現代の美術

by Masaaki Kambara

 現代は、視覚メディアが氾濫した時代です。「絵画」の革新から始まった今世紀の芸術運動は、 当初は他のジャンルを排斥して純粋性を追及していましたが、やがて互いに手を結びあってマルチメディアを志向してゆきます。ここでは20世紀の欧米地域で起こった100年間の視覚文化を概観して、純粋化と総合化を繰り返して進化する芸術の様態を振り返ってみようとするものです。できるだけ幅広い視覚芸術の分野を具体的な作品に即して考えていきたい。現代芸術の概観をジャンルごとに分けて考察していきます。絵画を出発点にしながら、写真・映像へといたるイメージ表現の系譜をたどります。他方でその対極にある物質感(マチエール)へのこだわりを示す流れを身体表現を出発点にして彫刻・工芸的思考を考えていきます。次に物質とイメージという対比を縦軸にして、それに交差する縦軸として「作品」と「商品」という対比を置きながら、「アート」と「デザイン」の思想的対立について考えていきます。ニューメディアによる現代表現の可能性についても模索していきたい。 

神原正明『快読・現代の美術』(勁草書房)より 

序章 「造形芸術の理念」

 まずは造形芸術の理念について。自然からの触発が重要です。絵画ではレオナルドやコンスタブルが雲や洪水に造形の原風景を見つけます。彫刻では卵や骨という原型を追いかけたブランクーシやヘンリームーアが気になります。日本では岡本太郎が太陽の塔をモニュメントにして、縄文土器に原型を見つけています。風の造形は砂漠や砂丘を写した写真家に、動く彫刻を希求したカルダーや新宮晋のなかに見出されます。壁の意識は網走刑務所と閑谷学校を比較することで考察できます。モネの水面とロイスダールの地平線の低い風景画を通して、自然に対する画家の視線を探ることができます。中国山水画の北宋と南宋の対比も、風景の対極の姿を考えさせます。描かない絵画をイヴクラインの人体の刻印に、見えない彫刻をマンレイやクリストの梱包作品を通して考えることで、造形芸術の理念を深化させることができます。

第1章「モダニズムの芸術運動」

 20世紀の芸術は、表現主義からスタートします。つまり個人の感覚を重要視して、それを芸術表現の中心に置くものです。絵画の領域でははっきりとした理念の推移を見ることができます。似ていることを絵画はめざしますが、山藤章二やドーミエの戯画をみると写実の意味を探ることになります。ワイエスとピカソを並べても写実の考察を進めることができます。マチスのフォーヴィスムやピカソのキュビスムからはじまって、やがて抽象絵画が生まれるまでのイズムの変遷を追ってみます。表現主義はフランスとドイツで同時に起こりますが、マチスとキルヒナーを比べると同質のなかの国土の差を感じ取ることができます。ともに源流はゴッホ・ゴーギャンにあります。対してセザンヌの探求はピカソのキュビスムに受け継がれますが、ピカソ自身はさらに自由な展開をしていきます。写実の系譜はクローズの人物やエステスの都市風景で、写真を模倣することで超写実の世界へと飛躍します。一方で筆跡はバスキアやヘリンクの落書きアートに引き継がれ、対極をなして、ともに絵画の可能性を開いていきました。

第2章「純粋をめざす絵画」

 20世紀の芸術は純粋性を志向してきました。それは美術だけに限りません。音楽や詩の領域でも、純粋詩や絶対音楽が叫ばれました。絵画の場合、文学性を排除し純粋化をめざすなかで、東洋の「書」の芸術性と出会い、音楽と協調することで、抽象絵画が誕生します。20世紀の絵画史の中で何度か繰り返して抽象主義は登場してきます。抽象絵画の究極は、マレーヴィチの「白の上の白」という作品です。理論上は絵画を「色の塗られた平面」と定義したドニにはじまりますが、そこではまだ形は残っています。ピカソのコラージュもモノを貼り付けることで具象の理念を超えようとしました。東洋の書では円相図やそれを現代に移した吉原治良の円が重要です。書き殴りの痕跡を残すデュビュフェやポロック、足で描く白髪一雄のアクションは熱い抽象を引き継いでいます。一方モンドリアンを典型とする冷たい抽象は、マークロスコの静謐な詩情や千住博の滝の情趣に引き継がれたようにも見えます。

第3章「平面とイリュージョン」

 2次元の平面に3次元の立体をいかに表現するかは、ルネサンス以来の大問題でした。この解決のために「遠近法」という画期的な方法が発見されて、今だにその恩恵をこうむっていることは、言うまでもありません。絵画だけではなく、写真や映像も遠近法の原理にしたがって描かれています。 しかしそれはどんなにリアリティをもって見えても、幻影(イリュージョン)にすぎません。現代ではヴァーチャル・リアリティ、SFXなどと称して、疑似体験の代名詞のようになっています。ここでは立体映像も含めてイリュージョンについて考えます。ダリのダブルイメージやマグリットの「これはパイプではない」というパイプの絵は、絵画とは何かを考えさせてくれます。ミビウスの輪やメルカトール図法を通しても、絵画論を追究できます。エッシャーが見つけ出した遠近法のひずみもまた、絵画の秘密を開示するものです。その他、ホックニーのフォトモンタージュ、野田弘志の写実絵画、高松次郎の影を通しても、遠近法再考へと思索を進めていくことになります。

第4章「写真の芸術性」

 写真術が始まったのは19世紀なかばのことでした。はじめは絵画をまねたものとして、ピクトリアリスムの名で絵画表現の跡を追いますが、やがて写真独自の芸術表現を見つけ出していきます。今では芸術の一ジャンルとして確固たる地位を築いています。ここでは写真史を振り返りながら、代表的な作例を紹介し、これからの写真の可能性をさぐります。メディアの特性は報道写真という領域で開花し、キャパや沢田教一の短命に象徴されています。ライカの時代は報道だけでなくブレッソンの決定的瞬間に活路を見いだし、さらにはザンダーやアーバスがモデルの存在感を浮き上がらせていきます。ピーマンや花弁と裸婦を重ねたカメラの視覚の特性も、芸術表現にとっては欠かせないものです。

第5章「映像表現の可能性」

 1995年は映画誕生100年の記念の年でした。TVの普及とともに、一時は映画は斜陽産業とされ、日本でも多くの映画会社が倒産しました。しかし、今日ではVTRの普及に助けられ、映像メディアはコンピューターと結び付いて発展を続けています。ここでは劇映画だけではなく、ビデオアートやエレクトリックシネマ、 実験映画として知られるより美術の分野に近いものも含めて映像美の問題を考えてみます。

第6章「ダンス・パフォーマンス」

 これまで取り上げてきたのはイリュージョンを求める方向でしたが、それに対する反動として起こってきたのが「身体への回帰」という現象です。そこでは身体をもったものとしての人間が強調されます。もちろん映像メディアに対する演劇の復権は、これと同時に起こります。それは言語でいえば、文字と発声の二面性の葛藤のようなものです。 舞踊表現の可能性、バレエからダンスへの展開、身体と運動などの文脈で、舞踊の美術的側面を考えます。

第7章「彫刻の実験」

 イリュージョンが純視覚的な体験だとすると、彫刻はあくまでも触覚にねざしています。古代以来、彫刻が長らく人体表現に終始し、近代になって胴体だけの彫刻がトルソという名で始まったのも無理のないところです。しかし今日では彫刻という名を棄てて、立体造形という場合も少なくありません。ここでは抽象彫刻も含めて、台座を棄てて屋外にパブリックアートとして進出する「都市の彫刻」や「彫刻の森」をレポートしてみます。

第8章「デザイン論」

 美術とデザインはひんぱんに対立しあう場合があります。それはデザインが自己を目的にして制作することがないことに由来します。描きたいから描くのが絵画だとすれば、デザインはあくまでも「用」を重要視します。ポスターは画家の手慰みのように思われていた時期もあったのですが、今ではデザイナーの手に委ねられています。ここでは工芸、生活文化、服飾、広告、産業の分野でのモダンデザイン100年の歴史を追います。

第9章「工芸論」

 工芸の多くはデザインの領域に属しています。それは何らかの「用」のために創られたものだからです。「用の美」という言葉があるように、美は用のなかにあるのかもしれません。しかし、陶芸やガラス工芸は、土と炎の造形でもあって、 土が火と出会うときの偶然の美に由来するものでもあります。ここでは染織、金工、宝飾も含め現代工芸の諸層をさぐります。

第10章「素材への執着」

 美術が物質であることは、最低限の条件であるかも知れません。観念芸術、インスタレーションといった物質を伴わない、あるいはその場限りのパフォーマンス性の強い美術も、 現代美術の歩みの中では出現しました。しかし絵画でさえも絵の具を盛り上げ、質感を出しますし、彫刻家は石・木・ブロンズといった素材への強いこだわりが見られます。ここではその他、鉄・布・紙の造形、そしてそれらに一貫している色彩の排斥、物質の想像力を引き出して一時代を画した「もの派」の視点などについてふれてみます。

第11章「現代建築の冒険」

 建築もまた素材ぬきには語ることが出来ません。現代建築は鉄とガラスの美学といってもよいでしょう。そして常に「住むための道具」であるという意味からは、建築家はデザイナーでもあるわけです。 コンクリートの打ちはなしのそっけない質感は、ある意味では見事に現代の美観を象徴しています。 今日の建築家の実験を展望します。

第12章「都市と環境デザイン」

 建築家の夢想は、都市にまで広がります。そこではもはや美術の枠を大きく越えて、都市計画の領域に踏み込んでいます。 かつてのルネサンスの巨匠たちは、画家でありながら、一方で都市プランナーでもあったのですが、今日の画家には少し荷が重いかもしれません。ここでは変貌する都市空間を演出するいわば 空間プロデューサーの冒険をたどります。