キューガーデン 英国王室が愛した花々 

シャーロット王妃とボタニカルアート

2021918日(土)〜1128日(日)

東京都庭園美術館


 江戸時代の本草学に出てくる草花の描写に興味があった。イギリスでは王室の気品がボタニカルアートに反映する。繊細な生命がそれ自体として自立している。枠のなかできっちりとおさまって、それぞれは同等に個性を作り上げている。なかに中国人画家が描いた牡丹(ぼたん)や、インド人の描いた蓮(はす)が混じると、くっきりとした民族の差がみえてきて、それ以外はすべて西洋の型を分けもっていたことがわかる。

 18世紀から19世紀への推移のなかで、単独の花弁がやがて背景を持ちだすのが興味深い。標本からの脱皮といってよいだろう。野生への復帰とすれば、文明化を嫌う時代の嗜好が読み取れる。分類に明け暮れた18世紀精神の知性から感性の学の誕生を予言するものでもあった。

 「フローラの神殿」は驚異的な幻想性をもって、現代にアピールするものだ。日本でいえば若冲の登場に対応するものだ。写生と幻覚との同居は、現代でいえば齋藤芽生の描く世界と対応する。19世紀のはじめに出てくるが、エキゾチックな風景を背後に描きこんでいて、ここでやっと絵になったという印象を与える。それまではずっと息の長い分類学だった。同じ枠のなかで、個を主張しており、すべてはひとつの名のもとで平等である。民主主義の誕生と歩みをともにしてきたものだ。

 動植物の研究は、王室を国家権力に介入させない安全弁にもなるが、芸術文化の発展はそうした国家の意志によって支えられてきた。アートとしては表現力が希薄で物足りない印象を残す。しかし分類が平和主義の技法だとするなら、一枚のプレートに絵とことばが整理された光景は、ながらく植民地支配を身につけてきたイギリスならではの統治法に見えだしてくる。気品があって格調も高い。ギリシャ文字を伴った学術名も記載されている。やがては花言葉にまで世俗化される逸話が神話と抱き合わされて、上流階級の知恵となって定着し、印刷されている。もちろん花も実も結ばない薬草としての役割は、雑草でさえも丹念に写し取られる自然科学の勝利である。目をひかないアートとは隔絶した何げなさに、繊細な筆さばきの妙を感じ取る。

 そんな一兵卒に過ぎないような無名性を讃美するのだが、それらは根から引き裂かれ、背景をなくして、標本になっている。自然を檻に閉じ込める姿は、動物園や植物園の管理とも同調するものだ。冊子となって閉じられて、一ページに収まって図鑑となり、必要な時にはいつでも取り出せる。経営学につながるビジネスならば、薬学だけではなく、毒殺のための研究も、麻薬に向かう悦楽も内包している。可憐な野草はすべてを飲み込んで、清らかに枠内でおさまっている。同じく愛好されたウェジウッドの冷たい発光とも相性はいい。18世紀は貴族の没落する世紀だった。王室の収集した食器も、抱き合わされて妖しい輝きを放つ展覧会だった。


by Masaaki Kambara