第5章 ポスト印象主義

ただの目に過ぎないポストが意味することサンラザール駅印象派をこえる/原色主義/セザンヌ:埋もれようとする孤高/父親の意味/ルノワールの立ち位置/ゴッホとオランダ/ひまわり/ゴッホと日本ゴッホとゴーギャン/ボナール:都会生活のデカダンス

第52回 2021年10月29

ただの目に過ぎない

カメラは表面にしかピントがあたらないというならば、それはことの本質を見落とす代名詞ともなる。目の人になろうとしたクールベやモネの思惑には、純粋な目がとらえる世界は、真実を写すという短絡があったのだろう。モネのことを偉大なる目だが、ただの目に過ぎないと揶揄したのはセザンヌだった。

印象派にとって世界は目をつむれば消えてしまうはかないものだった。その無常観は明治期の日本人にとって限りなく魅惑的なものに映ったにちがいない。世界はつねに流動し、いっときとして同じ姿をとどめない。そのあやうげで頼りない不安定な世界観はペシミズムそのもので、確かに印象派の時代は19世紀の末期であり、同時代の世紀末の美学に裏打ちされている。

画面がそれまでの絵画に比べて極端に明るくなったという点は、遠近法の発明に匹敵する絵画の革命だった。そして筆触分割や視覚混合という技法のなかに、実は「近代」という主題の真実が内包されていたにちがいない。それは遠近法が単なる技法をこえて、世界観や人生観でもあったのと同様のことではなかっただろうか。もっといえば絵画は単なる個性の表現だけでなく、時代をまるごと切り取る哲学でもあった。輪郭線をなくすという絵画技法は、即「近代」という主題のことだったのではないかと思う。

第53回 2021年10月30

ポストが意味すること

 長らく「後期印象派」という名称が用いられてきたが、今日では「ポスト印象派」と呼びなおされる場合が多い。ポストという語は、ポストモダンという語が、近代を乗りこえるというニュアンスであるならば、印象派を否定してそれを乗りこえるという意味になる。後期印象派では誤解が多いということで使われなくなったようだが、私は「後期」でよいのではないかという気がしている。

それは印象派を継承している点は多いし、たとえ否定したとしても印象派の理論なくしては生まれなかったと思えるからだ。セザンヌはモネをただの目にすぎないといったが、そのあとに「しかし何と素晴らしい目か」と付け加えて感嘆して見せたというなら、セザンヌはポスト印象派ではなく、後期印象派ということになるだろう。

このことはポストモダンが近代を乗りこえようとしながらも、やはりモダニズムを引きずっているのと似ている。1980年代からのポストモダンの動向は、ルネサンスに対するマニエリスムの誕生に対応している。これは後期ルネサンスとして位置づけられ、次のバロックを待ち受ける期間でもある。ポストモダンも反近代ではなく、後期近代として見ることができる。否定するのであれば印象派やモダンの語を用いる必要もない。反芸術が芸術の枠内にあるのとも同じだろう。ポストの訳語なのに「後期」と訳した賢者の先見性を評価したい気もしている。

もちろんポスト印象主義は、新印象主義と対比をなす分類である。この用語法に従えば新印象派はネオ印象派と呼ぶべきだろう。絵画史のその後の展開にとって新印象主義が発展性を欠いたのは、印象派を継承しそれまで以上に機械の目になろうとして表現性を弱めたことに由来する。スーラやシニャックの静謐な詩情は情動による表現とはいえないが、天性の作家精神を宿している。光に向かうヴィヴィッドな目の喜びに満ちていて、絵画に結びつくよりも写真から映像につながるニューメディアへの展開に寄与したようにみえる。絵画史ではなく映像表現史をつづるときの源流をなすものだと考えられる。

ポスト印象派の主役はルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンであるが、彼らは一時期は印象派に属するがやがてそれを抜け出す。抜け出すという点が重要で、それが20世紀の絵画運動を築きあげていく。印象派は19世紀末まで生き続けるが、古いスタイルの最後の砦だったのかもしれない。モネの作品を見ると現代の再評価を得て、現代美術につながる要素を見出されるが、それはごく最近の見解である。

「モネは印象派ではなく、あらゆる現代美術の生みの親ではないのか」というアンドレ・マッソン(1896-1987)のことばがある。この著名な画家の一言を頼りに、シュルレアリスムと抽象表現主義の正統性がたどられる。しかしそこには断絶があり、何となく似ているという比較だけでは説得力にかける。断絶はモネにはふさわしく映る古めかしい額縁からも察せられる。リキテンスタインやリヒターの現代絵画と並べたとき、現象面での類似は感じながらも、モネには旧来の額縁がよくにあうということにあらためて気づくことになる[i]


[i] 「モネ それからの100年展」2018年4月25日(水)~7月1日(日)名古屋市美術館

第54回 2021年10月31

サンラザール駅

日本人はモネが好きだ。なぜ好きなのか。絵の意味を考える必要がなく、わかりやすいからだろう。何が描かれているのか主題を知らなくても、恥をかくことはない。いいかえれば絵画らしい絵画が誕生したということだ。キリスト教や神話の挿絵であるなら、主役は物語であって、絵ではない。絵は脇役に甘んじることで、命をつないできた。しかしそれを捨てて自立することで、絵は絵画と名をかえ、独自性と可能性が開けることになる。エカキもあらたまって画家と改名した。

モネの描いたのが、現代社会の都市化のスピードに合わせて失われつつある自然だとすると、モネはそれにヴェールをかけることで、観客の目を自然へと誘導したのではないか。隠されると見たいと思うのが人の常だが、それを逆手にとって古き良き自然を感じさせようとした。モネが霧にけむるロンドンを好んだのは、単なる気象現象によるものではない。大都市の空気の汚染を考えれば、そこにあるのは自然現象の靄ではなく人工が生み出したガスである。匂いをともなわないメディアでは、スモッグも神秘のヴェールに包まれて絵になる姿を写し出す。

モネが繰り返し描いた「サンラザール駅」(1877)に立ち込める空気は、光の魔術にカモフラージュされているが決して美しいものではない。マネがモネに先立ちサンラザール駅を描いた「鉄道」(1873)では、鉄格子に息づく猛獣をみるように、蒸気に煙る鉄道駅を好奇心で眺めているおさない娘に対し、母親のほうは背を向けて目にふれようともしていない。マネのサンラザールの駅舎は「檻」だったが、モネでは「箱」だった。

箱の中に煙が入った光景とみれば、浦島太郎伝説にたどり着く。開けると白い煙が広がって、若者の黒髪は白髪になってしまった。西洋の話なので、パンドラの箱と比較する方がいいだろう。何も入っていない箱ではない。無や闇が入っているとしゃれてみることはできるが、煙というのが美術の話としては最高のレベルだろう。箱の中身は宝石を思い浮かべるのが原点ではあるが、そんなものはすぐに箱いっぱいになってしまう。結局はむなしく、煙のように消えてしまうというのが、ここでの厭世観だ。

写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)のとらえたニューヨークの鉄道も、モネのパロディとして見れば、歴史的系譜が読み取れる。靄に煙るなかを真っ黒の煙をはく蒸気機関車が写しだされ「人間の手」(1902)と題されている。「神の手」と対比をなす命名だと気づくと、神をこえた人間の発明による不吉な予感を感じ取ることになるだろう。

それは黒煙をはいて向かってくる地獄のモンスターにみえてくる。ここではターナーやモネの描いたような白煙ではない点に注目する必要がある。印象派の描く煙は多くが白かった。白い煙を画家は描けるが、黒い煙は写真家スティーグリッツの見た真実だった。そんな黒煙を吐き出す魔王を描いた「最後の審判」を中世イタリアの教会壁画で見た記憶がある。

21世紀に入ってもニュース映像を通じて、靄(もや)にけむる北京が神秘のヴェールにつつまれた魅力的な都市に見えることがよくある。それは都市が文明の破滅にむかうための通過儀礼のようなものだっただろう。東京でもそれは経験済みで、東京には空がないと嘆き、本当の空をみたいと訴えた無垢な娘を狂気に導くものとなった。

第55回 2021年11月1日

印象派をこえる

20世紀の初めにフォーヴィスムやキュビスムが出てくる頃には、その先駆者はセザンヌやゴッホ、ゴーギャンであってモネではない。印象派自体がアカデミズムのなかに入り込んでいって、当初の前衛性を希薄にしたことも事実だろう。古くなった印象派を乗りこえるために、再度試みたのは絵画らしい絵画を描くことだった。

印象派のめざしたものは、モネを見ていると色と形のハーモニーだった。音楽に近いもので、モネの言葉を借りれば「小鳥がさえずるように」絵を描きたかったのだ。「頭」で絵を描くというよりも、「目」で絵を描くということだった。直感がそのままキャンバスに達するにはどうすればよいかを考えた。

20世紀に入って新たに出てくるのは、絵画は自己の表現であるという立場が主流になっていく。印象派は自然を光学的に写すもので、機械的な方法を見つけ出したが、絵画としては弱々しいものとなった。「印象」という内向的な語のニュアンスが、それを物語る。この響きを「表現」へと変換していくのが、20世紀の流れということだ。そこからゴッホとゴーギャンがフォーヴィスムに、セザンヌがキュビスムに飛翔していく。

 自然を感受性豊かに、写真の目のようにとらえようとした印象派ではなくて、もっとそこから進んで、自己の表現を前面には出さなくても、画家自身の人格や人間性が絵を描く場合には重要なのだという立場が表明される。印象派が考えた輪郭線を外すという方法は、自然には輪郭線などはないので描かないという説明によるものだった。しかし自然を写すだけが絵ではなくて、絵は輪郭線で描くものだと居直れば、それで絵は成り立つ。

印象派は黒を排斥し、影は黒で描かないで、紫にした。確かに自然現象で黒は見つからない。影はみえるから黒ではない。かすかに光が入れば黒ではなくなる。しっかりと自然をとらえると黒は出てこないから、黒い絵の具は使わない。この考えかたから今度は、なぜ使ってはいけないのだと居直ってみせると、絵画は自由を獲得する。黒は見えないもののはずなのに黒色の絵の具は実際にはあるのだから。輪郭線が必要以上に、意識的に太く復活してくる。中世以来のステンドグラスで出てくる枠や縁取りを生かして絵画の絵空事を強調する。

第56回 2021年11月2

原色主義

 原色を用いるということも、その段階で出てくる。黒い縁取りのなかに単一な原色を入れる。ゴーギャンの場合はクロワゾニズム(縁取り主義)の名で呼ばれたりするが、画面に色を平板に張り付けるような感覚である。そこでは奥行きはなく、遠近法空間を超越している。そのときにきっかけを作ってくれるのが日本の浮世絵だった。

西洋が日本の「截金」(きりかね)に魅せられるのも同様の原理によるのだろう。それはプレスをされた版画であり、色を塗っているのではなくて、押し込んでいることからくる平面性だった。遠近法からの解放というよりも、平坦にならざるを得ないものだった。浮世絵の効果は印象派にも影響したが、ポスト印象派の原色主義にも刺激を与えた。

 原色主義の始まりは、絵の具を混ぜないで並べて置いていくという方法からくる。印象派では小粒の斑点だったが、新印象派では点描となる。点描法になると芸術をこえて修行僧の苦行にも似てくるが、ともに網膜のなかで混合するためのものだった。神戸のファッション美術館にいくと90万本もの色ちがいのボール型まち針を使ったスーラの大作「グランドジャット島の日曜日の午後」(1884-6)の再現にでくわすが、スーラの短命を導く苦行の姿を彷彿とさせるものだ。この数字を信じれば、90万回点描を繰り返したということだ。

ゴッホやゴーギャンでは赤や青の原色が色面となることで、強烈に目に飛び込んでくる。これがなければモンドリアンの抽象も登場することはなかっただろう。そこでは赤・黄・青に厳しく限定されたが、白と黒は温存され、黒い縁取りをもったクロワゾニズムになっている。色彩理論としては補色の関係にある赤と緑や青と黄を並べることで、互いを際立たせるという事実にも気づくことになる。手法としては「筆触分割」の名で呼ぶ。絵の具は二つを混ぜると黒ずんでくる。混ぜれば混ぜるほど暗くなり、すべてを混ぜると黒になる。補色の場合は二つを混ぜるだけで真っ黒になる。

「視覚混合」は、絵の具を混ぜないで並べて置き、離れてみると目のなかで混ざってみえるというものだ。しかも明るさは保ったままである。いかにも印象派的な考えかたで、絵画に実体を与えないで、すべてを目に映る現象として処理してしまおうという意図が読み取れる。つまり絵画を映像として見ようとする。絵の具を混ぜない限り、黒はあらわれない。黒を忌み嫌うのは写実主義の究極の世界観としてはよくわかる。

印象派は黒を排斥し、影は紫で置き換えた。日本でも黒田清輝がフランスから帰ってきて、自分たちのグループを「紫派」(むらさきは)と呼んだ。それ以前の洋画家の絵は「脂派」(やには)として退けられた。日本の絵画のアカデミズムは印象派から始まる。高橋由一(ゆいち)(1828-94)や浅井忠といった画家たちの絵に比べると、画面は確かに明るくなった。日本の場合も西洋との対比は明確に見えてくる。明るい絵を保ちながらなおかつ印象派を乗りこえようという実験が続く。

第57回 2021年11月3

セザンヌ(1839-1906):埋もれようとする孤高

ぼんやりとした曖昧模糊とした現象を追うのではなく、確固とした実在を絵画で実現することはできないだろうか。そもそもが平面を三次元に置き換えること自体が無謀な企てである。この難問に挑んだのがポール・セザンヌであり、この挑戦によって彼は近代絵画あるいは現代絵画の父となった。その造形は哲学者好みの思索を宿しており、宇宙の根源を見極める原理を追究している。セザンヌの有名なことば、自然を「球、円錐、円筒」でとらえるというのは、簡単にいえば世界をシンプルな三次元に還元するということだった。

「丸、三角、四角」の立体化と考えれば、セザンヌはそれを絵画で実現しようとしたところに、画家の苦悩があったのだと思う。ところでマルサンカクシカクをひとつの立体で見えないかと粘土を手にこね回すが、なかなか実現しない。球は円以外ではないし、円筒は三角には見えないし、円錐は四角には見えない。マルでもあり、サンカクでもあり、シカクでもあるものをいい当てようとすると禅問答となる。

マルサンカクシカクをひとめで実現する形が見つかれば、宇宙の真理にたどりつくのかもしれない。福田繁雄(1932-2009)はそんなことを真剣に考え続けたグラフィックデザイナーだった。単なるトリックアートではなく、禅的悟りに至る境地、あるいは宇宙の真理を求めようとしていたように思う。

ここで江戸時代の僧仙厓義梵(1750-1837)が1820年代に描いた書「マルサンカクシカク」を思い浮かべてみる。それが立体的にみえるとすれば、それぞれの図形が微妙に重なっているからだ。つまり層をなしていて、平面ではないということだ。どちらが上かを見極めようとするのだが、画像では案外むつかしい。

書き順についてはシカク・サンカク・マルという説が出されている。漢字は右から左に進むので、マル・サンカク・シカクの順に書くのが通例だろうが、私の目には三角は四角の上に載っているようにみえる。さらに丸の上にも載っているようなので、丸と四角を書いたあとで、両者を結ぶように三角で橋渡しをしたというのが私の目の見解である。もちろん墨の濃度とかすれ具合も判断材料で、この抽象絵画はそれが内包する意味もあわせて推理に興味は尽きない。

仙厓は円相も描いていて、マルは饅頭に見立てられた。サンカクを頭にマルとシカクを串に刺せば、「おでん」となる。おでんは宇宙の真理を語る究極の形だと、禅僧ならばいうのかもしれない。セザンヌのようにまじめにならずとも、卑近な日常生活の形に、たぶん鍵は隠されているのだと思う。この三つの形を積み重ねたものが日本では宇宙の抽象化、つまり墓石をかたどっている。簡素な五輪塔は家屋の輪郭でもある。

西洋が墓石を人体に見立てようとしてきた彫刻史とは対比をなすものだ。もちろんおでんは頭、胴体、下半身に分割された人体にもみえる。西洋でも卑近な例をあげれば、ショートケーキの一片が思い浮かぶ。それをセザンヌの実現に向けての提案と見れば、それは全体の円形を三角に切って四角の断面を見せる立体のことだ。

セザンヌの禅問答には物語はない。新古典派やロマン派までの絵を理解するようにはいかない。それらは「紙芝居」のもつ高揚に引き継がれるもので、そのために大衆性を獲得してきた。一枚の絵が語るストーリーは、ときにそれを凌駕する講談師の語り口に引きずられ、絵を見ることまで忘れて魂が浄化されたとさえ錯覚してしまう。ことばのカタルシスは、簡単に絵をしのいでしまう。絵の説明がされないで、物語や主題の説明だけがされて満足してしまっていることはよくある。ここからは絵画とは何かという画家の切実な問いなど、生まれる余地はない。物語の説明で満足しないためには、絵画は物語を描かないのが一番だった。

第58回 2021年11月4

父親の意味

問題はなぜセザンヌがそんなに悩んだのかという点にある。それが現代絵画としてモダニズムに正統に引き継がれるのである。直接セザンヌと向き合うには、西洋的伝統とは異なる地の土壌からなる日本人には困難を極める。セザンヌと苦闘してきた日本での受容史を丹念に追っていくことで見えてくる必然があり、それを論証したすぐれた研究も公刊されている。残念ながら画家ではない美術史家にはこんなことしかできない。セザンヌをめぐる哲学として、日本でのセザンヌ神話の成立を通して、重厚な西洋精神との格闘の姿を見つめることができる。それは印象派の受容のように簡単ではない。

映像表現との分離がここからはじまっていく。ネオとポストの差だといえる。新印象主義は光に反応し、写真術を応用して、手描きで機械的に定着させていく。ポスト印象派は目を閉じても手で触れることができるものを求めた。見るよりも触れることが好きなら、画家ではなく彫刻家になればよいと思うが、ルネサンス以降、絵画のステータスは確立していた。

生まれ故郷のエクサンプロバンスに引きこもり、埋もれようとした芸術論は、いちずに絵画とは何かに捧げた魂の浄化のことである。それを歴史の表舞台に引き上げる識者がいたというのが、現代絵画の父という意味だ。いなかにこもらなければ、父となることはできない。子を遠ざけて突き放すのだ。没後の1907年にサロンドートンヌで回顧展を開催するという画商のおもわくがなければ、セザンヌは埋れたままだった。セザンヌが愛したプッサンもまた、フランスと関わったのが短期間だったのと、またたく間にローマに帰っていったことから、フランス絵画の父となった。父は不可解でいつも謎めいている。サントヴィクトワール山の連作は確かに父性の自覚だったようだ。冷静と威厳を保っているがときに火山に変貌するのである。「セザンヌの地質学」(持田季未子)と題した魅力的な考察がある。

第59回 2021年11月5

ルノワール(1841-1919)の立ち位置

セザンヌが父ならば、ルノワールは母だっただろうか。セザンヌが地質学だとすれば、ルノワールは海洋学になるだろうか。後期印象派のなかでルノワールの立ち位置を明確にしておかねばならない。セザンヌとゴッホやゴーギャンが20世紀絵画に貢献したようには、ルノワールは評価されていないようにみえる。しかし大衆的人気は群を抜いている。人物に興味がある画家であり、めざしたものは手でふれることのできるような絵を描きたいということだった。それはのちにキュビスムが追究することになる視点だ。

時代はまさに印象派の躍進にあり、モネと連れだって風景画を描いている。しかし人物画からは離れがたく、印象派風に描いた人物描写を見ると、木漏れ日が人体にあたり、光の斑点が素肌を覆い、「陽光の中の裸婦」(1876)ではまるで腐乱死体のようだと揶揄される。やがて印象派から抜け出して、大らかな人体美の賛歌へと至る。印象派の理論が人体には応用が利かないという自明の理を無理矢理にゆがめようという過信は、ルノワールの実験が証明した。

ルノワールが意図したものではなかったとはいえ、腐乱死体との連想は興味深く、それはセザンヌがリンゴを腐るまで見続けた目と対応する。ルノワールには印象派を超える目が出発点から備わっていたということだ。フランシス・ベーコン(1909-92)を先取りしたものでもあるといえばいいすぎだろうか。身体がねじれて、なまの肉がゆがみ内臓が露出したように、身もだえながら表皮を突き破って生の実存を主張している。柔らかな光なら印象派だが、強い光ならフォーヴィスムとなる。さらに強烈な光だと、皮膚は焼けだだれてケロイドとなり、ルノワールをへてベーコンへと至る。

この無謀な暴走がモネに影響を与えたのが「ルーアンの大聖堂」(1892-4)のシリーズだったように思う。石造りの重厚な対象が、まるで積みわらや水面のように光に取り巻かれて崩れ去ろうとしている。ルノワールにとっての人体よりも、それはさらに触覚的な物体そのものだった。ルノワールの腐乱死体はここでは、排気ガスによる汚染だけではなく、のちの酸性雨による中世崩壊の悲惨を予言したものにもみえてくる。そのころはまだキリスト教に支えられた石造りの西洋文明の崩壊を誰も予感することはなかった。

60回 2021年11月6

ゴッホ(1853-90)とオランダ

 ゴッホを印象派との関連で見る目は定着しているが、オランダという風土を抜きに語ることはできない。オランダ時代を強調するとハーグ派の画家たちが浮上してくる[i]。オランダ人という側面の強調は、当然その国土が生み出してきた文化的伝統を強調することになるだろう。そしてそれは21世紀に入ってのナショナリズムの風潮とも同調するものだ。インターナショナルの志向は、やがてナショナリズムに変貌する。

日本に置き直せば、エコールドパリのレオナールフジタを日本人画家藤田嗣治として語ることと同等でもあり、フランス以上に、日本の文化的土壌からの影響を深読みするということになる。画家本人は抹殺したがっていた戦争画の恥部にも、美術史家は土足で踏み込んでスキャンダラスにふれようとする。

愛国者ならずっと日本やオランダにとどまっていればよさそうなわけで、そうしなかったことは自国との決裂を経て、インターナショナルをめざす当時の理想主義のあらわれでもあった。国際的普遍性の希求は、社会思想がまだ若々しく、国境をこえて連帯をスローガンに掲げた共闘の輪を形成したことを意味する。印象派に集結し、やがてはエコールドパリと呼ばれ、国際都市の一画で吹き溜まりとなっていく。

ハーグ派はまだ馴染みのないグループ名である。暗い色調は落ち着いたというよりも鬱屈した精神のよどみを感じるものだ。深い沈潜がゴッホの人物群像に反映する。農民のふしくれだった相貌は、風景画の多様性に準じた対抗策だったようにみえる。ゴッホの名を借りて、ハーグ派を紹介するという戦略は、現代の鑑賞者にアピールすることになる。17世紀のオランダ風景画からの伝統に安定感と保守的安泰を感じてのことからだろうか。しかしその静かな暗部は、ゴッホにとって光の発見のための一用件でしかなかったはずだ。

パリからアルルに行き、またたく間に開けていく光の希求は、ゴッホにとって歓喜に満ちたものだったにちがいない。それは狂気を含むものでもあったが、それでいてどっしりとして大地に根づいている。天上をめざす糸杉の先端が切断された画面に、切実な思いが蓄積している。はみ出そうとして押しとどめている精神の安定がある。不安なまでの安定という背反した心情が画面に定着している。

[i] 「ゴッホ展 ハーグ、そしてパリ」2020年01月25日~03月29日 兵庫県立美術館

第61回 2021年11月7

ひまわり

二律背反は「ひまわり」(1888-90)というモチーフを繰り返し描いた背景をなすものだ。ゴッホにおいてはすべてが自画像に置き換わるモチーフだろうが、糸杉や星や椅子や靴とともに象徴主義に彩られている。すべての象徴は対極の意味を内包するが、糸杉はまっすぐに伸びる希望であると同時に、西洋では長らく死の象徴として用いられてきた。それもまた太陽をめざして伸びあがるが、背伸びをすればするほど、首は折れやすくなってしまう。

生は死と同居しているが、ギリシャ神話ではイカロスの墜落が教える教訓でもあった。太陽に達しようとするのを人間の傲慢ととれば、16世紀にブリューゲルの描いた「バベルの塔」と共通したものだったのだと気づく。繁栄する貿易港アントワープを悪徳の都市とみたときにこの絵の真意がわかる。ブリューゲルは「イカロスの墜落」も描いている。

ゴッホが3番目に描いた「ひまわり(12本)」(1888)で、12本中に首を落とした一本を加えるとき、そこには太陽をあこがれるあまり、上昇しつづけ燃え尽き、命を絶やしたゴッホ自身の自画像が見えてくる。12本ともにひとつの壺に収まる限り、折れたひまわりには最後の晩餐でのユダの姿を呼び起こすものがある。首を折ったひまわりには首をつったユダが連想される。現存する7点のひまわりの進化を見ると、そのタッチのもつ息づかいは世紀末の象徴主義を脱して20世紀の表現主義に至っている。

ひまわりは花弁を観察すると、太陽を見続けるあまり、その形が共鳴したとしか思えない。コスモス(秩序)と命名した現象との一致を実感する。それはひまわりに似た花の名称でもある。対立する語はカオス(混沌)だった。太陽とひまわりの間に見えない糸の存在を感じるのは、ジリジリと焼ける光線の熱を体感したときだ。目には見えない糸が確かにある。その糸が切れると途端に、ひまわりはしおれてしまう。熱を帯びた一本の見えない糸にゴッホはしがみついていたようだ。日本でも同じくクモの糸にしがみついて30歳代半ばで命を絶った文学者がいた。

そして広く絵画という形式を引き合いに出すと、コスモスのマクロとミクロが対応し、共鳴と共振の姿を認めることになる。ターナーのダイナミックな風景画をみると、大自然と絵画が共鳴しているのがわかる。太陽がひまわりと似ているのと同じで、ともに見えない糸があり、両者を結んでいる。

第62回 2021年11月8

ゴッホと日本

「ゴッホと日本」という視点を強調する思惑もある。1980年代後半、バブル経済の全盛期にジャポニスムが強調され、日本文化の雄姿を伝えようとした時期があった。必要以上の紹介と強調を前にして、文化は経済に引きずられて成長していくものである限りは、致しかたないことかと思われた。バブル崩壊後、予想どおりジャポニスムは強調されることはなくなった。ジャポニスムすら死語になるのではと思っていたところ、バブルの再来の予感を受けて、二一世紀に入って浮世絵の展覧会が復活、増加し、ゴッホにまで波及した[i]

ゴッホと浮世絵を並べて展示がなされる。確かに新しい知識は増えた。ゴッホが関わった日本美術の細部と、ゴッホと関わった日本人画家の詳細が紹介される。しかしそうした資料展示にはさまれながらも、輝きを放つのはゴッホのオリジナル作品だ。今も明るい画面の発色は、印象派以来の画法と近年のクリーニングのたまものではあるが、実のところ輝いているのは、洗われた絵の具ではなく、ゴッホ自身である。

浮世絵に影響されようがされまいが、ゴッホはゴッホ以外ではない。ゴッホには浮世絵版画の模写があるが、油絵によるこの肉筆浮世絵のほうが、オリジナルの版画よりずっと大きいし、出来栄えもいい。そこには版画を油彩画でコピーするという本末転倒がある。もり上がる絵の具には今そこにいて制作中のゴッホ自身の息づかいが聞こえてくる。浮世絵の場合、たとえ北斎であろうと、彫り師、刷り師をへて遠ざかる画家の手の跡は、油絵とは全く異なるのだ。

ゴッホが本当に浮世絵にのめり込んだのなら、油彩画ではなくて木版画を手がけていただろう。ゴッホは日本に憧れていたというが、憧れていたのは楽園であって、それがたまたま見果てぬ国、日本だったというだけのことだという程度の理解でいいのではないかと私は思っている。フランス人にはタヒチが近かったが、オランダ人には日本が近かった。ゴッホがもう少し長生きして日本行きが実現していたなら、江戸の楽園はすでになく、日本は幻滅の対象になってしまったように思う。そこでは西洋の後追いをする姿しかみえなかったはずだ。


[i] 「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月)東京都美術館

第63回 2021年11月9

ゴッホとゴーギャン

絵画は人生の挿絵ではないという意味からも、しっかりと絵に集中するべきだと思うのだが、絵画そのものよりもミステリアスでスキャンダラスな人間関係に、つい目がいってしまう。なぜゴッホは寝食をともにしようと思うほどにゴーギャンに惹かれたのか。ゴーギャンはなぜゴッホとの共同生活に踏み切ったのか。耳切り事件から自殺に至るまでのゴッホの旺盛な制作活動は、ゴーギャンの視線をつねに背に感じながら推移している。

私は学生時代、ゴッホの描いた「アルルの寝室」(1888)で椅子や壁にかかった絵などがペアになって置かれているという指摘に出くわして衝撃を受けたことがある。ベッドはひとつなのに枕までもがふたつ並んでいる。確かにふたりの関係は興味深いが、そうしたゴシップネタをこえて、響きあう作品群が現存しており、ふたりで一対になっている作品も少なくない[i]

ゴッホの描いた自身のシンプルな椅子と複雑なゴーギャンの椅子を見比べると、何かが見えてくる。「ゴーギャンの椅子」(1888)には、奇妙にも二本のロウソクが座っている。一方にだけ火が灯るが不安定な置きかたが不気味だ。消えたロウソクは燃えるロウソクに寄り添うようにしている。そしてそばには重なるようにして二冊の本が置かれている。少し離れて壁に燭台が設置され、もう一本別のロウソクが灯っている。精神分析をしたくなるような絵であるが、色使いの混乱と空間の動揺はあるとはいえ、精神的には前向きで高揚しており、病的な弱々しいものではない。

 「ひまわりを描くゴッホ」(1888)を描いたゴーギャンの視角も気にかかる。上目使いに見あげるゴッホの目が不気味だ。スナップショットのようにみえるからこそ、これがモデルを前にして描いたものでなく、ゴーギャンが心の内で捉えた一瞬の真実だという点で、ゴッホはゴーギャンの視角を通じてきたるべき破綻を見抜いていたのかもしれない。

男女の痴話話のような響きも聞こえるが、ゴッホは決してサディスティックなストーカーではなかった。現代なら自虐的にリストカットを繰り返すような人格だったのだろうか。両者が並ぶとさすがに火花が散る。ゴッホの独白はつねに対象となる人物を必要としたようで、ゴッホだけの個展では抜け落ちた緊迫感が見えてくる。

 ゴッホとゴーギャンだけの息苦しさの間に、包容力の広さを誇るカミーユ・ピサロ(1830-1903)が同時期に描いた風景画などをはさんでみると、緊迫感から開放され、肩の力が抜けてほっとする。図らずも自然を人間の手で歪める不自然さを思い浮かべることになる。バルビゾン派からピサロにまではあった自然讚歌が、どうしてここまで歪んでしまったのか。タヒチにまで行かねばならないほど、西洋文明は病んでしまったということか。ゴッホもまた軸足をオランダに残したまま、光を求めて南下をしたすえに精神を錯乱させた。ゴッホの精神にとってアルルの光ではまだ不十分だったということなのだろうか。


[i] 「ゴッホとゴーギャン展」2017年1月3日(火)〜3月20日(月)愛知県美術館

第64回 2021年11月10

ボナール(1867-1947):都会生活のデカダンス

 ピエール・ボナールがモネやゴッホの前で凡庸にも映るのは、気の毒なような気がする[i]。荒っぽいタッチの仕上がりに、完成度の低さを感じる場合も多い。モーリス・ドニ(1870-1943)やフェリックス・ヴァロットン(1865-1925)の近年での人気と連動して、ボナールも世紀末のパリで印象派とフォーヴィスムの狭間で体感した真実のひとこまを映し出しているように思う。タッチの粗さと感じたのは、版で押したような絵のスタイルに由来しているようだ。それも芋版のようなプリミティヴな装いに、味わいを見損ねたということだろう。しかしこの芋版のような味わいのなかに、西洋文化の求めていた原点回帰の視覚があるのだと思う。

 ボナールの場合も、それを浮世絵に見出したようだが、ペイントではない方法としてプリントをおもしろがったことは、初期の作品にポスターや書籍の装丁や挿絵などを多数残していることからもわかる。そしてそれらグラフィックデザインに飽き足らずに、油彩画の愉楽へとたどり着いたのだろう。水浴の裸婦は、これまで戸外のモチーフだったが、ここでは秘められた密室を舞台としている点で、大都会に展開する新しい主題となっている。都会生活者のデカダンスは、ボナールにも濃厚なようで、残されたスナップ写真を通じてそのありかを知ることができる。

旅行を楽しむ八ミリフィルムも残されていて、画家としての成功をうかがわせるものでもあり、ハングリーに根ざした世紀末の魅力は、晩年には失われていたようだ。画家も次の制作のための画材が自由に買えるだけの収入を得た頃が一番いい。その時代、ハングリーが記憶として傷跡となってまだ残っている。画家でない場合だと、店舗を拡張する前の、新店舗を夢見る頃が、最高の味を提供していたという食通の感慨のことだ。画家の世俗的欲望は加速していく。こだわりと意地が捨てられる。比較してセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンのほうが、必要以上に禁欲的でありすぎたということだろうか。


[i] 「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」2018年9月26日(水)~ 12月17日(月)国立新美術館


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