開館20周年記念 李禹煥

2022年12月13日~2023年02月12日

兵庫県立美術館


2022/12/20

 解説を聞きながら作品を見ることはほとんどないのだが、今回は入口で誘導されるがままにヘッドフォンをつけながらの鑑賞となった。説明を聞かないとわからない作品なら、美術である必要はないという反応もあるだろう。一方で解説を聞いてやっと理解ができるという作品もある。解説を聞いて目が開かれるのであれば、素直にそれに従えばよいだろう。今回は解説文がない代わりに、音声による解説を用いたと考えれば、それほど新しいものでもなく、違和感はなくなってしまうかもしれない。小さな文字は読みづらくなった高齢者対策だとすれば、むしろ歓迎しなければならないだろう。

 ふたつの要素が対応しあっていると言われないと、両者の対応は見えてはこない。余白が重要だという解説があってやっと、余白に目が向いてゆく。ちょっとした見方のアドバイスは、根掘り葉掘りするのではなくて、禅問答のような謎かけを一言二言加えることで、効果的に作品は輝きはじめる。作者みすからの生の声もあったし、学芸員による客観的な解説もあった。

 しかしときには解釈を固定させてしまうこともある。立てかけられた白いキャンバスや鉄板の前に、加工もされていない大きな自然石が置かれた作品を、対話という語を用いたとたんに解釈は固定されてしまう。そのとき修行僧のように壁に向かって無想する坐像の背が見え出してしまうのだ。ただの岩と鉄板は何の関係もなく、そこに別個に置かれているほうが、実は神秘的であって安っぽい象徴主義を脱したところに、存在の重みは増してゆくものだろう。割れた板ガラスの上には、ときに岩が置かれていない方がいいということだ。不在の重さというほうが、両者の関係を謎めいたものにしてゆく。岩を落として割るのではなくて、割れるという無作為の偶然のなかに自然の神秘は宿る。

 息を止めてゆっくりと一定の速度で線や点を加えていく姿は、逆流したアクションペインティングとして見えている。筆跡に速度が刻まれるとすれば,微動だに足跡として絵画化されるものだ。そこに緊張感を感じるとすれば、それは行為の作為を警戒してのことかもしれない。お掃除ロボットの軌跡のように自然を装った不自然もある。二曲屏風に四角の筆跡だけが残るのは、不自然なまでに美しい。デザイン化された現代の東洋美といってもよいだろう。もの派というのは荒々しい自然の本性をさりげなく見せるものだと思っていたが、会場芸術として洗練され、完璧なまでに構成され尽くされていたようにみえる。もちろんガラクタを山のように積み上げた自然主義よりは、よっぽどいい。

 屋外に展示された二作は、外光を取り入れることで本来の自然主義に回帰したように見える。ひとつは狭い中庭に敷き詰められたかわらけで、歩くと軋みが音声化される。賽の河原の塔のように積み重ねられてもいる。もうひとつは屋外の螺旋階段に設置された丸い鏡で、青空を映し出している。下を覗くと上空が見える。一瞬自分は穴の底からのぞきあげているのかと錯覚をいだく。それは自然の讃美であると同時に鏡の神秘でもある。工業製品の偉大は、自然石に対面した鉄板の美でもあった。これまでそれらをしげしげと眺めたものはない。鏡を見る者は多いが、鏡を見つめているわけではない。

 リーウハンという作家は、素材の味をうまく引き出す料理人たと思っていたが、デザイナーとしての見かけもずいぶんよくなってきたということだ。しかし気をつけないと見かけの良さは、時として味を見失ってしまうことがある。忙しくなるとついつい素材さがしを人にまかせてしまうので注意しないといけない。初心に帰れとはよくいったもので、荒々しいむき出しの石に感動した原点は、いつまでも山歩きをして自然にひそむ無尽蔵の感激に身を置いていないといけないのだろう。


by Masaaki Kambara