熊本県立美術館所蔵 今西コレクション 

肉筆浮世絵の世界 アナザーワールド発見!

20211113日~1219

岡山県立美術館


 浮世絵の成立までを肉筆浮世絵でたどる。女性を描いてきた歴史は、太古より連なるが、江戸時代という限られた枠内でも、通観してながめると法則めいたものが見えてきて興味深い。展示作品ではないが、浮世絵は洛中洛外図から始まるという指摘は、その後の展開を理解しやすいものにしている。コレクションとしては、ひとり立ち美人図を中心に、ずらり並んだという印象だ。


 洛中洛外図(舟木本)では、女性はりりしく、キリッとして立っている。それがいつのまにかだらしなくなってくる。立つだけでなく、寝そべりだしてもくる。彦根屏風で頂点に立つ江戸の悪所の情景だ。ここでもその流れを実証できる作例が続いている。寝そべって読書にふける娘もいる。


 遊女の気位は高くなり、気取って立つと美しくもない。上から目線で、あでやかな衣裳だけが、一人歩きしているという印象だ。遊女よりは、それに付き添った禿(かむろ)の可憐さに目が向いていく。堂々とした遊女の機嫌をそこなわないように、そわそわとして落ち着かない旦那衆がいる。どちらが客かわからない。江戸の男は不甲斐ない。近松の描く男は、おしなべていくじなしで、しっかりしろと言いたくなる。しかしこれが実は、江戸が平和を保つ要件でもあった。


 幕府の政策は男が強くなることをことごとく嫌った。大石内蔵助が目隠しをして茶屋遊びに興じる情景をよしとした。それが忠義のカモフラージュであり、隠れた真意を深読みしようとして、男たちが目を向けたのは歌舞伎に結晶する虚構だった。リベンジは美化された劇中でのカタルシスにとどまり、男には歌舞伎役者をあこがれてしか生きる道はなかった。暴発する欲望を遊廓にとどめたようにである。両者はともに幕府の管理下にあった。


 江戸後期になってやっと変化があらわれる。女は逃げ腰になってくるようだ。男は北斎の描く鍾馗のようにりりしくなっていく。まるで富士のようにそそり立っている。同時に浮世絵は美人画から風景画へと画題を移していく。見通しのきく風景は領土拡大の野望に結びつくものだろう。男が強くなって明治維新を呼び込んで、それ以降は明治・大正・昭和と戦争の歴史に明け暮れていった。江戸の平和を忘れたかのようにである。その後、平和を取り戻すのは敗戦後、アメリカに同調してナイロンとともに強くなった女性の台頭を待ってのことだった。


 浮世絵の東京での変質に比較して、関西では人物画では画面をはみ出すものも生まれ、衣装は江戸なのに、顔立ちは近代という、これまでの定型を解体する変化もあらわれる。江戸ではなく、京に出てくる浮世絵での現象である。岸田劉生になぞらえて、デロリの女と言ってもよいだろう。祇園井特(ぎおんせいとく)という画家名がインプットされた。その後続く京都画壇の奇怪な女の魔力は、国家権力にあらがうように、千年の都を呼び戻そうとして恨み続けている。


by Masaaki Kambara