第10章「快楽の園」地獄

第735回 2024年3月21日 

ボスの地獄

中央パネルでは人物はほとんど何も持たない。だから時代考証できるものがなかった。時代がいつで、誰なのかすらわからない。裸体というのはそういうものだ。衣服を通して時代がわかる。貝殻やイチゴを小道具にしても、そんなものは時代を示してはくれない。あえてどういう時代かを伏せている。つまりいつの時代でもいいということでもある。左翼パネルは明らかにエデンの園だった。それに対して地獄は具体的なものが描きこまれている(図1)。当時ボスがいた頃の楽器であったり、賭博のサイコロであったりした。地獄はボスのいた15世紀末であったということだ。

地獄の中心には、木男がいる。背景には燃える夜景が描かれる。爆発するような激しい炎が見える。それぞれの建物はシルエットになって。地獄とはいいながら見とれてしまうものだ。前景には当時の快楽の象徴のような、音楽と賭博と飲食が登場する。音楽地獄と呼ばれるスペースには、楽器が4種類ほどみえる。楽器のシンボリズムはそれぞれに意味を持つ。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル

第736回 2024年3月23 

音楽地獄

音楽の領域で考えると、ボスのいたネーデルラント地域は、音楽史の上でも重要な場所だ。ブルゴーニュ楽派の名で呼ばれるグループがある。ブルゴーニュはボスのいた地域の国名で、現在フランスのディジョンに都が置かれた。そこに宮廷音楽あるいは教会音楽をベースにした作曲家たちが登場した。

楽器は意味合いとしては聖なるものと考えられるが、ボスの描いたものはどうだろうか(図1)。一番左がリュート、ハープが中央、右はハーディガーディという、日本語名は手回し琴として知られる。リュートは胴部がでっぷりとしていて丸みを帯びている。教会の中ではあまり弾かれなかった。中世の騎士たちが庭で愛を語らうときの小道具だった。そこから愛のシンボルになったり、丸みを帯びた形から、女性をシンボライズしたものとみなされた。

ハーディガーディは現代ではアコーデオンのような感じで、手で持ちながら放浪者や楽師などのエンターテイナーが路頭で演奏した。物乞いをして生計を立てているものが手にし、恵みの施しに預かった。これも教会音楽では登場しないものだ。

これらの世俗的な楽器にはさまれて、中央にハープが置かれる。こちらは高級な楽器で、上品な聖なる気分をもつものだ。三者が何らかの意味を持ちながら、配置されているようだ。その横に巨大なフルートとドラムが置かれる。観察すると楽器は奇妙な接触をしているのに気づく。ハープとリュートの関係を見ると、ハープの先端部がリュートの胴部の穴に突き刺さっているようにみえる。中央にも出てきたセクシャルシンボリズムを思わせるものだ。中央画面でのトリオの男女に対応して、ここでも二者が愛の戯れをしている。横でひとりハーディガーディがたたずんでいる。そんな暗喩的な見方も可能だろう。ハーディガーディの上には二人の裸体の男がいて、一人は背中に大きな卵を載せている。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル部分

第737回 2024年3月24 

木男

中央の大きなモンスターは「木男」と呼ばれる(図1)。英語ではツリーマンとなる。樹木と人間が合体したようなイメージで、お尻をこちらに向けて振り返っているようにみえる。胴体部分は卵の殻のようになっていて、それが割れて中が見えている。そこから二本の足が出ているが、これが樹木の幹か枝になっている。その枝も枯れていて、樹木が枯れはてた姿になっている。顔だけはリアルで、青白い表情を浮かべて、地獄から無表情でこちらを見据えている。モンスターなのだろうが、顔だけはリアリティがあり、記憶に残るものだ。帽子は円盤になっていて、小さな怪物がそこをねりまわっている。

バグパイプも世俗の楽器だが、これもかたちからセクシャルな意味を暗示するものだ。バグパイプの図柄をそのまま、背中に旗を掲げて居酒屋の目印となっている。先に見たボスの「放蕩息子の帰宅」では居酒屋には白鳥の旗がかかっていた。体内は居酒屋でテーブルを囲んで、酒盛りをしている。胴体だと考えれば、人体では胃や腸は食堂とみなされる。これは人体であり、足を見れば船である。両脚は船に乗っている。足は船に乗るマストに見える。

振り返るポーズは「放蕩息子の帰宅」と類似するもので、そこでは通り過ぎた酒場を名残惜し気に見ていた。ここではリアリティのあるのは顔だけで、いろんなものが合成されてモンスターとなっている。顔を見ると受け口になっている顔立ちが放蕩息子に用いられた顔にいくぶん似ている。これはボスの肖像画として残されている顔に共通するものだ。木男はボス自身の肖像だという説も出される。これは似てる似ていないのことなので、たいした信ぴょう性はない。ボスというオランダ語は、森という意味なので、自分自身を樹木になぞらえるのは不自然なものではない。なおかつ森のフクロウという森の中にフクロウを置いた自画像めいた素描も残しており、フクロウのもつ視線は、夜の闇のなかで、しっかりものを見極める能力をもつもので、木男のまなざしと重なってみえる。それは知性の力ともいえるものだ。冷静に冷ややかに地獄を見通しているこの人物は、木のくぼみにじっとして肩をすくませているフクロウにも見えてくる。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル部分

第738回 2024年3月25 

樹木信仰

木男という名称は英語ではツリーマン、ドイツ語ではバウムメンシュだが、人間が木に変身する話はギリシャ神話にもよく出てくるし、民間神話の定番でもある。人間は樹木と比べれば、生命は短い。つねに木の生命力にあこがれ続けてきた。木になりたいという側面もあっただろう。

全体の流れからするとエデンの園にあった生命の木は、やがて地獄にたどり着いて木男となり枯れはててしまった。中は空洞となっている。樹木は一方で緑の葉をもった生命だが、他方で朽ちて残骸を残す姿を見つめる目がある。枯れたうつろな木に対する信仰めいたものも生まれる。切り株であったり、命をそこで絶やすのだが、そこにあり続ける存在感も重要視される。

木男の足を見ると、放蕩息子の足と同じように、付け根のあたりに包帯がまかれている。ただれたような傷跡が見える(図1)。血の跡がにじみ出ているようだ。ここでは明らかに木なのだが、それが包帯で結ばれている。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル部分

第739回 2024年3月27 

奇形

木男は神話世界のファンタジーだけのものなのだろうか。インターネットでツリーマンを検索したことがある。現実にいるツリーマンの写真が出てきた。インドネシアで見つかった奇病の報告だった。傷口が化膿したのだろうか、手足が腐りだしていて、枯れ木のようになっている。何とか治療しようとして欧米の医療チームが取り組んでいる。手足はちょうど木の表皮がほつれて、ひものような状態になっている。これは現実の人間だ。ボスのイメージ世界でつくられたモンスターも、ベースにはリアリティのある現実世界があったのではないか。先に見た「聖アントニウスの誘惑」では、アントニウス病の患者の姿が横たわっていた。手足が腐り、最終的には胴体だけで生きていく人間の姿だった。

それは怪物というよりも、奇形といってよいものだ。それらが現実世界の中で目にできた。これらの現実が潜在意識として入っていて、そこから生まれた幻想だったという気がする。ボスの想像力だけの問題ではなくて、観察力を問題にすべきだろう。夢見る力と観察眼は相反するところはある。観察はイマジネーションを排してみる行為だが、イマジネーションのもとになる源には、現実の生々しさがあったということだろう。木男は素描や版画も残されるが、その一点では現実にいる見世物のように指さす人々が描かれている(図1)地獄の場面ではなくて、ネーデルラント地方のいなか風景の中に置かれている。現実の池に宇宙船が降り立ったようなファンタジーに誘われる。

図1 「木男」版画

第740回 2024年3月28 

振り返る

お尻を見せながら振り返るというポーズは、コミカルなものでもある。このポーズはその後ブリューゲルの作品でも繰り返される(図1)。お尻を見せながら排泄している例も、風刺画として登場する。排泄行為はしばしば絵画に隠し込まれる。小便だけではなく、野糞(のぐそ)の場合もある。ブリュゲルでは「イカロスの墜落」の中で、よく見るとうずくまって排泄している農民がいる。絵画の細部にいたずらをする系譜があった。その後も続いていって、シャガールの絵の中にも引き継がれている。ユダヤ民族に起源するロシア民話に基づくのだろうが、民話時代の作品の中に、道端でうずくまって排泄する姿が見られる。

振り返るというポーズはむかしからなじみのものだが、そこにお尻をはだけて見せるという行為と重ね合わせる。ふつうは見返り美人のように背中のラインであったり、横顔の頬のなだらかな美を見せ場にしたものだ。

図1 ブリューゲル「金袋をかかえる男」銅版画

第741回 2024年3月29 

地獄の責め苦

 地獄での責め苦はボスの場合、罪を戒めるのにある特徴がある。ふつうは罰は禁欲的な方向に向けるものだろうが、ボスでは逆である。音楽地獄では楽器という快楽に誘う道具を取り上げるのではなくて、与えて必要以上に大音響を発する。もっと聞けもっと聞けといって攻め立てていくという地獄のあり方だ。快楽にしてももっともっと快楽にふけろといって、性根尽きるまで肉欲におぼれさせる。大食の場合も酒飲みには酒を与えないのが罰のはずだが、もっと飲め、吐いてからだが壊れるまで飲めという拷問だ。これはボスの絵の特徴であると同時に、当時のネーデルラントの文化のかたちだったかもしれない。中世末であり飢饉や疫病に苦しんだ時代だが、現存の年代記ではブルゴーニュでは飲食ができずに死ぬものよりも、食べ過ぎ、飲み過ぎで死ぬほうが多かったことも記録される。飽食の地域でもあった。有り余るぜいたく品に囲まれていたということは、貧富の差もひどかったということでもあるのだろう。ボスの描いた「七つの大罪」が、時代の様相を伝えている(図1)

図1 ボス「七つの大罪」部分(大食)

第742回 2024年3月30 

魔王

 登場人物は、前景には賭博の場面があり、その奥の右手のほうに魔王が登場する。ふつうの悪魔よりもひとまわり大きい。人間を口から食ってはお尻から排泄する。ボスの場合もストゥールのような椅子に座って、丸のみをした人間をそのまま排泄している(図1)。穴が開いていて奈落に落ち込んでいく。

地獄はどんな構造になっていたか。ここが地獄だとすると魔王がいる真下にまだ底がある。地獄は地の底だという概念がある。ここでは二重構造になっているのだろうか。そこで煉獄という場所のことが思い浮かんでくる。煉獄と地上の楽園を明示したダンテの「神曲」の挿絵がある。天国編、地獄編に並んで煉獄編がある。

煉獄という概念は古くからはなかった。どういう場所かは視覚上では地獄と明確に区別しがたい。もっと奥があるように描かれれば、そこは地獄というよりも煉獄と考えることが可能だ。いわばぼんやりとした中間地帯である。地獄はくっきりとした真っ暗闇だとすると、そこはうす暗闇といってもよい。のちの「最後の審判」の話の中で考えることになるものだが、煉獄という概念がボスの絵でも入り込んでいるのかもしれない。

魔王についてはさまざまに描かれるが、イタリアでもフランスでも出てくる。大きな口を開けて鬼のような顔をした人間の姿をとるのはイタリア型で、イタリアでは人体にこだわりを示す。それに対して鳥や爬虫類などに見えれば北方型といえるだろう。フィレンツェの洗礼堂の壁面にも迫力のある魔王が描かれる。人間を食っては吐き出している。人間といっても人間の姿は取るが魂のことである。肉体をもたないスピリットのことだ。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル部分(魔王)

第743回 2024年3月31 

ナイフ

 背景に近く耳とナイフが登場する。ナイフが二つの耳の間に入り込んでいる(図1)。ナイフとともに手前には大きな鍵があって、そこに人間が縛り付けられている。ナイフや鍵は男性のシンボルとして普遍性をもつもので、ここでも男性シンボル、女性シンボルという対比の意味を読み取れるかもしれない。シンボライズされた意味しかないという置き方でもある。ナイフは耳と抱き合わせに置かれているだけで、このナイフで耳を切り裂いたというものではなさそうだが、二つが並べて置かれるとサディスティックなイメージを喚起するものだ。同じオランダ人ということでいえば、ゴッホの耳切り事件を思い浮かべるかもしれない。ナイフのもつ恐怖の印象が地獄の重要なポイントとして見えてくる。

ナイフに刻まれた記号は、Bにも見えるがオメガ(ω)の文字にも見える。ナイフ自体はボスの住んだス・ヘルトヘンボスの地場産業として知られる生産品だっただろう。良質のナイフがつくられる拠点だった。ボスのいた町そのものがここで地獄の場面設定に使われているということになる。

図1 ボス「快楽の園」右翼パネル部分

第744回 2024年4月1日 

外翼パネル

 祭壇画を閉じると、透明球があって水と土がまだ未分化の状態で描かれている(図1)。天地創造の三日目である。第一日目に光あれと神が言う。ものが見え始める。海と陸がわけられる。海から分離するように陸が湧き上がってくる。陸地に生命体が誕生してくる。ボスのものを見ると植物とも動物ともつかないようなものが誕生してくる。ぬかるみのようなところから生え出してきている。その段階ではまだ人間はいない。原始的な生命の誕生が示される。

 神は描かれているが左上のすみに追いやられてしまっている。神がつくったはずのガラスの透明球は、フラスコで有機物を培養するために、化学的な実験をしているようにみえる。錬金術とも連動するもので、ボスの家系の中で、薬剤師の親戚がいたことがわかっている。薬剤師は薬の調合をしたり、いわゆる化学の領域にいる。

 外翼パネルについても、明暗のコントラストだけで描かれていて、みごとなインパクトのある絵だ。地球が丸いという認識はまだ十分ではなかったころだから、これは地球ではなくて天球である。世界あるいは宇宙が誕生したということだ。

図1 ボス「快楽の園」外翼パネル

第745回 2024年4月2 

ノアの洪水

 一般には天地創造の三日目ということだが、別の説も提出されている。画面をよく見ると左の隅に光の筋がはいっている(図1)。これは何かというときに虹だと解釈をして、水につかった陸地と虹の出てくる場面を考えた。天地創造のあとでは、ノアの洪水のときにも出現する。地上が水浸しになる。40日雨が降り続いて、やがてそれが引いていったところで、神は人類を救うあかしとして、天に虹をかけて契約をする。

 天地創造三日目ではなくて、ノアの洪水の場面ではないかという。ところがノアの洪水の場面だとすると、必ず箱舟が出てこないといけない。ここではどこにも箱舟はない。水が引いた段階でアララト山の頂にとどまっているところが描かれる。東日本大震災の津波で、屋根の上に船が乗り上げた光景を、脅威をもってながめた。ノアの洪水は山頂にまで達したというのだから、それ以上のものだっただろう。とんでもない大惨事が突如として起こってきたはずだ。アトランティス大陸の移動やサントリーニ島の噴火と重ね合わせられたりもするものだ。

 ノアの洪水が起こるまでの人類は、相当高い文明を築き上げていたのだろう。それが地球上、全滅状態になった。箱舟に乗って生き残ったのは、ノアの一族8名と、それぞれのつがいの動物たちだった。聖書によれば水が引けたかどうかを知るために鳩を放した。一回目はしばらくして鳩は戻ってきた。その時はまだ地上はみえてはいなかった。二度目に放ったときには戻ってこなかった。水は引けて地上が見えたということだ。

図1 ボス「快楽の園」外翼パネル部分

第746回 2024年4月3 

ノアの箱舟

 この絵の現状をみると、中央に日本のストライプが走っている。縁取りになっていて不自然に見える。中央の幅はかなり広く、そこに本来は箱舟が描きこまれていたのではないかと推定した(図1)。この推定には伏線があって、ボスの現存する絵でアララト山に箱舟が置かれた作例が残されている。そのサイズは十分にこのスペースに入るものだった。

 もともとはノアの箱舟があったものが、いつの段階かで、すみに傷みでも発生して中央部分を削除したのではないかというのだ。天地創造三日目とノアの箱舟とでは、長い時間差がある。天地創造で人が誕生してその後、ネズミ算的に増えていく。人の数が増えれば悪人も増えてくる。そこで洪水を起こして神はこの世を一掃する。人類が増えすぎた光景は、中央場面での裸体の群れに対応するものだろうか。そう考えるとノアの洪水の直前の姿として、中央パネルが解釈される。ボスの失われた作品のなかに「ノアの日々のように」というタイトルが記録されていることも、この論拠となるものだ。

図1 ボス「快楽の園」外翼パネル部分

第747回 2024年4月4 

ダブルイメージ

 天地創造三日目かノアの洪水かという論議があって、その後に出てきた折衷的な解釈がある。祭壇画は開いたり閉じたりするものだが、最初の閉じられた状態では天地創造で、それが開かれるとノアの洪水直前で、もう一度閉じられるとノアの洪水後の光景ではないかというのである。16世紀には男女の裸体がうごめく洪水の光景を描いた絵画は数多い(図1)。同じ図柄だが開閉のたびごとに意味を異にする。そんなことがあり得るのかと思うが、これならばノアの箱舟自体が描かれなかったことも説明はつく。ダブルイメージを多用するシュルレアリスムの精神構造にも似たものが、この時代にあったと考えることはできる。

 ボスが描いた15世紀末は世の終わりが近いといわれた時代だ。それは第二のノアの洪水によってもたらされるという風評があった。ノアの洪水以降、人類は再び増加していく。世の終わりがやってきてもう一度人類は絶滅する。第二のノアの洪水を恐れる妄想が、強迫観念となってこういう作品に結晶した。「最後の審判」という主題に引き継がれる。審判者の登場しない最後の審判を中央画面にみるとすれば、三度目の開閉も想定できるかもしれない。

図1 ヤン・ファン・スコレル「洪水」(1515)部分

第748回 2024年4月7 

サルヴァトール・ムンディ

図像的に似通ったものとして、「サルヴァトール・ムンディとしてのキリスト」という主題がある。救世主という意味だが、ここではたいていキリストは手に球体を載せている。世界を表す球体であり、ボスの場合では外翼パネルのガラス球は世界そのもので、キリストが手に持つものだ。父なる神は左上の隅に小さく描かれている。閉じ込められているという印象だ。神は小さくなり、世界は拡大していく。

サルヴァトール・ムンディの場合は、キリストが真正面に大きく描かれ、ガラス球は手に持たれたり、抱えられたりする。そこに描かれる図柄は、地面に生命体がわき出すという点で類似する。その場合のガラス球は球体の上に十字をもつ。宝珠orbというが、宗教儀式に用いるものだ。見方を変えれば船の上にマストが乗っているイメージである。球体は三分割されて、ヨーロッパとアフリカとアジアを示している。地図のTО図に対応するものだ。メムリンクをはじめ、みごとな透明球が描かれるのは、油彩画の技法の成果である(図1)。

図1 ヨース・ファン・クレーヴ「サルヴァトール・ムンディとしてのキリスト」1516/18