関西の80年代

2022年06月18日~08月21日

兵庫県立美術館


2022/6/24

 過去となった遺品にどれだけのパワーがあるのかというのが、この展覧会の企画意図だろう。奇しくもこれに先立って同じ会場で開催されていたのが「ミニマル/コンセプチュアル」という1960-70年代の動向だったのと対比させてみると、興味深い美術史のイズムの落差が見えてくる。80年代に入り、芸術は表現だという内面からほとばしるパワーを芸術は取り戻していく。

 それは世界的動向ではあるが、日本でもニューペインティングの名で、熱い情念が炸裂するものとなる。芸術の観念化をよしとする美術批評の向きからは、あさはかな空まわりとも受け止められたが、作品を前に体ごと体感するような圧倒的な迫力は、大衆から遊離してしまった前衛の加速に比べると、わかりやすいものとして、健全な美術活動を持続することになった。岡本太郎が「笑っていいとも」をはじめ、お茶の間に登場し「芸術は爆発だ」と叫ぶのもその頃のことだ。

 作家を中心に時代を追っていくのではなくて、作品を中心にたどってゆくと、同時代人に共通したその時代ならではの思想が見えてくる。「アートナウ」の名称で続けられた兵庫県立近代美術館の企画を回顧するオマージュでありながら、現代に置き直しても魅力的なものは少なくはない。パフォーマンスとインスタレーションを基軸にしたその場限りの潔さを売り物にしたものは、残骸を見せつけられることになるが、作家が咀嚼しなおして今を生きるときに、輝きを示すものとなる。色褪せたセピア色の作品ではなく、再制作を通じてリニューアルすることで、現代に通用しないものは削除される。

 「再制作」について私はながらく否定的に考えてきた。形だけをなぞったパワーのないものと理解していたからだ。原作がなくなったものを本人が記憶に頼りながら再制作を試みる。当時を再現しようとするのだが、失われた過去は取り戻すことはできない。そうした文脈から生まれたレプリカは商品としては機能するかもしれないが、それ以上のものではない。今回売買の対象とはならない再制作を前にして、その価値を再認識することになった。単独の作品ではなく、美術館の部屋や壁面に同調しているという意味で、今を生きる、つまりアートナウということになる。

 石原友明「約束Ⅱ」1984、吉原英里「M氏の部屋」1986、田嶋悦子「HipIsland」1987、小杉美穂子+安藤泰彦「芳一・物語と研究」1987などは確かに今を生きていたように思う。それらは一枚の写真うつりのよさという意味でも、絵になるものだったが、私の眼には中原浩大「ビジリアンアダプター+コウダイノモルフォⅡ」1989が、写真うつりを拒否するという意味でおもしろく、生き生きとして目に映った。それはどの部屋からも見えるのにどこにも属してはいなかった。ちらっとみえて印象に残っているのにそこには行きつけないカフカの城のように、あるいは何人もの盲人が手でゾウをなでてその姿を語り合うような、不可解でいて妄想ではない実在がそこにはあった。何枚もの写真をみてその全容を頭のなかで再構成するときに味わう醍醐味は、映像体験ではなく実在しているという感覚といってもよいか。

 兵庫県立近代美術館が兵庫県立美術館と名を変え、姿も変えてかつてのワンフロアの自由が失われて久しい。大小の展示室を連ねる順路の固定化が、どんな展覧会でも繰り返されてきた。新鮮味を欠いてしまったころに逆手にとって、展示室を迷路化することで、80年代のアートナウ展のオマージュとしたとみることもできるだろう。かつて美術館が原田の森にあったころ、二階に向かうスロープを昇りながら、わくわくとして、今回は広々としたワンフロアはどんな構成がされているのかと、期待して訪れていた半世紀前のことを思い出した。


by Masaaki Kambara