第1節 岩佐又兵衛とヒエロニムス・ボス

第513回 2023年2月24

1 北方への志向

 私が思いついたのは、岩佐又兵衛を中世末のオランダの画家ヒエロニムス・ボスと比較するという試みである。私が美学美術史という学問をはじめたころ出会って、いまだに興味をもち続けている画家である。それは北方という土壌が生んだ奇想の系譜に、共通点があるのではないかという単純な発想からであった。もっとも「北方」という言葉は、常に何に対して北方かという、基準点の設定が至上命令のようにつきまとっているものである。ボスにあっては広くはイタリアに対する北方を、狭くはフランドル文化に対する北方ブラバントを、そして又兵衛にあっては京文化に対する北陸越前を想定しているのだが、にもかかわらず、私達は漠然とした言い方で「北方的」という語感のもつイメージを理解できるような気もする。それはいつも何かの中心からはずれたという感覚、つまり異端者としての汚名が、この言葉に反響しているように思えるからである。周辺に逃避してゆこうというアウトサイダーの目が、北に向かったという地軸上の偶然は、単に又兵衛とボスにとどまるものではない。

 ある種の人間には磁力にも似て、北にひかれる要素が体内のどこかにあるのかもしれない。それはある時代の東方趣味や、西方浄土への憧れ、あるいは太陽を求めての南下など、様々な思いが方位に結びついてある造形をなすのと同様である。磁力にひかれ逃亡経路を北に取るものが、海岸線にゆきついて変質を余儀なくされる。そんな変質を思う時、ヨーロッパでいえばパリを起点にした北帰行は、海岸線にそってフランドルからオランダ、ユトランド半島に向かう。この地理上の類似が日本においては、京都を出発し若狭から越前、加賀、能登半島が描く海岸線に見出せる。確かに両者の海岸線は似ており、こうした地形の類似が毎年きまった時期に季節風を感じる肌の感触に端を発して、それに伴う造形感覚をコモンセンスとして培ってゆくということもあるのかもしれない。そしてこの類似する内陸部の北方的風土から又兵衛とボスの造形は誕生した。

 ボスは、オランダの一都市ス・ヘルトヘンボスに生まれ、生涯のほとんどをどこにも行かず、その地に留まって一生を終えた。この内陸の小都市は、又兵衛のすごした福井にも似て、深く中世に根ざした町であって、近世へと移りゆく時代の中に、とり残されていったといってもよい。当時の絵画の中心はフランドル地域であって、ブルージュ、アントワープといった中心地から見れば、そこは確かにアウトサイド、つまり北方ということになろう。ボスはフランドルに続いたファン・アイク以来の絵画伝統の延長線上にいるが、画派としての師弟関係は見出せず、ス・ヘルトヘンボスの町絵師として生涯を送ったようだ。しかし、そこで生み出される奇想の絵画は、やがてウィーンのマルガレーテやフィリップ美侯(ル・ボー)をはじめ、各地の宮廷の目にとまり、様々な注文を受けることになる。それらはス・ヘルトヘンボスの彼の工房で制作され、各地に送り出されていったものと思われる。

 こうした事情は、又兵衛の場合にも言えることである。確かに又兵衛はボスのように一生を同じ土地で留まった人物ではない。むしろ故郷を喪失しているといった方が適切で、京都の美術文化の中に育ったのちに、中世都市福井にやってきて、そこで一家をなしたのである。しかし、それも二十数年ののちに逃げるようにして、妻子を残したまま江戸に去り、そこで没した。江戸への旅立ちは将軍家の注文に与かるという栄光ではあったが、当時六十歳になっていた老人に、徳川家は何を求めようとしていたのか。この時老又兵衛は、もうすでに自己の芸術の大半を終えていたと言ってよい。にもかかわらず江戸へ召喚されるということは、彼が福井の地にあって工房を組織し、そこで生み出される作品が、江戸でも評判を得ていたと考えるのが自然で、早い時期から「浮世又兵衛」というあだ名で知られていたこともわかっている。確かに大奥に荒木局と名乗るかつての一族の一人がいて、彼を引いたこともあっただろうが、引かれて江戸にゆくには、又兵衛は余りにも齢を食いすぎていたことだけは事実である。恐らく又兵衛は福井の工房を息子の勝重にまかせて、単身で江戸に乗り込んだのだろうが、その時すでに福井時代の泥沼のような情念は、消え去ろうとしていた。くわえていえばヒエロニムス・ボスもまた地方都市にいたが、当時の美術の中心であるイタリアにも早くから作品が所蔵され、一説によれば後年に居住地での空白期間があることから、イタリアに向かったことも推定されている。

 こうした地方の町絵師が、中央で名をなすにいたる経過は、両者に共通したものだ。ボスというのも実はあだ名であり、本名は祖先が今のドイツのアーヘンから来たということから、ヒエロニムス・ファン・アーケンといった。彼は生前中からボスと自ら名乗ったようであり、それは彼の制作の拠点ス・ヘルトヘンボスより取られたものである。つまりこの名は地方都市の美術工房が、中央に対し挑戦をいどむ意志表示を含んでいるのであって、この拠点から送り出されてゆく諸作品の商標であったと考えてもよい。

 いつの時代も、異形の造形に心をよせるパトロンはいるものである。ボスのもつ、従来の宗教画の範疇を越えた卑俗さに、のちのカトリック勢力の中心人物フェリぺ二世は、身を震わせてその作品を収集しつづけている。それは宗教改革を経たのちのカトリック的正統が、十分に異形の造形を受け入れる土壌をもっていたことを示し、勢力交代のあせりの中で、滅びゆく時代に属するものがみせる一つの表情といってもよい。それは徳川家正統の松平忠直が、又兵衛にひかれた部分でもある。徳川家康の孫であり、しかも二代将軍秀忠の兄秀康の長男という、およそ誰れの目にも徳川家の直系と目された忠直が、越前という北方、アウトサイドに身をとどめ置かれたという不満が様々な奇行の末に、はては妊婦の腹を裂くというような乱行を生み、又兵衛の血みどろの情景とも共鳴しあったのである。

第514回 2023年2月25

2 風俗画

 ところでボスは、町絵師として多くの注文画をこなすのであるが、そこにはたとえ宗教画を扱っている場合にも、極めて世俗的な姿を取る点が特徴的である。風俗画という観点からみても、ボスに17世紀に黄金期を迎えることになるこのジャンルの端緒を見出せるが、それは又兵衛が浮世絵の創始者として見られたという事情と相通じている。このことは、中世末から近世にかけての時代に身を置く画家に共通する特徴であり、西洋において宗教画から各ジャンルの絵画が独立してゆく姿は、日本における「近世初期風俗画」の発生と展開に対応していて、東西で多少の時間のずれがあるとはいえ、ともに御用絵師よりもむしろ町絵師の台頭とその実力に負うところが大きい。

 もっとも、彼らの描く作品は純粋な意味での風俗画かといえばそうではなく、あくまでも伝統的な画題の中に、庶民の生活感情を加味したということになろう。又兵衛にあって源氏や伊勢物語の古典を題材にしながらも、その表情に卑俗性を強調してゆくやり方は、のちの浮世絵が盛んに行なう「見立て」ということになろうが、ボスにおいても、風俗が常にキリスト教のモラルを通して測られ、「七つの大罪」という主題のもとに、日常生活の悪が統括されてゆく姿は、風俗画独立の過渡的一現象といえるだろう。

 風俗画というジャンルが、日常生活の善よりも、むしろ悪と結びついて、その造形性を高め、主題としても深化していった事情は、西洋においても、日本においても同様であった。近世初期風俗画がはじめのエネルギッシュな群像性を狭めてゆき、やがて背景を持たない単独の美人画にゆきつく流れは、楽園への夢が、現実世界から遊里と芝居の中に押し込められてゆく社会状況に対応している。そして美術のテーマをいわゆる「悪所」に限定してゆく過程は、浮世絵という庶民の芸術を誕生させ発展させてゆくわけだが、西洋においても同様に、風俗画ははじめ宗教画の添景として描かれ、やがてカーニバル、祝祭劇の群像としてとらえられ、のちにその場を酒場・売春宿に限定し、その中で浮かれ騒ぐ男女の室内画に移ってゆくという流れを取る。

 ボスと又兵衛は、そうした共通する以後の美術の流れの出発点に位置していることは確かであるが、ともに17世紀以後の新しい美術の精神を切り開いたというよりも、むしろそれ以前の古いものの考え方を守り通した人物であったのではないかという気がする。「上瑠璃物語絵巻」にみられる贅の限りを尽くして、ミニアチユールの中に全宇宙を盛り込もうとするような細密画家としての又兵衛の目は、ホイジンガ流にいえば、中世の最後の日々を生き、そこに花開いた爛熟の果実ということになろう。

 時代の潮流は明らかに、中世の世界観を打ち崩す方向に向かっていた。1492年の新大陸の発見による、ヨーロッパ的世界観の推移は、日本にあっては五十年遅れて、その延長上にくる鉄砲伝来やキリスト教の布教という変形を強いられたが、ともに「異界」の存在感を現実において把握するすべを持ったという点で、自己の存在基盤を形成していた中世的価値観が侵食を受けたことは確かである。そしてその中で、どちらの世界に与してゆくかは、それぞれの画家の過渡期における重大な選択であったにちがいない。

 又兵衛が武士の生き残りであるということは、彼が町絵師として活躍すればするほどに、矛盾点として自己の前に立ちはだかってくる。同じ時代、同じ環境に育てられながらも、又兵衛と宗達がその志向性において、全く異なったものを目ざしていたことは、両者の存在基盤のちがいに根ざしている。両者のちがいを辻惟雄氏は「太陽と月」、鈴木廣之氏は「ポジとネガ」という言葉で語っているが、一方は京都の町衆文化にどつぷりとつかって安定感あふれる王朝美のルネサンスであり、他方は京の町衆文化に育てられながらも、常に疎外感を持った異端者としての歪みである。それは又兵衛の生まれが、大名の子としてでありながら、一族の滅亡ののちに、武士の身分を奪われたという体験から発しており、常に自己の生い立ちを隠して、周囲に聞き耳を立てながら、身をひそめて生きてゆくということになる。彼の生涯の軌跡が、故郷を喪失した漂泊者のそれであったことは、このことを暗示している。

 しかし一方で、又兵衛には一族の恨みをはらすべく「復讐」が運命づけられてもいて、自己を乱世の闘士に見立てることにもなる。さらにそうした自己に課せられた定めから逃れようとして、遊里に埋没するもう一人の自分に出会うこともある。こういった様々な心情の揺れ動きが、又兵衛の生涯の軌跡ではなかったかと、私には思われる。若い日々、彼が己れの一族を滅ぼした張本人である信長の子織田信雄に仕えたということは、彼が武士として仇に一番近い位置にいて、一族の無念を忘れ去ることを自戒し、荒木家の再興をめざしたことを意味し、四十歳近くになって京を去り福井に向かったということは、武士を捨て絵師となって、現実に果たせなかった復讐を、絵筆によって試みようとしたことを思わせる。

 又兵衛の時代の京都は、近世に向かって急速な勢いで変貌を遂げており、戦乱ののちの天下人による復興は、あたかもルネサンスの原義に則っているように見える。そして「桃山絵画の特色である生命力の表出と、華やかな装飾的効果の二要素は、宗達画において完全な調和に達した」(山根有三)ということになり、又兵衛は宗達の影に寄り添うように、同時代の闇の部分を形成する。

第515回 2023年2月26

3 又兵衛と宗達

 又兵衛と宗達を、中世から近世へと移る過渡期における志向性のちがいに区分する見方は、ボスにあっても、半世紀のちのブリューゲルと比較することによって、その退行的性格が際だってくる。たとえば同じ「船」というモチーフを扱うにしても、ボスの舟が中世の古い世界に低迷している「阿呆舟」であったのに対し、ブリューゲルのそれは、海洋国オランダの誕生を予告する生命感あふれる航海船であった。さらにブリューゲルの画業の出発点が、油絵ではなくて版画であったということは、彼がより新しい伝達のメディアを受け入れる環境にあったということであり、銅版画と印刷業全盛期のアントワープ文化の落とし子という感が強い。ボスには版画のために描かれた下絵というものはなく、現在ボスの版画と呼ばれるものは少なくないが、それらはブリューゲルの時代になって、ボスの残されたデッサンをもとに彫版されたものである。それは又兵衛が浮世絵の祖とされながらも、浮世絵版画とは無縁であるのと同じく、ブリューゲルの時代に流行するボス・リバイバルを証言するものにすぎない。ボス没後数十年のリバイバルは、近世を悪魔の存在価値が薄れた社会だとするなら、失われゆく中世の追悼という感もしないではない。

 フリートレンダーは、ボスとブリューゲルのちがいについて、次のように述べている。「ボスは日常生活の素朴な観察者ではなかった。彼の目がとらえるものは、どんなものでも、嘲りと戒めの精神がしみ込んでいた。ここにボスとその偉大なる後継者ブリューゲルとの本質的なちがいがある。……中略……(ブリューゲルの描く)人物は全く自分のしていることに夢中になっている。他方ボスの人物像は、喜劇役者のようであり、画家がその糸をあやつる人形に似て、重大な事実を黙秘し、はすに構えた意味ありげな目つきをしながら、彼らの役を演じきっている。……中略……ボスは知性から出発し、ブリューゲルはものから出発する。ブリューゲルにとっては、純粋に目に見える存在が描写するに値したが、ボスにとっては、それは愚かさ、恐れ、戦慄としてのみ注目すべきものだった」。(M.J.Friedlaener)

 この指摘は又兵衛を考える上でも興味深いものである。又兵衛の人物像に見られる嘲笑的性格は、「人麿・貫之像」に顕著に現われ、そのユーモアととぼけぶりにおいて、従来の三十六歌仙という伝統的題材の中で、前例を見出すことはむつかしい。また古浄瑠璃絵巻群と呼ばれる又兵衛工房において生み出された「山中常盤物語絵巻」「上瑠璃物語絵巻」などは、実際に人形劇として演じられた主題でもあるし、そこに描かれた登場人物は、その動作やふるまいが殊に芝居がかって見える。しかも、舞台装置をそのままにして、事件を展開してゆく絵巻の構成は、まことに演劇的だと言ってよい。

 この演劇的性格は、又兵衛においても、いまだ舞台演劇の未分化の状態であって、中世演劇を脱皮するものではなく、深く祝祭・祭礼と結びついている。二十代の又兵衛は京都にあって、北野社や四条河原で演じられた出雲のお国のかぶき踊りや人形浄瑠璃を見て、深く印象づけられ、それが彼の造形に影を落とすことになったと思われる。ボスにあっても「乾草車」などに見られる、乾草を手に入れようとする群衆の争奪戦は、カーニバルの屋台で演じられる民衆劇を想定でき、「快楽の園」(プラド美術館)に描かれたエネルギッシュな群像表現とともに、又兵衛に帰される「豊国祭礼図屏風」(徳川黎明会蔵)と共鳴しあっている。「豊国祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風(舟木本)」を、京都時代の又兵衛が手を染めたものであるという確証は十分にはないが、そこに見られる単なる記録を脱した群衆の乱舞は、それを描いた画家自身が身をもって、その乱舞に加わった一員であったことを教えてくれる。さらに何百という人物群像の俯瞰的構図が、画家の想い描いたユートピアであるとするなら、京都の辻々に見い出された地上の楽園は、ボスの描いた「快楽の園」とまことに近いものであったと言えよう。この両者の鳥瞰図は、新しい時代の訪れを予感するものであり、しかも中世的宇宙観の総決算でもあった。

 慶長9年の豊国大明神臨時祭礼の頃、人心を不安に陥れた天変地異は、ユートピアを夢想する人心と表裏一体となっており、太陽のまわりからおびただしい雲が四方へ飛び散るというような現象を通じての終末的予感が、この祭礼を通じて、かえって狂躁の末に楽園を見い出したということもできる。つまりそれは、いわば日本版ダンス・マカーブルと呼ばれるものかもしれない。「快楽の園」も一説によれば、占星術的観点から、1504年の蟹座における太陽と月の「黄金の合」(コニンクティオ・アウレア)の表現ともみられ、当時の自然の怪奇現象をまことしやかに説明する終末思想を背景として生み出されたことが推定されたことがある。

第516回 2023年2月27

4 快楽の園

 ヨーロッパにおいて1500年という時代の区切りが、その通過点を待つ重苦しい空気と、それが過ぎてのちのベル・エポックとで際だった対比を示すとすれば、ボスの「快楽の園」は、表現された世界の明るさから見て、彼が世紀末において描いたと思われる「最後の審判」や「聖アントニウスの誘惑」といった悲観的な世界観が、一時的とはいえ一掃されたことを示している。そこでは平穏のうちにこの終末の日が過ぎ去ったことを喜ぶつかの間の安堵観が、画面上を踊りまわる人々のうつろな表情の奥に認められる。

 北方的造形が南方の風土にあこがれるかのように、ボスの「快楽の園」は亜熱帯の楽園を現出する。この作品は制作後しばらくしてスペイン宮廷に移り、今に至るまで遠く故郷を離れているが、オランダの土地以上にこのスぺインの風土が「快楽の園」にとっては、ふさわしいもののように見える。そしてこの作品の獲得に変質的な執念をもやしたフェリぺ二世の狂気に対して、それはまるで救世主のように作用したのではなかったかとも思える。さらにこのユートピアの情景はまた、又兵衛のパトロン松平忠直の狂気が、越前の重苦しい北方的風土から解放され、豊後大分のスペイン的風土の中で、やっと見ることのできた平穏への夢想と同一のものであっただろう。

 又兵衛にあって、現実世界にユートピアを求める実際的な行動が、「豊国祭礼図」や「洛中洛外図屏風」と同じ構造を持っていたことは、そこに登場する人物像が物語ってくれる。「豊国祭礼図」中、刀を抜いてわたりあう青年の一人は、朱鞘に生き過ぎたりや二十三、八幡引けは取るまい」と記している。それは乱世が徐々に平定されてゆく時代にあって、23歳まで生き過ぎてしまった青年のデカダンスの表明であって、そこに武士を剥奪されて野に下った又兵衛の心情を見ることができる。「洛中洛外図」にも京都の町並を長い刀をさげて闊歩するかぶき者の一団が認められ、それは若き日の又兵衛の肖像のようにさえ見える。

 青年期の現実批判とユートピアの建設に向けられた又兵衛の目は、京都での何らかの挫折のあと、四十歳以降福井の地にあって、非現実の説話的世界の中でグロテスクともいえる血に彩どられた情念の信仰に分け入ってゆく。それは「山中常盤絵巻」や「堀江物語絵巻」などの鮮烈な血の信仰として結実するとともに、伝統的な画題にあっても金谷屏風の諸作品にみるように、それぞれの人物像は、虎や龍や牛を含めて異様な存在感をただよわせてくる。狂気と紙一重のところで、これらは制作されており、福井での又兵衛の支援者松平忠直の乱行の様と、余りにもつながりすぎて見える。「山中常盤絵巻」において、常盤が山を越え川を渡る、長すぎるはどの「道行」は、又兵衛の福井への旅立ちの実際を思わせ、その道行の果てに見られる残虐な修羅場もまた、又兵衛が福井の地で目にしたものだった。そこにはもはや「豊国祭礼図」や「洛中洛外図」に見られる群像をとらえる高い目の位置はなく、まるで舞台を見上げる観客の視点にも似て、常盤残虐の場面と同じ地平にあって、至近距離でその生々しさは伝えられる。

 このグロテスクな画面のゆがみを通して、又兵衛の精神の屈折度は測られるが、現実批判の挫折を経て、グロテスクに至る精神は、ボスの分けもったものだったかもしれない。彼は初期の作品において現実世界を風刺した様々な風俗をテーマとしており、そこでは彼は単純な群衆を手玉にとる手品師や、愚かな患者から金をだまし取るいかさま医師を冷静な目で見つめている。堕落した宗教界に対する風刺もボスにあっては顕著であるが、「洛中洛外図」の中でもボスと同じように、女信者を抱く坊主の姿が描きこまれている。ボスの場合こうした現実批判は、エラスムスやブラントの風刺精神との同調と思われるが、やがてそれが挫折したかのように、地獄絵の暗い情念の祈りが画面の全体をおおうようになってゆく。その現われはまた、又兵衛の絵巻群のもつ狂気に通じるものであって、深い闇の世界に分け入ろうとする自虐的な思いが感じられる。

 しかしボスも又兵衛も、こうした狂気とつながる面を隠すように、表面上は全く別の正統とも言える正常さを装っていた。又兵衛の場合それは、まるで彼の怨念にみちた復讐心をカモフラージュするかのように見える。「豊頬長頤」と呼ばれる又兵衛独自の人物像は、歌仙絵を中心に美人画の類型を生み出しており、様々な注文に答えて繰り返し描かれたようで、辻惟雄氏の言うように、彼の町絵師としての表向きの仕事となっていたにちがいない。ボスにあってもその女性像は、極めて優雅なものであり、闇にうごめく百鬼夜行の情景とは同一視しがたいものである。ボスは表向きと裏向きの二重生活を送っており、自己のキリスト教異端としての造形を、正常な宗教画制作によっておおい隠していたというフレンガーの考えも、ボスの残した作品群の二面性という点から見る限り、一概に間違っているとも思えないのである。

第517回 2023年2月28

5 故郷喪失

 このように熱年期の造形において、すでに地獄を見てしまった二人の画家が、晩年において、ともに温厚なスタイルに回帰したことは興味深いものである。又兵衛において福井を去ってからの江戸での造形は、様々な注文をこなすことに尽き、奇想と異風の精神はすでに風化していたようである。ボスにあっても、晩年の作風はもはや悪魔の登場する余地のない、落着いたものとなった。ここには深いニヒリズムと敬虔な宗教性がないまぜになったような受容と静観の表情が見出せる。又兵衛晩年の「自画像」と、ボス晩年のやはり自画像と推定されている「放蕩息子の帰宅(放浪者)」を比較した時、ともに浮世を渡ってきた放浪者の漂泊の日々を回顧する共通の心情を見出せるのである。

 前者は、近松門左衛門の辞世文にも似て、武士を追われ芸能民に身をやつし、「世のまがい者」とうそぶくような、余りにも生き過ぎてしまったかつての「かぶき者」の肖像が、後者は長い遍歴の末にすべてのものを失って、故郷にもどる年老いて疲れはてた族人の肖像が描かれている。又兵衛が死を前にして、この自画像を福井にいる妻子にあてたというならば、故郷喪失者の逃避行が、やっと自己の魂の落着き先を見定めたということであり、生涯を「逃亡」と「復讐」の宿命の中で遍歴を重ねてきた吟遊詩人の永遠に満たされることのない魂が、その凝縮された画像に託して、己れの存在を福井に向けて解き放ったのだとも言える。彼の旅は、浮世又兵衛の名の通り、現世を仮住居と定め、浮草のように漂う「浮浪(うかれびと)」のそれであった。その意味からも彼の思考の基盤は、あえて共同体からドロップアウトした芸能民に近いものだったと言えるだろう。

 越前北の庄の大地にはじめて立った時、滅び去った中世朝倉文化を前にして、恐らく又兵衛は中世というものの復興を企てたのだと思う。越前にあって又兵衛は、中世の断片を滅び去った廃墟の中から拾い集めて、つづれ織りのように画面にちりばめてゆくが、その工房的制作はまた、彼の漂泊への夢を打ち砕くことにもなったのだろう。「月見西行図」[右図参照]がそんな彼の夢のありかを教えてくれる。そこでは全く自由な筆さばきで、旅路のはてに足をそっととめて、今まで己れの姿を隠し続けてきた編み笠を脱ぎ捨て、月を見上げる西行の雄姿がそこには描かれている。それは福井での束縛から解放され、次に来る江戸での束縛までの、ほんのつかの間の旅の中で垣間見た、故郷喪失者の望郷の思いであったかもしれない。


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