第6章 Y字の神秘

第687回 2024年1月15日 

シンボルの時代

前回はフクロウのシンボリズムについてみた。シンボルというのは元来、ポジティヴな面とネガティヴな面の両方を持ち合わせているものだ。一様に解釈するのではなくて、多義的に解釈できる場合が多い。フクロウというような鳥だけではなくて、白鳥(図1)などは、純白で清潔感とみなされるが、一方で白鳥の肉は黒くてかたいともいわれる。白鳥のもつ二面性が見え出してくる。対極の両面をあわせもちながらシンボル化されていく。見る側もどちらかなと考えてみる楽しみ方はある。ボスの場合もそうだが、そのあとのブリューゲルの時代になると、意識的に自分の意図を隠していくということをやりはじめる。時代によって左右されるものでもある。大きな声で何でも言える時代と、大声でいえば身の危険が及ぶ時代とがある。政治的な圧力、締め付けが厳しい時代には、パロディという、直接モノをいうのではなくて、間接的にほのめかせるというスタイルが生まれる。そういう時代は繰り返しやってくる。ボスの時代も宗教改革の前夜であり、社会的な動揺を背景に、教会勢力が腐敗しはじめ、それを直接法では批判できない状況がある。動物を使ってみたりして、そのシンボリズムを通して暗示させてみる。ブリューゲルの時代はネーデルラントがスペインから独立しようとする頃で、この動向は強く認められる。「絞首台の上のカササギ」というような謎めいた作品が生まれる。思いを直接描けない。意図がなかなか読み取れないということが起こってくる。こうも言えるが、ああも言えるという世界が生み出されていく。見る側は本意を探る楽しみがあるともいえる。作品の奥行きという点では、計り知れない謎を秘めるということになる。

日本の場合では、江戸時代がはじまり、締め付けが厳しい頃に、似たようなことが起こってくる。浮世絵がはじまる頃の事情でいえば、見立てという形式が流行る。直接描くのではなくて、よく知られた古典的な話に置き換える。昔話のような形になぞらえて、現実世界の批判をしていく。フクロウはそういう時代の産物だっただろう。

図1 ボス「放蕩息子」部分

第688回 2024年1月16 

Yという文字

の延長上でYという文字について考えてみよう。ただのアルファベットの文字であるが、文字そのものが意味をもっている。象形文字では当然であるが、アルファベットではただの記号にしか見えない。それでも見ようによれば意味が見つけ出されるものだ。擬人化されたみかたが出てくる。アルファベットも意味をもっていて、中世以来シンボル体系として築いてきたものだ。それは一般的な図像の伝統だけではなくて、かなりオカルト的なものでもあり、錬金術や占星術に支えられた思想的バックボーンが見つかる。そのなかでYという字がもっている意味を、ボスは作品中で展開させていったようにみえる。

Yはただの記号にしか過ぎないが、一本の道があって二つに分かれるという形だ。岐路あるいは十字路という意味が出てくる。十字路の場合、Xのように交差するものもあれば、Yのかたちの場合もある。キリスト教の伝統のなかに聖書のことばから受け継がれてきた系譜がある。アルファとオメガは始まりと終わりだが、聖書はギリシャ語で書かれていた。Vに対してVがふたつになるとWとなる。それぞれをシンボリックなものとして見る流れがあった。ボスの場合はYとAが隠し込まれる。Aは上に向ってひとつに収束する。Yとは逆の意味をもつ。アルファベットにはいろんな書体がある。ゴチック体やイタリック体というものだ。ゴチック体でYを書くとそれぞれが同じ太さになっている。書体によればシャフトの太さが異なる(図1)。枝の太さがちがうと、道だとみなすと左右の分かれ道で幅が異なっている。キリスト教ではこれを狭き門になぞらえられて解釈される。狭き門より入れという教えがある。滅びに至る道が広い。天国に至る道は狭いのだという。道が広いというのは地獄に向っているのだということだ。文字をわかるように埋め込んだ作品もあるが、ボスの場合多くはない。木の枝が分かれていって、左右で太さの異なった枝を描いている。意識的に描きこんでいるような気がする。

図1 ラテン文字 Y

第689回 2024年1月17 

逆さになった植物

明らかにY字を意識しているものでは、「快楽の園」の中央パネルにでてくる、頭から水に突っ込んでいる男の足が、まっすぐに伸びてY字になっている(図1)。Y字は逆さになった人間のかたちでもある。逆立ちをした人間がY字をなぞっている。古代からよく言われていることがある。人間は逆さになった植物だというのだ。人間と植物のちがいを考えてみると、植物は地面から栄養を取って、葉から発散する。人間は逆で口から栄養を取って、下から排泄する。Y字を考えたときに植物に典型的な形だとわかる。これをひっくり返すと漢字でも同じで「人」という字になる。二本足で立つという意味もそこから出てくる。A字は限りなくそれに近い。文字そのものが持っているメッセージがある。

キリストが十字架にかかるが、それはT字の形をしている。T字はキリストが十字架にかかるという意味をもつことになる。キリストが肉体の重みで、重心が垂れ下がってくることによって、TがYに近づいてくる。Y字型の十字架が描かれることがあって、それは人間らしさの証明でもある。

図1 ボス「快楽の園」部分

第690回 2024年1月18 

聖セバスティアヌスとY字

探すとY字のシンボリズムは、あちこちに見つかる。何にでもYが見えてきてこまることにもなる。聖セバスティアヌスを描いた絵でおもしろい観察が成り立つ。マンテーニャが描いたイタリアルネサンスでの例だが、柱に縛り付けられた聖人がいる。その柱のかたちがY字になっている(図1)。もともとは円柱なので上部はアーチをなしている。見ようによれば円柱から二股に枝分かれしているようにみえる。右側のアーチは残っているが、左側はつぶれていて跡形がなくなっている。ここでも道は片方が地獄に向かう道だということを暗示する。聖人が殉教をして、信仰を守る姿が、この左右の道に託されている。単に古代の遺跡が崩壊しているというだけではなくて、左右で異なった表現を意図をもっておこなったようにみえる。

ブリューゲルのイカロスの墜落という作品がある。神話上の主人公が墜落して海に沈んでしまう場面である。頭から突っ込んで足だけが水面に出ている。ボスから50年あとの作品だが、ここでもY字のシンボリズムと読み取ることができるかもしれない。イカロスは父のいいつけを守らずに、太陽に近づいたために、蝋でつくられた背中の羽根が溶けてしまい、地上に落ちて死んでしまう。ここでも上に行くか下に行くかの選択を誤った者の姿が見える。

図1 マンテーニャ「聖セバスティアヌス」

第691回 2024年1月19 

聖クリストフォロスとY字

文字が絵のなかでそのままの形で登場するのはあまりない。ふつうの絵では登場しないが、錬金術の挿絵などでは出てくる。ボスには明らかにYを意識して描きこんでいるものがある。聖クリストフォロスを描いた一枚がある(図1)。この聖人の杖が突端で二股に分かれてYの字になっている。この聖人はキリストを運ぶという意味をもっている。キリストを対岸まで渡してやった聖人だ。ここでも解釈はいろいろとできるだろう。Y字は人間の象徴である。二股に分かれて選択を迫られるが、うじうじと考え続けて決まらない。人間そのものの姿である。この聖人はこの杖に頼りながらキリストを渡してやろうとしている。話はこうだ。幼児キリストだから軽々と運べるはずなのだが、運ぶにつれてその重みがどんどんと増してくる。それはキリストが人類の総ての重みを担っているからということだ。これに耐えながら聖人はキリストを運びきる。運びきるのは人間の意志の力によるものだと考えれば、このY字の杖が意味を持ち出してくる。

図1 ボス「聖クリストフォルス」部分

第692回 2024年1月20 

アダムの選択

次に出てくるのはエデンの園である。「最後の審判」を描いた祭壇画の翼面だが、アダムとイヴがリンゴを手にしている。知恵の木にヘビが巻き付いている(図1)。上半身は人間でもうひとつのリンゴを差し出している。アダムのほうに手を伸ばそうかというそぶりが見える。イヴのほうは片方の手でリンゴをしっかりと握っている。エデンの園での原罪の話は、ヘビにそそのかされて、リンゴがうまいので食ってみろという誘惑を受ける。これは知恵の実でこれを食うととたんに知恵がついてしまう。まずはイヴが一口食って目覚める。次にアダムが躊躇しながらも食ってしまう。ともに知恵がついて神を超えてしまうことを恐れて、楽園から追放されるということになる。

ここではアダムが誘われて、リンゴを手にしようか迷っている。ヘビが巻き付いている知恵の木がY字をしている。アダムの選択はボスだけではなくて、デューラーでも同様なシチュエーションが出てくる。ボスの「放蕩息子」でもどちらに行こうかという選択の場面で、二股に分かれたY字の樹木が出てきた。

図1 ボス「最後の審判」部分

第693回 2024年1月21

アンドロギュノス

 一つの身体から二つの顔が出てくるのは、レオナルドダヴィンチの絵のなかにも例がある。両性具有(アンドロギュノス)であるが、 レオナルドの場合は男なのか女なのかは一定しない、中性的な顔立ちをもった人物として処理されている。レオナルド独特の神秘思想が背景にある。ベターハーフという考えがある。もともとは人間はひとつだった。古代ギリシャからある 考えである。神が二つに割ってしまって、あちこちにばらまいた。それ以来、男女は片割れを求めて世界中を旅することになる。自分にぴったり合った相手を見つけるために、一生を送る。ふたりが出会うと理想的な合体が起こってくる。たいていの場合はちがう相手になってしまうのだろう。まれに自分の求めていたものに出会う。こういう考えのもとに、こんな図像が成立してきて、錬金術で黄金を生成するための根拠になっていく(図1)。このときにYという字をもちだしてくる。鏡を支える形としてもそれは出てくる。丸い鏡は世界を意味しそれを支えるということだ。その後ダリの絵のなかでは杖にYの文字をあてている。

図1 錬金術挿絵(1622年)

第694回 2024年1月22

書体

 書体によれば、腕の長さと軸の長さがほぼ同じものがある。Y字なら下のほうが長いのがふつうだが、ときおり同じ長さのものが出てきて、さらに同じ長さだけではなく、同じ太さになっているものもある(図1)。そこでは二つの選択ではなく、枝が三つあると考えると、二股道に来た人間が向かう方向としては、左右の二つの方向だけではなくて、来た道を引き返すという選択肢もあるのだということを教える。つまり三つの選択という考え方が出てくる。そう考えると三つが同じだけの力関係をもって存在する。そこではどちらを選ぶかという話ではなくて、三つがそれぞれ均等のものとしてある。これは人間の生き方として考えるうえで重要だ。先にマルタとマリアの家のキリストや放蕩息子とその兄との関係をあげたが、あの二つの生き方はどちらが良い悪いではなくて、一方は瞑想的生き方、他方は活動的生き方となる。そこに第三の生き方が提案されていく。活字の書体はそんなことも教えてくれるのである。 

図1 Y字

第695回 2024年1月24

人文字

人文字も同様に考えることができる。レオナルドのヴィトルヴィウスの人体比例図がある(図1)。レオナルドが描いたものをその後デューラーが突き詰めて考えていった。人体比例論として展開させていく。手を真横にのばしたものと、斜めに伸ばしたものが同一円環上に重ねられている。人間は手を伸ばすと円の中にぴったりと入って、中心はヘソだというのだ。「ダヴィンチコード」というミステリーでは、こんな形をして、ルーヴル美術館の館長が死んでいるというところから小説はスタートする。文字とみなすとTという字に近い。デューラーの別の作図によると、人間の手足をずらしてKという字が見えてくる。 

図1 レオナルド「人体比例図」

第696回 2024年1月25

デューラーの選択

デューラーの作品を見ているなかで見つけた文字がある。アダムとイヴを扱った版画と素描がある。これをじっくり見ていると不自然な手に出くわす。図柄としてはイヴが手を伸ばしてリンゴをアダムに渡そうとしている。アダムは手を伸ばしきっていて、その方向にはリンゴはない。アダムが曲げる手の関節のあたりに、リンゴが位置している。イヴは片方の手にリンゴを隠しもっている。二つ目のリンゴはヘビが間に入って、イヴが手にとりヘビが口にくわえている。アダムはそれに対し、顔は向けているが手は不自然だ。なぜこんな不自然な手になるのかと思ってみていたときに、ぼんやりとYという文字が見えてきた(図1)。アダム自身がヘビの誘惑に対して、拒否しようか受け入れようかという選択の位置にいて、そこにリンゴが置かれている。左右が逆転したy字であるが、これは版画でしばしば起こってくることだ。版画では下絵が左右逆転する。デューラーにはこれに類似して、素描が残っている。構図的には少し異なるが、アダムとイヴの左右は逆転している。手は両者が同じようになっていて、イヴの手とアダムの手がY字をかたちづくっている。デューラーもY字のシンボリズムにそって造形したのではないかと、私は考えた。これを論証するためには、デューラーの絵の中に文字が隠し込まれているという例証を重ねる必要があるが、ここでは提案として書いておきたい。

図1 デューラー「アダムとイヴ」銅版画

第697回 2024年1月27

ヘラクレスの選択

 二股道で選択に迫られるというのは、人間の迷いがテーマで、「ヘラクレスの十字路」として知られてきたものだ。ことにイタリアでよく出てくる(図1)。Y字が出てくる背景にはこのテーマがあったようだ。ギリシャ神話からあったものが、キリスト教の「最後の審判」での天国と地獄のふるい分けに受け継がれていく。中間がなくて右か左のどちらかしかないというのがキリスト教の特徴をなす。

ヘラクレスの十字路の選択が、アダムやイカロスの選択とも連動して、Yという字に置き換えられる。加えていえばYの逆の文字としてAを考えると、12世紀に出てくるフィオーレのヨアキムがこれについて語っている。終末思想を語る場合によく引き合いに出される人物である。黙示録の注解でアルファは二者から一者が出てくる、それに対してオメガは一者から二者が出てくるのだという。それぞれの意味が文字そのものにあらかじめ内包されているのだという。

図1 ニコロ・ロッギ「十字路のヘラクレス」

第698回 2024年1月28

横尾忠則のY字路

 Yが気になり、現代に引き継がれる造形を考えたとき出会ったのが、横尾忠則のY字路だった(図1)。Y字路はそこで立ち止まり苦悩するパワースポットであり、このシリーズはそれを敏感にとらえて反応した、霊能者の直感を感じさせるものだった。通常それは決断の分かれ目であるはずなのだが、横尾作品は少し異なっていて、そこには左右に分かれるが、行き着くところは同じだという虚無感が横たわっているようにみえる。それはキリスト教の世界観に裏付けられた西洋の論理ではない。「滝」に執着を見せる感性にも等しい。そこにもまた身を投げようとした苦悩のパワーが、怨念のように鬱積したスポットだった。

 Yと名づければYになるが、二股に分かれる道のかどに立つ家のことだ。三角形の敷地に建つ家はしばしばある。交通安全からすると、居眠り運転でトラックがぶつかっていきそうな立地だ。夜のY字路を描いたものも多く、薄気味悪い雰囲気が漂っている。Y字路がもっている独特の雰囲気がある。画家の目のつけどころのよさに感銘を受ける。こんな場所はかなりあるが、意識しないで見過ごしている。立ち止まって目を凝らすと、おびえているようにも見える。これをシリーズ化する以前に、滝のシリーズがあった。滝も存在としておもしろいものだ。水が流れているから滝だが、水がなければただの崖だという。滝は形ではなくて、そこで描いているのは時間だということになる。全国の滝を写真や絵葉書で収集し、その膨大なコレクションを並べている。そのエネルギーは滝という存在に由来するものだ。那智の滝にしても、古来より手を合わせて祈る対象になってきた。信仰めいたものを感じる。歩いていて音が聞こえてきて、水が絶えないで流れ続けているのを目にするだけで、奇跡的にみえる。信仰の対象にもなるし、絵にもなるものだろう。

図1 横尾忠則「暗夜光路N市-V」2000年

第699回 2024年1月29

映画でのY字

映画の中でもいくつかの発見があった。ひとつは中国の映画監督チャン・イーモウの「赤いコーリャン」(1988)で、道が二股に分かれていくところがある。はっきりと画面に出てくる。もうひとつはオーストラリアの女性監督による「ピアノレッスン」(1993)、ともに話題となった作品である。ともに満たされない若妻が夫を取るか、不倫相手を取るかの選択で、このシチュエーションが登場する。

「赤いコーリャン」(図1)では、若い娘があまり裕福ではなく、金持ちの年寄りのところに嫁いでいく。売られた花嫁というわけだ。年寄りは体の自由が利かないで、娘は性的欲求が発散できない。嫁いでいくときに乗った駕籠かきの肉体美に魅せられている。嫁いでのち実家に帰ると、あの人のおかげで生活が豊かになったので、辛抱してくれと言われる。泣く泣く夫のもとに帰る途中に、二股道にさしかかる。主人のある家の方向とはちがう方向に向かう。コーリャン畑のなかだったが、そこで駕籠かきの男と結ばれる。この二つの選択肢は善と悪でもない。肉体的快楽を取るのか、家としての経済的安定を取るのかという選択肢の中で出てきたものだ。二股道を効果的に用いていることがわかる。

「ピアノレッスン」(図2)も同じような内容のすさまじい映画である。舞台はオーストラリア、口のきけないピアニストの女性の話である。夫は作曲家だったが亡くなり、二人の間にできた娘がいて、5歳くらいか。子連れで二度目の結婚をして、ピアノを船に乗せて、ニュージーランドに向かう。商売には長けているが、音楽などには見向きもしない相手だった。理解されず、ほとんど相手にされないでいるなかで、ここでも肉体美を誇る男性と出会う。娘は不自由な母の世話をするが、不倫のことも知っている。男に会えないように夫に監禁されるなか、ピアノの鍵盤をひとつ外して、私はあなたのものだと書いて、娘に託す。娘は言いつけ通り、母の愛人のほうに行こうとするが、二股道を行きかけて、考え直し、引き戻して、逆方向に向かう。それは主人のいる方向で、子どもは母親の立っての願いを一度は受け入れるが、よくないことだと判断し、義理の父に知らせることになる。ここでもY字の二股道がくっきりと見える。夫はその鍵盤を見て怒り狂い、そこから目を覆うような悲劇的なことが起こっていく。確かにY字路は天国と地獄の、はっきりとした分かれ目だった。

図1「赤いコーリャン」より

図2「ピアノレッスン」より