国立新美術館

第42回 2021年10月19

輪郭線

色を混ぜないことと合わせて、印象派の特徴は輪郭線を描かないということだった。目にみえるものを描くという点では、自然界に輪郭線はない。人の顔を描くのに顎や鼻筋を線でなぞるが、歌舞伎の隈取をのぞけば顔にそんな線が引かれているわけではない。頭のなかで便宜的につくられたものに過ぎない。それは前から後ろに向かってカーヴしていく峰の部分にあたる。目に見えないものは描かないというのが、印象派の基本的な立場で、写実主義を踏襲している。

パリにいた印象派の画家たちはルーヴル美術館に行って、モナリザの前に立つと、そこに輪郭線がないことに驚嘆しただろう。レオナルドはすでに科学者の目で輪郭線など存在しないことに気づいていた。それを見て彼らは意を強くしたにちがいない。ただレオナルドはフランスではアカデミズムの権化でもあって、アヴァンギャルドにとってはその技法をうのみにするには抵抗があったかもしれない。

輪郭線はモネでははずれるが、それがまた復活してくる。ことにゴーギャンの太い輪郭線はモネに対抗し、ひいてはレオナルドに対する挑戦のようにみえる。絵画としてはこちらのほうが力強い。ポスト印象派にとっては、絵画としての存在感を表現するためには、輪郭線は重要なアイテムだった。

第43回 2021年10月20

モネ(1840-1926):印象派の体現

現実世界のもっている明るさをリアルに描く。日当たりの明るさを象徴する「ひだまり」は、モチーフになるかもしれないがテーマではない。太陽がさんさんと輝くところは美である。美しさは古典主義では形式にあった。リズムやハーモニーで美を表現した。ロマン派は劇的な、感動的なものに美を見出した。

目にみえる美とは何か。目にみえる喜びのようなもので、光が目に入ってきて、なんと明るい世界だと思う。太陽が昇って真っ暗な世界が明るくなると、それだけで美しい。それこそがリアルな世界だという。モネはその典型的な人だったと思う。最終的には白内障で目が見えなくなるので、どんどんと光に対する憧憬が加速化していく。

かつて洗浄がされていない薄暗い画面を見て、モネのどこがいいのかわからなかったことがある。今では修復のすんだ画面を見て、モネの絵はなんとすばらしいのかと思う。それは見ちがえるような驚きの再会だ。テーマはいくら洗浄しても変わらないが、印象派の絵は見ちがえるほどによみがえる。

修復して美しいというのなら、絵を見てきれいと言われたときの二つの様態を考えさせるものとなる。描かれているのが、きれいな風景やきれいな女性だという場合と、画面が汚れていないという場合である。これらはどちらも正しいが、私たちは長らく絵を見ないで絵に描かれたイメージを見続けてきた。印象派の視覚から絵は何が描かれているかから、どのように描かれているかが問題になってくる。フォルマリズムの探求がモダニズムの基軸となっていくのである。

印象派の絵はモノクロの画集で見ていてもわからない。色が目に飛び込んでこないとはじまらない。モネのめざしたのは純粋な目の人になりたいということだった。それは頭脳を働かせる前に光を感知する目だけで反応する人をいい、赤ちゃんの目で世界を眺めたいと考えた。

その前提になるのは赤ちゃんが生まれてこの世をはじめて見たときに、なんて明るい世界だと思って感動しただろうと、画家が思い込んだことによる。母親の胎内の暗いなかから出て、この世の明るさをはじめて見たときのことを思い浮かべた。純粋無垢な目で世界を眺めたとき世界は美しかったにちがいない。だから赤ちゃんのような目になりたい。煩悩を捨てて目だけで反応するようなことが絵になってこないだろうか。このような考えかたは今まではなかった。テーマを求めている限りではそうはならない。これまでは絵にもならないようなものがモネでは登場してくる。そのひとつが「積みわら」(1890-1)のシリーズである。

第44回 2021年10月21

積みわら

何でもないわらが積んであるだけで絵になっている。朝から夕暮れ時まで光の移り変わりで、目の印象はさまざまに変容する。一枚では収まらずシリーズとなる。並べられたキャンバスを太陽の傾きに応じて移動して制作を続け、数点が同時に完成する。太陽の傾きが少しでも変わるととたんに描けなくなる。積みわらを見ながら何を見ていたのか。わらの一本一本を見ているのではなくて、それにあたる光や色を見ていた。

モネの目に抜け落ちているものは、対象の「存在」だった。対象に光が当たって目に飛び込んでくるときの「現象」だけが重要である。絵画は確かに目に映るものしか見えない。目の人になるとモネの絵になる。積みわらではまだ形はあったが、最後には何が描かれているか定かでない光の洪水になった。水面だけを見つめて絵にする。手につかめないで、すりぬけるものがモネにとっての存在だった。水面は光が反射して美しいものではあるが、これだけを絵にすることは今まではなかった。あえてたどるとクールベの「波」にゆきつく。モネは写実主義の究極の姿だった。

反射する光に目をとどめると、表面でシャットアウトされて、視線がその奥に向かうことはない。表面だけを問題にする視覚は、のちにポップアートに引き継がれるが、表層をなぞる空々しい現代社会の縮図となる。光を観察してみると、反射する光だけではない。吸収する光もある。その鈍い光を見つめていると、それは存在の光なのだと思う。存在というフィルターを通したとき、反射体としての鏡の写す現象ではなく、その奥にある存在に気づくはずだ。これがモネを乗りこえようとして出てくる視点である。

明るさへの志向はいかにすれば画面は明るくなるかという技法論に移行する。それは目の原理を知ることで、物理学としての光への興味をともなった。ルネサンスが科学としての解剖学と遠近法に目を向けたのに対応するものだ。光学や色彩学の新しい自然科学の知識が一九世紀を通じてどんどん知られるようになっていた。それを絵画に応用していく。対象物を見ているのではなくて光や色を見ている。光とは何か、色とは何か。

第45回 2021年10月22

リンゴはなぜ赤い

郵便ポストはなぜ赤いのか。リンゴはなぜ赤いのだろうか。固有色(ローカルカラー)と称するが、従来は赤がリンゴに貼りついていると考えた。いつもリンゴは赤いかというと、夕暮れどきには真っ赤なリンゴであっても黒ずんできて、日が落ちると真っ黒になる。光がなければ黒でしかない。

赤いリンゴを黒くなるまで見つめ続けたのはセザンヌだったが、モネが目を向けた現象の果てに存在を見極めたのだといえる。赤いリンゴが黒くなるのは、日が暮れていったからだけではなく、腐っていくからだということがわかったとすれば、それは存在を見つめたということになる。しかしセザンヌの発見はモネの目を経由しての話だった。印象派の発見なしにはポスト印象派の確信はなかった。郵便局のポストと同じで、それはいくら本局から離れたとしても、いつも郵便局に属しているということだ。

うつろいゆく印象派の目にとって、色は対象に貼りついているのではなくて、光が当たって反射して、それが人の目に入って反射の角度によって異なった色に映る。色の円環が七つの異なった色の原理を教える。音の七音に同調して、目も耳もその階調の美に魅了された。もの自体が目にみえるのではない。目にみえる通りに描けというこれまでの命題そのものが崩壊した。

目や耳に七つの階調があるのなら、舌や鼻にも同じことはいえるだろう。味や匂いを七つに分類したい気がしてくるが、もちろん感覚が七にこだわる必然性も見極めなければならないことにはなる。そうでなければ七音階をこえて現代音楽が登場することもなかった。

第46回 2021年10月23

日常性の優位

モネの絵はサイズが小さいという印象が残るが、肩を張った官展(サロン)の絵ではなくて、家庭サイズというのが印象派のスタイルであるし、そのことによって日本人は印象派になじんでもきた。展覧会に飾る大作主義から、個人の室内に飾る何気ない絵画への転換が、市民生活の日常性の優位を語っている。自然に目を向けた時のヴィヴィットな感性が、臨場感豊かに描きこまれる。まるでそこにいてモネの目を通して眺めているような感じがする。印象派の展覧会がナダールの写真館でおこなわれたということは、絵画のサイズがサロン出品のものではないということだけではなく、絵画が写真と手を組んだことを示している。

それらを加速したのは、チューブ入り絵具の開発だった。戸外制作が始まると、これまで気づかなかった絵画の可能性が開けてくる。一隅の光のきらめきであったり、一陣の風であったり、その場でしか感じ取れない瞬間を永遠に定着させるのが、絵画の使命だと思いはじめる。それまで絵画は時間の推移のなかで展開する物語のひとこまを伝えるものであったが、一瞬を永遠に置き換えることのできる秘密の兵器として油絵の可能性が広げられていく。

そこには物語はない。つまり日本人にもよくわかる絵だということだ。絵画は一瞬のきらめきを写すものであればいいという西洋絵画の伝統からすれば革命的な考えも、日本人にとっては当たり前のことに過ぎなかった。だから陰翳礼讃の国にいる日本人にはモネがよくわかる。

第47回 2021年10月24

工場の煙

物語のないあいまいな色彩のうつろいでしかない絵なのに、ぼんやりと見ていては見落としてしまう現代社会へのメッセージが含まれている。声高には語られないので見落としてさえ構わないが、それに気づくとモネの世界観が見えてきて、真意が読み取れてくる。モネの美観を形作っている靄(もや)に霞む神秘的な光景は、光の魔術師のせいではなくて、現代社会への告発を含んでいると見ることもできる。

蒸気機関車が白い煙をはいて進む場面が描かれている。遠景に白い煙を吐き出す工場の煙突が描かれている。大気をおおう靄や霞は、モネが見つけた美意識だし、見るほうもそれを美しいものだと思ってきた。しかしよく見ると霞か雲かと思っていたものが、実は汚染だと気づくとモネをあらたな目で見直すことになる。

蒸気機関車の吐き出す煙や、遠景の工場の煙が、「描かれている」のであって、真っ白な煙であったとしても、決して無害なものではない。絵画の場合、知らないうちに写し込まれていた写真のような偶然はありえない。明確な意図をもってそこに置いたということだ。地球環境の悪化はそこからはじまり、モネの絵はそれに対する告発ではないか。それらはまだまだ遠くにあって、気づけていない場合も多い。モネはそんな現代都市の光景を皮肉ってみせる。

絵画はまるで美であるかのように嘘をつけるのだ。そこには臭いがないから、簡単に美に変貌してしまう。モネは美にだまされるなと警告しているようにみえる。西洋絵画がおもしろいのはモネのそうした警告通り、現代都市はますます醜悪な姿を見せはじめる点だ。モネ以降10年ほどの間に、大きく絵画は様相を変えてしまう。

わかりやすい絵が、ピカソに至ると不可解で、世界は変貌しゆがみはじめる。その変貌ぶりはあまりに急激すぎてついてはいけないはずなのに、感性の怠慢はそんなものかと歴史上の知識を受け入れてしまう。印象派からキュビスムとフォーヴィスムへの展開は、こうした社会的変動を下敷きにしている。

第48回 2021年10月25

印象派と海

モネは目の人だったが、本当に目だけでいいのかという問い直しが次に出てくる。それが後期印象派である。これに加えてマネも含めて印象派グループと考えれば、印象派はかなり広がりのある運動体として見えてくる。後期印象派はポスト印象派のことで、アンチ・モネだった。モネが行きついたのは抽象絵画であり、それは絵画の解体に他ならない。絵画がなくなるという危機感があって、本来の姿に戻さなければならない。それは「存在」を描くということだった。しかしこのことはモネにとってはあり得ないことだ。絵画復権がセザンヌからゴーギャン、ゴッホさらにはルノワールに受け継がれることになる。

モネはパリ生まれだが、彼にとってはル・アーヴルという港町が原風景である。印象派の出発となる「印象・日の出」(1872)もここで描かれた。海にボートが浮かぶが、朝もやに目を凝らすと背景の煙突からは黒い煙が吐き出されている。朝っぱらからという但し書きをつけると、眠ることなく急速に近代化に向かう工業都市の姿が浮かび上がってくる。印象派の画家はブーダンを先駆として、だいたいは北の海に目を向ける。

フランスは北と南に海が開けているが、印象派の画家たちは北の海を見て育ったようで、パリよりも北の、どんよりとした環境に住み着いた眼の構造ではなかっただろうか。北の海は自分の影を見ているようなところがある。印象派をこえるべくゴッホとゴーギャンは南仏の海に向かうことになる。クールベとモネが北のエトルタでなく南仏の海に向かっていたなら、絵画史はちがう展開をしていたかもしれない。エトルタの海には北陸でいえは東尋坊にも似た、沈み込んだ冷たい光が奇岩に宿っている。エトルタは光が反射して写し出した海だが、南仏の海はそれ自体が輝いている。ここでも「日月山水図」での太陽と月の対比、つまり発光か反射かのちがいが思い浮かぶ。

印象派の出発点は、薄暗いなかに少し光が差したときの至福の状態を演出するものだった。陰影をともなった光といってよい。光がさんさんと輝くなかでは印象派の絵は生まれてはこなかっただろう。モネの描く積みわらにあたる光は、微妙な光で、光に対して敏感な感受性の強いもので、弱い光を手探りで見つけ出していくような目をもっていたようだ。モチーフとしては何でもないようなものをよく絵にしようと思ったなと感心する。

光しか見えていなかったのだろうし、その場合モチーフとしては形をもたないほうがよいと思ったのかもしれない。大聖堂のシリーズとして描き続けたルーアンの町もフランス北部ノルマンディにあった。中世から北ヨーロッパに宿ったゴシックのステンドグラスのいざなう柔らかな至福の光が、モネには受け継がれている。

第49回 2021年10月26

近代の憂鬱

印象派を語る場合に、モネだけを見ていればわかるという考えかたがある。印象派にとって重要なのは目の変革だったという意味では、この見方でまちがいはないのだが、重要なのはそれだけではない。それはルネサンスを語るのに遠近法と解剖学だけでは片手落ちなのと似ている。ルネサンス美術史でボッティチェリが正当に評価されるためには、豊穣な神話世界が絵画の主題になることが必要だった。同じように印象派が描こうとした「近代」というテーマのことが気になってくる。

印象派の合言葉のようにいわれる筆触分割や視覚混合、さらには輪郭線の排除などの技法は、モネの作品に結晶するが、それは絵画にとっては大問題であったとしても、社会の大きなうねりを反映するものでなければ、大した価値はもたないだろう。ジェームズ・ルービンは印象派を、これまでさかんにおこなわれてきた技法の問題ではなく、主題の問題としてとらえなおしている。確かに印象派の登場によって絵画は自立した。かつて遠近法と解剖学を武器として絵画が建築と袂を分かってから、すでに五百年が経過していた。絵画は他のすべてのジャンルを従える侵攻のはてに、孤立し自滅へ向かうとすれば、印象派はその出発点であったにちがいない。

印象派は「目にみえるということはどういうことか」という問いを、とことん突き詰めていったが、その出発点はさかのぼると写実主義にある。確かにこれ以前、絵画は目の前にないものばかりを描いていた。それは文学性といい換えてもよいが、それを変革しようとして、クールベは「私は目にみえるものしか描かない」と宣言した。その時から画家はカメラの目になろうと決意したようで、一方では想像力をゼロに近づけるという選択肢もともないながら、これまで築いてきた画家としてのステータスをもあやういものにしてしまった。

純粋をめざすとやがては空中分解せざるをえないという教訓を地で行くように、画家は孤立無援の歩みを進めていく。抽象絵画の誕生は印象派のなかにすでに予感されていたはずで、その崩壊を怖れたセザンヌやゴッホ、ゴーギャンは絵画を守るべく立ち上がったともみえる。

そしてもうひとりルノワールがいる。ルノワールの通俗性はルネサンスでいえば、ラファエロの折衷主義にあたるが、それはレオナルドやセザンヌの冷静とミケランジェロやゴッホの情熱の間で、第三の道を模索したわけだ。それを折衷主義とはいわずに、中庸の精神と読み替えることで、ラファエロはルネサンスのメインストリームに躍り出てくる。ルノワールの評価もこれに似ている。日本人をはじめルノワールには根強いファンがいる。このいわば民意を味方につけることで、印象派は孤立を免れるすべを見つけたのかもしれない。

印象派には深いペシミズムが潜んでいる。それは「近代の憂鬱」という語で置き換えることのできる近代人が共通してもつ心情のことだった。ボードレールとドラクロワのダンディズムからクールベ、マネのスキャンダルを経て印象派に結集するフランス文化の基軸アンニュイの系譜がある。日常生活を語るように歌うシャンソンの調べは、印象派の絵画に似ている。都会生活の表層をさらう観察者としての目は当時発明された写真術の視点とも共通して、ことの本質を取り巻くヴェールを丹念に記述していく。

日本ではボヘミアン黒田清輝がそれをもち帰って以来、画壇をあげて印象派に味方したのである。黒田がフランスに美術を学びに行ったのではないという点が重要である。薩摩藩を代表して法学を学び、エリートとして国家を論じる目的は挫折するが、政治的手腕はとどまって、日本の下部構造を支配下に置くことで国家論の完成に一役を担うことになる。反アカデミズムがアカデミズムを築くという逆転劇には、西洋の論理を超越したアイデンティティの開花が期待できた。今もまだ美術研究の拠点である国立文化財研究所は、上野にあって黒田の名ともと存続している。

50回 2021年10月27

ノクターン(夜想曲)

ロンドンにかかった霧に目を向けたターナーからジェームズ・ホイッスラー(1834-1903)に至る画家たちは、イギリスでの産業革命の成果としてのスモッグまでも自然現象と取りちがえて、絵画のモチーフにするすべを印象派の画家たちに教えたようだった。モネは勇んでロンドンに出向き靄に煙るテムズ川を絵にした。ホイッスラーはアメリカ人だが、パリに学びロンドンに住んだ。ヨーロッパとアメリカを橋渡しする位置にいた。

1870年代に「ノクターン」と名づけ、ショパンのピアノ曲を響かせたが、見ようによれば夜の霧にまぎれた殺人をも暗示する薄気味悪いどんよりとした川面のよどみが目に入る。ロンドンには闇にまぎれた殺人鬼がよく似合う。シャーロック・ホームズが活躍するのもその頃だ。そのファーストネームは肉を切り裂きナイフをかざすヴェニスの商人の名とも共通している。

ことの本質を見失う出発点はそこにあったようだ。印象派の画家たちが描く風景画では、決まったように背景には工場からあがる煙が描きこまれている。背景のスモックと同じように、積みわらの選択も、虚しさの象徴としての伝統を引きずっていることに気づくと、ペシミズムの憂鬱を感じることになる。明るいさわやかな印象が、憂鬱を隠しこんでしまっている。

第51回 2021年10月28

ドービニー(1817-78):ゆるやかな逃亡

背景に何が隠されているかを、印象派とバルビゾン派で比べてみると興味深い。シャルル=フランソワ・ドービニーが繰り返し描いた風景をあげてみる[i]。すべてが均一化して一続きの全体を構成しているという印象だ。つまりは秀作と駄作の区別がないということで、どこを切り取っても金太郎飴だというのに似ている。バルビゾン派には欠かせない画家だが、代表的な画家というわけではない。似たような風景ばかりだという印象だが、それは当時多くのニーズがあったことを意味する褒め言葉でもある。サロンをめざすが、伝統的な歴史画の体質ではなく、匿名の田園風景に自然と目が向いていく。一般大衆もそれを好み、手にしたということだ。

日本流にいえば、江戸末の画家にあたる。北斎と世界観を共有するといってもよい。江戸に住み着きながらも、都会の喧騒を避けて江戸からみえる富士の峰に目を向けたという点では、北斎はバルビゾン派と視点を共有している。富士は間近にはない宗教的遠望として、俗なる近景と対比をなしている。しかもいつも隠れることなく背景にあって、聖なる存在としてそびえ見守り続けている。

 ドービニーはくつろいだ木立の間から遠くに教会の塔がみえる風景画を繰り返し描いている。「池と大きな木のある風景」(1851)では遥か彼方にかすんで二層の塔がシルエットになって小さく浮かび上がっている。一日の時間帯のちがいを描き分けているようにもみえるが、人気の出た図柄の需要に応えた結果なのだろう。しばしば背景に工場の煙が描かれた印象派に対し、ここでは中世の安定した世界が、教会の塔に象徴されて描きこまれている。まだ宗教的世界への信頼が残されていたと取れば、同じバルビゾン派のミレーの世界観とも同調する。そこで田園風景を支えているのは遠くから鳴り響いてくるアンジェラスの鐘の音だった。背景はやがてはそこに回帰する故郷として存在している。

 二、三〇年のちに、背景の教会が工場の煙突に姿を変えるというのは興味深い現象だ。工場の煙突と鉄道は共に煙を吐いて、印象派好みの空気感を伝えるものとなった。もちろんそれは排気ガスであるという意味では、自然現象としてのヴェールでは決してなかったが、絵画表現の上からは、霧とスモッグに隔たりはなかった。背景は遥かかなたの理想郷ではなくて、近代を築きあげた産業革命である。そこには近代化を嫌って逃れてきた逃亡者の姿があった。

急速な変貌が起こっていたことは確かだ。ゴッホがミレーやドービニーを愛した理由も、この急変にあったのだろう。その意味ではゴッホは遅れてきたバルビゾン派ということになる。現代の日本でも丘の上から遠望すると湾岸沿いのコンビナートから発せられる煙突の白煙は躍動的で美しく、絵になる風景であるのが恐ろしい。コンビナートの恐ろしさは、対岸の火事に拍手する江戸の残酷から受け継がれたものだ。他人の不幸に心を躍らせる都会人の冷徹な心情が下敷きとなっている。コンビナートの煙は風に乗って、いつのまにかのどかな丘上にまで達している。それは高台に住む優越の代償のようなもので、黒澤明の「天国と地獄」が写し出した格差社会の反映でもあった。

 ゴッホの逃亡は南仏からさらには日本をめざして破綻をきたすが、ドービニーの無意識は強烈な光や原色を求めることもなく、パリのもつ伝統と保守に浸かりながら、市民の嗜好に同調するゆるやかな大衆性に支えられていた。アトリエ船を所有するオーナーとしての手腕は、絵画が稼ぎあげた成果でもあった。それからのちは画家は水辺を行き来する船員となる。アトリエ船での制作は、波風の立たないゆるやかな逃亡だったようだ。ゴッホのようなカラスの低空飛行もなく、心地よい爽やかな川風が吹いている。


[i] 「シャルル=フランソワ・ドービニー展」2019年1月3日~3月24日 ひろしま美術館

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