ゴッホ展

2020年01月25日~03月29日

兵庫県立美術館


  いまさらゴッホ展というのもと、あとずさりしながら、西洋美術史を本業とするせいもあって、とりあえず足を運んだ。ゴッホ展はこれまで内外で何度も見てきたが、特徴から見ると、今回はオランダ時代の強調にあるようだ。ゴッホ以外の作品も数多く混じるが、中でもハーグ派の画家が、数の上からも目立つ。これまでは印象派との関係で語られることが多かったが、オランダ人という側面の強調は、当然オランダという国土が生み出してきた文化的伝統を強調することになるだろう。そしてそれは昨今のナショナリズムの風潮とも同調する。

 日本に置き直せば、エコールドパリのレオナールフジタを日本人画家藤田嗣治として語ることと同等でもあり、フランス以上に、日本の文化的土壌からの影響を深読みするということになる。画家本人は抹殺したがっていた戦争画の恥部にも、美術史家は土足で踏み込んでスキャンダラスに触れようとする。愛国者ならずっと日本やオランダに留まっていればよさそうなわけで、そうしなかったことは自国との決裂を経て、インターナショナルをめざす当時の理想主義の現れでもあった。国際的普遍性の希求は、社会思想がまだ若々しく、国境を越えて連帯をスローガンに掲げた共闘の輪を形成したことを意味する。印象派に集結し、やがてはエコールドパリとなって、国際都市の一画で吹き溜まりとなっていく。

 以前ハーグ派だけを集めた展覧会があった。馴染みがないという以上の新鮮さはなかったように記憶する。暗い色調は落ち着いたというよりも鬱屈した精神のよどみを感じるものだ。深い沈潜がゴッホの人物群像に反映する。農民の節くれだった相貌は、風景画の多様性に準じた対抗策だったように見える。

 ゴッホの名を借りて、ハーグ派を売り出そうという戦略は、これまで以上に、鑑賞者にアピールしているようだ。17世紀のオランダ風景画からの伝統に安定感と保守的安泰を感じてのことからだろうか。しかしその静かな闇は、ゴッホにとって光の発見のための一用件でしかなかったはずだ。パリからアルルに行き、瞬く間に開けていく光の希求は、ゴッホにとって狂気に満ちたものだったにちがいない。それでいてどっしりとして大地に根差している。天上をめざす糸杉の先端が切断された画面に、切実な思いが蓄積している。はみ出そうとして押し留めている精神の安定がある。不安なまでの安定という背反した心情が画面に定着している。

 オランダでもことにクレーラーミューラー美術館所蔵のゴッホが目につく。アムステルダムのゴッホ美術館は何度も訪れたが、オランダの寒村にあるこの美術館は25歳の時に、一度訪れたきりである。ゴッホのコレクションとして知られるが、40年ぶりの再会なのに目の記憶としてはほとんどない。広い敷地内を貸し自転車で走り回った体感や、バスから降りてから長い道すがらホルスタイン種の牛の声と放牧の匂いとしか覚えていない。ゴッホのような触覚に根ざしたイメージでさえも、視覚体験の不甲斐なさを感じてしまった。

by Masaaki Kambara