第2章 油彩画の伝統

第640回 2023年8月16

祭壇画の時代

この章ではボスの作品から離れて、一般にネーデルラント絵画といわれている、ボスが出てくるまでの油彩画の伝統を見ておきたい。ここで最後に登場するクォンティン・マサイスはボスと同年代である。「グロテスクな貴婦人」というタイトルの作品はおどろおどろしい顔立ちの女性像だが、こういう驚異的な作品が描かれる時代に入り込んできたということだ。ボスの描く怪物まがいの作例に匹敵するようなものである。1430年代あたりから世紀末1490年代あたりまでの流れである。代表的な作例を眺めて見ると、目につくのは祭壇画という形式だ。

ネーデルラントで最も重要な祭壇画は、ファンアイク兄弟の描いた「ゲント祭壇画」(図1)だろう。閉じた画面と開いた画面からなるが、形式的には小さな画面が集められてできあがっている。全体では迫力のある大画面を構成している。ベルギーのゲント(ガン、ヘントともいう)のサントバヴォという教会に置かれている。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「ボーヌ祭壇画」も規模の大きなもので、フランスの都市名からくるものだ。地域的にはブルゴーニュにあり、ボスの時代にはブルゴーニュ公国が支配しており、ディジョンに首都が置かれていた。ネーデルラント地方まで統治下においていた。ボーヌはディジョン近郊にあって、ブルゴーニュワインでも知られる名である。中世ではワインは修道院がブドウ園をつくって手がける収入源でもあった。ブドウの栽培は飲酒というよりも薬用という名目での生産だった。ボーヌ祭壇画も施療院という性格をもって、修道院が経営する病院におさめられた祈願対象だった。

ヒューホ・ファン・デル・フースの描いた「ポルティナリ祭壇画」も外すことはできないものだ。ヒューホはかなり凄腕の画家だったが精神障害をわずらって早く没している。ポルティナリはイタリア人の名であり、現在フィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵している。イタリアでは壁画が絵画のメインにあったが、やがて油彩画が入ってくる。これは15世紀のかなり早い時期にイタリアに入っていった大作である。油彩画の細密描写にまず圧倒され、規模の大きさが迫力を加速した。ウフィツィの中でもイタリアの名作に引けを取らないものとして、今も並べられている。イタリアにあって異質な感じはするが、当時の驚きを今も実感することができる。イタリアに直接影響を与えたという点では、ファンアイクをうわまわっているかもしれない。油彩画が15世紀を通じてじょじょにイタリアに入り込んでくる。

図1 ファン・アイク「ゲント祭壇画」

第641回 2023年8月17

細密画から油彩画へ

ファンアイクは油彩画の発明者として伝説ができあがっていたが、今ではそれ以前からネーデルラントでは描かれていて、ファンアイクはその改良者という位置づけになっている。油彩画のテクニックはその後現代までつながっているが、ファンアイク時代に培われたテクニックは、現代でも乗り越えられていないという感は強い。創始者でありながら最高のレベルまで達していた。バロックから次の時代にかけて、油彩のテクニックは細密を捨てて発色へと視点を変え、大まかなタッチで筆跡を残すものとなる。15世紀はまだそういう筆さばきではなく、ミニアチュールの伝統を踏襲するように細密な描写を試み、板の上に大作を描きはじめていった。祭壇画は大きな規模のものも想定され、油彩画はそこに活路を見いだしていった。写本装飾はあくまでも冊子であり、サイズはフォリオと呼ばれるが、せいぜい新聞紙大である。手を広げる範囲に収まるのが限界だった。限られた空間に限りなく細かく描きこんでいく。先にあげた3点は初期ネーデルラントの祭壇画の代表的作例だろう。イタリアでは絵画の傑作としては壁画が思い浮かぶのと対比をなしている。

 ファンアイクの「教会の聖母」(図1)は、幅が15センチほどの小品で、今は一枚で残されるがもとは祭壇画の翼面だっただろう。板に描かれた油彩画だが、細密画の伝統を踏襲しており、ファンアイクも出発点は細密画を描く写本装飾作家だったにちがいない。それがやがて油彩画をこなし大きな祭壇画を描くようになっていく。ファンアイクについてはかなり研究が進んでいて、一般にはファンアイク兄弟、兄がフーベルト、弟はヤンといい、ふたりは確認されているが、現存作はほとんどがヤンの作品である。兄の手が入っているといわれているのがゲント祭壇画で、細部の観察から一人の手ではないという。下部に銘文が書き込まれていて、兄の名が登場してくる。この祭壇画は兄のフーベルトが手がけて、弟のヤンがそれを仕上げたという記述が出てくる。ふたりの合作だろうとされて現代に至っている。兄の作品を探すのだが、これ以外のものは見つからない。これ以外の作品はヤンという名が記録の上に登場している。兄の存在が謎めいていて、いろんな提案がなされている。

図1 ファンアイク「教会の聖母」

第642回 2023年8月18

画家と彫刻家

興味深い説としては兄フーベルトというのは画家ではなくて、彫刻家ではなかったかというものだ。ゲント祭壇画に出てくる記述について、ふたりで制作したというのは読み取れるが、兄が手がけたのは絵画だっただろうかという疑問が発せられる。祭壇画は祭壇と画にわかれる。祭壇は絵画が登場する以前は彫刻だった。ことに中央の場面は石の彫刻が埋め込まれる。扉面は重たく、石だと開閉するのに大変で、板の上に絵画が施される。彫刻の代わりとしての絵である。ゲント祭壇画もこれを閉じたところをみると、石の大理石彫刻を模した絵が描かれている。まるで大理石に見えるように描かれるのには、油彩は適した画材だった。立体的なものの代わりに目だましふうに描かれた。ゲント祭壇画は今は絵画のみが現存するが、完成当時はしっかりとした台座に載っており、それぞれの絵はゴシック建築の塔のような飾りでおおわれてそびえたっていた。木彫を施したり、石を彫り込んであったりしていたはずだ。

なぜそんなことがわかるかというと、完成は15世紀だが、1829年になってからのものだが、この教会の内部を描いた絵画図1)が残っている。それをみると祭壇画の上部にそれをおおう枠の部分の装飾が目立っていて、完成時の面影を伝えている。兄は絵画以外の建築的な部分を受け持ったのではないかというのである。もしそうならこれ以外のフーベルトの彫刻作品が残っていてもよさそうな気もする。この説を唱えたのは、ロッテ・ブランドフィリップという女性の研究者で、ボスについても大胆な仮説を展開して、推理小説を読むようなおもしろい論文がある。ここで目を付けたのは祭壇画に書かれた銘文で、ピクトールという読みがみられる。意味はラテン語で画家という意味だが、ここで書かれたPという文字が、Fではないかというのだ。フィクトールということになれば、意味は石工、つまり石の彫刻家となる。ファンアイク兄弟の謎ということで、まだ解決のつかない問題である。絵画を問題にするときにはフーベルトをはずしてしまって、ヤン・ファン・アイクの名で一本化されている。

図1 ピーテル・フランス・デ・ノートル「ゲント祭壇画」

第643回 2023年8月19

油彩画の先駆者

 ファンアイク(1395頃―1441)が活動した時期に、それよりも早くから油彩画を描いていた画家として、今日ではロベール・カンパンという名が知られている。かつてはながらく「フレマールの画家」という名をあてられていた。フレマールというのはドイツにある修道院名だが、そこにあった作品が基準作となって、それと同じ手になるものをひとまとめにして作品群を形成していた。出発の一点はキリストが十字架にかかっている図だが、その後に発見されたものが加わり、ロベール・カンパンの名が浮上した。この人物の生没年はわかっていて、1375年頃に生まれ1444年に没している。つまりファンアイクよりも早い活動時期だった。油彩画を手がけたということではさらに前にメルキール・ブルーデルラム(1350頃―1409以降)がいる。

 ロべールの作風は卵型の顔立ちが特徴的だ。「授乳のマリア」(図1)では、聖母マリアがいたのは古代ローマの時代だが、ここで出てくるのは15世紀のネーデルラントで、当時の町並みが窓から見えている。マリアの衣装にしても15世紀のものだ。時代考証をして描いているわけではない。描かれたころの生活風景を下敷きにして宗教画にしている。乳房を幼児キリストにふくませるというのは、長く伝統的に描かれるものだが、風俗的要素の強いものにみえる。背もたれのクッションに持たれながらくつろぐ姿も、光の輪が中世を通じて描かれてきた伝統を引き継ぎ、ファイヤースクリーンという暖炉の熱が直接当たらない火おおいが藁で編まれて、聖母の背後で後光に見立てられている。日常ありふれたものを聖なるものに見せかけようという工夫のひとつだ。

図1 ロベールカンパン「授乳のマリア」

第644回 2023年8月20

宗教的シンボリズム

受胎告知」(図1)でもシンボリックなイメージが登場する。キリストがマリアの腹に入り込んでくるのだが、よく見ると窓から光に乗って裸体の幼児キリストがマリアをめざして十字架を担いで飛んできている。マリアの腹部を見ると、衣服の皺なのだが放射線状になって光を宿しているようにみえる。これも受胎告知の暗示のひとつなのだろう。ユリの花はマリアの純潔の象徴で、天使がふつうは手にもつが、ここでは一輪挿しとして花瓶にさしてある。背後にはヤカンとタオルがぶらさげられている。右翼面には父親のヨゼフ図2)がいる。ヨゼフは聖なる場所から少し離れて置かれる場合が多い。左翼面は寄進者が描かれ地面が見えるが、ヨゼフがいるのは一階ではない。聖母子がいるのは窓には空しか見えないので、屋根裏部屋のようでさらに高い階層にあるようだ。この上下差を考えると、ヨゼフは2階あたりにいて地上と上層をつなぐ位置にある。聖なる場所のそばにいて聖母子を支えるという役割が暗示される。ヨゼフは大工だったがここではドリルで穴をあけている。窓から外に向って同じものが置かれていて、ネズミ捕りのしかけをつくっているのだとわかる。なぜネズミ捕りなのかが問題になる。研究者が突き止めたのは「悪魔のネズミ捕り」というアウグスティヌスの書いた文章の一節だった。悪魔を退散させることとキリストの誕生が重ねられている。こうした日常の小道具を用いて、絵を見るだけではなくて読ませていく。

ロウソクをヨゼフにもたせるという図像もときおり出てくる。キリスト誕生は真夜中だとされている。ロベールのものでは夜中ではない。夜景がキリスト生誕の情景として用いられるのはこののちである。闇の中でキリストは光輝くという絵がその後登場してくる。ロウソクを描くことによって夜の場面であることをわからせようとする。それと同時にロウソクの光源を手でおおい隠す。意味は真実の光はキリストだという点にある。17世紀になってラ・トゥールの絵などでも踏襲されていく。ヨゼフは頭の禿げた老人としての扱いだ。マリアとは夫婦なのだが父と娘のようにみえる。背景からは太陽が昇っている。夜中のはずだが夜明けとキリスト誕生を意味的に対応させている。

図1 ロベールカンパン「メローデ祭壇画」中央パネル

図2 ロベールカンパン・右翼面部分

第645回 2023年8月21

キャンバス画の意味

 ヤンについてはかなりの生涯の記録が残っている。そのなかのひとつとしてブルージュという都市の公式画家でもあったが、ブルゴーニュ宮廷につかえるお抱え絵師としてポルトガルやスペインに派遣されたという記録が残る。外交使節という役割も担ったが、画家でありながら外交官的な仕事もこなした。国と国とを結ぶ友好使節として画家は有効であったということだろう。高位の人物の肖像画を描きながら会話を通じて交友関係を深めることができた。のちにルーベンスはヤンをまねることになる。国交の正常化ということだが具体的には君主のお妃探しということで、ブルゴーニュ公が迎える王妃の肖像を描くという役割をはたした。花嫁候補の絵を描いて持ち帰るという仕事である。油彩画という技法が誕生し、誰もが肖像をみごとに描かれると感嘆したに違いない。今でいえば見合い写真を撮るカメラマンということになる。油彩画は似ていることとあわせて、持ち帰ることを考えると、ポータブルであることが必要だった。祭壇画で描かれる板絵ではなくて、布の上に描かれることで軽量となる。ファンアイクがこのとき描いて持ち帰った肖像画は現存しない。布の上に描かれていたなら耐久度の問題もあっただろう。布製だと長らく保存するというよりも、まるめてコンパクトにして持ち運びできる、いわば消耗品として扱われた。17世紀になると板絵は後退し、キャンバスは木枠にはりつけられて固定されていく。キャンバス画は15世紀からあり、ファン・デル・フース図1)のものなどが現存するが、これが定着していくのは16世紀末になってからである。ボスの描いたものには一枚もキャンバスはない。半世紀のちのブリューゲルでもほとんどが板絵である。キャンバス画は描かれなかったのではなく、消耗品扱いがされていて残っていないのではないか。

図1 ファン・デル・フースのキャンバス画

第646回 2023年8月22

細密描写

 ファンアイクの「教会の聖母」は細密を極めた作品だ。レアルスブニールという書き込みのある肖像がある。真実の思い出のためにという意味である。絵画として書かれるが、まるで大理石に刻み込まれたようなだまし絵になっている。油彩画はここまでできるのだというテクニックの証しとなっている。ルーヴル美術館のファン・アイクも一点しかない。「オータンの聖母」はフランスの権力者が聖母子を祈る絵である。中央画面には後ろ姿の人物が二人登場する。ヤンとフーベルトだともいわれるが、遠くまで流れる川をみつめている。風景画としても重要な作品で、遠景に目を誘導する配置をなしている。ベランダに人物を置いて遠景と対応させるという工夫は、その後ファン・デル・ウェイデンも用いており、影響関係を認めることができる。ゲント祭壇画はカラフルな衣装を身に着けて、赤と青と緑の対比がみごとだ。デーシスという図像で、父なる神とマリアとヨハネが並ぶ。下方には神秘の子羊がいて犠牲のシンボルである。父と子と、その間を結ぶものとして聖霊のハトが、三位一体をかたちづくっている。中心に向かって礼拝にやってくる。左右にはアダムとイヴが立っている。下から見上げる方向で描かれ違和感が残る。閉じた画面はねずみ色一色のグリザイユで描かれるが、寄進者だけが生身の身体であり、彩色されている。守護聖人が付き添って、ヨドクス・フェイトはヨハネをともなっている。受胎告知がおこなわれているのは、やはり屋根裏部屋のように天井が低い。天使はユリの花を手にもって、マリアが受け答えをしている。タオルと金だらいも描かれている。アルノルフィニ夫妻像は解釈が話題になるものだ。背後に凸面鏡が出てきて、夫妻の後ろ姿と戸口に立つ二人の人物図1)が描きこまれている。壁面には「ファンアイクがここにいる」という謎めいた銘文がみられる。ここにいるとはどこにいるのか。最初はこの夫妻がファンアイクだと考えられた。それぞれの細密描写は油彩画の極致といえるものだ。

図1 ファンアイク「アルノルフィニ夫妻像」部分

第647回 2023年8月23

隠された意味

 ファン・アイクによって確立された油彩画の技法は踏襲され、ファン・デル・ウェイデンやメムリンクといった優れた画家が続くが、異なるのはそれぞれの個性によるものだ。画題は宗教画が大部分で、それに肖像画が加わる。肖像画は当事者にとっては興味あるものかもしれないが、部外者が興味を引くものではない。一風変わった「グロテスクな貴婦人」というような作例が出てくるとあっと驚くことになるが、ふつうは肖像を描かれたところで、それがそのひとの人となりをどの程度表しているのかすらわからない。宗教的なテーマではそれぞれ細かなところに、いろんな工夫がされていて、同じ主題が描き分けられている系譜がある。画家の間で解釈のちがいがみえるし、数十年たつとちがった描き方があらわれるというようなことにも気づく。イコノグラフィーやイコノロジーといった図像解釈という点では宗教的画題は多様であり、ことにネーデルラントで描かれたものは細部を描きこんでおり、宗教絵画の場合は意味なくそこに置くことはない。そこに置かれるには何らかの理由が必要になってくる。そういう目で見ると描かれているもの自体は日常生活に密着したものなのに、そこには宗教的メッセージが盛り込まれていることがわかる。

 よく出てくるのは「受胎告知」のテーマに登場するタオルとタライ図1やヤカンである。これらは組み合わせで描かれ、子どもの誕生に際して、必要になってくる道具である。水は洗礼を暗示する。ローソクが手に持たれるとキリスト生誕を示すものとなる。それらは決まり事として踏襲されていく。文法といってもよいが15世紀をたどるなかでみえてくる。隠された意味に興味が注がれていくが、やがてはボスのようなエニグマティックな造形がおもしろがられていった。

図1 ファンアイク「受胎告知(ゲント祭壇画)」部分

第648回 2023年8月24

【質問】油彩・テンペラ・グリザイユ

イタリアでは一枚もののタブローや祭壇画では油彩画が登場する以前は、テンペラを用いていたという認識でよいだろう。それに対して壁画を描く場合はフレスコ画を用いる。メディウムがないので壁面の漆喰に直接しみこんでいく。油彩画は定着材をつけるので、壁面に描くとすると壁に貼りついているという感覚だ。レオナルドダヴィンチは油彩画に近い技法で壁画を制作したものだから、定着がうまくいかなくて、描いた尻からぱらぱらと落ちてくるということになってしまった。ミラノにある「最後の晩餐」という壁画のことだ。フレスコ画は強く壁面に直接しみこむのでどっしりとした落ち着きを示す。フレスコは英語のフレッシュと対応する語で、新鮮なという意味をもつものだ。ただ温湿度の条件が難しく、しみこむので乾くまでに全体を短時間のうちに、構想通りに仕上げてしまわなければならない。最初から全体の計画を立てて、予定どおりにやっていかなければならない。油彩画のように上から修正をして、つくりかえられるものではない。

油彩画が発明されて濁りがなくなり、透明感や輝きや細密描写については優れた力を発揮した。リアリティを求めるときには油彩画のほうが圧倒的に、技法としては優れている。祭壇画に使われるのは目だまし的な役目を果たす。石でつくられていた祭壇を絵で描くと、彫刻を絵画に置き換えることになる。一見すると石に見えるように、あるいは宝石の輝きも描ける。祭壇は実際には豪華に輝かせている。日本の仏壇を考えれば黄金で飾り立てている。日本では絵画ではなく彫刻に金箔を載せて、光り輝くものに見せかける。日本に油彩画が発明されていたなら立体的なものも、絵画に置き換えられていたかもしれない。石を使って彫り込むよりも絵で描くほうが簡便であった。コストや軽さも長所だった。

グリザイユという技法がある。聖人を単色で描く場合がある。祭壇画では扉を開閉する。閉じられた場面は単色で描く。石造彫刻を思わせる技法である。開くとカラフルな世界が出てくる。大理石彫刻をまねて絵画に描いていく。ゲント祭壇画のように聖人や天使はねずみ色だが、その作品を寄進したパトロンは現実の色になっている。グリザイユはねずみいろという意味だが、祭壇画では15世紀には定着していく。ボスの作品についても、今断片で残っているもので、モノトーンに近いもの図1)は、かつては祭壇画の扉面だったという可能性が高い。

図1 ボス「ノアの箱舟」

第649回 2023年8月25

【質問】幼児の肖像画

王子や王女がまだ小さい時に大きくなった時の姿を想像して描くことがある。祭壇画を描いてそこに現実の人物が、家族で登場する場合がよくある。幼児であれば一年もたてば大きくなる。祭壇画は大掛かりのものなら2,3年はかかるので、描き始めた頃の赤ちゃんも3歳になってしまっている。あらかじめ3歳になった時の顔立ちを想定して描きこむことになる。ポルティナリ祭壇画では、ポルティナリの夫婦と子どもが何人かだが、一家が総出演している。制作年がわからないのでそれを推定するのに、そこに登場する人物の知られている生没年を利用する。そこに登場する一人はあとで描き加えられた形跡がある。スペース的に狭いところに全身ではなくて兄の後ろに隠れて描かれている(図1。その絵を描き始めた頃にはまだ生まれてはいなかった子どもで、制作途中で生まれたので何とか追加したいというときに、顔だけを加えることになったのではないか。生まれたばかりなので、ほんとうは赤ちゃんの姿で、母親が抱きかかえることなのだろうが、そこでは少年の姿をとっている。つまり大きくなった時の顔立ちを想定して加えたということになる。これらの人物の生没年がわかっていれば、何年から何年の間に描かれた作品だとわかるという理屈である。赤ちゃんでなく少年であることをうのみにしてしまうと、制作年が3年もずれてしまうのである。

図1 ファンデルフース「ポルティナリ祭壇画」部分