第338回 2023年11月28

姿三四郎1943

 黒澤明第一作監督作品、富田常雄原作、藤田進主演。柔道を志す青年の成長の物語。決闘場面の迫力ある背景づくりが、映像ならではの効果を生み出している。強いだけではだめだという精神性の強調は、繰り返し日本文化の基調となるものだ。ここでは優れた柔道家(矢野正五郎)との出会いを通じて、若者が人間としてめざめる姿が共感を呼ぶ。武道を通じて人間教育をめざした信念の人の姿が、大河内傳次郎の冴えわたった名演技によって、説得力を高めるものとなった。ライバル関係は、武蔵と小次郎をはじめとして、対比的に語られてきたものだ。とかく善悪で判断してしまいがちだが、人間のもつ葛藤しあうふたつの側面だと思う。

 主人公が師に反抗して池に浸かりながら啓示を得る蓮の花や、低く垂れ込めた雲の移動など、自然現象を暗喩として、たくみに取り込むことで、心の動揺をうまく視覚化している。師との出会いのあと、脱ぎ捨てられて下駄が川を流れて、やがて犬がくわえて遊ぶ暗示も時間の経過をみごとに表している。決闘場面での不気味なまでの風の流れは、風雲急を告げるということばにふさわしい映像表現だった。ことに吹きすさぶ音響効果は、その後、用心棒などでも繰り返し試みられている。関東の空っ風なのだろうが、西部劇の荒野にも対応するものだ。

 質実剛健で無骨な男に、純情な恋愛をからめることで、大衆的支持を獲得したようだ。それはサービス精神であると同時に、映画は観客を喜ばせる見せものだという理念がうかがえるように思う。恋敵(檜垣源之助)としてキザな優男を対比させるのも定番ではあるが、主人公が歯が立たないような、もっと強い姿を見せてもよかったかもしれない。洋服を着こなす柔道家という想定もおもしろく、その後、東映映画での敵役で存在感を発揮する月形龍之介の適役が輝いていた。

 志村喬演じる老柔道家(村井半助)が、三四郎に敗れても心を通わせ、食事に誘い、娘(小夜)との男女のふれあいをみつめるところに、恋敵が突然現れる場面は見せどころとなっている。恋敵もまた、この柔道家から育ち、娘に心を寄せていることを、見ている私たちも含めて知っている。父の不在の時に上がり込んで大仰な姿も写し出されていた。周知のことをふまえての沈黙の時間が、嫉妬の火花を散らしている。決闘の決意は、腕の競い合いではなく、恋愛にまつわる嫉妬心のゆえだったようだ。

 父親は三四郎との試合に敵意を燃やし、娘は父の勝利を祈願していた。その姿を神社の境内で三四郎は師とともに目撃していた。三四郎は先にその神社で娘と出会っていた。下駄の結び目を自分の手ぬぐいを裂いて直してやったのがきっかけで、心を通わせることになったが、自分の正体を明かすことで、かなわぬ恋とあきらめをつけていたかもしれない。娘は決闘の場にも立ち会って、思いを寄せる相手を不安げに見つめていた。横浜まで開通した蒸気機関車に乗ってのラストシーンは、三四郎のラブロマンスを暗示させて、殺伐とした時代と闘争にあけくれる世界に、さわやかな余韻を残すものとなった。見送りと称していたが、主人公の横には娘が乗り込んでいた。

第339回 2023年11月29

一番美しく1944

 黒澤明第二回監督作品、矢口陽子主演。戦時下で自由に映画が撮れない、制限のあるなかで国民映画として制作された作品。神奈川県平塚にある光学機器の工場に働く女性工員たちの奮闘を描いている。男子生徒も動員されているが、小学生にみえるような幼な子もいる。主人公(渡辺)は顕微鏡をのぞきながら誤差を修正する仕事を続けている。兵器に用いるレンズの加工だが、ミリ単位の緻密な作業で、少しでも狂うとマトが外れ、そのために逆に敵からの攻撃にあい、死に直結する緊張感をともなった神経にさわる仕事である。

 増産体制が取られ、工場長が精神論を唱え呼び掛けている。女子には男子の二分の一の生産量が割り当てられるが、不満が表明されている。同等とはいわないが、せめて三分の二にしてほしいというのである。担当職員が問い詰めると、仕事が多すぎるというのではなくて、少なすぎると言うのだ。

 お国のためにすべてが一丸となった時代である。娘たちの純真を軍部は利用したとも言えるが、それは敗戦後の平和がもたらした解釈なのかもしれない。命中率のいい兵器をつくるというのは、殺人兵器だと考えないなら、誰もがめざす目標なのだろう。不完全なレンズが混じってしまったと、責任感を感じて、徹夜をしながら点検し直す主人公もけな気なら、それに付き添って寝ないで待っている上司の姿もみごとである。親の死の連絡を受けても、故郷に帰ろうとはしない決意を、暖かい目で見つめている。それに先立ってあわただしく時刻表をくるシーンを置くことで、帰りたいという思いは伝えられていた。

 仲間の脱落が続くのも、生産目標を増やしたせいだったかもしれない。不注意で屋根から落ちた娘(山崎)がいた。彼女たちは女子寮で共同生活をしていたが、屋根に布団を乾していてのことだった。屋根に立って故郷の方角をながめて、恋しがっていたが、友からは逆の方向だと言われている。病床を見舞われたとき、足は折れたが手は動くといって笑ってみせた。自分たちから言い出したので、目標を引き下げるわけにはいかない。体調を崩して寝込んでしまった娘(鈴村)もいた。娘は親には知らせないでくれと言っている。そうもいかないので、女子寮に寮母として住み込んでいる女教師が、親に知らせると、父親が迎えにきて、泣く泣くいなかに帰っていった。その姿をみて、私も帰りたくなったとつぶやく声も聞こえた。父親は無表情ななかに娘たちの連帯を感じていたようにみえる。

 娘から回復の知らせが来たが、親が出してはくれないといっている。貧しさからの勤務ではなく、戦時下での勤労奉仕だったことから、親がだいじな娘をかばうのは当然だっただろう。手紙を読んで女教師は休みを取って娘の住む雪国に出かけていった。職員はこんなときに休みを取るなんてと懸念を示したが、事情を聞いて感銘を受ける。主人公のリーダーシップを信頼しての不在だった。

 教師の出かけた2、3日のあいだに、また病気による脱落者や仕事がはかどらないことからのけんかも発生し、リーダーであった主人公も仕事にミスを起こしてしまう。作業中ぼんやりとしはじめている娘もいる。歯車は空まわりをはじめていくのである。病気が直り教師とともに戻ってきた娘は、みんなの前で大はしゃぎをして走りまわっている。それを無視するように全員が教師のもとに駆け寄っていった。教師は玄関で脱ぎ飛ばされた靴の片づけをしていた。リーダーがいないことに気づき、不穏を予感しはじめていく。

 重苦しい空気を跳ね返すように、気分転換にバレーボールにはしゃぐ姿や、鼓笛隊の練習に目を輝かせるはつらつとした若さも、深刻な状況と対比して描き出されている。前向きな連帯感の描写としては適切だが、映画での演技をこえたものだ。多くの時間をかけて練習した成果が読み取れる。主人公がチアリーダーとなって、小太鼓を打ち鳴らして、歌いながら町を行進する姿をカメラは追っている。足を骨折した仲間が、松葉杖をついてそれを見つめている。

 微熱が続く娘(山口)は、隠して作業をし続けている。低く見せかけた体温計を寮母室にもってきたとき、不在で主人公がいた。彼女も親もとに戻ろうとして願い出ようとしていた。熱があるのを見抜いたが、女教師が戻ってきたとき、熱はないと嘘をいった。自分の事情も黙っていた。その後この娘をかばいながら接していたが、それを不公平だと不満があらわにされ、仲間に亀裂が入った。何も言いかえせないでいたとき、熱を隠していた娘が真実を打ち明けた。すべては迷惑をかけないで、目標を達成するための善意からだった。けんかのもとでなった不満も氷解した。

 主人公は会社側から呼び出され、親の死を前にして、会社としては帰さないわけにはいかないと説得される。しかし断固として拒否をして、私を休ませるなら微熱の続く仲間を休ませてほしいと訴えている。女教師はその姿をみて、強いばかりだと思っていた主人公が、思いやりのある人間に成長したと感慨をあらわにし、担当職員もそれ以上の指示を出すことはなかった。作業室に戻り、後ろ姿をみせながら、顕微鏡をのぞきつづける姿を映し出していた。カメラがまわり込んでみると、涙を流し続ける顔があった。

 戦後民主主義の理念からすると、戦時下での制作という点で、軍需工場という設定に、主題の上からは違和感は残るが、映画のもつ能力をみごとに発揮して、カメラワークの教科書ともいえる作品となった。真剣なまなざしで機械を扱う、大写しになった新人女優たちの表情、後ろ姿を多用した暗示的構図、ことに親の死に、主人公を帰郷するようにうながしにやってきた上司たちの廊下での配置は、絵画表現としても記憶にとどまるものだった。

 娘たちは美人ではないが、はつらつとした表情が美しい。木下惠介「二十四の瞳」1954と比較したくなってくる。ことに主人公が黒澤の目には「一番美しく」みえたのだろう。翌年にふたりは結婚している。女優を引退して、その後役柄に等しくリーダーシップを発揮して、黒澤映画を支えることになったようである。

第340回 2023年11月30

續姿三四郎1945

 黒澤明監督作品、富田常雄原作、藤田進主演。前作から2年後に制作された続編だが、映画でもちょうど旅に出て2年後に戻ってきたところから、話ははじまっている。車夫の少年が、アメリカ人客から言いがかりをつけられ、殴られ続けるのを助けて、相手を川に投げ込んでいる。主人公の帰宅を待ちわびている娘がいる。三四郎に敗れた父はすでに亡くなり、寺の和尚を相談相手としているようだ。主人公は帰ってきて、師のもとで柔道をさらに極め、娘とも再会することになる。

 主人公の名声は、世に知られることになっていて、アメリカからも注目され、日本人の気障な代理人がやってきて、ボクシングとの親善試合が提案される。主人公は武道の精神に反するものだとして、興味本位の見せ物になることを否定する。にもかかわらず別の男を見つけて一騎打ちはおこなわれ、弱い柔道家はみじめな敗北をきっする。三四郎は観戦に誘われてその姿を目の当たりに見ることになる。なぜそんな誘いに乗ったのかと男に詰問すると、生活に困窮する実情が伝えられた。三四郎がもてはやされるのとは対極にある姿だった。

 空手の使い手が九州から道場にやってきて、三四郎の名を指名している。決闘で敗北した恋敵の弟たちふたりだった。ことに無口な下の弟の凶暴さは、狂気に近いものがある。師が話を聞き、他流試合は禁じたが、兄の敗北に対する復讐を目的として、門人たちを夜道で待ち伏せて、襲いはじめた。三四郎を慕う車夫の少年も襲われた。主人公に果し状が突きつけられる。破門を覚悟でこれに応じる決意をし、さらにアメリカのボクサーとの試合も、師の教えを裏切って承諾する。

 簡単にボクサーをノックアウトして、賞金は拒絶したが、思い直して受け取り、ちょうど観戦に来ていた、先に敗北した柔道家に手渡していた。彼は敵討ちをしてくれたと言って喜んでいる。道場で酒も飲んで、破門の三ヶ条を破って、決意をかためた。迷う心を和尚に打ち明け、愛する人にも別れを告げた。娘は勝利を信じていると励ます。父のときのように、願をかけて祈りを捧げたにちがいない。

 荒涼とした地が決闘に選ばれた。長いにらみあいが続くが、ここでも三四郎は強かった。一騎打ちで兄は崖から転がり落ちる。弟が加勢することはなかった。負傷した兄を看病する三四郎の姿があった。ひとけのないなかで火を焚いて食事を用意して、ふたりに与えようとするが、食べようとはしない。眠気が襲い三四郎は目を閉じている。弟は目を開けて、かたわらに隠していたナタをつかんで迫っていく。兄はかすかに目を開いて、ようすをうかがっている。

 そのとき三四郎は彼女の夢をみていたようで、娘に声をかけられて、にんまりと微笑んだ。それをみて弟は握りしめていた凶器の力をゆるめて、もといた位置に戻ってしまった。この一連の無言の動きは、何を意味するのだろうか。笑い顔に接して、見破られたと思って身をひいたようにみえる。じつのところは殺気を感じて表情を変えたのではなかった。夢のなかに出てきた娘が三四郎を守ったのである。手を合わせて父の勝利を祈っていた、娘のかつての姿を思い出す。

 あるいは敗者をいたわる勝者の寛大に気づき、我が身を振り返ったのか。いくつかの理由が思いつくが、最後のクライマックスであることは確かなようだ。三四郎の目が覚めたとき、拒否していた食事を弟は食べていた。兄も横たわりながらやさしい目になっていた。ふたりはともに負けたと言った。すでに勝負はついていたので、この敗北は勝敗のことではない。

 月形龍之介がここでも次男の役で登場するが、前作で敗北した長男も、二役で顔を見せていた。以前のおもかげはなく病床に臥している。三四郎との決闘が原因しているのだろう。病いを押して三四郎を訪ねてくる。弟二人が付け狙っているので注意するようにとの、思いがけない言葉だった。彼らは狂気に満ちているので相手にするなと伝えた。

 よろめきながら歩く姿をみて、三四郎は昔慣らした車夫をかってでて、人力車に乗せて送ろうとしたところに、娘と出くわした。娘は三四郎にほほえんだあと、男と目を合わせて気づまりな表情を浮かべている。身を引くように、寒くなってきたのでと、男は車の覆いを求めた。失恋男の哀れな別れだった。はじめからこんな謙虚さがあれば、娘の愛を手に入れることができていただろう。骨太の映画の中に、微妙な心の揺れを盛り込んで、味わいある心理劇に仕上げている。

第341回 2023年122

虎の尾を踏む男達1945

 黒澤明監督作品、大河内傳次郎、榎本健一主演、公開は1952年。上映時間は59分で、劇映画としては短編である。義経と弁慶と冨樫との登場する勧進帳の物語を映画化したもの。能仕立ての日本の伝統を残しながら、黒澤流の大胆なアレンジを試みている。ことに義経の顔をほとんど見せず、弁慶が主人を打ちつけたのをわびるときにだけ、わずかなセリフをともなって一瞬見せる演出が際立っている。弁慶を演じた大河内傳次郎の大芝居と対照的に、藤田進演じる冨樫の棒読みに近いような、演技とも思えない肩の力が抜けた穏やかな表情が、緊張感を緩和して、あうんの呼吸を奏でている。

 加賀国安宅の関でのできごとである。山深い雪国での道中だった。義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉に逃れようとしている。山伏に変装したとの情報を受けて、関所をかためている。富樫はその長である。映画で見る限り、義経びいきであるようだ。なんとか逃してやりたいというふうにもみえるが、副官が厳しい目を光らせている。この副官と弁慶との緊張感のあるやりとりが、見どころになっている。

 狂言回しにエノケンが強力(ごうりき)役を演じている。雇われた荷物運びである。一行は8人で、山伏姿をした6人と若侍の義経と強力とである。七人の家来が一人の主人を守っていると考えると、のちの「七人の侍」の原型ともとれる。群像劇ではおどけ者は必須のキャラクターである。紋所をみると大きな円を小さな8つの円が取り囲んでいて、一行の人数と対応させているようだ。

 強力と義経は華奢で小柄だ。平家打倒に功を挙げた武者が、こんな軟弱な容姿でいいのかと思うが、強力が小男なのと対応させている。演劇世界で神話化されていった義経像なのだろう。強力は身体に似合わず、大きな荷物を背負っているので、怪力の持ち主であることがわかる。それよりもおしゃべりな喜劇役者という点で、ここでは主役を奪っている。無口な義経とは対比をなしている。

 強力の表情豊かな大げさな演技に支えられて、私たちは内容を理解することになる。弁慶の一芝居をうつ演技の逐一に反応を示している。弁慶もまた大げさな演技なのだが、身振りはゆったりとしていて、強力と対照的だ。ことば数は多いが、この俳優の独特の節回しで、何を言っているかよくわからない。にもかかわらず、全身から発する言語があって、じつによくわかる。不思議なオーラを放つ役者で、当たり役の丹下左伝と、いつも私には重なってみえてしまう。

 弁慶は何も書いていない巻物を取り出して、とうとうと勧進帳のことばを読み上げている。強力がひやひやとして見つめている。タモリが赤塚不二夫の追悼に白紙の文章を読み上げたというのも、この逸話にもとづくものだろう。勧進帳とは寺院の建立に際して寄付を呼びかける文書のことだ。ここでは東大寺の再興の基金を呼びかけていて、その場で創り上げた弁慶の機知を称賛するものとなっている。

 力づくで関所を破ろうという仲間の声を制して、一芝居打とうという策略も備えた叡智の僧である。義経を二人目の強力に変装させて、見破られそうになったときは、杖で打ちつけた。重い荷物をもったひ弱げな若者が、傘で顔を隠して、よろよろと通り過ぎるのだから、誰が見ても怪しくて、呼び止めるはずである。

 そんなことはわかっていて、舞台の約束事は成り立っている。通過させておいて、あとを追いかけてきて酒をふるまうのも、冨樫の偽らざる気持を伝える腹芸なのだろうが、酔わせておいての策略かもしれないと感じさせるところに、ドラマとしての醍醐味がある。富樫のどちらとも取れない、とぼけた演技が光っている。

 そんな様式美をとどめながら、映画もその文法を引き継いでいる。映画はこれまで築き上げてきた舞台芸術を否定するものではない。虎の尾を踏まないように歩むのは、面と向かって虎と戦う無謀をいましめるものであり、戦中から戦後へと、大きく変貌する時局を、背景にしたメッセージにもなっているのだろう。

第342回 2023年12月3

わが青春に悔いなし1946

 黒澤明監督作品、原節子主演。主人公は大学教授(八木原)の娘、わがまま放題に育ってきたようである。7人の男子学生を引き連れてピクニックに行っている。なかでもふたりの学生と親しく、ふたりはこの娘(幸枝)の気をひこうと競い合っている。積極性と引っ込み思案の差があって、一方(野毛)は学生運動に深く関わって仲間から離れていく。娘の父は法学部の教授で、戦前の京大で展開した左翼運動をモデルにしており、学生に理解を示しているが、過激な行動には批判的である。

 もう一方の学生(糸川)は、老いた親の姿を前にして、家族のことを思って運動から脱落した。無難な道を選んで、卒業後は検事として仕事を得る。娘は戦争に向かう国家の方向を批判して、理想を追求し続ける学生に引かれるが、それについて行けるかは自信がなかった。葛藤の末、無難な相手と結婚しようとも考えたが、振り返ってみて悔いのない生き方をしたいという青年にあこがれをいだいて、苦難の道を選ぶことになる。

 娘はピアノを習い、華道のたしなみもあったが、自活してひとり立ちをしたいと、東京に出ることを決意する。母親は動揺するが、父は責任ある行動を取るように伝えて送り出した。タイピストの訓練もしていたが、東京での生活は思うようにいかず、3年の間に3度も職場を代わっている。そんななか検事になった昔の男友だちと、ばったりと出会う。すでに結婚をしたのだと言っている。もうひとりのライバルは、学生運動で刑務所にも入れられたが、転向して今は手広く仕事をしており、東京に出てきているのだと知らされる。気になって会社に訪ねていき、ためらいながらも思い切って顔を合わす。旧交を温めるなかで、考え方や生き方に共鳴し、結婚をするに至る。

 幸せな日々が続くが、夫が出かけていったまま戻ってこない日があった。警察に目をつけられていて、逮捕されたのだった。妻に贈るハンドバッグをもっていた。反戦の地下活動をしていたようで、彼女は何も知らされていなかった。参考人として長時間の取り調べを受け、娘は顔の相が変わってしまっている。父親が娘を引き取りにきたが、夫は獄中で死んだことを知らされる。弁護士として力を貸そうとしたときのことだった。父は自由主義思想のため大学を追われ、民間の法律相談所を営んでいた。娘はお骨をもって夫の実家に向かう。寒村での貧しい農家だった。彼女はその家の嫁として、そのままそこにとどまってしまう。

 近隣からは売国奴のレッテルが貼られ、子どもたちはスパイの家だと指をさしている。義母とふたりで田植えを終えたあとで、嫌がらせを受け、掘り返されていた。実家に戻って、久しぶりにピアノの前に座ったが、もはや落ち着ける場所ではなかった。自分はここにいる人間ではないのだと決意して、帰っていった。

 戦後になって父は大学に復帰した。学生を前にして、信念を貫いて獄死した学生のことを語っている。娘は農村での文化運動のリーダーとして、悔いのない生きがいを見つけていた。旧知の検事が夫の墓参りに訪れたが、彼女がここにいることと、その変貌ぶりをみて驚いた。そこまでしなくてもと思うが、夫の墓に案内しようともしなかった。

 娘ははじめ男に媚を売る悪女のような表情を浮かべていたが、警察での取り調べの衰弱し切った顔から、農村で懸命に生き抜こうとする苦闘を経て、やがてはつらつとした前向きな表情へと変貌をとげていった。同じ女性とは思えないような進化の中に、この映画のメッセージはあるようだ。原節子といえばその後の「東京物語」での、つつましい清楚な姿が定着しているが、ここでは激しい女性である。映画技術でいえば、クローズアップで写し出されたメーキャップの勝利ともいえる。

第343回 2023年12月6

素晴らしき日曜日1947

 黒澤明監督作品、沼崎勲、中北千枝子主演。英語名はOne Wonderful Sunday。他愛のない話である。貧しい恋人同士が日曜日をともにすごし、次の日曜日にまた会おうというまでの時間の経過を追う。お互い収入は少なく結婚をして、ともに暮らすことができない。男(雄造)は友人と、女(昌子)は姉と同居している。デートをしても、行くところに困る。女はわずかにもちあわせがあったが、男は一文なしに近かった。

 無料で時間を過ごすすべを考えて、女が誘って、住宅展示場に行く。女ははしゃいでいるが、一軒家で手の出るものではなく、男は夢見る女をたしなめている。客のセリフから、もっと安価な物件があることを聞きつけて行ってみる。男の目も輝きはじめた。管理人が対応したが、ジメジメした部屋でおすすめはしないと言っている。受付の内側からふたりを写し出しているカメラがおもしろい。

 道端での子どもたちの草野球に加わるのも、無料での遊びだった。男はバッターを頼み出て打たせてもらう。あたったのはいいが、饅頭屋の店先を直撃してしまい、思わぬ出費となった。余った饅頭は、腹を減らして、目を向けていた少年に与えたが、自分たち以上の札束をもっていて驚かされる。男のポケットからは、名刺が落ちて、戦友とばったり会った時のものだった。成功してキャバレーの社長をしているようだ。どんなところか一度行ってみたいと、女はいうので、訪ねていったが、たかりと思われたのだろう。すでに先客もいた。会うこともせず、マネージャーに軽くあしらわれて、丁重に金一封を手渡されて追い返される。男はプライドを傷つけられたと気分を悪くし、金は受け取らなかった。キャバレーに向かう客と鏡写しになった主人公との対比が際立っている。

 ふたりで歩き続けると、動物園の広告に出くわした。入園料が安かったので、動物をみて時間を過ごす。貧困の心配のない彼らの姿が、うらやましく目に映ったにちがいない。雨が降ってきて、同居の友だちは遅くならないと帰らないと言って、男は女を自室にまで誘う。女はためらって、逆に自分のところに来ないかというが、男は女の姉が苦手だと言っている。男は思うようにならないので、ひとりで帰ると言い出す。

 そんなとき未完成交響曲のコンサート案内が目に止まり、女は誘った。以前のデートでの記憶をとどめるものだったようだ。男は承諾し、開演まで時間がないので、ふたりは雨の中を走っている。入場券売り場では、人の列ができていた。直前の客がいい席のチケットを大量に買い込み、二人の前で満席になった。しかたなく悪い席を買うことになって、男は腹立たしさをつのらせはじめる。買い占めた男が、10円のチケットを15円で売っているのをみて、怒りが爆発する。いどみかかるが、仲間が加わって、男はたたきのめされる。

 女は介抱しながら、男を自宅に送っていった。汚い下宿である。女の心配どおり、男が迫ってきたので、女は身体をかたくして抵抗し、逃げ帰ってしまう。あわてたので忘れものしていて、しばらくして戻ってくる。黙って部屋に入り、衣服を脱ぎかけるが、急に泣き出す。男は我に返って、優しく無理にそれ以上のことはしないようにうながした。

 まだ時間はあった。外に出てコーヒーとお菓子を食べながら、女は沈黙を守っている。男は怒っているのかと問うが、女は幸せなときは黙るのだと言っている。頬づえをつきながらも、幸せなひとときが戻ったが、伝票をみると思っていた額よりも高く、手もちでは足りなかった。詐欺のような書き方で、男は怒った。ここでもけんかになるのではないかと、女は心配したが、男はコートを脱いで、明日取りに来るからと言って、そこを出た。

 敗戦の跡をとどめる公園で、良心的なコーヒー店を営むことを夢みながら、ふたりで芝居をしていると、いつのまにか人が集まってきて、ふたりのパントマイムを、不思議な目でみていた。恥ずかしくなって、その場を離れ、今度は野外ステージに立って、指揮者の真似をしている。女もそれに合わせて、観客を演じて、拍手を送っている。舞台に上がり、誰もいない客席に向かって、拍手をしてくれと訴えている。映画を見ている私たちに向けての語りかけだったようにみえる。

 途中で、むなしくなって男は肩を落とすが、女が励まして再び指揮が続いていく。やがて音楽が聞こえはじめ、誰もいない舞台上で抱き合う姿があった。オーケストラに送られて、ふたりは前向きな気分を取り戻し、次の日曜日の約束をして別れた。戦後まもない闇市の時期、実直な仕事では食ってはいけない現実を告発し、主役の悩める等身大の姿に共感することができた。冒頭では、デートを待つ男が、道端でタバコの吸い殻を拾って吸っている。ラストシーンでも吸い殻がててくるが、足でねじりつぶして立ち去ることで、対比を見せて決意の表明をうかがわせていた。

 映画は楽しくなければだめだというエンターテイメントをめざす視点からすれば、あまりにも身近なドキュメンタリーに過ぎるのかもしれない。華のあるスターが共演して、夢見る映画の醍醐味を味わえるというものではなかったようだ。映画が普遍性を獲得するには至らなかったともいえるが、当時としては時代の世相を映し出し、よくわかるといって共感を得たにちがいない。今見ても、戦争の爪跡を残しながら復興へのバイタリティをみせる都市のリアリティは、映画によって、はじめて実現できるロケ撮影の勝利といえるだろう。

第344回 2023年12月7

醉いどれ天使1948

 黒澤明監督作品、英題はDrunken Angel。笠置シヅ子の歌うブギウギが流行した終戦直後の闇市が舞台である。結核に冒されたヤクザ者(松永)と、口の悪い辛らつな医者(真田)との交流をめぐって、息詰まる展開が続く。ふたりのやり取りを志村喬と三船敏郎が熱演をしている。

 はじまりはヤクザの手のひらに撃ち込まれた弾丸をえぐり出す荒療治からはじまる。病院に外観はなく、老朽化した診察室は、ドアが閉まらない。患者を置いたまま三度締めようとするが、勝手に開いてしまっている。このとき男は変な咳をしていて、聴診器をあてると、胸に穴があいているのではないかと疑う。レントゲンをすすめるが、男は凶暴で聞こうとはしない。

 ヤクザは地域の顔役で、大手を振って歩いている。花屋の前を通るときは、必ず、その一輪を抜き取っていく。店員はそれを見て頭を下げて、あいさつをしている。花を愛でる心を持ちあわせているということなのだろうが、粗暴で威嚇的だ。医者は飲んだくれで、若いときの自分を見るようだといって、この男を気にかけている。医療用のアルコールにまで手を出して、水を混ぜて飲んでいる。酔いどれ天使とは、この飲んだくれの医者のことで、自称していたものだ。天使は若い娘ばかりではないのだと言っている。優秀な医者だが、酒で身をもち崩してしまったようだ。

 昔からの医者仲間が大病院の院長におさまっているのを、引き合いに出して、自嘲的に今の不遇を嘆いている。じつはヤクザは大病院でレントゲンを取っていた。そのフィルムも隠し持っていて、医者がそれを見たときには、手遅れの状態だったが、言うことを聞いていたら、必ず治ると言い聞かせた。

 長らく服役していた親分格の男(岡田)が戻ってくると、この男との力関係が逆転する。酒を勧められ、俺の酒が飲めないのかとすごまれる。一口飲んだが最後だった。喀血するまで、飲んだくれてしまっていた。アニキと呼んでいた子分も離れてゆき、情婦もそちらになびいてしまう。花の一輪を取り込んだときには、花屋の店員が追いかけてきて、代金を請求された。怒りをぶちまけたが、自分の力がもうここにはないことを思い知った。

 医者のアシスタントをしている女も、もとはこの親分に囲われていたが、出所したことを聞きつけるとおびえはじめた。夜になるといつもこえる、耳障りなギターの音が、別の曲に変わったときがあった。このとき娘は感づいた。むかし親分がギターで弾いていた曲だったのだ。医者はなんとしても、この娘を守ろうとする。色男のヤクザには、この女は俺が惚れているので、手を出すなとも言っている。女は自分が戻れば迷惑はかからないと、覚悟もした。親分が居どころを突きとめて、子分を連れて、連れ戻しにやってくる。医者は突き返そうとするが、歯が立たないようにみえる。女は隠れているが、万事休すというところで、病床にあったヤクザが出てきて、親分をなだめて収まりをつけた。

 医者の言うことを聞かないヤクザは、飲んだくれて、血を吐いて、この病院に担ぎ込まれ、医者の家にとどまっていた。入院設備ももたない診療所だったが、面倒を見てもらっていた。家には医者の老いた母親がいて、アシスタントの娘も住み込んでいた。ヤクザははじめの反抗的態度が軟化して、医者に恩義を感じはじめていたようだ。

 話をつけに親分を訪ねると、麻雀を囲んでいるところだった。話し声が聞こえてきた。あいつを利用して、敵対する組織に対抗させ、いまの縄張りは取り上げてしまう。そんなに長い命ではないからと、麻雀の相手をする別のヤクザに言っている。見限った情婦も同席している。男はそれを聞いてしまうと、怒りが込み上げ、親分に殺意をいだきはじめた。ひとりになったところを襲い、死闘を繰り返すが、病弱の身であり、逆に殺されてしまう。

 このヤクザに想いを寄せていた酒場女が、お骨を引き取った。自分のいなかへ連れて行く約束だったのにと悲しんでいる。医者は向こう見ずな愚かな奴だと嘆いている。こんな世界からきっぱりと足を洗うしかないのだと、我が身を振り返りながら、医者は思っていた。泥水がたまって沼のようになったぬかるみが、繰り返し映し出されたが、ブクブクと泡が発生し、人形や草履が浮かんでいる。泥に溺れた死体のようにみえる。足を取られると抜け出すことのできない世界なのだ。監督名とかぶせられていることからも、重要なイメージなのだとわかる。

 出所してきた親分と出会うのもここだった。男は手にしていた花を泥沼に投げ込んで親分についていった。花が死体のように浮かんでいる象徴的な場面である。ラストシーンでは医者はいくらかの光を見い出している。言いつけを守って結核を克服した少女が報告にやってきて、約束のあんみつをご馳走しようと、ふたりで街に向かった。少女は長らく医者の診察を受けていた。ヤクザの遺骨に別れを告げ、医者は笑顔を取り戻した。酔いどれが天使と出会った、唯一の喜びの光景である。

第345回 2023年12月8

静かなる決闘1949

 黒澤明監督作品、英題はThe Quiet Duel。今回のテーマは、進行する「梅毒」との静かな戦いである。志村喬と三船敏郎のコンビで歌い上げたヒューマニティーあふれる感動作。従軍をした戦地で、軍医(藤崎)が負傷兵(中田)の手術で、梅毒をうつされた。性病という通念から、おもてだって病名を告げることがはばかられた。悪所に出入りしていたのかと疑われ、冷ややかな目でみられるものだ。手術中に誤って指先がメスの先に触れ、その傷口からスピロヘータが入り込んできたのだった。負傷兵はヤクザ者で、復員後に治療もせずに、結婚をして子どもまで生まれようとしている。

 軍医は梅毒であることを隠して、密かに治療を続けていた。誤った対処法から病状を悪化させることにもなった。復員後に結婚を約束していた女性(美佐緒)がいたが、理由を告げることなく、結婚はできないと言っている。看護師が梅毒の薬が減っているのに気づき、もうひとりの見習いの看護師(峰岸)を疑った。彼女は元ダンサーで妊娠をしたが男に捨てられ、この病院に助けられ、その後無気力なまま、住みついていた。

 父親は産婦人科、息子は外科医だった。彼女は医師から中絶しないよう説得され、看護師の資格を得て、自活できることを薦められている。本人は人の役に立つような人間ではないと卑下していて、中絶しなかったことを後悔して、医師を恨んでいる。外科医が自分の腕に注射をしているのを目にし、働きすぎの栄養剤だと思ったが、見ると梅毒の治療薬だった。とたんに彼女は医師を偽善者とみなして軽蔑した。このことがやがて父の耳にも入ると、息子の品行を憶測して、それを問いただそうとした。

 息子は隠していようとしたが、真相を明かすことになる。父は我が子を疑ったことをわびた。やがて打ち解け、互いにタバコの火を差し出す場面には、似た者通しの親子の絆が、ユーモラスに描写されていた。この親子の会話を助手の娘が廊下で聞いていて、恥ずかしくなっていた。彼女が変わったのはそれからだった。看護師の試験勉強に励み、子どもも無事に出産する。父の医師が自分の孫のようにかわいがっている。妻を亡くし、一人息子に子どもは期待できなかったのだ。

 婚約者は復員後の突然の心変わりに、戸惑いながらも、毎日のように病院を訪ねてきていた。これまでと変わらず男所帯に食事の世話をし続けている。何度も本心を訪ねるが答えない。真実を知らせるべきだと、父が打ち明けようとするが、息子は拒絶した。最後まで知らせないまま別れることになる。待ちきれずに娘は別の嫁ぎ先を決めていた。実家の親を安心させるためでもあった。

 ここまでに6年の歳月が経ち、娘は28歳になっていた。嫁ぐ前日に別れを告げにやってくる。このままどこか遠くに逃げて行くことができればと、もしもの話をしている。思い切った告白に男は動揺して、唇を近づけたが、思いとどまった。男は見送らないと言い、女は雨の中を去っていった。そのあと助手を前にして思いをぶちまけて泣き崩れた。明らかに伝える相手をまちがっている。彼女は将来のある身だと言っている。どうしようもないやり場のない怒りに、見ている私たちもいじらしくなってくる場面である。

 梅毒の患者には妻がいて、妊娠をしていた。この男とはふとしたことから、警察で再会する。本人には自覚症状はないが、妻への感染を心配した。自分にうつったことも男には伝えたが、気の毒とも思ってはいないようで、おせっかいを怒り、殴りかかってもきた。軍医は静かに、父も医者で婦人科なので訪ねてくるように伝えて立ち去った。

 診察したときには妻はひどい状態で、入院し手術するが、胎児は死産、母体は一命をとりとめた。子どもを見たいというが、看護師はきっぱりとダメだと言い、医師も見ないほうがいいと言った。夫が駆けつけて、制止するのを振り切って生まれた子どもを目にした。私たちには見えないが、叫び声だけが聞こえて、半狂乱の姿があった。梅毒が脳に回ってしまったようだが、新生児の無惨な姿を目にしたせいでもあった。

 病床で落ち着きを取り戻した妻は、自分もあんなふうになるのかと、看護師に尋ねている。先生のように気をつけていれば、大丈夫だと答えると、妻は彼女の恋心を見て取って、鏡で太陽光線をまぶしく目に向けてみせた。冗談でひやかせる日常が戻ってきたようだった。かすかな光明を感じさせる場面である。梅毒の注射を医師に打つのが、彼女の日課になっていた。

 三人の不幸な女性の、静かなる決闘が始まる。ミルクを温める看護師の姿を見ながら、感慨深げにながめる女がいる。赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。患者さんの子かと問うと、我が子のミルクだと看護師は答えた。先生に梅毒をうつした相手を知ったとき、彼女は怒りをあらわにして飛びかかった。医師がそれを食い止めた。誰が悪かったのか。医師は呪われた運命を嘆いた。ここでも医者の宿命を引き受けて、静かなる決闘が続いている。

第346回 2023年12月9

野良犬1949

 黒澤明監督作品、英語タイトルはStray dog。新人刑事(村上)が拳銃を盗まれたことから起こる事件を、ベテラン刑事(佐藤)の力を借りて解決へと向かう話。犯人逮捕までのサスペンスではあるが、人間としての成長の物語でもある。今回も三船敏郎と志村喬のあうんの呼吸が素晴らしい。盗まれた拳銃を取り戻そうとするなかで、拳銃の密売組織が暴き出されることから、新人刑事は、思わぬ表彰を受けることになる。

 野良犬の顔のアップからはじまるが、その凶暴さは、ほえかかる声によって増幅され、私たちを圧倒する。夏の暑さがさまざまな登場人物の、繰り返し汗をぬぐう姿から、ひしひしと伝わってくる。クーラーのない時代である。事件による不快感が、そのまま季節の息苦しさと反響しあっている。

 突如起こる豪雨でびしょ濡れになりながら、犯人逮捕に向かう老刑事がいる。聞き込みに行き、重要な情報を得ると、決まってあとまで聞かずに、走るようにして、その場を立ち去っている。実直な新米刑事と対照的な、味のあるベテランの、すきのない行動がたのもしい。相棒を自宅に連れて行き、家族に引き合わせ、もてなしてもいた。子だくさんの慎ましい生活だった。

 老刑事が拳銃をもった犯人(遊佐)から襲われる場面があるが、このスリリングな展開がみどころだ。見るものをハラハラさせるカメラワークは、ヒッチコックタッチで、サスペンス映画の醍醐味をあじわうことになる。犯人をホテルに追い込むが、老刑事はひとりである。フロント係に裏口の戸を閉めるようにたのむ。相棒の新人刑事に電話をするがなかなか出ない。犯人が階段から降りてくるが、顔は写されない。子どもを連れた母親が、悪いことをすると、警官が来ているので、連れていってもらうという声を聞いている。

 刑事は電話ボックスで背を向けている。フロントにやってきた女が大音量で音楽をかけはじめる。電話口はアパートの呼び出しで、刑事を呼ぶのだが、管理人はききまちがっている。見るものをハラハラとさせるしかけが盛り込まれて、やっと電話口に出た刑事が、大声で名を呼ぶが、答えがない。受話器の外れた電話ボックスが写される。場面が切り替わったとき、雨のなか地面にたおれる黒い影が写されて、もがきながら手を動かす姿があった。

 盗まれた拳銃によって殺人がおこなわれ、慕っている刑事まで撃たれてしまった。新米刑事は悔やみ続ける。上司や同僚は盗まれたコルトは何丁もあると言って慰めている。弾痕の分析によって、やがてそれらが同一の銃から発射されたことが、確定されることになる。辞表も出すが、上司の係長はピンチはチャンスにもなるといって握りつぶしていた。犯人にはダンスホールで踊り子をしている情婦(並木ハルミ)がいて、刑事はそのアパートに詰めていた。犯人をかばっているのは、男が優しかったからだ。同居する母親が説得するが、娘は応じない。やっと犯人について語ったのは、戦地から引き上げてきたときに、全財産の入ったリュックを奪われ、そのときから社会をうらむようになったということだった。娘はそれに同情していた。

 刑事もまた復員時に同じくリュックを盗まれた経験をもっていた。それを聞くと娘の心は動いたようだった。同じ出発点にあったが、一方は殺人者に、他方は刑事になったのである。犯人を追いつめて格闘のすえ、逮捕に至るがふたりとも力尽きていた。兄弟のように同等に並んで地に寝そべる姿が印象的だった。拳銃は取り戻され、犯人の手には手錠がかかっていた。

 戦地から引き上げてきて、戦後がスタートする時代背景が、浮き彫りにされている。前回は笠置シヅ子のブギウギが世相を映したが、ここではプロ野球が時代の臨場感を高めている。密売組織の頭が野球狂だと聞き込んで、必ず現れると踏んだ刑事の勘は、五万人の集まる球場に向かった。五万人のうちからどのようにして、一人を見つけ出すかが、みどころとなる。顔はわからないが名前はわかっていた。観戦する大観衆とともにプレーをする選手の姿も時間をかけて写されていて、ニュース記録としても価値をもつものだ。

 犯人が女と朝の列車で逃げることを突き止めたのも、新米刑事の粘り強い執念の勝利だった。駅名と時間を聞き出すと刑事は行動に移した。主人公ははじめ拳銃をすりとられたときも、混み合うバスで密着してきた女(お銀)の顔を覚えていて、探し出ししらを切るのを、とことん根負けするまで尾行を続けて、情報を得ていた。駅の待合室にはそれらしき男が何人もいた。カメラは足もとを均等に追っている。冷静になって男の年齢や靴の汚れから絞りこんだ。犯人役の木村功の顔がはじめて映し出された。目があったとき相手は、たまらなくなって逃げはじめた。拳銃にあと何発の弾が残っているかも、思い浮かべながら、犯人を追っていく。盗まれたコルトには、はじめ7発が入っていた。

 一命をとりとめた老刑事を見舞って、含蓄あることばに接する。窓辺に向かい輝く未来を暗示する光の方向に目を向ける主人公に対して、老刑事はベッドに横になりながら、手鏡で窓からの景色を見つめている。ともに同じものを見ているが、見方が異なっているという点にも、注意しておく必要があるだろう。

第347回 2023年12月10

醜聞(スキャンダル)1950

 黒澤明監督作品、三船敏郎、山口淑子主演、英語名はScandal。画家(青江一郎)と歌手(西條美也子)のスキャンダルの真相をめぐっての法廷闘争を、人間の弱さを見つめることで、問い直していく。正義感からひとりの無名の弁護士(蛭田乙吉)が代理人を買って出た。うさんくさい感じもするが、画家は信頼しようと思った。相手は出版社であり、この記事により発行部数を伸ばしている。ふたりが寄り添っている一枚の写真から、憶測記事をおもしろおかしく書いたということだ。画家は雑誌を読んで憤慨し、裁判に訴えると息巻くが、歌手は沈黙を守っている。

 代理人として弁護士が出版社に乗り込むと、相手側から有力弁護士(片岡博士)の名をあげられておじけづき、おまけに社主の誘惑に負けて、接待を受けてしまう。ギャンブルも好きだったようで、競輪に誘われて持ち金がなくなると、使ってくれと札束を渡してきて、ますます深みにはまり込んでしまった。原告と被告の両方の弁護人という立場になってしまったのである。

 家族は妻とひとり娘(正子)がいたが、肺結核を患って寝たきりだった。天使のように無垢な娘であり、画家が訪ねてきたとき、父が不在で、顔を合わせていた。画家は娘のピュアな姿に引かれ、クリスマスにはバイクでクリスマスツリーを運び、歌手を誘って、娘の前でクリスマスソングを披露するまでになっていく。父が接待を受けてみやげものをどっさりと持ち帰ってきたとき、娘は悪い予感がした。父が弱い人間であることを知っていて、喜ぶよりも先に、悪いことをしているのではないかと心配した。

 スキャンダルにされた二人の出会いは、画家が雪山を描いているところに歌手が通りかかった。画家はバイクを運転してやってきた。歌手は都会生活に疲れての旅だったが、バスの時間まで3時間もあるので歩いていた。3人組とぼけた通行人が、その場にいて画家の絵の批評をしていたので、のちにだいじな証人となる。行き先の宿はたぶん同じだから、重たい荷物は運んであげると、画家は言ったが、その後どうせなら、もうすぐ終わるので、バイクの後ろに乗っていけばいいと言い直した。一連の会話を通行人たちは、はっきりと聞いていた。

 「恋はバイクに乗って」というキャッチフレーズで、街には宣伝用ポスターが貼り出されている。歌手にはファンから非難の声が殺到している。舞台のキャンセルにまで発展していく。画家は個展を開くが、話題を集めており、心配とは逆に多くの観客が訪れることになった。歌手がお忍びでやってきて、出会ったときに描いていた雪山の風景画を購入したいというが、これは画家が特別な思いがあるので、非売になっていると伝えている。

 歌手は逃げるのではなくて、画家と共闘することを決意する。弁護士が姿を現わして、訴えを取り下げさせようとして、歌手との共同の提訴でなければ裁判には勝てないと伝えたときだった。しかたなく裁判ははじまるが、弁護士の歯切れは悪く、報道では批判が書き立てられている。出版社側は先に名をあげた有名弁護士を味方にしていた。

 弁護士が勇気を出したのは、ほぼ負けが決まった法廷での最後の土壇場だった。証拠品として出したのは、出版社から振り込まれた手形だった。自分の罪を自白することで、不正な裁判であることを明らかにした。逆転勝訴となるが、弁護士が変わったのは、娘の死に接したことによる。父親の生きがいであった娘の死は、彼を回心させ、勇気を出してみずからの不正を語ることになったのである。

 勝訴した記者会見で、画家は勝った喜びよりも、星がひとつ生まれたことがうれしいと語った。彼は弁護士について、悪い人間ではないが、弱い人間だと分析しており、裏切られたとしても最後まで信じようと決めていた。父が裏切っているのではないかと案じながら死んでいった娘のことを思うと、悪人にはなるはずはないと信じたのである。壁に並べて貼られていたポスターが、あっという間に風化したように剥がれた光景を映し出して、スキャンダルというもののありかを伝えていた。

第348回 2023年12月11

羅生門1950

 黒澤明監督作品、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、芥川龍之介原作。大雨の降るなか羅生門に行き合わせた3人の会話から、浮かび上がってくる不思議な物語である。頭を整理しないと混乱が連続する。ひとりの女をめぐるふたりの男の争いを通して、さまざまな見方で、人の信じられない世の中が浮き彫りにされていく。雨があがって、捨て子の鳴き声を聞きつけて、事件の目撃者でもあった6人の子持ちの男(志村喬)が、6人も7人も変わらないと言って連れて帰るまでの、長いひとときのミステリーだった。

 何が真実かがわからないまま終わってしまい、疑惑だけが残るというのは、しばしばあることである。法廷での証言のような形で、みんなが真実として語っているのだから、どれかひとつしかないという現実社会での常識を離れたところに、このドラマのおもしろさがある。証言に立ったのは、林の茂みにまで入り込んで死体を発見した、先の木こりの男のほか、行き合わせた旅の僧侶(千秋実)、三人の当事者たちである。みんないうことがちがう。

 話はこうである。妻(京マチ子)の乗った馬を引いて歩いていく武士(森雅之)がいる。女は傘をかぶりヴェールに隠されて顔は見えない。路端で休んでいた多襄丸と呼ばれる盗賊(三船敏郎)の前を通り過ぎるとき、女の妖艶な美貌に目がうばわれた。盗賊は武士を殺して女を掠奪した。

 これがオーソドックスなストーリーである。ひねりが加わると、女は夫よりも盗賊の野生に惹かれて、夫を殺してしまう。縄目に掛けられさらに妻を奪われた不甲斐なさに、夫はみずから命を断つ。いずれにしても武士が死んだというのが事件で、それがあるから裁判がなりたっている。そしてその推理がさまざまだという話だ。

 おもしろいのは殺された武士にまで語らせていることだ。死者の無念をよみがえらせて、巫女姿の霊能者に乗り移って話しはじめるのである。さらには目撃者が、異なったふたつの証言をする。はじめは事件に関わりたくないので、武士が殺されていることと、散らばっていたや烏帽子や縄のことだけを言うが、ほんとうは武士が縛られていたところから見ていて、話し直している。女のもっていた守り刀は、盗んだようだが黙っている。

 妻の心変わりに夫が怒りをぶつけたり、妻が強いほうについて行くと言ったり、夫を裏切る妻に盗賊のほうが、あきれてしまい、ふたりして女を遠ざけてしまったりと、思いもつかない展開も考えられて、なるほどそんなこともあり得るなと、人の世の非情に納得してしまうことにもなる。つまりは人の心はわからないということで、コケティッシュな女と、冷ややかで無表情な武士と、粗野な盗賊が織りなす、さまざまな事例を楽しむことになる。

 推理小説だと犯人はひとりに確定しなければ、落ち着きが悪いが、ここでのねらいはどれだけさまざまなパターンが思いつけるかにある。武士が死ぬことになるなら、そこに至るまでは、何でもありで、私はこう考えるという提案を待っている、参加型の映画だといえる。映し出されたイメージが真実か、こうあってほしいという願望か、こうあってほしくはないという怯えかがわからないままというのが、映画の特徴であり、その特性を十分に踏まえたうえで試みられた実験作といえるだろう。いずれにしても死人に口なし、真実は藪の中なのだ。

 羅生門という看板もった半分焼失した門は、人物を入れて写されると、巨大なサイズなのに驚く。東大寺の南大門を彷彿とさせるものだ。荒廃した南都の姿が、再現されている。そこに三人がぽつんとたたずんでいるのだが、雨の量も半端ではない。土砂降りが大音響をともなって撮影されている。妥協を許さない徹底した絵づくりは、それだけでも充分に感銘を与えるものだった。門の太い大黒柱を背景にして監督名が読み取れた。

 門にいた三人の男たちは、捨て子をみつけるとひとり(上田吉二郎)はくるんであった布団をはぎとって、雨のなかを持ち去った。ひどいことをすると非難されると、ひどいのは置き去りにした親のほうだと答えた。捨てざるを得ない事情があったので、ひどいならこんな布団に包むことなどしないと、さらに言い返した。僧侶が赤子を抱き抱えて、問答を聞いている。

 雨が上がり、子だくさんの木こりが、赤子をうばったとき、僧侶は衣類まではがすのかと疑った。男は育てるのだといって、その子を抱いて、雨上がりの羅生門を去っていった。まだ良心の残る世の中に、僧侶は安堵の表情を浮かべて、それを見送っている。カメラのわきを通り過ぎるのは「第三の男」のラストシーンを思わせる、余韻を残すカメラワークだった。

第349回 2023年12月13

白痴1951

 黒澤明監督作品、ドストエフスキー原作、英語名はThe Idiot。処刑される寸前で命拾いをした男の、精神疾患から引き起こされた、白痴のもつピュアな魂の記録である。純真な心は、悪を浄化するものではあるが、逆に純真な心が、悪によって傷ついてしまうことにもなる。主人公(亀田)は執拗なまでに、原節子演じるひとりの女(那須妙子)を追い求めている。

 舞台は札幌である。寒々とした雪景色がロシアの風土を思わせ、雪まつりやスケートの光景が抒情性を高めていく。はじまりは町の写真館のウィンドウに飾られていた、一枚の写真からだった。そこに写っていたのは、列車で偶然出くわした、三船敏郎演じる粗暴な男(赤間)の愛する女だった。主人公を演じる森雅之は、写真を食い入るように見つめている。その女をはさんで、ふたりはライバル関係をなしていく。両者の対比は、前作の「羅生門」から引き継がれたものだ。ふたりはともに一人の女に翻弄されている。この三人を中心にして、話は進んでいく。

 現金をちらつかせて女の心をつかもうとする男たちと対照的に、この主人公は荷物ひとつで何ももたない。女に求婚する男たちを向こうに回して、自分が彼女を守るのだと言い出す。まわりから冷笑が起こったとき、女は彼にしたがうと答える。あざけりの笑いにたえられなくなって、主人公が広大な土地を所有する財産家であることが明かされる。財産の管理と称して、純朴な魂は何も知らされないでいた。

 言い出したのが狡猾な悪人だったとしても、ピュアな魂があざけられることにたえられなかったのである。純真は財産をも凌駕する。それを知ったとき、女は手のひらを返したように、現金をちらつかせた男に、心変わりをしてしまう。おまけに札束を暖炉に投げ入れて燃やしてしまうのだ。札束は燃やされても、女の心をつかんだという満足感は、男にはあった。女は男とともにその場を去っていった。その日から主人公は、この女を追いかけ始めるのである。

 男の実家を彼は訪ねている。そこには女はいなかった。男は母親と暮らしていた。どうしてここがわかったのかと尋ねると、彼はここに導く霊力があったことをほのめかしている。老いて記憶力も衰えかけている母親が食事の世話をするが、彼を気に入ったようだ。純真な魂と響きあったのだろう。

 主人公は男に、この女といっしょにいてはいけないと、断言する。男もまた卑しい自己を鏡写しにされたように、彼を気にかけており、憎しみや苛立ちをもちながら、面と向かって対すると優しい気持ちになってしまう。啓示を受けたように、はては女を譲るといって、敗北宣言をして、第一部が終わる。ここまで女は登場しないままだった。

 第二部では、久我美子演じるもうひとりの女性(大野綾子)が登場して、主人公をめぐっての対立関係が、重要な骨格をなしていく。第一部から彼との関わりはあったが、ここでは結婚相手として存在感を高めていく。わがままな良家の子女だったが、彼の純真に引かれ続けていた。

 ライバルの女に夢中になる姿を目にして、遠い存在となってしまっていたが、女から手紙をもらい、あなたが彼と結婚すべきだと示唆する内容だった。女はこの娘を天使のような存在と考えたのである。女と生活をともにする男は、彼女が主人公を愛していることをわかっていて、その事実も伝えていた。汚れた自分がふさわしくない存在だと自覚して、女は汚れなき男を娘に託したようにみえる。

 娘は主人公に積極的に近づく。彼も毎日のように娘の家を訪れた。娘の喜怒哀楽を目にしながらも、優しい目で、それを見つめ続けている。家族の食卓に同席したとき、彼は赤い花をもってきて、彼女に捧げた。それは愛の花言葉をもっていたが、知らないでいたのだった。そういうつもりなのかと問いただされて、彼はうなづいて、彼女が好きだといった。好きにもいろいろあると追求されると、結婚をほのめかした。父親は複雑な思いだったが、母親は内心喜んでいたようだった。

 娘は彼が追い続けている女に、会ってみたいと思った。彼女から手紙をもらっていることも伝えた。主人公は以前にも出かけて行った、女を囲っている男の実家に、娘を連れていく。娘は仲良くなれる人かもしれないと期待した。ふたりが顔を合わせたとき、女は鋭いまなざしで娘に対した。娘はそれに応えるように、視線を投げかえし、強いことばを発した。ふたりのやり取りを、主人公はおどおどしながらみている。女はふたりの結婚をうながすはずが、娘は天使などではないと判断し、彼に二者択一を迫った。どちらも選べないまま、彼が女と見つめ合うのをみて、娘はいたたまれなくなって、吹雪のなかを逃げ去った。

 娘は倒れ、高熱を出して寝込んでいる。ひとりで返すなど非常識だと親は怒りをあらわにするが、結婚しなくてすむことから、父親はほっとしている。女は男のもとに戻った。主人公は心が落ち着いたころに、男に呼ばれて自宅に訪れると、寒いなか、明かりもつけないでいた。女は眠っているといわれて、部屋に入ると、主人公は悲鳴をあげた。女の姿は見えないが、死んでいたことがわかる。寒いなかでいたのは、死体のにおいを気にしたからだった。ふたりの男は、共犯のように寄り添いながら一夜をすごした。主人公はさらに精神を悪化させたようで、娘の母親が見舞う姿があった。白痴をあざける声を耳にしながらも、娘は彼が救世主であることを確信し、白痴なのは自分たちのほうだったと気づくことになる。

 ここで気にかかる不可解は、主人公より以上に、彼の追い求めた女の心のことだ。彼がなぜ、この女に引かれたのか。単純に美貌に魅せられたからか。不幸な女を救いたいと思ったからか。主人公の心情に対して、この女の心は複雑だ。一瞬にして心変わりをしてしまう姿に唖然とする。突然現れたり消えたりもする。気まぐれという論理を超えた感性に、じつは真理がある。気まぐれでありながら、世界を支配する絶対者の存在については、あらためて考えてみる必要がありそうだ。

第350回 2023年12月16

生きる1952

 黒澤明監督作品、トルストイ原作。役所に勤める男たちの無気力を告発しながら、死に瀕したときに、やっと本気で「生きる」ことになり、人間性を回復するのだという物語。志村喬の演じる主人公(渡辺勘治)は、市役所の市民課長である。山積みにされた書類に、あいも変わらずハンコを押すだけの仕事にみえる。

 レントゲンで見つかった胃ガンで余命半年だが、本人には知らされていない。待合室で話しかけてきた男が、医者は軽い胃潰瘍だというと、それは胃ガンのことだと言う。診察室に入ると医師はその通りのことを言った。不安げな迫真の演技が光っている。当時は現代のように治る病ではなかった。死刑宣告にも等しく、本人はうすうす感じてはいる。役所生活30年、これまで自分は何をしてきたのかを問い直す。

 生きがいを見出したのは、町のすみに小さな公園をつくることだった。市民グループが陳情にきて、たらい回しにされていた案件である。できるだけ仕事をしないように、よその課に投げてしまう、その件なら〇〇課に行ってくれという受け答えは、役所で今も続く常套句である。多くの場合、この体質を前に腹を立てて、政治家に頼みに行くというのが定式だが、ここでもそれが描かれていた。主人公はガンを確信したとき、無断で役所を休む。家族にも連絡しないままだった。

 妻をはやく亡くし、ひとり息子(光男)を男手ひとつで育て、今では嫁をとり同居していた。子どもの頃のエピソードが、はさまれている。野球の応援に出かけ、息子がヒットしたのを隣の男に、あれは我が子だと、親バカから自慢しようとしている。塁を狙いすぎてアウトになり、隣で罵倒の声がすると、とたんに黙ってしまっていた。息子夫婦は父の面倒をみてやっているという意識が強く、退職金や財産をあてにしている。

 親子の絆は希薄で、病気をしても相談相手にはならない。ガンであることを告白した相手は、家族でなく二人の他人だった。ひとりは飲み屋で出会った三文文士で、遊び場所をよく知っていた。人混みで帽子をかっぱらわれるが、追いかけると身ぐるみはがれるので、新しいの買うほうが安いと教えている。主人公は多額の現金を手にしていて、これまで経験したことのない遊びを、この男について行くことで体験した。パチンコからはじまってダンスホールへと飲み歩いたが、充実感は得られず、一時の気晴らしにしかならなかった。

 もうひとりは役所の部下の若い女性(小田切とよ)だった。彼女は役所をやめていて、町でばったりと会った。ご馳走をしてやって話し相手になり、自宅にまで連れて行く。息子夫婦はいかがわしい目で見ている。その後、帽子も買い替えていて、この娘に大金を使っているのだと誤解をし、父親を叱責することになる。主人公は娘を我が子のように接して、やすらぎを得て、敗れた靴下をはいているのをみると、プレゼントもしている。

 不自然なつきあいが度重なると、娘のほうは警戒感を抱きはじめる。娘が嫌悪感を示したとき、自分はガンであることを打ち明ける。娘は役所づとめでは見出せなかった生きがいを、今の工場勤めでみつけたことを伝え、ウサギのおもちゃ取り出してみせた。つくり出す喜びを娘にさとされたようにじっとみつめ、啓示を受けた主人公は、自分に残された仕事を思い起こすことになり、役所への復帰を決意した。門出を祝うハッピーバースデーの歌声を背後に、階段を降りていく。入れ替わりに誕生日を迎えた娘があがってくる、粋なカメラワークが冴えていた。

 主人公の再出発の場面に続くのは、いきなりの葬式だった。遺影が飾られ、家族や役所の上司や仲間たちが集まっている。生前の姿を回顧しながら、公園の建設に情熱を燃やした話題が語られる。主人公の功績だと評価する者もいれば、役所の担当としての仕事をしたにすぎないという者もいるが、陳情した市民たちが焼香におとずれ、涙を流す姿を見ることで、ことの真実が伝えられる。報道陣も押しかけ、町の声は課長のおかげだと言っているが、記録には一言も名前が出てこない理由を問いただしている。雲行きが怪しくなって、公園は自身の功績だと誇っていた市の助役をはじめ、上司たちは退席した。

 本人はガンであることを知っていたのかという問いも、同僚の故人とのエピソードが語られることで明らかになっていく。ヤクザの嫌がらせにもあったが、屈しなかった。夜の公園でブランコに乗って、「命短し恋せよ乙女」を口ずさむ最後の姿をみかけた巡査も、焼香にやってきた。断片のエピソードをつなげ合わせながら、主人公の最後の数ヶ月を浮き上がらせる手法はミステリアスで、謎を解明していく犯罪捜査のようなスリルに満ちていた。息子もそれを通して、父の残した愛と誠に、やっと気づくことになった。

第351回 2023年12月18

七人の侍1954

 黒澤明監督作品。農民が侍を雇って村を守る話である。40人ほどの野武士の集団が襲ってくるというので、それに対抗するために、町に出て武士を探すことになる。映画は野武士がこの村に狙いをつけるところからはじまる。地響きを立てて疾走する騎馬の群れに、まずは驚かされる。まるで西部劇だ。それを目撃し、もくろみを耳にした農民のひとりが、村に帰って報告する。自力で村を守るという声もあったが、それでは全滅してしまう。野武士に村を明け渡し、慈悲に訴え、最低限のものを残しておいてもらおうという者もいた。村の長老に相談され、武士を雇うことになったのである。

 村人の代表四人が町で剣豪を探すが、どのようにして見つければいいのかがわからない。たまたまならず者が子どもを人質に立てこもった事件に出くわし、志村喬演じる老武士(勘兵衛)が、みごとな腕前で解決するのをみて、目をつける。木村功演じるひよわげな若武者(勝四郎)と三船敏郎演じる粗暴な浮浪人(菊千代)も、その場に居合わせていて、その武芸に引かれて近づいていく。若武者はひざまづいて弟子にしてくれと教えを請い、浮浪人は遠巻きにみながら歩みをともにしている。

 腹一杯めしが食えるだけの謝礼しかないが、老武士は農民のために一肌脱ぐことを決意する。山盛りの白米を前に、自分たちはヒエを食っているのを知って、これを無駄にはしないぞというセリフが、印象に残る。野武士の数を考えると、仲間が七人は必要と判断し、通りをゆく武士に声をかけていく。入口で若武者が棒切れを構えて、相手の腕前を確かめようとしている。最初に出くわした剣豪は、理由を話すと、ばかばかしいと言って相手にしない。農民を助けることには興味はないが、貴公に惚れたという侍(五郎兵衛)も現れた。

 個性のちがう仲間が、ひとりづつ集まっていく経過が、丹念に描き出されていて、見ているほうも、わくわくしながら、心強い軍団になっていく姿を実感できる。若武者は前途に希望のある身であり、老武士から国に帰れと命じられるが、仲間の取りなしがあって、武士の一員に加わった。

 人数が集まって、村人に先導されて村に入るのだが、歓迎されるでもなく、ひっそりとしている。先導役が呼びかけるが、誰も出てこない。武士を怖がっているのだ。娘のいる家は、長い髪を切って、男に見せかけようとまでしている。そんなとき突然、警鐘を鳴らされて、村人たちは驚いて家から飛び出してくる。野武士の襲撃と思ったのである。

 このとき老武士は指導力を発揮して、仲間や村人に適切な指示を与え、信頼感を獲得することができた。誤報であることがわかると、だれが警鐘を打ち鳴らせたのかを問うた。浮浪人が笑いながら出てきた。迷惑な話だが、これによって農民と武士とのコミュニケーションが築かれた。

 役に立ちそうだと認められ、浮浪人が七人目の侍に加わった。最後のひとりが見つからないまま、6人でいたのだった。彼は武士の系図をもっていて、本人の名前も書かれていると主張している。老武士がそれを読むと、菊千代という名の13歳の子どもにあたるので、化けの皮がはがされた。武士ではないことが見破られ、農民の出身なのだろうと憶測されている。七人のうち剣の達人は三人ほどで、他はムードメーカーであったり、協調性に優れていたりと、さまざまだ。逃げるのが得意という者もいる。

 農民出身だからこそ、農民のことがよくわかる。彼らが槍や鎧など武器を隠し持っていることを見破ったのもこの男だった。こいつらはごっそりと財産を蓄えているのに、持たないふりをしているのだと言っている。農民を集めて、竹槍の訓練をしていたとき、ひとりだけ本物の槍を持っていたのだった。

 村の地の利を把握し、図面を描いて、敵の攻め手を予想する。樹木を切り倒して砦を築く。外れたところに立つ住居は切り離して、守りの砦を小さく囲う。この作戦に反発したのは、外回りに住む住民だった。のちに野武士の襲撃で真っ先に焼き討ちをかけられることになる。自分の家を守ると言って、何人かが立ち去ろうとしたとき、老武士は殺意をあらわにして、彼らの行動を封じた。一丸となって和を保たなければ勝つことはできない。ここまでが前半である。

 農民の生きぬく知恵に利用されて、人のよい武士が命を落としていった。これが後半のテーマとなる。剣の達人(久蔵)も銃の前に、あっけなく命を落とした。三丁ある鉄砲は二丁は奪ったが、一丁が残っていた。老武士が最後に感慨深げに語るふたつのセリフがそのことを物語っている。三人だけが生き残った。老武士と若武者、それに加東大介演じる旧来からの腹心(七郎次)で、ふとした偶然から顔を合わせ、仲間に加わっていた。

 老武士は「今度もまた生き残った」と言い、「今度もまた負けいくさだった」とも言った。腹心はそれを聞いて、なぜという顔をしている。農民たちは勝ちいくさを祝って、大声で歌い踊りながら、田植えを続けている。誰も武士に見向きもしていない。対照的に土まんじゅうに刀を差した墓が四基並んでいるのが写される。若武者と農民の娘(志乃)とのラブロマンスや、妻を野武士に奪われた農民(利吉)の怒りを抑えようとして、命をなくす武士(平八)の無念もはさまれるが、大部分がスピード感に満たされたアクション映画につきるといえるだろう。

 馬もよく走るが、人もよく走る。とりわけ主役を演じる志村喬の、アクションスターかと思わせる機敏に疾走する姿は、前作の「生きる」で見せたゆっくりとした能楽師のような演技と、対比をなし鮮やかだ。左卜全の狂言師を思わせるとぼけた演技は、前作をそのまま引き継いで、黒澤映画の定番にもなっている。大河内傳次郎からはじまった黒澤映画の主役が、志村喬を経て、三船敏郎に至って、大輪の華となるはじまりの映画である。

 何のために戦ったのか。農民を救うという大義名分や正義感が、無に帰されてしまうのは、敗戦を経験した日本の戦後と抱き合わせて考えると、意義深いものとなるかもしれない。そこでも純真な多くの若者の命が失われたのだった。あのとき声をかけて、行動をともにした仲間が、命を落とした。生き残った老武士は墓を見上げながら、自分の正義感がまちがっていたと、思っていたかもしれない。哀愁を帯びたラストシーンは、裏腹ではあるが、華々しい戦闘場面だけを賛美する戒めとなるものだと思った。

第352回 2023年12月19

生きものの記録1955

 黒澤明監督作品、三船敏郎主演、英語名はI Live in Fear。原爆と水爆の恐怖から精神に異常をきたした老人の末路を描く。核実験が太平洋で繰り返され、日本の漁船が被曝した時代背景を、まずは思い浮かべておく必要がある。一族を連れてブラジルに移住しようと急に言い出す。工場の経営者で資産は十分にあった。子ども夫婦は、長男と次男と長女、さらにはめかけも二人いて、その子も連れていくと言っている。子どもたちは家庭裁判所に訴えて、訴訟にまで発展する。みんなを集めて、父親は頭を下げて子どもたちを説得するが、従おうとはしない。行くならひとりで行ってくれという反応である。父の被害妄想は雷の音にもおびえるまでに至っている。

 子どもたちは、今の幸福を捨てる気は全くない。父の悲痛な訴えに、母親をはじめ何人かは同調するが、緊張のあまり倒れたときにも、心配する者は限られている。多くは死後の遺産のことに思いをめぐらしている。工場はどうするのだという具体的な問題は、棚上げにされていた。そんなとき工場が火災で燃えてしまう。担当者の不注意のようにみえるが、じつは父が自分で火をつけたと言っていて、子どもたちにあきらめをつかせようとしたからだった。

 子どもたちは、父の精神錯乱だとみなして受けあわない。従業員が自分たちはどうなるのだという声を聞いて、父ははじめて自身の無責任に気づき、他人ごととして眼中になかったことを思い知った。最後には従業員も連れていくとまで、いいはじめた。いくら資産があるといっても、そこまでは無理だと、みんなは唖然としている。

 裁判所の調停役として、志村喬演じる民間の歯科医が加わっている。老人には同情的で、精神科に入院したとき、見舞っている。囚人室のような個室に入っていった。窓からみえる太陽を、地球が燃えているといっていて、自分は他の星に逃れたと思っているようだった。そう言われると、確かに地球が終末の日を迎えて、燃えているようにみえてくる。入れ替わりに、孫のような幼子を連れて見舞いにくる、めかけのひとりとすれちがっていた。映画には画面で「終」の文字が出るが、そのあともしばらく暗闇が続いて、音楽だけが流れているのが、印象的な余韻を残していた。

 老人は精神が破綻してしまったのだが、調停人が見舞うなかで、狂っていたのは自分たちのほうではなかったのかという問いかけがされていた。恐怖におびえるのは一瞬のことで、多くは麻痺して驚かなくなってしまうものだ。オオカミがきたは、何度も繰り返されると、やがて慣れっこになり、しまいには自分が食われてしまうことになるのである。水爆実験に出くわした漁船の悲劇は、今も恐怖として引き継がれている。ミサイルが頭上を飛び越えて、海に落下しても、ああまたかというだけで、驚かなくなってしまったとすれば、狂っているのは、確かに私たちのほうだろう。

 教訓はすぐに風化してしまう。津波の恐怖を忘れて海岸ベリに家を建て、原発は再稼働する。極端な人格に誇張されて描かれた、この映画の違和感から、教わるものは少なくないように思った。35歳の俳優に老人を演じさせたブラックユーモアを考えてみる必要がありそうだ。これまでの流れでいえば老人役は、三船敏郎ではなくて、志村喬だったはずである。

第353回 2023年12月20

蜘蛛巣城1957

 黒澤明監督作品、三船敏郎主演、英語名はThrone of Blood。血染めの玉座である。最終目的は天下を取るという野望に満ちた戦国の世を背景にした、ひとりの武将(鷲津武時)の生涯である。主君(都築国春)に忠誠を誓っていたが、妻(浅茅)の甘言に乗って、野望をいだき、一国一城のあるじとなるが、自分が奪ったのと同じように奪われて、はては命をも落としてしまう。シェイクスピアの「マクベス」を原作にして、複雑で重厚な人間関係を、戦国時代に置き直して、日本文化、ことに能楽の美学を前面に出しての演出となった。

 手柄をあげて一の砦と、二の砦の大将が、蜘蛛巣城に引き上げてくるが、途中の森で迷いもののけに出会う。未来を見通して言うには、一方は城主に、他方は一の砦の長に、その子はのちの城主になるのだという。ふたりは竹馬の友であったが、疑惑がもたげてきて、悪意をいだきはじめる。そこでも妻の勘ぐりが、ふたりの仲を裂くことになる。もののけの予言を友(三木義明)は、主君に伝えたにちがいないと言うのだ。

 手柄の恩賞は、友は予言通りで、一の砦のあるじとなったが、主人公には北の館が与えられた。砦に比べれば、格別の住環境となり、本人は満足したが、妻は満足しなかった。主君はもののけの予言のことを知れば、殺しにやってくるにちがいないと言う。そして確かに主君が家来を連れて、この館を訪れてきた。ただし主人公を成敗するためではなかったが、妻は夫をそそのかして、先手を打ち、主君を亡きものとする、またとない唯一の機会だという。槍を握らせて有無を言わさせない。

 恐ろしいまでの女の、夫を誘導する情念を、山田五十鈴がみごとに演じている。無表情な能面のような押し殺したしぐさが、夫のからいばりと共鳴しあっている。夫は悪人ではなかった。その姿はエデンの園でイヴに誘われて、リンゴをかじってしまったアダムに似ている。

 予言には疑問があったが、ふたりは黙っていた。主人公が城主になり、友の子(三木義照)も城主になるとは、どういう意味なのかということだ。主人公はこう解釈した。主人公には子はなかった。あと取りに友の息子をもらうことを約束する。それによって友も安堵すると。ところが子の産めないからだだと思っていた妻が、みごもってしまう。それによって友情に亀裂が入って、はては殺意にまで発展した。さらに我が子を死産することで、悲劇はさらに加速していった。

 復讐は着々とすすんでいた。友の子は暗殺の難を逃れ、主君の子(都築国丸)とともにいた。そばには志村喬演じる、頼もしい参謀役(小田倉則安)が控えている。蜘蛛巣城を取り戻しにやってくる。主人公が矢に煽られて殺されるまでの迫力は、現代ではCG映像で処理されるのだろうが、俳優の演技を超えた恐怖となって伝わってくる。身体中に矢が突き刺さり、首を貫いた一本の矢を見ながら、西洋人はその姿を聖セバスティアヌスの殉教図を思い浮かべるにちがいない。日本人なら弁慶の立ち往生だろうか。

 友はふたりで力を合わせれば、天下を取れたかも知れない。一方は弓矢を手にし、他方は槍を手にしていた。もののけに出会ったとき、主人公が弓矢を弾こうとしたのを止めた友は、槍を手にして近づいていった。このふたつの武器は、互いに反発し合うものではないが、どこかで歯車が狂ってしまった。ふたりで天下を取る例はない。権力者はいつも一人であることを、歴史は教えてくれる。主人公が君主を殺害するのは槍で、自分が殺害されるのは弓矢だったというのが、象徴的に見え出してくる。その後のことを考えると、生き残った君主の子と友の子を、友情を築くのにふさわしい同年齢に見せることで、繰り返される歴史を暗示して深みのある余韻を残すことになった。

 ストーリー展開で、人間の愚かさをしみじみと伝えながら、映像でしか実現できないスペクタクルを、贅沢に示してみせた。巨大な城の城門や柱の梁を一つ取ってみても、役者の演技ではびくともしない重々しさが、実感できるものだった。それを霧でおおい、ヴェールで包むことで、さらに神秘性を高めている。カラー映画ではないことが惜しまれるが、白黒によって実現できる究極の映像美だった。

第354回 2023年12月21

どん底1957

 黒澤明監督作品、英語名はThe Lower Depths。ゴーリキーのロシア文学を原作としながら、舞台を江戸時代の貧しい庶民生活に置き直している。つっかい棒をした借家は傾きかけている。比較的広いワンフロアに、雑居する住人たちの、生産性のない無駄話が続いている。女たちもいて、夫婦ものであったり、娼婦だったりしたが、男たちはあいも変わらず酔っ払っている。職業はさまざまで、決まった時間に、まともに稼ぎに出るのは、飴屋ぐらいだろうか。過去の栄光に生きる、殿と呼ばれる元武士もいるが、今は身を持ち崩している。

 家主夫婦がときおり顔を出しても、まともに家賃を支払う者はいない。夫(六兵衛)は老人で狡猾そうにみえる。嫌々ながら連れ添っている妻(お杉)は若づくりをしていて、住人のひとり(捨吉)に惚れている。武士のような風格をもつが短気で怒りっぽく、殺人歴もある盗人である。この男は妻に言い寄られて、ずるずると関係をもっている。この妻には同居する妹(おかよ)がいて、男はこの娘を愛している。妹は思いやりのあるいい子なのだが、男にはたいした関心はなく、適当にあしらっている。

 三船敏郎演じるこの色男と、山田五十鈴演じる姉との愛憎が、群像劇と思える物語の格となる大筋をかたちづくっている。そこに亭主役の中村鴈治郎と、妹役の香川京子がからんで、味わい深い演技力をみせながら、さらに難しい人間関係を紡ぎ出し、はては殺人事件にまで発展する。前作の「蜘蛛巣城」を引き継いで、愛憎が引き起こす男女の情念がすさまじい。ことに妹への嫉妬が噴出する姉の錯乱は、特筆に値するものだ。夫は妹にも目をつけているようで、この人間関係も浮き彫りになっていく。

 左卜全がこれまでのとぼけた役柄を引き継いではいるが、含蓄のあるセリフを発する賢者の風格を漂わせて、たのもしくみえる。巡礼姿の旅人(嘉平)として、この簡易宿泊所に住み着いてしまうのだが、わけあって長くは居付かず去っていった。殺人さわぎがあって、役人が出入りすると、いつのまにかいなくなっていた。手配中のお尋ね者だったという噂も飛び交っている。

 巡礼者があいだに入って、さとすように妹を説得し、彼女を愛する男の思いを受け入れて、二人してここを去ることを勧めている。二人が寄り添っていたところを、姉が目にすると嫉妬に狂い、はては半狂乱状態となり妹に暴行をはじめる。色男が仲裁に入ると、家主が出てきてもみあいになり、殴られたはずみで死んでしまう。姉は男への愛が憎しみへと急変していて、妹と結ばれることなく、島送りにされることに喜びの笑みを浮かべた。妹は姉と男との関係を思い起こして、ふたりして旦那を殺したのだと言い出した。

 男は思いもかけない成り行きに、娘に釈明するが、聞き入れようとはしない。目明しがやってきていた。色男は貧乏くじを引いたようだった。愛する娘を救おうとした純真な思いが、あだとなって、身を滅ぼしてしまったのである。住民たちはそんな悲劇も、すぐに忘れてしまい、見ている私たちにとっては何の興味も起こらない、その日その日を享楽的に過ごし、踊りあかす騒がしい日常が続いていく。仲間の自殺が伝えられても、一瞬は耳を傾けるが、それ以上のものとはならないようだった。

第355回 2023年12月24

隠し砦の三悪人1958

 黒澤明監督作品、ベルリン国際映画祭監督賞受賞、英語名はThe Hidden Fortress。戦国の世、戦いに敗れ、姫(雪姫)を守って、お家再興のための軍資金をもって、逃げ延びる話。主演は三船敏郎演じる武将(真壁六郎太)で、農民上がりの二人組(太平と又七)を、うまく使いながら目的をとげようとする。金の延べ棒を隠してあるのは、敵の目につかない山奥の隠し砦だったが、とぼけた二人組が、金に目がくらみ欲望にとらわれてやってくる

 はじまりはこのふたりが加わった戦いが終わり、国に帰ろうとしている。鎧をつけた武士が、残党狩り騎馬兵に追われて殺害されると、ひとりは死者の鎧をくすねて身につける。そのために敵兵とまちがわれて捕虜になってしまい、友と別れ別れになる。友もその後捕虜となったが、再会でき、ふたりは反乱のどさくさに紛れて逃亡する。山奥に逃げ込んで金を埋め込んだ薪を発見すると、謎の男が現れ、導かれて砦に連れていかれ、埋蔵金の話を聞かされる。エジプトの王家の谷を思わせるような、魅力的な白い岩肌をみせる神秘的風土が写し出されている。

 二人をだまして、運搬役として使おうというもくろみは、順調にすすむ。金は薪に埋め込んであったが、馬と人の背にかついで運ぶことになる。姫は謎の女として素性を隠すが、唖者だということにして、切り抜けようとした。敵兵が関所を固めているときは、知恵を働かせて通過する。砦を遥かにのぞむところまで行き着いたとき、砦から火の手が上がった。敵に発見されたのだと、残してきた仲間の無念を思って、姫は涙している。

 宿場町にたどり着くと、薪を表に出したままで宿を取る。通りかかった武士が、いい馬なので売ってくれと金を出し、有無を言わせずに持ち去ってしまった。ならず者も多く、身売りをされている娘を憐れんだ姫が、その金で娘を買い戻す。娘は感謝をして一行に加わった。馬をなくして、荷車に薪を乗せて引いてゆく。救われた娘も手伝い、それを押している。追手がやってきて、馬に薪を乗せた女連れの一行を見かけなかったかと問うている。あわただしさは、関所を通過させてしまった失態を、取り戻そうとするあせりからだった。馬を手放したのが、命拾いになったようだ。

 追手は続いてやってくる。怪しまれて戦いになり、蹴散らしたが、何人かを取り逃したとき、武将は馬で追いかけてまたたくまに敵を倒した。みごとな手綱さばきである。手綱ももたないのでアクロバットというほうがよいか。追いすぎて敵の陣にまで入り込んだとき、今は敵将となった知己の友(田所兵衛)と顔をあわせた。槍の一騎打ちとなり、息詰まる槍試合が続く。武将が勝利を得ると、相手の命を奪うことなく立ち去った。家来は黙ってそれを見ていた。そのために敵将は生き恥をさらし、主君からは手ひどい傷を、顔につけられることになった。

 逃げ切れない結末は、姫と武将が縄につながれるが、そのときの顔見聞に、敵将が姿をみせた。命を救われたことに感謝して、この二人は別人だというのではないかと、予想したのだが、ちがっていた。あの時、生かされたためにこんな顔になったと言って、おのれの恥を伝えた。姫はそんな主君はあり得ないと憤りを語った。敵将は思うところがあったのだろう。その後、味方を裏切って二人を助けることになる。

 武将が戻ったとき、誰もいなかった。火祭りのために大量の薪を運ぶ一群に紛れ込もうとしたのだった。それがおとりだと知ったときは遅かった。取り巻きの兵士が、この薪の運搬に紛れ込もうとしているはずだと、注意を促している。流れを外れることができず、ここでも武将は、思い切って薪を火に投げ入れた。燃えさかる火の回りを踊りあかす火祭りの光景は、もう一つの見どころだ。二人組はそれどころではないが、姫と武将は浮かれたように踊っている。明くる朝、灰になった地面から、金を掘り集めている男たちの姿があった。ここでも二人組は運びきれないほどの、金を背おうとして、逃げ切れるかも度外視して、強欲の餌食と化していた。

 二人組は大金を前にすると仲たがいをして、醜く争いあうが、何もないと仲のよい友だちだ。最後にあやしまれて捕まり、庭先に引き出されたとき、前には姫と武将がいた。武将はふたりの働きに感謝を伝えたが、軍用金は姫にも自由にならないものだと言って、金一封を手渡した。ふたりは裁きを受けるものと思っていたので、安堵するだけで十分だった。わずかな金を前にして、譲り合う仲のよい姿が、そこにはあった。

第356回 2023年12月26

悪い奴ほどよく眠る1960

 黒澤明監督作品、英語名はThe Bad Sleep Well 。汚職の隠蔽による悲劇はあとをたたない。父親(古谷)が自殺に追い込まれた真相を明かそうとして、息子(西幸一)が立ちあがる。名前を偽って、娘に近づき、娘婿におさまって、探りを開始する。はじまりは結婚式の披露宴からだが、娘は足が悪く、引きずりながら歩いている。疑惑を嗅ぎつけて、大勢の報道陣が押しかけている。娘を踏み台にしてのしあがっていこうとする、花婿の野心がささやかれている。警察もやってきて、聞き取りをはじめようとしている。司会をしている課長は、それをみて、おどおどとしている。

 復讐を果たすことができず、殺されてしまった男の無念は、父のそれを引きずっている。今も繰り返される連鎖である。社会悪を告発する社会派ドラマだが、心を許したが最後、命をなくすのだということを教える。非情にならなければ、目的は果たせない。娘の愛を受けとめたがために、殺されてしまう。悲劇はどんな悪い奴でも、自分の子どもにまでは悪人になれないという、種の本能から引き起こされたものだ。

 悪い奴(岩淵)には息子と娘がいた。息子(辰夫)は父の正体に気づいていて、嫌っている。娘(佳子)は自分にとっては優しい、最愛の父が悪い奴だとは信じられない。兄は自分のせいで妹が足を痛め、歩けなくさせたことを後悔して、幸せになることを願っている。自分の最も信頼のできる友人が、妹と結ばれたことを喜んでいる。友人が復讐をしようとして、妹に近づいたのだと知ると殺意をいだき、猟銃を構えた。友人は目的達成のために利用するつもりが、いつのまにか娘を愛しはじめていた。これが誤算となって命を失ってしまう。

 悪い奴には部下がいた。部長(守山)がいて、その下に課長(白井)がいて、課長補佐(和田)がいる。さらにその下に、直接の担当者がいて、5年前に謎の自殺をとげている。社屋の7階から飛び降り自殺をした。部長が命を受けて遺族を訪ねて発見をする。子どもはいなかったが、腹ちがいの息子がいることを知り、写真をみせてもらって、真相を知り驚き、上司に報告する。

 自殺に見せかけての殺人は、次に課長補佐に及んだ。火山の噴火口から飛び込もうとして助けられた。死んだものとして自分の葬式をみている。上司が素知らぬ顔で見舞っている。課長は殺し屋を雇って殺されかけたが、主人公によって救われる。死んだはずの課長補佐もあらわれて精神錯乱に陥った。ふたりを利用して、大物の逮捕を画策する。上の部長もとらえて、監禁し、真実を語らせて、外堀は埋められたかにみえた。

 妹は兄が男の正体を気づいて、猟銃をもって飛び出したと思った。父は危険をほのめかせて、娘から男の居場所を聞き出した。兄が帰ってきて妹に狩猟に行ってきたと、撃ちとった鳥をみせた。妹は父の本性を知った。兄と車で駆けつけるが、途中で交通事故で列車に突っ込んだ車を目撃した。着いてみると見知らぬ男(板倉)がいた。主人公と戸籍を交換していて、ほんとうは娘の夫にあたる人物だった。やぐざものが押しかけてきて、薬を注射して飲酒運転に見せかけて、事故死させられたことを伝え、主人公の無念をぶちまけた。とらえられていた部長も連れ去られて行方不明だという。自分は誰でもない人間なので何もできないと嘆いている。

 一件落着して、父は安堵の顔を浮かべていると、子どもたちが姿をみせた。妹は放心状態だったが、兄は猟銃をもっていないのが残念だと言い放って、父と決裂した。殺されずにすんだ父は頭を下げながら、電話の向こうにいる、さらなる黒幕に向かって、昨夜は一睡もしていないのでと言いわけをしながら、問題解決を報告していた。それに続いて、悪い奴ほどよく眠るという大写しの字幕が映されて、映画は終わった。悪人は安泰だという意味と、悪い奴が眠ることはないという反語である。

第357回 2023年12月27

用心棒1961

 黒澤明監督作品、英語名はYojimbo、ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞。痛快時代劇のひとことで語ることのできる、誰もが楽しめる娯楽映画である。胸のすくような剣さばきも見どころだが、拳銃が登場するので、はらはらドキドキさせられて、強いだけではない側面もみることで、ドラマの起承転結が完璧に近いかたちで、仕上げられている。ぶらっとやってきて町を一掃して立ち去っていく。殺伐とした町の姿は、はじまりで犬が人間の切られた手首をくわえて走るショッキングな光景で伝えられている。

 アウトローであり、ヒーローでもある、典型的な人物像が、浮かび上がってくる。名前もない。窓からみえる景色から、桑畑三十郎と名乗っている。のちの椿三十郎の原型となるものだ。立身出世をめざすのではない。私欲を肥やすことも考えていない。色香におぼれることもない。家族もない。経歴も身の上もわからない。西部劇のガンマンには登場してきそうなキャラクターだが、天下泰平の江戸時代に、社会からはぐれた一匹狼として、市民権を得ていた人物像なのだと思う。

 三船敏郎という俳優が、これまで試行錯誤をしながら演じ分けてきた人物群で、やっとピッタリとおさまりをつけたという印象である。青年から壮年へと移行するなかで、ピークに達した充実感があふれ出ている。三十郎と言いながら、もうすぐ四十郎と言いなおすニュアンスを読み取らなければならないだろう。

 そんな年齢までブラブラしていていいのかというあせりが、社会人の底辺にはある。社会が安定して、自由度が少なく、あぶれてしまった浪人の数は少なくなかっただろう。現代用語でいえば、就職難の時代といってよい。定職につかなくても何となく生きてはいけるので、モラトリアムを楽しむ層が、そのまま若者から中年へと、移行していく。必死で生き抜こうとする者から見れば、不真面目な唾棄すべき現実にちがいない。

 必死になって生きるのはヤクザ者のほうかもしれない。にらみあう二人の親分を、用心棒は高みで見物をしている。ふたつの勢力が、縄張り争いで、いつも神経を尖らせていて、太く短く生きるのだと言って、家を飛び出す若者から、この物語はスタートする。用心棒にバタバタと切られる方はたまったものではないが、切ろうとしてとどまり、軟弱な青年に向かって国へ帰れと言う場面がある。彼は冒頭に出てきた博打うちに憧れていた若者であるのかもしれない。

 主人公はうじうじした弱虫が大嫌いである。美人の嫁を大親分に奪われた弱虫を、助けてやるときも、嫌悪感がにじみでている。ときにはユーモラスでもあり、痛快という語を支えるものだ。親子三人を助けて、逃げるように言いおいて、見張りの七人を一気に切るが、すんでみると、お礼をいおうとして、まだ逃げないで頭をさげていた。いらいらが爆発する。お前たちのために七人も殺してしまったのだと、無益な殺生を嘆くことになる。さらにはお礼の手紙を書いたことで、窮地に陥り、つかまって拷問されてしまう。拳銃には歯が立たないという場面である。

 新兵器の登場は、これまで築いてきたサムライの美学を崩壊させるものだった。ここでは飛び道具に対抗するために、包丁を投げる練習をしている。落ち葉の一枚に命中させるまでになって、勝利を確信して、ふところに忍ばせて、柄だけを見せて、戦いに臨む。決闘場面での効果音がいい。その後定番となる肉を切り裂く音にまでは至らないが、音楽も緊張感を増すのではなく、和らげるような違和感のあるリズムを用いて効果的だ。こんな使い方もあるのだと感心する。緊張を緩和するユーモアは随所に散見する。安い値段で雇われてい用心棒が逃げる場面も、さわやかなまでにあっけらかんとしている。

 仲代達矢がガンマンとして登場するが、首にはスカーフを巻いている。この異質なアンチヒーローが、その後の黒澤映画を支えていくことになる。正統派から脱して、文化が爛熟していくなかでのひねりを加えた変化球として、不気味なまでの個性が光っていた。脇役だが、主役を奪うまでには、そんなに長くはないという登場だった。あっさりとした主人公に対して、ねっちりとしたキャラクターが際立っている。

 棒切れを空に投げて落ちた方向に歩いていく二股道のはじまりと、土けむりのなかをやってくる姿、「あばよ」と言って未練もなく去っていくラストシーンの後ろ姿のみごとさは、ここに至って黒澤明の頂点に達したように思う。豪快さはいじけるところがなくて、見ていて気持ちがいい。佐藤勝の音楽が歩みにあわせて、間髪を入れずに挿入され、さえわたっていた。時代劇のチャンバラ映画が、任侠映画へと展開していく歩みを、実感させるものでもあった。

第358回 2023年12月28

椿三十郎1962

 黒澤明監督作品、英語名はSanjuro。山本周五郎原作。個人的な体験でいえば、リアルタイムではじめてみた黒澤明である。そのおもしろさは、おさなごごろにも鮮明に記憶されている。前作「用心棒」の続編だが、主人公は別人で、話がつながっているわけではない。さらに娯楽性が高まって、荒削りなところがなくなり、笑いのツボも押さえられている。1時間36分は黒澤映画にしてはコンパクトではあるが、無駄のない完璧な様式美を生み出している。前作で成功した落としどころは、そのまま引き継がれ、あばよという別れのセリフや、三十郎がもうすぐ四十郎だというのも定式となり、今回は椿をみながらの命名となった。

 シロクロ映画だが、椿の咲き誇る色彩がみごとに、映し出されていて、想像力をかき立てる。白と赤の対比が、流れる水と組み合わされて、話の展開に緊張感をもたらしている。白の椿が大量に流れてくる様子は、討ち入りのクライマックスとなって、記憶にとどめられる。とっさの機知にだまされて、白い椿を大量に投げ込んだ権力者の愚かさが、浮き彫りにされている。椿を流すのが討ち入りの合図だった。これに先立って自然に落ちる椿もあるという若者の理屈には、大量に流せばいいだろうがと答えていた。

 機知は、その場で赤が討ち入りの合図、白は中止の合図だと答えさせている。椿をかかえて流れに投げ込もうとするところで、不審がられとらえられるが、その時かかえていたのが、たまたま赤い椿だったというところから思いつかれた嘘だった。大量に流れる椿をみながら、なんと美しいと見とれる奥方と娘の姿が効果的だ。椿は頭から地に落ちる不気味な花だ。一輪が自然に流れに落ちて、何者だと茶室の戸を開く、かすかな音にさえおびえる権力者の姿も挿入されている。きめ細かな心憎い演出である。

 赤の鮮やかさは、想像上でしかとどまらないが、ラストシーンのにらみあいから、一瞬にして決する血しぶきの驚愕へと引き継がれた。カラー映画ではあまりにも鮮烈になりすぎる身体的刺激を、モノクロ映像が、厳格で荘重な伝統美へと昇華させたようにみえる。

 未熟な若者たちの軽はずみにいらだちながら、優しい目で守り続ける姿は、血気にまかせて命を落とした愚かさを戒める時代の流れを暗に示すものだ。注意をしてやらないと、あぶなかしくて見ていられないことから、一肌脱いだ浪人の心情は、戦後民主主義を支える教育理念と対応している。9人の若者を前に、我ら9人という仲間同士の決意を聞いて、いいや10人だと言って加わった意識は、高みの見物に身を置いた前作と対比をなして、同じ地平に立って考えようとする教師像をほうふつとさせる。

 完璧ではなく、失敗も共有する。山門に寝ていて目にしたという寺には、山門はなかったというくだりも、失敗に属するが、誰もが気づかないかもしれないという、期待値に支えられながら、願いとなって一丸化されている。最初に気づいたのは、捕虜にした敵の侍だったが、この男がいつのまにか打ち解けてしまうのは、家老の妻のおおらかな平和主義によるものだった。娘とともに、そのとぼけぶりは人並みをはずれている。ふたりのパラレルなしぐさに笑ってしまう。家老はそれをさらに上回る人格者だった。間の抜けた面長を、馬のほうが自分より丸顔だと言って場を和ませている。

 主人公はそんな姿にいらだちを隠せないでいたが、むやみに人を殺さないよう、道理をさとされるのも彼女だった。殺してはいけないと言いながらも、多くが虫ケラのように殺されていった。ほんとうにいい刀は、鞘に入っているものだという、なにげない奥方のことばが、身に染みる。自分に向かって発せられたこのことばを、別れにあたって、自分のことばとして主人公は若者たちに伝えている。

 話は単純だ。大目付(菊井)の悪巧みを見かねて若者たちが決起する。家老(睦田)に相談するが埒があかず、逆に家老に容疑がかけられて、拉致監禁されてしまう。家老の甥のリーダー役を、加山雄三が演じている。浪人が若者たちの談合を聞いていて、一枚加わることで、悪を一掃して解決へと向かったという話である。権力者は悪賢いが、愚かでコミカルに描かれる。これに対してふところがたなと称される剣豪(室戸半兵衛)がいて、一目置かれている。仲代達矢が演じていて、野心家で抜き身の剣のようだと、主人公は自分と重ね合わせながら言っている。

 士官をするなら訪ねてこいという誘いを受けて、敵のふところに飛び込むと、若者たちは身を翻したと勘違いして、探りはじめる。敵のもとに入り込んで動勢を探ろうという計画も水の泡になり、縄目にあった彼らを助けるために、無用な殺生をしてしまうことになる。すべては足手まといでしかないが、青年はそういうふうにして成長していくものだろう。主人公にくっついて、金魚の糞のように統一行動をする姿を戒めるのも、戦後の共有する教育理念といえるものだ。若者が最初に助けられ、床下から9人顔を出す、ひよこのような表情が、この映画のすべてを語っているようだった。何度見ても感心する、理詰めで理解できる、実によくできた映画である。

第359回 2023年12月30

天国と地獄1963

 黒澤明監督作品、英語名はHigh and Low、原作はエド・マクベイン 「キングの身代金」。誘拐事件の犯人探しのサスペンス映画。息詰まる話の展開に引き込まれながら、なんとおもしろい物語なのかと、感銘を受ける。それは原作によるものだとすれば、映画のおもしろさではないのかもしれない。しかしどこまでそれを凝縮させて、原作以上におもしろくするかが、映画監督としての腕の見せどころとなる。

 この事件の最大の特徴は、犯人が誘拐する少年をまちがえてしまったという点にある。みごとなつくり込みは、対比をなす身分の差によって、くっきりとした輪郭を生み出している。資産家の息子をねらったはずが、直前に遊び相手と、着ていた服を取り替えていて、まちがってしまった。仲のいい友だちは雇われている専属運転手の子だった。剛腕な資産家(権藤)を演じる三船敏郎と、しょぼくれて肩を落とす運転手(青木)との対比がある。

 資産家は靴メイカーの重役であるが、電話で自分の息子(純)が誘拐されたと知ると、いくら払ってでも取り返そうとする。犯人は3000万円の身代金を要求してくるが、けた外れの額だと担当刑事(戸倉)がいっている。今に換算するといくらくらいなのかと、気になっていたが、その後の場面で、食堂の値段表が出てきて、天丼が100円になっていた。今はそれが1000円だとすれば、身代金は3億円ということになる。

 誘拐されたのが人ちがいで、友だち(進一)のほうだとわかると、とたんに金は出さないと言いだす。会社の経営権を争うなかで、全財産を投げ打っていたところで、ちょうど手もとに現金はあったのだ。妻が懇願している。そしてこの人はきっと出すと確信している。ここに夫婦の対比がある。夫は靴職人からのたたき上げで、今日の地位を築いてきた。妻はなんの不自由もなく富裕な家庭で育ってきた。夫は妻をなじって金のありがたみを知らないというが、ここには伏線があり、男がのしあがるのに彼女の持参金のはたした役割は大きかった。思いやりだけではない。友だちは息子の身代わりになったのだと考えれば、金を出すのは当然の理屈でもあった。

 こうした人種の対比を見るには、「天国と地獄」というタイトルが語るものから、スタートするのが妥当だろう。それは被害者と加害者の関係のことを意味している。一方は丘の上に輝く快適な豪邸に住んでいる。他方はそれを眺めあげる、冬は寒く夏は暑い劣悪なアパートに住んでいる。直接の面識はないが、豪邸を眺めながら暮らしている青年が、羨望から憎悪へと思いをつのらせていった。

 犯人(竹内)は重要な役どころだが無名の青年で、山崎努とある。その後名優に育っていく、見慣れた顔だった。最初に出てくる俳優名のスクロールでは、一枚看板で名前が出てきてもいい役柄だが、大勢のなかに混じり込んでいた。犯人は顔も名も知られていないというミステリーの原則からすれば、当然の処理だったかもしれない。なかなか顔は出てこない。最初は電話の声だけで、後ろ姿で歩く姿が続いて、やっと顔が写される。神経質な知能犯で狂気を秘めていて、主人公と対比をなす。

 犯人はこれまでの流れからすると、仲代達矢の役どころだっただろうが、ここでは敏腕警部の役で登場する。サスペンス映画だとすれば、主役は刑事のほうだ。犯人との知恵比べが見どころとなっている。誘拐事件という特殊な犯罪に対処する身のこなしが、こちらに伝わってくる。ここにも被害者と刑事との対比が、浮き彫りにされている。刑事といえども、しがない庶民であり、豪邸に詰め込むなかで、違和感を感じざるを得ない。家族や会社での人間関係、主人公の立場もつぶさに目にすることになる。被害者が金を出さないと言い張るなかで何も言えない。事件は解決するので、いっとき貸してもらえないかと、切り出したセリフが印象に残る。

 人間関係の対比では、刑事と犯人の対決というのが、サスペンスの見どころであり、随所に盛り込まれた仕掛けにうならされる。札束を7センチ以下の幅のカバンに入れて、新幹線に乗るよう指示を出す知恵に驚かされる。犯人の居住地を絞り込むのに、豪邸のみえる地域とその近辺にある電話ボックスを、地図上で塗りつぶしている。聞き込み捜査の報告会議のやり取りは、大勢の捜査員を導入した特別捜査本部の実態を示すものだろう。リアリティがあり、しらみつぶしという語がふさわしいものだ。

 テンポの早さが、リズミカルに推移して、犯人探しには手に汗握るというサスペンスの醍醐味を味わうことになるが、犯人がわかってから逮捕に至るまでのラストの描写は、陰鬱な印象が強く、やりきれない思いが残ったかもしれない。ヘロイン患者がうごめいている。推理劇が最後には心理劇になってしまったようだ。サスペンスだけでは終わらせない、人間の心の問題に踏みこもうという意図は理解できるが、スッキリとはしない、無理を感じさせる結末だった気がする。

 この違和感はさらにもう一歩踏み込んで考えてみるスタートにもなる。死刑を前にして犯人は主人公を呼びつけて、死刑などこわくはないといいながら、錯乱状態に陥った。主人公はその姿を前にして何もいえないでいる。ここでは饒舌と寡黙の対比をなすが、これまでの沈黙する犯人像とは逆転している。犯人はインターンの医学生だった。教授の回診する大学病院では、うしろから黙ってついて回る存在だ。医学的知識を必要とする犯人像からの設定だが、それ以上の理由があるのかもしれない。

 貧富の差でいえば、現在とは逆転する時代背景を読み取る必要がある。医学生は今では将来を保障されたエリートであり、職人あがりの主人公のほうが貧困のレッテルを貼られるものだろう。昭和30年代、高学歴が幅を利かせる安定した世の中ではなくて、乱世のなかで頭をもたげてきた闇市育ちが、成功の要件だった。兄弟も多く、生き抜く知恵に長けた活力が、知力や学力をうわまわっていたにちがいない。戦乱の世が終わると、学力がものをいう管理社会へと移行する。現代では財産を築くのは知的エリートのほうだろう。

 主人公は肩をいからせて生きているが、喜びを覚えるのは職人に戻るときで、犯人に渡すカバンにカプセルを埋め込む手作業を、みずから買って出て、楽しそうにおこなっていた。水をかぶると悪臭を放ち、燃えるとピンク色の煙が出るというチップだったが、用心深い犯人の知性も、それを見破ることはできなかった。悪臭は映画では不可能だったが、ピンク色の煙をモノクロ映画で実現するという、思い切った実験がこの映画の手づくり感を伝え、話題となった。一瞬のことだが、この色彩感覚は、当時リアルタイムで見た私のおさなごころにも、鮮明に記憶に残っている。

第360回 2023年12月31

赤ひげ1965

 黒澤明監督作品、英語名はRed Beard、山本周五郎原作、ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞、三船敏郎主演。途中で休憩のはさまれる3時間の大作である。長崎から戻った若い医師(保本登)が、一風変わった老医師(新出去定)との出会いを通して成長していく物語。小石川養生所は幕府の施設だが、庶民の治療にあてられ、赤ひげと呼ばれる頑固な医師が仕切っている。無料の貧困層が棲みついていて、南向きの部屋は患者にあてられ、医師たちは北向きの陰鬱な部屋に押し込められている。

 若い医師はエリート意識から嫌がっていたが、親の指示でそこに勤務することになる。新しい医学をおさめたことが、赤ひげのメガネにかなったようだった。反抗的態度をとって、法衣に似た白衣を着ようともしなかったが、しだいにその人間としての魅力に引かれていく。頭でっかちの新米医師は、医学的知識を誇っているが、はじめての外科手術に立ち会って、気を失ってしまっていた。

 色情狂の美人の娘を治療するつもりが、誘惑に負けて殺されかけたのを、赤ひげが助けている。かんざしを振りかざして、首筋に向けて迫ってくる女のすさまじさに、圧倒される。単なるからだの治療におさまらない心の問題に出会うことで、物語は進展していく。エピソードを連ねた日誌のような展開で、まとまりがないともいえるが、何が起こるかがわからないのが、この世の現実なのだと教えてくれる。

 みんなから慕われて死んでいった老人(六助)がいた。娘(おくに)がいるのだが、これまで寄り付かなかったのに、やってきて複雑な人間関係を告白している。母親が間男をして、その男を娘と夫婦にさせて、つなぎとめる。父には顔を合わせられるものではなかった。同じように死ぬ前に告白をする男(佐八)がいた。愛人(おなか)を死なせて、庭に埋めたのが見つかったことからだった。夫婦の契りを交わしたが、江戸を襲った地震の折に、女は行方をくらました。その後ばったりと出会うと、赤子を背負っていた。自分の子だという。決まった相手がいたが、そのあとで男と出会い恋仲になったのだった。女は真実を語り、男は納得した。自責の念から女は短刀を自分に向けて、男と抱き合って、強く引き寄せた。

 赤ひげは患者に立ち会って、親身になって対応する。やむにやまれぬ事情から、殺人を犯した女を救おうとして、虚偽の証言をしてもいる。納得のいく対処だったが、付き添っていた新米医師に、自分は不正を平気でする愚かな人間だといって、自責の思いを伝えた。完璧と思っていた医師の正直な告白に、人間的な側面をみて、若者ははじめてほほえみを浮かべていた。幕府からの予算が大幅に削減され、いらだちをおぼえていた頃だった。

 権力者の往診にも出かけて、贅沢病を戒め、高額の診療費をふっかけてもいる。俗世にまみれた側面も、若者はお供をしながら、つぶさに見ている。やくざ者を相手に、素手で次々と骨を折り、こんなことを医者はしてはいけないと、弟子に言い聞かせている。「椿三十郎」を思わせる立ち回りである。弟子を演じた加山雄三との共演も、これを引き継いでいる。

 弟子も心のやまいを抱えていた。3年後に長崎から帰ってみると、いいなずけ(ちぐさ)が別の男と結婚していた。エリートコースをはずれて自分をこんなところに追いやったのは、娘の親のしわざだと思っていた。その親は赤ひげと懇意であったが、実は赤ひげのほうから望んできてもらったのだと明かされた。心のやまいを治療してやろうという思惑があったのだろう。弟子は疑い深いひねくれた心を、思い知ることになった。娘の不義を嘆きながらも、相手の親にとっては初孫も生まれていたのだった。

 弟子にはじめての患者が割り当てられる。ふたりで女郎屋を訪ねたとき、非情な女将から泣かされていた12歳の少女(おとよ)だった。心身ともに病んでいて、治療が必要だと言って連れ帰った。女将が勝手なことをされてはこまると言い、やくざ者が立ちふさがったので、手荒なことをしてしまったのはこのときだった。少女はいじけて反抗的だったが、じょじょに心を開いていく。弟子の手におえなくなると、赤ひげが手助けをした。薬を飲まそうとするとはねつけた。何度も繰り返して医師の顔は汚れるが怒らなかった。最後にはああんと口をあけて飲ませていた。

 弟子が少女の治療に疲れ、過労で倒れたとき、彼女は看病するまでに至っていた。順調に回復しかけたが、ふたたび悪化してしまったのは、弟子の見舞いにやってきた見知らぬ女性に接してからだった。少女の嫉妬心からだったが、赤ひげはそれも回復している表れで、これまでの病状とは明らかにちがうと診断した。盗みをする7歳の少年、小鼠との心のふれあいもエピソードとしてはさまれている。

 いいなずけには妹(まさえ)がいて、申し訳なさからか訪ねてきていた。青年医師にひかれていたのかもしれないが、彼の方はそっけなく追い返していた。親どうしはこの妹を嫁にしようとくわだてて、赤ひげもそれに同調していたようだった。弟子も踏ん切りをつけ、話が好転すると、前途も開けることになる。かねて願っていたポストに移動ができるようになるが、彼は養生所に残るといいだす。婚礼の席で新郎は娘に、貧乏を覚悟できるかと問うた。娘はだまってうなづいていた。

 赤ひげは青年の決意を拒絶しながらも、うれしそうだった。じつに魅力的な指導者像である。こんな師のもとで学びたいと、だれもが思う映画だった。最後に養生所の門の上半分だけを映し出して終わるのを不思議に思っていたが、二人が手を取り合っている姿なのだという解説に接して、なるほどと思った。

 はじまりはこの重厚な閉ざされた門を、若者はくぐってやってきた。柱だけしかないので、鳥居といったほうがいいもので、はじまりと終わりで、対比的に映し出されていたのだろう。羅生門とまではいかないが、ハリボテとは思えない素材感をともなった、こだわりのあるセットだと感じた。ドラマを生み出すのは、俳優の演技だけではないのである。

第360回つづき 2024年1月1日

 井形になった特徴的な門は、人間でいえば性格俳優ということになる。もちろん映画は俳優の演技によって支えられている。ここでは赤ひげの三船敏郎と、そのあとを継ぐ若い医師を演じた加山雄三との対比がメインストリームとなる。そのころすでに若大将シリーズがはじまっていたことを念頭に置いて、そのアイドルの役柄と対比的に見ておく必要があるだろう。ヒットを連発し若大将とちやほやされるのを、赤ひげが地道に生きるよう戒めたと見ると、さらにおもしろい。

 養生所に勤める二人の同僚も対比をなしている。ひとりは入れ替わりに辞めていく医師で、はじめて訪れた若者を案内しながら、環境の悪さや人使いの荒さに、不満をぶちまけている。頭は良さそうだが、ドライな性格はここでは務まらなかった。もうひとりは忠実な弟子で、赤ひげを盲信している。どんな組織にも必要な人格だが、地味で上に立って指導力を発揮するタイプではない。本来なら一番弟子ということなるが、赤ひげのお供はいつもアイドル青年のほうだった。

 女性では、すさまじい異常な性格を示す、ふたりの対比がきわだっている。ひとりは大店の娘で、異常な色情がこれまで何人もの男を傷つけていた。親の財力は別棟にメイドまで置いての治療となっていた。予算減に苦しむ赤ひげにとっては、上得意の患者ということになる。もうひとりは女郎屋で虐げられていて、連れ帰った12歳の少女だが、床をみつめながら、ふき掃除をし続ける異様な目は、先の狂女のそれと共通するものだ。演じたのは香川京子二木てるみだった。

 素直なやさしいふたりの女も対比をなしている。演じているのは内藤洋子と団玲子。ひとりは青年医師を裏切った娘の妹で妻となる。姉のほうもふたりの婚礼の席で、申し訳なさそうに登場するが、妹の引き立て役としかみえない。もう一人は狂女の世話をするメイドで、優しく青年医師に接していたので、慕っているのかと思ったが、恋していたのは地味な先輩医師のほうだった。医師同士でも結婚を話題にしていた。善良な娘を見ながら清涼感の味わえる、ほっとした瞬間だった。

 あずかった少女が治癒したとき、そのことを聞きつけて女郎屋の女将が、取り返しにやってくる。このとき養生所ではたらく女たちが、寄ってたかって追い返す姿がすさまじい。大根で頭を殴りつけ、大根が真っ二つに割れるのをみて、演技をこえた恨みさえ感じた。女将を演じたのは演劇界の重鎮、杉村春子だったが、それを大根役者だと言ってのけたのである。同年齢の女優連もすごいが黒澤明もすごい。それ以上にその演出を受け入れた大女優がすごかったということだ。日本映画を支えた田中絹代と笠智衆が、ちょい役として出てくる。若大将の両親役だがセリフはほとんどなかった。

第361回 2024年1月2

どですかでん1970

 黒澤明監督作品、英語名はDodes'ka-den、山本周五郎原作、黒澤はじめてのカラー作品。カラー映画の不自然なまでの着色に、虚構のもつ空々しさを象徴させた人間喜劇である。悲惨な状況が描写されるが、それぞれは人間の愚かさが引き起こす喜劇に他ならない。社会の底辺に生きる貧困層をみつめた群像劇で、何組もの家族のエピソードが、脈絡もなく行き来する。

 タイトルをなす「どですかでん」は、鉄道マニアの少年が、運転手になりきって電車を動かすときの掛け声である。母親と二人家族で、天ぷら屋を営んでいるが、息子は運転手のまねをして、日々を過ごしている。部屋のなかは車両を描いた原色の絵で埋め尽くされている。他人と関わることはなく、終始自分の世界に埋没しており、成長もなければ、後退もなく同じリズムで生活は進んでいく。母親は息子の不憫を感じてか、お題目を唱えて信仰の世界に頼っているようだ。

 浮浪者の親子がいる。他人行儀なしゃべり方で、君と呼んでいて、ほんとうの父親とは思えないが、子どもがひとことだけお父さんと呼びかけるセリフがあった。子どもが残飯をもらいにレストランをまわることで、生活をつないでいる。親は生活力はなく、家を建てることを夢見て、子どもに夢の家の具体的な姿を話し続けている。子どもは、嫌がることもなく、うんそうだねと、いつも聞き役にまわっている。もらってきた魚に火を入れずに食べたことで、食中毒を起こし、子どものほうがひどく寝込んで、親はやっと勇気を出して残飯あさりに出かける。子どもを心配した店主からもらったスープを温めて飲まそうとするが、子どもは死んでいた。親はおどおどするばかりだったが、手を差し伸べたのは近隣にすむ御隠居だった。

 埋蔵の費用も出してやったようで、一風変わった人格だが、界隈では信頼を得ていた。生きるのが嫌になったと相談にきた相手には、一時間もすれば死ねるという薬を与えている。そのあとで得得と生きる喜びを言い聞かせると、相手は思い直し、解毒剤もあるというが、どのにいったかとなかなか出してはこない。相手が必死な形相で食ってかかってきたときに、やっと今飲んだのはただの胃薬だと言っている。泥棒が入って盗んで持ち去るか姿をみとめて、それは道具箱で、金目のものはこちらだと案内している。

 足の悪いサラリーマンがいる。顔面神経痛ももっていて、緊張するとくしゃみをするような顔になる。温厚ないい人で、近所の人たちから慕われている。妻は鬼のように怒りっぽく、同僚を連れてきたときも、ろくにあいさつもしない。あまりのひどさに同僚のひとりが怒り出す。自分たちにはいいとして、夫に対する態度がなってないと言うのだ。妻の悪口を言われて、男は逆に怒り出し、同僚につかみかかっている。苦労をともにしてきた女房であり、他人からとやかく言われることではないという理屈である。

 同じく恐妻家の家族がある。子どもが5人いて、ほんとうの父親ではないと悪口を言われて、べそをかいている。母親のお腹にはもうひとり子どもがいて、歩いていると今度は誰の子だと男たちがはやし立てている。二人分なので山盛りのメシを食っていて、残りを父親が等分にして、子どもたちに分け与えている。父はやさしく、ほんとうの父だと思えば、ほんとうの父なのだと、子どもたちに言い聞かせる。お父さんの言うことと、友だちのいうこととどっちを信じるのかと問いかけている。みんな父が大好きだった。

 妻の連れ子に手を出した男がいた。戸籍上は娘になっていて、妻が入院中のことだった。飲んだくれで娘がひとり内職をして稼いでいる。酒屋のごようききが、このようすを見ていて、憤慨している。娘を愛しているようだが、娘のほうは反応を示さない。母親に連れられて産婦人科を訪ねる姿があった。娘は誰の子かを口を閉ざして答えない。錯乱状態から娘は、この店員を包丁で刺してしまう。警察がやってきて事情を聞くと、父親はその男が娘に手をかけたにちがいないとわめいている。母親も警察も、男がろんとうの父ではないことから、疑いの目をそそいでいる。刺された店員がなんともないと言ったので、事件にならずにすんだ。娘は店員に向かって、自分も死のうと思ったと伝えていた。

 小さな家に住む謎めいたひとりものの男がいる。知的な相貌をもち、近所の女たちの注目を集めている。心に悩みをかかえているようで、家ではつねに女ものの着物を細く切り裂いているのが不気味だ。ある日上品な女性が訪ねてきて、戸口で待っている。その後入り込んで同居をしはじめる。押しかけ女房だとうわさされている。食事をつくり身の回りの世話をするが、男は心を開こうとはしない。どんな関係なのかと気になりながら、女が泣きながら話すことから、事情が明かされる。もと夫婦で妻が不義をおかして夫のもとを去っていたのだった。沈黙の日々が続くが、男は許そうとはせず、女は去っていった。帰り際に枯れ木を見ながら、枯れてしまえば、何の木だということもないのだとつぶやいている。

 女房を交換した仲良しの酔っぱらいがいた。近所の女たちが不道徳をうわさしている。本人たちはあっけらかんとしていて、酔っぱらってまちがった家に戻ることで、またもとの夫婦に戻ることになる。心に悩みをかかえる人たちの集まりが、めんめんと続いていく。エピソードには考えさせられる教訓も少なくない。オムニバスふうの描写は、前作の「赤ひげ」と共通するものだ。多くは人間の愚かさが生み出すドラマなのだが、ふきだまりになった貧困社会で、ぎりぎりで生き抜く純真な心の記録だった。純真は、いつも欲望と置き換えが可能なことばなのだということも伝わってくる。

第362回 2024年1月3

デルス・ウザーラ1975

 黒澤明監督作品、英語名はDersu Uzala、アカデミー賞外国語映画賞受賞。ソ連により制作された黒澤作品である。国際的に評価を得ていた監督に、ハリウッドではなく、社会主義の国が手を貸したという点が興味深い。虐げられた人々を取り上げてきた、ロシア文学通の作品世界からすれば、当然の帰結だったかもしれない。

 ロシア人の探検隊の前に、一人の東洋人があらわれる。デルスウザーラと名乗るが、朝鮮人でも中国人でもないというセリフが聞こえる。その土地に住み着いた現地人のようで、カタコトのロシア語をしゃべっている。極寒のシベリアの風土を背景にして、過酷な自然にいどむ姿は頼もしく、調査隊の案内役として、以後隊長の信頼を得て、友情をはぐくんでいく。ふたりはカピタン、デルスと呼び合っている。

 地図製作を目的にした現地調査で、日本でいえば間宮林蔵や伊能忠敬を思い浮かべることになる。主人公の土地についての知識は目を見張るものがある。これまでの土地勘に裏打ちされた経験は、人の歩いた形跡から、ここには中国人がいたのだと言い当てることができた。シベリアではあるが、この未開の地は中国とは陸続きの地域である。

 人間が征服した土地ではない。太陽や月、さらには水や火も人格をもつものとみなしていて、自然に畏敬の念をあらわしている。銃の扱いも巧みで、ロシア人たちが、瓶をヒモにぶら下げて、射撃練習をするが当たらないのをみて、弾がもったいないと言っている。デルスは、瓶ではなく、ヒモに命中させていた。

 隊長の絶大な信頼感から、小舟を降りてふたりで凍てついた氷上の奥地にまで探索している。吹雪で足跡が消えてしまうので、デルスは帰るよう促すが、隊長は方位計を信じて聞かなかった。それによって帰る方向をまちがえて、暮れかかる夕日を見ながら、死を予感する。デルスは枝を集めることを指示し、日が落ちるまでふたりは死にもの狂いで枝を山積みにして、寒さをしのぐことができた。銃は役には立たないが、銃声は仲間に場所を知らせるのに役立つことになる。隊長はデルスを命の恩人として、深く心に刻むことになった。

 探検隊がさらに移動すると、デルスはついていくのではなく、山にとどまると言って別れを告げた。猟師に戻ったということだ。隊長は別れを惜しんで、残りの銃弾を分け与えると、大喜びをしていた。ふたりで並んだ記念写真も残された。氷山が砕けて流れる、過酷で雄大だが、美しい自然が映像に記録されている。季節が変わり、再度調査がおこなわれて、探検隊は戻ってくる。デルスがいることを確信して探している。ふたりの再会は感動的に写し出されていた。今回は夏から秋にかけての調査で、自然の過酷さはなかったが、虎の猛威におびえることになる。

 ここでもデルスが活躍することになるが、一頭の虎が迫ってきたとき、デルスは思わず銃の引き金を引いていた。隊長は逃げたというが、デルスは殺してしまったと言ってくやんでいる。殺してはならないという摂理があったのだ。虎は死ぬまで走り続けるのが習性だとデルスはいう。虎ののろいにとらわれることになり、このときから銃の命中率が下がりはじめる。このままでは森で生きていくことができない。怒りは商人に向かっていた。彼らがやってきて、穴を掘って虎をしとめ、皮を剥いで大儲けをしていたのである。調査隊の進む前にも、穴はそのままで、落ち込む危険を残していた。残された小屋を次に来るひとのために整えておくデルスの姿と対比をなすものだ。

 デルスはひとりでいたとき、クロテンの狩猟で、豊かな収入を得ていたのだった。しかしたまった金を商人に預けておいたのが、持ち逃げされたということも告白している。おおらかな自然人の姿を伝えるものだ。自然ののろいによって目が見にくくなってしまったと嘆くが、実際は年齢のせいだったかもしれない。そんなとき隊長はデルスに自分たちの住んでいる町に来ないかと誘ってみた。デルスは誘いを受け入れることになる。

 ウラジオストックでの都会生活がはじまった。隊長の妻と一人息子とともに生活を楽しんでいるが、しだいに山の生活との勝手のちがいを思い知ることになっていく。子どもにも自然の姿を話し聞かせるのだが、少年は備え付けられたピアノ演奏に熱心である。ピアノを聞きながら後ろを向いたデルスの背中が寂しそうにみえる。

 犯罪とも知らず公園の木を切り倒している。思い悩んだ末に隊長に、都会生活は自分には無理で、山に帰りたいと別れを告げる。隊長は餞別として自動式の銃を贈ることで、狙いを外さずに獲物を取れることを伝えた。これがあだとなって、デルスは殺されてしまう。最新の銃を狙った盗賊にあって、殺害されてしまったのである。銃はなく隊長の名刺をもっていたのをたよりに、警察がやってきた。現場に出向き、間柄を問われて、親友だと答えると係官は不思議な顔をしていた。遺体の埋葬を見守り、土山の上に、目印の枝を突き刺し、悔いを残す隊長の姿があった。それはデルスが樹木を切り取ってつくった杖だった。

 自然人の悲しい結末である。自然のふところではぐくまれた生命の摂理を思いながら、山に帰り着けなかった無念をあわせて考えることになる。山での彷徨のなかで、中国人の老人がひとりで住むのに出くわしたことがあった。デルスは中国語がわかるようで、事情を聞いて隊長にとりついだ。妻と家庭をもっていたが、弟に妻を奪われたのだという。隊長は老人をあわれんで、飲料と食料を与えると、弱った手はコップを取り損ねて、飲み物は口に入れることができなかった。

 元気を取り戻すと、別れを告げて、山に戻っていく老人の後ろ姿が、写し出されていた。虎がデルスの銃声で去っていった光景と、重ね合わされてみえる。あわれな後ろ姿だった。虎が銃弾を受けていたかどうかは、わからないままだが、文明が自然を駆逐する瞬間であり、そのときデルスは文明の側に身を置いていたということである。デルスの悲しい最後は、虎によってもたらされた報いであったかもしれない。

第363回 2024年1月4

影武者1980

 黒澤明監督作品、英語名はKagemusha、仲代達矢主演、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞。日本の映画産業が全盛期を過ぎて、世界の巨匠といえども簡単には映画がつくれないという事情は、黒澤明の 1970年以降5年おきの作品歴が物語っている。前作はソ連だったが、今回はハリウッドが配給元になっている。

 成功の要因は一捻りを加えた興味深いテーマに目をつけた点だったと思う。日本では戦国時代という大河ドラマの人気ある歴史的背景に同調したし、海外ではサムライの魂と能楽に結晶する艶やかな日本の美意識に支えられていた。ひねりが加わったのは、影武者という存在のことで、英雄伝説には常についてまわる大衆的興味に裏打ちされたものだ。キリストは生きていたとか、ヒトラーは死んではいなかったというゴシップねたの成立と同じく、ここでは戦国武将の死のうわさを打ち消す影武者が登場する。

 偶然似ているということ以外は何の取り柄もない罪人が、自身の使命を受け入れて、替え玉になり切る決断をする。原色の夢に信玄が登場する。フェリーニと対応するような、あるいはハムレットを思わせるような不気味なけばけばしい予言だった。だまされないのは子ども(竹丸)だったという真理も語られる。大人の目はだませても、子どもはだませない。一目見るなり、これはおじじではないと見破った。にもかかわらず子どもはなついてしまう。それもまた真理である。

 同じように影武者は、馬も手名づけることができると考えた。それが命取りとなった。調子に乗って、信玄だけが乗りこなせていた荒馬に乗ろうとした。馬はニセモノであると見抜いていたのである。信長家康もスパイを送って信玄の生死を確かめようとした。影武者は彼らをみごとにだました。信長は信玄がおのれの死を、3年間伏せたことを葉っぱれだと称賛した。それは信玄の遺言であった。

 影武者が落馬して化けの皮がはがれたのも3年を過ぎたころだった。手当てに肌を見せたとき、かつて負ったはずの古傷がなかった。わずかな金をもらってお払い箱になる姿は哀れだったが、負け戦のなか居残れば真っ先に殺されていただろう。離れ難かったのは、なついていた幼い子どもとの別れだった。普通なら近づくこともできない若君である。

 武田勢の命運を気にかけながら、戦場にさまよい流れ弾にあたって死んでしまうのは、離れがたい愛着からだったが、流れ弾にあたったのは、信玄自身の姿でもあった。影武者は死もまた実像をなぞったのである。山のように動かないことを信条とした信玄が、敵城から奏でられる笛の音を聞こうとして、近づいたことが死を招いた。

 風林火山をなす山を外した風と林と火の旗をかかげた騎馬軍が次々と、鉄砲の前に倒れる姿が執拗に映し出されている。武田の誇る騎馬軍団も鉄砲の前では力を発揮することはできなかった。馬をねらえという命令が出されていた。馬がもがきながら倒れ込む姿がスローモーションで続いている。俳優をうわまわる演技力で、悲愴美と呼んでいいほどに美しいものだ。

 影武者が迫ってくる敵軍を前に、おどおどすると、動くなと諭したのは、信玄の弟(信廉)だった。彼は以前に兄の影武者を務めたこともあり、その存在の悲哀については、よく理解していた。そっくりの男を見つけてきたのも、この弟だった。彼が子どもや馬とともに、見破られるのを怖れたのは側室たちで、兄は戦いで傷つき、しばらくは女色を絶たねばならないと断言した。影武者は物欲しそうにしていた。

 いつボロが出るかを気にかけながら、影武者にはセリフを口伝えに覚え込ませている。喧嘩早い息子(勝頼)が、信玄に決断を仰いだとき、打ち合わせとはちがった流れになっていた。影武者は落ち着いて、動くなと言った。そこでは軽はずみな行動はおさまったが、家康の仕掛けた誘いに乗って、重鎮の意見も聞かず、息子は挙兵してしまう。しかたなく後続に信玄の旗印を立てることになり、悲劇へとつながってしまった。

 「動かざること山のごとく」は、敵にとっては、いかに動かすかが勝因となるものだった。動いたことで信玄の死を知られてしまった。影武者にとっては波乱に満ちた短い生涯だったが、もちろん歴史の闇からは消えてしまっている。その存在は今日ではまたたく間に消えていった一発芸の芸人に似ている。その輝きは数年間の栄光の日々とともにあり、それが彼の全生涯だった。

第364回 2024年1月5

乱1985

 黒澤明監督作品、英語名はRan、仲代達矢主演。シェイクスピアの「リア王」を下敷きにした、血で血を洗う戦国絵巻。親兄弟で殺戮を繰り返す乱世での、人間の醜さをえぐり出した作品である。戦闘場面も多く、大活劇の様相を呈するが、根底にあるのは裏切りと復讐に根ざした、人のドロドロとした情念だった。

 戦国武将(一文字秀虎)には三人の息子がいた。父の絶対的権力のもとで、上の二人(太郎と次郎)は忠実に従っていたが、三男(三郎)だけは反抗的で、父を怒らせてしまう。潔癖な感情から出たものだったが、父は三男を追放してしまった。三人の顔は判別しにくいが、衣裳に色分けがされていて、のちの戦闘場面でもよくわかる。長男は黄、次男は赤、三男は青になっていて、これが交通信号だと気づくと、誰が危険で、誰が安全か、はじめからネタバレをしてしまってもいる。

 色分けをしないと敵かどうかがわからない。ちがう色に着替えるだけで、簡単に味方になれるということでもある。つまり戦争とはそんな愚かなものだと、この色分けは教えるものだ。だからこれまで一目でわかる人種のちがいで戦い続けてきたのだろう。戦いをなくすには、人種が混ざることだが、これには略奪というかたちでなくという但し書きがいる。色分けに先立ち、これがリア王を下敷きにしていることを知っている時点で、ネタはすでにバレている。健全な鑑賞法は見ている間に、リア王の話と同じだと気づく醍醐味にある。もちろんリア王の話を知らないほうが、もっと健全ではある。

 はじまりは三男の嫁取りの話からだった。三本の矢は折れないと言って、父親は兄弟の結束をうながすが、三男は束ねた三本の矢を力ずくで折っていた。お妃候補としてふたりの領主(綾部と藤巻)が招かれ、自分の娘を差し出すというのだが、父親は決することができないでいた。

 父が引退を決意して、家督を長男に譲ると、言い出したことから、反抗は三男のわがままな不満と受け止められたのだった。ところが長男は権力を得ると、身を翻して父をないがしろにしはじめる。妻(楓の方)の誘導によるものでもあった。妻は父が滅ぼした一族の娘であり、家族は皆殺しにされたが、生かされて長男の嫁になっていた。やっと復讐の機会が訪れたということである。

 父は三つの城を所有していた。自分の住んだ一の城は長男に、二の城は次男に、三の城は三男に譲り、自分はそれぞれの城を行き来しようと考えていた。一の城はかつてそこに住む一族を滅ぼした場所だった。長男の嫁はかつてのすみかに戻ったということになる。一の城を追い出された父は、二の城を訪れる。次男もまた長男からの伝言を受け取っていて、父親には辛くあたった。ここでも裏切られることになったが、追い出したばかりの三男の元には行くことができない。

 三男の反抗的ではあるが正直なところを買った一方の領主(藤巻)が、ぜひとも婿にと手を差し伸べていた。父親は三男の不在となった三の城に入って、体勢を整えるが、長男と次男が結束して攻めてくる。城は焼き払われ、父は狂気にとらわれて、放心状態で生き延びる。狂気を演じることで生き延びようとしたのかもしれない。この戦いで長男は戦死するが、銃を放ったのは味方であった次男の家臣だった。

 夫を失った長男の妻は、喪に服すでもなく、正室(末の方)のある次男に言い寄ってくる。短刀を手にして、次男を組み伏せ、有無を言わせない素早い行動に驚かされる。側室は嫌だというと、色香に惑わされて、次男はそれを受け入れてしまう。家臣に命じて、正室の首がもたらされるが、結びを解くと、キツネの人形だった。すぐれた家臣で、キツネが化けてだまそうとしているので、注意するようにと主人に言い放った。

 次男の妻もまた、父が滅ぼした一族の生き残りだったが、盲目の弟とともに生きながらえて、今は義理の父となったことで、かたきに向けての憎しみはすでに消えていた。にもかかわらず父は自分の犯した蛮行におびえることになる。ふたりの女性が対比をなすが、どちらもともに無残な最期をとげている。三男は後ろ盾を得て、父を助けることに成功する。父の狂気も癒えて、父子の情愛をひとつの馬で交わしているときに、子は銃弾に倒れる。父も子のあとを追い、ふたりの遺体が運ばれる姿があった。

 勝利を得たのは婿を亡くした領主だったが、一族の生き残りである次男もまた、燃えさかる城とともに血筋が絶えることが暗示されている。復讐を成就した妻は、次男の忠実な家臣によって一刀の元に殺され、家臣は自分は殿に仕えたのであって、この女ではないと言い残し、次男にも覚悟をと言い置いて、打って出ていった。高い城壁に盲目の青年が一人、杖をたよりに立っている。足を踏みはずしそうなよろめきを映し出して、人の世のむなしさを伝え、彼の奏でる笛の音を耳に感じながら映画は終わる。

 横笛は盲目の心の拠り所であったが、逃げ延びるときに忘れてきていた。姉はそれを取りに帰り、戻ってくることはなかった。父に仕えた狂言役者(狂阿弥)が、冷静に世の非情を見つめながら生きながらえて、語り部としてこの物語を伝えることになった。主人の狂気をあざけりながら、そのおどけぶりが真実を語っている。日本の伝統芸能が彩りを添えている。生き証人がいなければ、この「そして誰もいなくなった」というミステリーは、成立しないのである。この道化師の言動とともに、いつまでも目に残っているのは、炎につつまれた城の燃えさかる光景である。それは映画という虚構をこえて実在を伝えるものであり、虚栄が崩れ去る世の無常を確信するものとなっていた。タイトル通り、乱雲も象徴的に挿入されていた。

第365回 2024年1月6

夢1990

 黒澤明監督作品、英語名はDreams、日米合作映画。「こんな夢を見た」ではじまる、8話の短編をつなげたオムニバス映画。各話の長さは一定していない。最初の2話と最後の1話は陽気で明るいが、他は薄暗い不気味な世界観で満たされている。行列、あるいは行進と呼ばれるものが、3度登場するが、それぞれが凄みのある描写で、そのイマジネーションの豊かさに驚嘆させられる。セリフによって聞かせる、脚本に支えられたドラマではなくて、インパクトのある映像をつなげることで見えてくる、視覚言語の独自性を追求しているようだ。

 第一の行列は狐の嫁入りである。狐の仮面をつけた一団が、狐のようなうたぐり深いまなざしをとどめて、行進している。全員があたりを探るように、一瞬止まって振り返る動作を繰り返すのが、不気味さを加速する。太陽の日差しが指しているのに雨が降っている。これは狐の嫁入りと呼ばれ、見てはならないものだとされる。子どもは好奇心から森に入り込んで、それを目撃する。家に帰ってくると、母親が狐がやってきて置いていったと言って、短刀をみせる。見てはならない行列を見てしまったので、この短剣で自害するようにというのである。母親は早く持っていって謝ってくるよう命じている。子どもはどうしていいのかわからず、不安な表情を浮かべている。

 少年は第二話でも主人公として登場する。ここではひな人形にまつわる妄想である。不気味な空気感は、前話を引き継いでいるが、明るいうららかな暖かい春先の光景がここちよい。立派なひな人形の前で姉が友だちと遊んでいる。弟はここには6人いたはずだというが、5人しかいないのを不思議がっている。襖を開けて少女を見つけるが、姉たちには見えない。屋外に逃げていったので、少年は追いかけていくと、切られた桃の木の土手に、ひな人形の衣装をつけた男女が、ひな壇のように並んでいた。人間の手によって桃の枝が切られたのを嘆いている。歌い舞いながら満開の桃に満たされた世界を少年にみせている。おだやかで平和な楽園幻想はここまでで終わってしまう。

 二度目の行進は、トンネルから出てくる亡霊の一軍だった。戦死した小編成の部隊で、全員が玉砕したが、魂がさまよっているような不気味さをただよわせる。生き残った小隊長がトンネルを通り過ぎたときに、まずは犬に吠えつかれ、その後ひとりの兵士があらわれて、自分は生きているのかと問うている。帰宅して家族と食卓を囲んだのを覚えていると、兵士は言う。それは彼が死ぬ前に見た夢のことだと知らせてやることで、自分は死んだのだと納得してトンネル内に戻っていった。そのあとに続いて、兵士たちの行進があった。長靴の響きが生々しく聞こえてくる。小隊長は回れ右、前へ進めと号令をかけることで、安らかに眠ることを祈った。死者は上官の命令に服したが、ひとり生きのびた屈辱を、彼は恥じることになった。

 三度目の行列はエピソード最後の夢で、葬列だった。自然が息づいた水車小屋のあるおだやかな村であり、そこでは葬式はめでたい行事だった。婚礼のように鳴物入りで、99歳で亡くなった老女が見送られている。寺尾聰が旅人役を演じていて、陰鬱な世界を巡った最後に、天国のような村にたどりついた。103歳になる老人と話をしているときに、にぎやかな行列の音色が聞こえてきた。死者は自分の初恋の相手だったといっている。老人はハレの衣装に着替えて、行列に向かった。

 旅人が訪れたのは、これ以前は悪夢と呼ぶものだった。地獄を遍歴した末に、天国にたどり着いたという印象だ。はじめは暗く陰鬱な吹雪のなかを歩いている。どこまで行けば救われるのかはわからず、ただひたすら歩いている。眠くなり眠ってしまえば、死んでしまうのだと声がかけられている。雪女が現れて、誘惑を仕掛けてくる。

 次には先述のトンネルでのできごとで、旅人は戦地では小隊長だったことがわかる。富士山の噴火にも出くわしている。住民がパニックを起こして逃げるのは、原発炉が次々と爆発を引き起こしているからでもある。放射能の汚染を恐れて、みずから命を絶つものもいる。

 富士山の延長だろうか、斜面を歩いていると、ボロボロの衣服を着た浮浪者に出くわす。頭を見るとツノが生えていて、鬼なのだと言っている。放射能の汚染によって、巨大なタンポポの花が咲いている。今は荒廃しているが、かつてはお花畑だったのだという。植物が奇形となったように、人間にはツノが生えて、やがてそれが痛みはじめる。そんな光景が見られるといって、男は旅人を誘う。目の前には苦痛にうめく鬼の群れがいた。鬼は死ぬことはないが、苦痛のまま生き続けなければならない存在だった。

 旅人が目にしたこの世の阿鼻叫喚の地獄絵図にたえられないことを察したように、中間に挟み込まれたのが、ゴッホへの旅だった。デジタル技術を駆使して、旅人がゴッホの描いた絵の中を遍歴している。はね橋を渡り、カラスのいる麦畑にも向かうが、ゴッホ自身も登場し、映画監督のマーティン・スコセッシが演じている。スピルバーグも制作に加わっていて、ともに黒澤明を敬愛するアメリカの巨匠である。旅人は画布を手にした画家であって、ゴッホは彼を相手に、高等な芸術論を語っていた。

 全体を通しては、とりとめのない内容だが、不条理な夢の世界を再現しようとして、誰にも備わった心理の深層と共鳴しあうことで、究極の映像美にたどりついた作品だった。日本美の伝統に裏打ちされてはいるが、フェリーニが晩年にたどり着いた妄想の世界と、比較したくなってくる作品だった。

第366回 2024年1月7

八月の狂詩曲1991

 黒澤明監督作品、英語名はRhapsody in August、村田喜代子原作、村瀬幸子主演。長崎を舞台に原爆の記憶が結ぶ日米のきずなの物語。長崎で気丈に一人暮らしをしている老女(鉦)に会いたいとアメリカからの連絡が届く。妹ではないかという兄(錫二郎)からのものだった。老女には記憶がない。兄弟姉妹は多すぎて、思い出せないのだ。思い出すだけを一覧表にして書き出している。全員が金属に関係した奇妙な名だった。老女は名前を見ながら、山の向こうに落ちた原爆の強迫観念から、目ばかりを描いていた兄弟の話や、人知れず森に小屋を建て、心中をした肉親の不気味な姿を思い出していた。兄はハワイに渡って成功し、大農場を経営しているが、老い先が長くないことから、肉親を探し当て、生きている間に会いたいのだという。

 老女には家庭をもつふたりの子どもがいて、兄(忠雄)と妹(良江)で東京に暮らしている。大金持ちであることに飛びついて、母の代わりにハワイに行っている。ちょうど夏休みなので孫たちは、入れ代わりに長崎のおばあちゃんの家に、遊びに来ている。遠慮がなく、おばあちゃんのつくるのはまずいと言って、カレーライスをつくっている。それでも4人の孫たちとの生活を楽しんでいるが、アメリカに行くことにはためらいがある。もと教師で、夫も同じ教師だったが、長崎市内の小学校で原爆の犠牲になった。夫を奪ったアメリカ人には憎しみをいだいていた。

 孫たちは長崎をまわるなかで、当時の悲痛な現況を知ることになる。わけありの老女が訪ねきて、おばあちゃんと向かい合いながら、一言もしゃべらない姿にも出くわした。おじいちゃんの勤めていた小学校にも訪れた。校庭には被曝の日付と時間を刻んだモニュメントが残されている。飴のように溶けて曲がった鉄骨は、ジャングルジムだろうか、そのときのままの姿をとどめている。ハワイに行っている子どもたちから、早く会いたいと言っているという催促の連絡が届いた。まだ見ぬ甥のカタカナの手紙も添えてあった。原爆の落ちた8月9日が、おじいちゃんの命日なので、それをすませたら行くことを確認して、孫が代わりに手紙を書いた。老人たちが村の祠に集まって祈りを捧げている。孫たちは自分たちもハワイに行けることを楽しみにして、おばあちゃんを説得していた。

 ハワイでは妹の夫が長崎で被曝をして死んだことを知って驚き、父の代わりに息子(クラーク)が駆けつけてくる。リチャード・ギアが演じていて、カタコトの日本語をしゃべっている。アメリカ人として、居ても立っても居られない来日だったのだろう。叔母の夫が命を落とした小学校に、まずはじめに足を運んでいた。真摯な態度でおばあちゃんの心は開き、打ち解けて積極的にハワイ行きを決意した。そこにハワイから訃報が届く。息子は急いで帰国し、おばあちゃんは間に合わなかったことを悔いている。

 孫はハワイに行くのは、東京に行くより早いと言っていた。子どもが孫を連れて東京に戻る日に、おばあちゃんはいなくなった。空を見て、あの時の空だといって、豪雨のなかを長崎に向かって駆け出していた。身体だけではなく、精神にも異常をきたしたようにみえる。傘は暴風に吹き飛ばされている。子どもたちも孫たちも追いかけながら、自分たちの思いやりのない、これまでの言動を悔いていた。 

 バックグラウンドでシューベルトの合唱曲「野ばら」が、映画の締めくくりとして聞こえてくる。それはおばあちゃんの家にあったオルガンを調律する孫(縦男)が、意味もわからずに繰り返し弾いていた曲だった。赤いばらは、おばあちゃんの孫のひとり(信次郎)とアメリカから訪ねてきた甥とが、庭先で見た、列をなして進む蟻の群が向かう道筋の先に咲いていたもので、象徴的に映し出されていた。「童は見たり野中のばら」の歌詞が意味深長に聞こえてくる。子どもが野に咲くばらの花を手折ってしまうという曲である。タイトルをラプソディ(狂詩曲)と名づけた意味は、ここにあるようだ。人はおのれの欲望のために、美しき世界を踏みつぶしてしまうのだというメッセージを聞きとめる必要があるだろう。

第367回 2024年1月12

まあだだよ1993

 黒澤明監督作品、英語名はMadadayo、松村達雄主演。ドイツ語教師と教え子たちとの長い間の交流を通して、そこに築かれた師弟愛の姿を追う。教科だけではなく、人生の教師という、今は失われつつある関係が息づいている。60歳の還暦の年に始まった集まりが、77歳の祝いの席で、第17回を数えて、変わらず行われている。父親が学び、息子も同じ教師に教わっている。長い年輪がつくりあげてきた確固とした信念がある。

 原稿料で稼げるようになったので、今日で学校を去ると言って、学生たちを驚かせている。ユーモアをともなった語り口は、皮肉屋ではあるが魅力的だ。内田百閒をモデルにして、その人となりを浮き彫りにしていく。時代はそんなに簡単に稼ぐことは許さなかった。戦争へと突き進んでいった時代である。はじめは教え子たちを集めて飲み食いのできるスペースがあった。牛豚鶏は手に入りにくいので、鹿と馬の肉を用意してもてなした。馬鹿という暗示が込められている。

 馬肉を買いに行ったときのようすを、ユーモラスに語っている。肉屋が馬肉をスライスしているところを、馬を連れた兵隊が通り過ぎた。そのとき馬だけが振り返ったというのだ。馬の悲しそうな表情が映し出されている。馬がこんな表情を浮かべるのかと感心するが、撮影術の勝利だろう。以前山本嘉次郎監督の「馬」という作品でも、子馬と別れた母馬の悲しみの描写に感心したことがあったが、そのとき黒澤明が製作主任という名で参加している。馬にまで演技指導をしたとしか思えない。

 戦争で焼け出されて、驚くほど小さな家に住むことになった。蔵書も焼けてしまい、一冊だけ持ちだしていたのが、方丈記だった。よくいえば茶室だが、ボロ屋での執筆には心の糧となるものだった。妻と二人で入ればいっぱいになっているが、そこにも教え子たちは押しかけていた。戦後になって落ち着きを取り戻すと、教え子たちの仕事も軌道に乗っているようで、幹事役のリーダーは事務所を構えている。恩師に家を世話しようということで、広い新築の家を見つけてくれた。

 教え子たちが押しかけているときに、土地の所有者がやってくる。切り売りをして生活をしているようで、自分は隅にボロ屋を建てて住んでいる。やっと残りの敷地が売れたが、買い手が三階建てにするというので、それでは隣りにまったく日が当たらなくなる。買い主をともなってそのことを伝えにきた。手下をつれたヤクザ風の男で、買ったのだからどうしようと勝手だと、すごんでみせた。土地持ちはそれなら売らないと言った。まだ契約の印鑑を押していなかった。先生は困っていたが、売り手の勇気ある行動に感銘を受けた教え子たちは、席を外して売り損なった土地を買い取ることを決めていた。先生には内緒だった。

 庭から野良猫が家に入り込んで住み着いたようだ。ノラと名づけてかわいがっていたが、行方不明になって、先生は悲しんで、食欲もなく落ち込んでしまっている。だらしのない重たそうな猫だが、怒るときはしっかり尾を立てて歯を剥き出し、主人を守っている。落ちそうにしながらも抱きかかえる姿は、それがまるで、面倒のかかる教え子のひとりのように見える。

 ユーモラスな光景は猫の寝床にある。風呂板の上に座布団を置いていて、そこが猫の居場所だった。猫がそんなことをするわけはないので、主人のいたずら心なのだが、残り湯があって温かいという配慮と、暴れれば落ち込むという悪戯が同居している。猫がいなくなって、座布団だけが残る浴室は、確かに悲しく目に映る。

 ノラが家出をしたときも、教え子たちが仕事もそっちのけで、探したが見つからなかった。別の猫が同じように庭から入ってきて、妻が餌を与えている。夫婦の対比をなす演技が際立っている。絶妙な夫婦関係である。去る者は追わず、妻には執着心はないようだ。先生はノラでなければ嫌だと言っていたが、いつの間にか新しい猫をかわいがっていた。他愛のない話だが、先生はこれを「ノラや」という一冊の本にした。

 「仰げば尊し」が何度か歌われている。聞くことの少なくなった歌である。こんなに長いつきあいがあることに驚くが、教え子のそれぞれが、いつまでも学生時代が人生の至福の時期であったことを懐かしみ、恩師がそのランドマークになり得た時代だった。戦前戦後ですべてが様変わりしてしまったが、変わらない指標がそこにあったということが、何ものにも変えがたい幸福論となっている。

 メルヘンにさえ見える郷愁は、おとぎ話をこえて、しみじみとした感慨にふけることになった。師は人生を達観したペシミストにちがいないが、それを柔らかな笑いに包んで投げ返す術をこころえた人で、それが、教育者としての資質なのだろうと、わが身をふりかえり恥ずかしくなっていた。

 題名の「まあだだよ」にはいろんな意味がある。死を前にして主人公は幼い日を思い出して、夢うつつにかくれんぼをしている。恩師を囲む会の名が、漢字をあてて「まあだかい」だった。まだ死んでいないという、皮肉をこめたブラックジョークでもある。映画監督としては、いつまでもオーケーを出さない、役者泣かせのことばでもあっただろう。80歳をこえた最後の作品として、黒澤の名を世界にとどろかせた痛快時代劇ではなくて、還暦からはじめ幼児体験で終わる、身辺雑記の平和主義で締めくくった。未完の脚本から時代劇の構想もあったのかもしれないが、こうありたいと願う、この着地点は意味あることのように思った。