第185回 2023年5月22日

恐怖のメロディ1971

 クリント・イーストウッド監督作品。アメリカ映画、原題はPlay Misty for Me。ラジオの音楽番組を担当しているディスクジョッキーに降りかかる恐怖を描いたサスペンス。一ファンとして近づいてきた女性に一方的に愛されて、はじめは気軽にアバンチュールを楽しむが、付きまとわれ、偏執的に追いかけてくる。はじまりはミスティという曲をかけてほしいという電話リクエストからだった。その後行きつけのバーで謎めいた女性と知り合うが、それがこの本人だった。

 魅力的にみえたようで、声をかけてみたのが、運の尽きとなってしまった。一人で来ていたが、待ち合わせがあるのだと言って、他の客からの誘いを断っていたと、なじみのバーテンが伝えている。バーテンとふたりで見たこともないような不思議なゲームをはじめると、女は興味をもったようで近づいてくる。わけのわからない駒の打ち方に目を凝らして眺めているが、いっこうにわからない。どうなれば勝ちかというと、女性を引き寄せると勝ちだというものだった。男は勝った。きっかけができて声をかけ、女はそれに応じて一夜をともにする。

 男は一夜で終えるつもりが、女はそうではなかった。前からのファンで変質的な愛を感じていたのだ。男には恋人もいたが不審がられるのを恐れて、女を避けようとするが、おさまらない。大きな仕事をもらう打ち合わせも相手の女性を年長の愛人と勘違いしてぶち壊してしまい、はては殺人にまでエスカレートしていく。精神を病んでいるのは、はじめは気づかない。急に怒り出すなどの異変を感じはじめると、魅力的とみえた女性とはいえ、最初の浮気心も吹っ飛んで、恐怖へと変貌していく。じょじょにたたみかけるように、恐怖が高まっていく。

 たぶん愛を受け入れていれば狂気に至ることはなかったかも知れない。しかし一度嫌悪感と恐怖心が植え付けられると、逃げ腰になってしまうものだ。逃げればさらに加速度を増して追いかけてくる。恋情とはそういうものであるだけに恐ろしい。思いつめればとことん地獄にまで堕ちようとするものだ。ストーカーの犯罪は、なぜこんなに愛しているのにわかってくれないのだという、悲痛な叫びにある。落胆のはてに自殺未遂を起こす。傷は浅かったが、ますます重圧を感じ、狂気に磨きがかけられていく。

 女は部屋の合鍵もつくっていて、無断で入り込んで、部屋中をめちゃめちゃに壊してしまう。黒人のメイドに見つかると、ナイフで切り付けて傷を負わせた。警察が入り精神鑑定のすえ病院送りになるが、しばらくして突然退院をしたとの電話をしてくる。この土地を離れると言うので男はほっとする。不安なまま恋人に被害が及ぶのを恐れながら、放送を続けている。刑事が身辺警護を引き受けるが、訪れたときにはすでに遅く、恋人の同居人として、女は入り込んでいた。恋人にはこれまでも同居人として何度も女友達を代える性癖があった。刑事は不意を突かれて、簡単に倒されてしまった。放送中に電話リクエストが入り、ミスティをかけてくれという女の声が聞こえた。不穏を感じて放送中だったが、テープに切り替えて車でかけつけると、刑事の胸には大きなハサミが突き刺さって死んでいた。女がナイフで切り付けてきて揉み合いになるが、女が海に突き落とされることで決着を得た。男は傷だらけになったが、恋人は無事だった。ラジオからは自分の声が聞こえ、ミスティがリクエストされていた。もちろん「ミスティ」という曲は魅力的で、狂気を感じさせるものでは決してないだけに、盲目となった愛の恐ろしさは増幅する。緊迫感に息詰まる展開は、その後の「危険な情事1987」へと引き継がれ、「氷の微笑1992」などとともに、サイコミステリーという分野を確立していくものだ。イタリア映画でいえば、中年女の恋狂いを描いたヴィスコンティの「夏の嵐1954」といったところか。

第186回 2023年5月23日

荒野のストレンジャー1973

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はHigh Plains Drifter。高原にぽつんと立つ町を訪れた放浪者、あるいは流れ者が、町の悪を一掃して立ち去るまでの物語。謎めいた主人公をイーストウッドが演じている。何者で何の目的でやってきたのかはわからないままだ。去るときあなたは誰なのかという問いかけに、知っているはずだという謎めいたことばを残して去っていく。そのとき映し出されたのは、ならず者に殺された保安官の墓標だった。

 採掘会社が置いた町のようだが、街の治安維持のために用心棒として3人のガンマンを雇っていた。3人はしだいに好き勝手に欲望を満たすようになっていった。街の住人は狡猾だが臆病で、保安官もいやいや選ばれて決まるようで、尻込みをして役に立たない。前の保安官は正義感を発揮したために、3人組に鞭打たれて殺されてしまった。住民たちはただ見殺しにするだけだった。

 流れ者が白馬にまたがって町にやってきて、酒場と床屋とホテルを訪れる。酒場で出会った3人のならず者が、床屋で言いがかりをつけるが、またたくまに撃ち殺されてしまう。超人的な腕前をもっているが、聖人君子ではない。ことに女には目がなく、いい女に出会うと腕ずくで自分のものにしてしまう。ならず者を片づけてくれたのを見届けた町の上層部は、この男を用心棒として雇おうと決める。

 町内では何をしても無料だという提案を持ちだすと、この男は応じる。衣料店では貧民に売り物を持ち帰らせ、ホテル客を追い出して、高級な部屋を用意させる。さらに高級な酒や食事や衣服を手に入れようとすると、住民たちは反感をいだきはじめる。寝込みを襲おうとして、ベットの上から袋叩きにするが、そこには誰もいなかった。逆に返り討ちにあって7人もが殺されてしまった。非道なまでのふるまいは、用心棒が暴徒化した以前の歴史の繰り返しのようにもみえる。

 銃砲店からは銃を提供させて、住民に射撃訓練をさせ、住宅の屋根に配置して、銃撃戦に備える。町を守るのはお前たちだと説き伏せている。追い払われたならず者が町に仕返しにやってくると、訓練の成果はみられず、尻込みしてしまい、屋根で迎え撃つはずが、反撃にあって多くが殺されてしまった。主人公の登場はそれからで、ひとりはかつて保安官がされたように鞭でたたき殺された。残りのふたりも容赦なく、簡単に殺されてしまう。

 強いだけで正義ではないという存在をどう解釈するのか。超越的存在は神と呼び替えてもいいものだろう。それは恩恵と祝福に根ざした新訳聖書の神ではなく、超自然のパワーを秘めた旧約聖書の世界を喚起する。モルデカイという名をもつ人物の登場がそのことを裏づけている。こびとというハンデをもちながらも神に加護されて、市長と保安官のバッチをもらっている。主人公がならず者を一掃したあと、一瞬のすきをついての仲間の狙い撃ちから助けるのもこの男だったし、主人公が立ち去るのを、惨殺された保安官の墓標をとむらいながら見送るのもこの人物だった。

第187回 2023年5月24日

ペイルライダー1985

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はPale Rider。「荒野のストレンジャー1973」が12年後にまた現れたという感じの映画である。今回は無職の流れ者ではなく牧師だが、やがては貸金庫に預けてあった拳銃を手にするのでガンマン、職種でいうなら殺し屋ということになるのかもしれない。情け容赦なく殺すのは同様だが、女性に弱いのは前作よりいくぶん成長している。15歳の少女とその母親から、ともに言い寄られるが振り切るのは聖職者という倫理観からだろうが、それでもつまびらかにはされないが、母親とは一夜をともにしたようにみえる。人間くさい側面がみえないと映画としてはつまらないので、よくわきまえた演出なのだろうと思う。

 金が採掘される谷に住みついた10軒ほどの小集団がある。大がかりな機械を導入した採掘会社が、割り込むようにやってきて彼らを追い出そうとする。襲撃をしかけて家屋を残らず壊してしまう。恐れをなして去っていった家族も少なくない。危害は加えるが殺人にまでゆかないのは、事件になると面倒だからだ。少女の可愛がっていた犬が殺された。少女は母親と暮らしていて、同居する男がいるが父親ではない。亭主は家族を置いたままで逃げてしまったようだ。男は残された母子の面倒をみて、一家をなし今日まできた。小さな金の粒が見つかったときには3人で喜びあった。3人とも土地に対する愛着から、この地を去ることは考えていない。

 男は住人たちのリーダー的存在で、仕事道具や食料を確保するために町に行く。町は敵対する組織の巣窟でもあり、危険をともなってのことだった。案の定、嫌がらせを受けて棒で殴打されるが、そのとき白馬にまたがった見知らぬ旅人が現れて救ってくれる。とんでもない強さに驚いてしまう。お礼にと家に誘うと承諾し、連れ帰り食事の用意をして、姿をあらわすと牧師の身なりをしていた。ならず者を連れ帰ったと思っていた女ふたりの目が急に変わった。

 痛い目に遭わされた部下の仕返しに社長の息子が怪力の大男をしたがえてやってくる。採掘の手を休めて仲間たちが見守っている。牧師に向かってくるが、簡単に大男はやり返されてしまう。このあとこの大男は牧師に惚れ込んでしまったようで、敵とは思えない行動にも出ている。牧師の実力を見届けて、住人たちは自力で土地を守ろうと結束を固める。少女が牧師に近づき愛を告白する。母親が結婚したのは自分と同じ15歳だったといって迫ってくる。かわいい少女である。もっとふさわしい男性が現れるとなだめて断ると、母親との仲を疑って、少女は去ってしまった。次の日に牧師の姿は見えなくなっていた。突然消えたので不審がっているが、少女は自分のせいだと思っている。姿を消すことでわかるのは、守るのは私ではない、お前たち自身なのだと、繰り返し言っていたことばで、前作とも共通する。

 仲間の団結が崩れはじめる。これより先にひとり1000ドルで立ち退くとの交渉があったが、それを拒否したのも牧師の力を頼ってのことだった。交渉決裂で会社側は保安官を雇い入れて強制執行に向かうことになる。敏腕の保安官の名を牧師は知っていた。保安官といっても殺し屋のことである。保安官もまた牧師のことを知っていた。素手で戦うことでは済まされなくなったのだろう。牧師は貸金庫の鍵を手にして、預けてあった拳銃を引き出していた。

 少女は身の危険もかえりみないで、牧師を探し採掘現場を見て歩いていると、社長の息子に出くわした。以前から目をつけていたらしく少女に暴行を加えたとき、馬で通りかかった牧師に助けられる。腰には拳銃がさがっていた。息子が拳銃に手をかけたとたんに、それよりも速く牧師は発砲していた。馬に乗せて少女を連れて自宅へと向かった。

 谷を採掘していると仲間のひとりが、大きな金塊を掘り当てた。みんなで共有するわけではない、掘り出した者の所有となるのだ。まわりの者は祝福しながらも、うらやましがっている。一攫千金の世界で、これで一家は大金持ちだと喜んで町に出て換金しようとする。むかし採掘会社で働いていた労働者だった。酔っ払って大声をあげて広場で叫んでいると、保安官と手下たちがなぶりものにして殺してしまった。眉間にまで撃ち込まれた遺体を家族は持ち帰った。次の日にくるようにとの牧師への伝言も伝えた。牧師は単身で乗り込もうとしたが、猟銃をもってリーダーの男がついてくる。ふたりの女を幸せにするよう命じて、帰らせようとするが応じず、最後に保安官たちを片づけて一息ついたとき、牧師をねらう社長の銃を阻止して撃ち殺すことで重要な働きをする。保安官の手下6人は一人づつ手にかけられ、最後には保安官の眉間に弾丸が撃ち込まれた。助けられた牧師は、このときリーダーに向かって、自分たちの手で守ったのだと言って聞かせ自信をもたせた。

 ことば少なに馬上の後ろ姿を残して雪山に向かって去っていく姿は、シェーンカムバックを反響して、少女の叫ぶ感謝と別れのことばがこだましていた。ペイルライダーとはヨハネの黙示録に出てくる蒼ざめた白い馬に乗り込んだ「死」のことである。デューラーの木版画でもよく知られるイメージだ。宗教的色彩をとどめる謎めいた人格は、前作から引き継がれて同じ白馬に乗って登場する。善悪を超越した世界を一掃する存在のことを言うのだろう。死神という語がふさわしい。ここでもあなたは何者だという問いかけはなされるが、何も答えようとはしない。

第188回 2023年5月26日

許されざる者1992

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、西部劇で原題はUnforgiven。アカデミー作品賞をはじめ4部門で受賞。極悪非道の男と結婚をしてしまった娘を気づかう親の独白から映画ははじまる。この非道の主人公をイーストウッドが演じている。男女ふたりの子どもに手伝いの指示を出す父親の姿がまず写し出される。家畜を飼って生計を立てているが、豚は病気を患っていて、収入は思うように入ってこない。男は妻と出会うことで悪の道から足を洗うことができた。酒も絶った日々が続いたが、3年前に妻は亡くなってしまった。やがて悪の魔の手が伸びてくる。 

 町の居酒屋で酔っ払ったカウボーイから暴行され、顔に傷を負わされた娼婦がいる。仲間の女たちは仇を取ろうと、保安官に訴えるが、取り上げられずに軽い罰ですまされてしまう。娼婦たちは自力で暴行したふたりの男に多額の懸賞金をかけると、殺し屋たちが集まってくる。主人公の腕前を聞きつけて、仲間に加わらないかと誘いの声がかかる。相手はまだ若者だったが、何人も人殺しをしたと豪語している。主人公は急に銃の練習をはじめ、子どもたちがながめている。妹が兄に問う。「お父さんは殺し屋なの」と。幼い子どもに2週間の不在を言い残して出かける。昔なじみの黒人にも声をかけて、3人で2人の暴漢を追跡しはじめる。若者は分け前が減ると反発したし、黒人には妻がいて悪の誘いを醒めた目でみている。ライフルの名手だったが、今では無縁のカタギの生活をしていた。

 保安官は娼婦の告発よりもカウボーイを守ることに積極的で、町にやってくるならず者の拳銃を取り上げ、力で排斥する。懸賞金を聞きつけてイギリスからも殺し屋が駆け付けていた。保安官はたのもしい強面に見えるが、やり口は凶暴だ。主人公たち三人が町に入ったときにも、手下たちを使って追い回し、逃げ遅れた主人公は捕まって暴行を受ける。傷ついた顔の手当てをしたのは、同じく顔に傷をもつ娼婦だった。心が触れ合ったようだったが、男は女を遠ざけた。女は私以外に美女が多くいると誘った。男はそんなことではない。妻が待っているからだと言って断った。うそをつくところが心にくい。

 三人が再会して二人のカウボーイを見つけ出し、一人目を撃ち殺す。腕の鈍っていた黒人が撃ち損ねたライフルを使って主人公が仕留めた。そこで黒人は離脱する。主人公と同じように今では悪の道から足を洗っていたからだ。主人公は子どもふたりをこの友人に託して別れを告げた。二人になり残るひとりを追い詰める。若者がトイレに入ったターゲットに弾丸を3発発射したが、興奮していて、はじめての殺人だと告白した。これまでは5人を殺したと言っていたのだった。

 目的をとげて懸賞金の1000ドルが届けられ、受け取った時に黒人が捕まって殺されたことを知る。一人目のカウボーイが殺されたことへの保安官の報復だった。若者は殺人に手を染めて憔悴しきっている。主人公は子どもたちに渡すよう金を託して、若者から銃をもらい、単身で町に乗り込む。このとき主人公は絶っていた酒を口に含み、以前の悪魔の姿へと変貌した。保安官の暴行で命を落とした黒人は、町の通りでさらしものにされていた。

 酒場に入り込んで保安官に狙いを定める。他の仲間を威嚇して立ち去らせ、イーストウッドと保安官を演じたジーン・ハックマンとの息詰まる緊張感が続く。空気までも震えていた。保安官が殺され、馬上の許されざる者を見送る娼婦が、ほっとした表情を見せるのが印象的だった。かすかに笑みを浮かべていたようにみえる。最後のナレーションは、そののち妻の父が訪ねた時には、父子はこの地を離れて移り住んだことが伝えられた。家畜用の馬は白馬だったが、薄汚れていて乗馬には適さない。逃走場面で乗り損ねるのにはらはらさせた。ペイルライダーから7年、白馬も老いてしまったようにみえた。

第189回 2023年5月27日

パーフェクト・ワールド1993

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はA Perfect World。脱獄囚と人質となった少年との不思議な心の絆を描く。服役している刑務所からふたりの囚人が逃走した。性格の異なったふたりが、ぶつかることになるのは、少年を人質に取ってからのことだ。このうちの年長の囚人をケビンコスナーが演じている。彼は少年を気に入っている。少年のほうも酷い扱いをするもうひとりの囚人とは異なった愛着を覚えている。

 奪った車でのいさかいから、少年に拳銃を渡して、別の囚人に向けさせる場面がある。拳銃は取り上げられてしまうが、それまでの戸惑いの少年の表情と引き金を引くのではないかという予感が、緊張感を高めていく。買い物に車を離れるわずかな時間でのことだったが、食料品だけではなく、銃弾も買い込まれていた。手渡された拳銃には弾は入っていなかったのである。残忍な若い囚人は殺されて、残った囚人と少年の逃避行が続いていく。

 囚人を追う警察署長の役をクリント・イーストウッドが演じている。主役は若い俳優に譲ったというかたちだ。補佐役として若い女性の犯罪学者が加わる。犯罪者の生い立ちや性格をデータとして活用する優秀な助手だが、署長は机上の空論だと言って耳を貸そうとはしない。これにFBIの狙撃手が加わる。少年は何度も逃げる機会があるのに逃げようとはしない。この少年の不可解な行動を理解しようとして、犯罪学者の知恵が力を発揮する。

 囚人と少年が黒人の家に逃げ込んだときに事件が動く。少年が囚人に銃を向け発砲してしまうのである。妻や子どもたちと打ち解けていたが、ラジオのニュースを聞きつけた夫が、子どもの身を案じて部屋から追い出そうとするが応じない。引き金は黒人が子どもを殴りつけてまで追い出そうとしたときだった。囚人は異常なまでに反応して、黒人に銃を突きつけながら謝罪させ、子どもに愛していると繰り返し言わせている。縛り上げて今にも殺そうとするように思えたとき、少年の手に銃が握られていた。引き金がひかれ囚人の腹に命中した。

 少年は銃を井戸に投げ捨てて逃走する。囚人は少年を追うが、逆に少年が囚人を気にかけて近づいていくようにもみえる。大樹のもとにふたりがいたところを、警察が取り囲み、FBIは遠距離からの射殺の準備をする。署長が近づいていき、銃をもたないことを確認した。囚人がポケットに手を突っ込んだとき、ライフルが発射された。取り出されたのは紙片だった。以前少年に読み聞かせた詩の一節だったようだ。少年は息を引き取った囚人から離れようとはしなかった。ふたりには共通した生い立ちをたどることができるようで、それがシンパシーを呼び寄せあったのだとみえる。

第190回 2023年5月28日

マディソン郡の橋1995

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はThe Bridges of Madison County。主演はイーストウッドとメリル・ストリープ。子どもが手を離れた頃に訪れた落とし穴だが、真実の愛と称している。俳優の年齢でいうと、男は65歳、女は45歳。ロードショー当時に見たし、原作も読んだ記憶があるが、細部はすっかり忘れていた。せつない話であり、実話というなら美しい輝きを放つ。遺品として物的証拠がともなうと、神話は真実味を帯びて聞こえてくる。男はカメラマン、女は農家の主婦である。マディソン郡にある風変わりな橋を撮影にきた初老の男と、家族が4日間留守をしている中年の女が出会い、燃えあがり、燃え尽きた愛の顛末である。2日間は女の家で過ごし、3日目には遠出をした。

 男は離婚をしていて独身だが、女には家庭があった。思い迷うが家族と土地を捨てることができない。出した結論はゆきずりの恋と割り切って別れることだった。しかしそれが簡単にいかないから恋愛はおもしろい。ふたりの死後にまで引きずられることになった。世界中をとびまわるカメラマンには、港港に女ありだといって女は謎をかけてみる。男は最後に「生涯に一度の確かな愛だ」ということばを残して立ち去った。これが捨てぜりふでなければ、ただの口説きの文句にしかならないものだろう。家族を捨てて男と駆け落ちをするという選択肢もあったはずだ。女は荷造りまでしていた。そんな強奪愛は世間には多い。死んだあとに火葬をして橋から灰をまいてくれという母の遺言の異常を不思議がって、子どもたちが解き明かすことから、明るみになってくる母の秘密は、恋愛の至上主義を物語る、有無を言わせない真実を含んでいた。科学者が真理を探究するように、善悪では語ることのできない真実がそこにはあった。

 燃え尽きて奈落に落ちる年齢でもなかったのだろう。しかし運命的な出会いはいつやってくるかわからないという希望に満ちた教訓でもある。きっかけはカメラマンの「道に迷ったようです」ということばと、橋までの道をことばで説明するよりも、車に同乗して道案内をするほうが早いということからだった。道すがらの身の上話から親密になる。女はイタリア人だったが、アメリカ兵と出会い、誘われるままアメリカのいなかにまでやってきた。イタリアも日本と同じく、富めるアメリカがユートピアに見えた敗戦国だった。女の生まれた小さな村をカメラマンは訪れてもいた。

 本名はフランチェスカといい、アッシジの聖フランチェスカのネックレスをもっていた。この十字架が小道具として繰り返し登場する。愛のしるしとしてカメラマンに託され、二度と会うことのない車同士の別れ道で、見えるように車のバックミラーにかけられていた。カメラマンの車が夫婦の乗る車の前にきた。なかなか進もうとはしない。このとき妻の手はドアにかかっている。バックミラーにネックレスをかけるしぐさが写される。いらいらとしながらワシントンナンバーなのを夫は話題にしている。夫の目にもネックレスは見えていたはずで、その後の妻の泣きくずれる意味を見破っていたかもしれない。カメラマンが死んだのは、夫が死んでから3年後だった。夫が死んだのちカメラマンの消息を探したがわからなかった。そのときに知らせた住所にあてて、カメラマンの遺品が送られてきた。「For F」 と書かれた一冊だけの写真集も入っていた。愛のあかしとなる物的証拠だった。母親が亡くなってその遺品整理をしていると、このパッケージが出てきた。子どもたちが開くとフランチェスカと刻印された十字架が入っていた。母が身につけていたものだったが、カメラマンの遺品として返されてきたのである。マディソン郡の橋を紹介した雑誌も、同じ荷のなかに入っていて、カメラマンを紹介したページにはこの十字架をかけて写されていた。

 母親の不倫の話など聞きたくもない姉と弟は、カメラマンや母親の残した手紙を読むうちに心を開き、灰となった母の遺骨を橋から空に向けて撒くところで話は終わる。夫とともに墓に眠ることにはならなかったのである。夫は死の床で妻の夢を奪ったことに許しを乞うていたが、妻の秘められた愛に、じつは気づいていて、それでも家庭を壊すことのなかった妻への感謝とみるのが正しいと、私は解釈している。30年前に見たときには気づくことはなかったものだ。

*参考画像はこちらを参照。http://moviescreenshots.blogspot.com/2006/10/bridges-of-madison-county-1995.html

第191回 2023年5月29日

スペースカウボーイ2000

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はSpace Cowboys。70歳にも近い実年齢のイーストウッドを中心に、同世代の宇宙飛行士たち4人の冒険ロマン。かつて脚光を浴びた栄光に生きるが、無念な思いも残っている。政府の方向転換がなされ無人衛星に切り替わり、主役はサルやイヌに変わってしまったのである。古いシステムを設計した博士を訪ねて宇宙開発のスタッフが、不具合解消のアドバイスを聞き出そうとするところから、話ははじまる。

 若い飛行士に教えるよりもみずからがロケットに乗り込んで修理をするほうが早いと思いはじめる。忘れ去っていた宇宙への夢が再熱して、宇宙飛行士として乗り込む可能性が開かれた。ダイダロスの名でチームを組んでいたかつての仲間を訪ねて誘ってまわる。ダイダロスとは息子のイカロスに空を飛ぶ夢をもたせる神話の人物名である。今では牧師になっているものもいた。老眼鏡をかけなければ見えないものもいたが、それぞれが目を輝かせた。NASAに出向いて身体検査を受けたが、視力表は見えず一瞬で暗記して、目は悪いが頭はいいと言って笑ってみせた。若い飛行士の冷ややかな視線を浴びて、短期間の集中的な訓練を受ける。老飛行士たちの挑戦というのでマスコミにも取り上げられ、現役側は若い世代の飛行士との交代を画策していたが、それもできなくなる。身体検査の結果が出てきたとき、成績はもちろんよくなかったが、ひとりからすい臓がんが見つかった。主人公とはいつも対立していたライバルだった。ひとりを残して3人で乗り込むことも選択肢として考えられたが、病変は急に進行するものでもないとの訴えが通り、4人のチームのままで打ち上げとなった。

 旧システムの不具合に関しては、アメリカとソ連時代のロシアとの宇宙開発をめぐる冷戦を背景に、衛星への核ミサイル搭載の疑惑や陰謀が渦巻いていた。衛星が地球に向かって落下しはじめると、死期を前にしたライバルは犠牲となって衛星とともに宇宙に消えてしまった。フライミーツーザ・ムーンが挿入歌として流れ、月面にたどり着いて宇宙服を着たまま動かなくなっている姿が映し出されていた。そこでは死者となっても腐ることなく、永遠にとどまり続けるのも悪くはないと思わせるものだった。

第192回 2023年5月30日

ミリオンダラー・ベイビー2004

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はMillion Dollar Baby。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。プロをめざす若くもない女性ボクサーを一人前に育て上げる老齢トレーナーの話。31歳からジムに通いはじめたのでは遅すぎるとオーナーは相手にしていない。このボス役をイーストウッドが演じている。ボスと呼んで近づくが、お前のボスではないとさえぎられていた。あまりに熱心なので黒人のトレーナーが見かねて相手をしはじめる。こちらはイーストウッドとのコンビでなじみのモーガン・フリーマンが演じている。ジムの会費は6ヶ月分も前払いをしていたので、追い返すこともできない。レストランのウェイトレスをしながらの貧困生活だった。

 ボスは育て上げた有望なボクサーを、やりてのマネージャーにさらわれてしまった直後だった。黒人トレーナーは元ボクサーで、ボスのもとにいたが、止血の判断ミスから再起不能となり、現役を去りジムで雇われていた。雑役をこなしていたが、ときにはトレーナーも兼ねた。彼女の才能を見つけ出し、次の新人育成に向きはじめたボスの目にもとまり育てられることになる。女性はあこがれのボスのもとで開花し、めきめきと力をつけはじめる。KOの記録をどんどんと伸ばして、私たちもサクセスストーリーに見入りながらエールを送ることになる。ここまでならすかっとしたエンタメ系で終わるのだが、ここからが人生の蹉跌となってゆく。

 彼女は稼いだファイトマネーで母親のために新築の家を買った。父親を亡くし妹との貧困生活を続けていた。妹には夫がいたが服役中であり、母からは家をもらっても迷惑で、公的支援が打ち切られることにもなるので、現金で欲しかったという無情な答えを聞かされた。目のまわりを黒くはらした顔を見ながら、女性ボクサーという職業に嫌悪感をにじませていた。

 格闘技の宿命でもあるが、強敵を前にして反則まがいのファイトを試みたが、ゴング後に相手に背を向けたすきに、報復とも思えるパンチを浴びて、倒れ込み当たりどころが悪く、半身付随になってしまう。24時間の酸素吸入に片足も切断という過酷な状態に、ボスは名医を探し転院させ、我が子のように付きっきりで看病を続ける。ボスには娘がひとりいて、手紙を書き続けていたが、いつも宛先不明で戻されていた。事情があったようである。差し戻された手紙は山のようにたまっていた。

 女ボクサーには、意思の疎通は可能だが、寝たきりの植物人間になっていた。希望を失い死なせてほしいという訴えをはじめる。家族が見舞いにやってきたとき、母と妹とチンピラふうの妹の夫だけでなく弁護士をともなっていた。購入した家の名義を書き換えるための署名が求められた。ペンを口にくわえさせてまで迫っている。ボスは病室から追い出されたが、彼女はサインをしなかった。

 ボスは教会で悩みを打ち明けるが、回答は得られなかった。信仰は自殺を認めてはいない。信心深かったが神に矛盾を感じ、これまでも聖母の処女懐胎や三位一体を問い、神は3人いるのかという愚問も投げかけていた。教会は何も答えてはくれないのである。彼女は悲観して舌を噛み切って自殺を試みる。一命をとりとめると再発を防ぐために、病院は舌を噛めないような拘束を加える。苦痛を見かねてボスは決断する。酸素吸入の管を外し、安楽死のための薬を注入して、別れのことばをかわし口づけをして病室を去った。女の目からは涙があふれていた。その日からジムにも姿を見せず、どこへ行ったのかもわからないという黒人トレーナーの独白で映画は終わる。

第193回 2023年6月1日

グラン・トリノ2008

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はGran Torino。2000年を過ぎてからは、主演を演じるイーストウッドの年齢のことが気になりながらの鑑賞となる。1930年生まれなので年齢は制作年に70を足せば一瞬にしてわかる。若い頃のようなアクションはもちろんないが、年齢に応じた役柄を無理なくこなしていて、安定感を示している。今回は頑固おやじを演じている。妻が死んで葬儀に集まった子どもや孫から煙たがられるが、かたいじなまでに考えを曲げず、存在感を際立たせている。ひとり暮らしを案じて、息子夫婦は一軒家を処分して高齢者施設をすすめているが、愛車グラン・トリノ庭の芝生老いた愛犬から離れることができない。孫娘は愛車を狙っている。デリカシーはなく、おじいちゃんが死んだら、この車をくれると聞いている。老人は現役時代はフォードの技師だった。息子がトヨタに乗っているのも気に入らない。不良グループもグラン・トリノを狙っている。

 隣家に東洋人家族が引っ越してきて、騒がしさに毛嫌いしている。白人至上主義を貫くが、やがて打ち解けていく。ことに娘とその弟に愛着を示して、彼らを守るのに命を張るまでに至る。お礼に盛んに花や食料をもってやってくる。血のつながりよりも濃厚な、隣人との関わりを築くことになる。弟は学業成績はよいが意気地なしで、ガールフレンドに声をかけることもできない。不良グループが仲間に引き込もうとしていて、老人は何とか強い人間にしたいと思っている。工具の使い方なども教えている。イタリア人の理髪店に連れていってブロークンな会話術を教える。イタリアの悪口に対して、相手はポーランドの悪口で返すので、老人はポーランド系だとわかる。

 弟に対して姉は向こう見ずなまでに積極的で、怖いもの知らずが悲劇を招く。思いやりがあり、声をかけてきて、ひとり暮らしの老人を自宅のパーティに誘い出す。肉親の孫娘と対比をなして見えてくる。いとこに不良仲間がいて、暴行を受けるのを主人公が助けると、若者たちはエスカレートして凶暴性を増していく。ピストルでおどすと相手もピストルを持ちだしてくる。娘が暴行されて血だらけの顔で戻ってきたときに、堪忍袋の尾が切れる。銃の手入れもするが、ここでは以前のガンマンのヒーロー像ではない。

 姉弟を守るのに我が身を犠牲にすることで不良たちを服役させるという、すさまじいまでの選択となった。痛ましい自殺的行為は自身が病んで喀血を繰り返していて死期が近いという予感と、無意味な殺戮は避けたいという意志から導き出された結論だった。丸腰だったのに不良たちは一斉に弾丸を浴びせかけた。タバコを吸おうとしてマッチをポケットから取り出そうとする一瞬だった。私たちはこれまでイーストウッドのみごとな抜き打ちを見てきただけに、今回もそれを期待したが、蜂の巣のように撃たれて倒れたのには驚いてしまった。これもあらかじめ予想したねらいの内にあったことだ。

 これに先立って娘が白人のボーイフレンドといたときに黒人の不良グループに囲まれたことがあった。このとき通りがかった老人が、情けない白人青年に代わって娘を助けるのに、手でピストルをまねて不良たちをおどし、その後にポケットから本物を取り出したことがあった。この光景を覚えていると、ここでも不良たちはひとたまりもなく一掃されるのだと期待したはずだ。しかしそうではなかった。

 主人公は無益な殺戮を朝鮮戦争で経験しており、トラウマとなって苦しめられてきた。命令に従ったという隠れみのはあったが、自身の意志で殺したという自戒の念を、若い神父に告白している。神学校を出たばかりの若造に何がわかるかというはじめの気概が、じょじょに薄れていく。妻は夫を見守ってほしいという遺言をこの神父に残していた。妻は夫の苦悩のありかを熟知していて、それが気がかりだったのだ。

 妻とちがって毎日のように教会に訪れても、無神論と思える夫が、苦悩し救いを求めて、信仰をよりどころにして得ようとするあがきともみえる。意を決して懺悔をしたときも、戦争が残したトラウマについては語らなかった。隣家の東洋人のキリスト教とは異なった信仰の姿を見て、気づくところが多くあったようだ。遺言が読み上げられた。グラン・トリノは東洋人の弟に相続された。愛犬も単身で乗り込むときに、この隣家にあずけていた。主人を亡くした老犬が、味のある表情の名演技をしていた。

第194回 2023年6月2日

運び屋2018

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はThe Mule。90歳の麻薬の運び屋の話である。イーストウッドが主演をしている。長身だが背中はまるく、歩き方も緩慢で、かつてのヒーローの面影はない。しかし何ごとにも動じず、堂々とした風格と、ユーモアのセンスは健在だ。気難しいが女性には気安く声をかける。パーティ会場に到着して黒人女性のグループに向かって、美人コンテストは3階だよと軽口を言っている。

 デイリリーの品評会に情熱を燃やし、家族をかえりみないで、仕事人間を通した。卒業式をはじめ娘のお祝いのセレモニーには一度も顔を見せたことはない。娘はそんな父を嫌っているが、一日しか咲かない花を愛する心はデリカシーに満ちた優しさを秘めたものなのだろう。孫娘の結婚のときはひょっこりと現れた。本人は喜んだが、娘と顔をあわせたときには、険悪なものとなった。家族から見離される寂しさが、高齢とともにふくらんでくる。

 農園は時代についてゆけずに差し押さえになってしまう。携帯電話の普及を極度に嫌っていて、インターネットが仕事を奪ったのだと怒りをあらわにしている。仕事を亡くして落ち込んでいるときに、トラック輸送をするだけで収入になるという甘い話を持ちかけられて乗ってゆく。高収入なので疑問をいだくが、何度目かに荷を開くと、麻薬の運び屋にされていたことがわかった。高齢者ならカモフラージュされて見つからないという判断から、考えつかれたことだった。事実を知ったからといって、手を引くわけではなく、警察の捜査網をかいくぐって、遅咲きの優れた運び屋に成長していく。実入も増えてトラックを買い替え、農園も買い戻し、軍隊時代の集まりにも多額の寄付をした。

 麻薬の運搬中に妻の訃報が入る。手遅れのガンが見つかったのだった。今は行けないと答えたとき、電話をしてきた娘は落胆し失望した。計画通りの動きを守らないと命はないとおどされていたのだ。これまでは気まぐれな勝手な行動をしていることで、警察の捜査の目がはぐらかされて、成功してきていた。成功率があがり、一度に運ぶ量も増えていった。ボスからの信頼を得ていたが、組織に反乱が起こり、ボスが殺される。厳しい監視体制ができあがると、勝手な行動を取れば抹殺されることになった。おどされても怖がるふうではなかった。朝鮮戦争で修羅場を経験した者にとって怖いものなどないとも言っていた。

 次のシーンでは妻の病床にいる老人の姿があった。病人が自宅にいたのは病院から見離されたからだった。無断で運び屋を中断して何日間かのことだったが、妻は息を引き取った。これまでのわだかまりは解消したようで、妻が夫の腕に巻かれたオシャレな金のブレスレットを見ながら、大金が入ってくる理由を問うた。はぐらかした返事のあとで、麻薬の運び屋をして稼いでいると言ったが、まだはぐらかしていると思って、妻は笑っていた。仕事に戻るとき娘は感謝祭には戻ってくるようにと父を誘った

 警察は運び屋を監視する車に仕掛けた隠しマイクで、二人の男が行方不明になっている運び屋を探していることを知っていた。ヘリまで動員しての囲い込みにより、運び屋の車を確保した。担当刑事は顔を見て驚いた。前の日に酒場で顔をあわせて打ち解けたことがあったのだ。そのとき刑事は大事な約束を忘れたことを悔いていた。老人はなぐさめはげましながら、自分も娘と12年半も顔をあわせていないと嘆いていた。妻が亡くなったことを告げて、娘との確執も解けたことを伝えた。刑事はエールを送って護送車の扉を閉めた。法廷での審議がはじまったが、弁護士をさえぎって刑に服する意志を表明した。身勝手な肉親ではあったが、家族があたたかい目で見守っていたのが印象的だった。デイリリーの悲壮なまでの短命の美しさが通奏低音となって眼底にとどまっている。

第195回 2023年6月4日

バード1988

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はBird。サックス奏者チャーリー・パーカーの生涯をたどった伝記映画。心臓マヒで死んだとき、診断した医師は65歳くらいかと問うた。34歳だとの答えに驚かされたが、三人の子どもがまだ幼いことを思えば、妥当な年齢なのだろう。麻薬と酒が心身をむしばんでいた。天才的な感性は、毒となるような刺激がなければ、開花しないのかと思ってしまう。

 全編をジャズ音楽が流れていて、パーカーの演奏ぶりを見ながら、サックスのもの悲しい響きに彼の生きざまを重ねてみる。チャーミングな白人女性との間に、3人の子どもが育ったが、2人を亡くしている。子どもが死んだときパーカーはともに不在だった。身勝手を悔いているのはわかるが、精神錯乱かと思えるような内容の電報をたて続けに3通も送っている。芸術的才能とは反比例するように、マネージメントは成功したとはいえない。その原因はドラッグとアルコールに溺れる破綻した性格にあった。ジャズの開花したカンザスシティでは比較的規制は緩やかだったようだが、それでも警察から目をつけられて、禁断の症状との戦いにあった。

 古いスタイルのジャズを刷新しようとする大都会に対して、地方都市さらにはパリをはじめとしたヨーロッパ諸都市へと目が向けられてゆく。トランぺッターとバンドを組んで地方巡業を続けるが、麻薬の規制が厳しい場合は、そのためにかえって酒の量が増えてしまうことにもなる。神経衰弱から自殺未遂も起こしており、不安定な精神は妻も匙を投げているようにみえる。人格的な不安定とは反比例するように、芸術的な安定度は高く、広がりをみせるファン層は警察や病院にもおよび、隔離し監視する担当職員からサインを求められたりもしている。

 サックスの絞り出すような響きは、にぎやかなのに寂しい。心地よい奈落への降下をめざしていて、人間の本質的な底流をなす無常観に、食い入ってくるように思う。安定をめざして落ち込んでゆく響きとも言えるか。ジャズ音楽全般に共通する要素ではあるのだろうが、監督のイーストウッドが長年にわたって描いていく、狂気に近い真空の世界と共鳴しあっている。バードはヤードとともにパーカーの愛称だが、渡り鳥が土地に根づくことなく、浮草のようにただよい、さまよい続けるという点で、自由な不安定ともいえる状態を暗示しているようだ。バードランドという名をもつライブハウスも、パーカー本人は不在のまま、独立して一人歩きしていった。

第196回 2023年6月5日

ミスティック・リバー2003

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はMystic River。3人の少年たち遊び仲間のその後の人生の明暗を、ミステリータッチで描く。路上でホッケーをしていたが、球が下水溝に入ってしまった。同じ溝には野球の球も山ほどたまっているようだ。手を伸ばしてもとどかない。別の遊びとしては鍵の差したままの車を乗り回すことだったが、そんなことをすれば親から殺されるという声が聞こえた。次に見つけた度が過ぎる遊びは、舗装されたばかりの乾ききらない道路上に、棒っキレで自分の名を大きく書き出すことだった。3人目が書いているところで声がかかった。見ると公共物をパトロールしてまわる刑事のようにみえた。ひとりだけを連行して車で連れ去ってしまった。大人に話すと騒ぎになってさらわれたのだということがわかった。4日後に帰ってきたが、少年売春にされてしまったようだった。心身に傷を残したまま大人になっていく。道路上のいたずら書きは、3人目の名が途中で終わったまま、今も残り続けている。

 3人の大人になってからの動向は、やがて人間関係がわかりだすが、はじめのうちは一対一対応ができない。ひとりは本物の刑事になっていた。もうひとりは闇社会に生きる顔役になっていた。3人目は一般人という感じだったが、かつて連れて行かれたのはこの人物だった。顔役の最愛の娘が殺されることから事件ははじまる。刑事が相棒の黒人刑事と解決に乗り出す。娘には恋人がいて直前にいっしょにいたことから、まずは疑われる。次に先の一般人も怪しまれるが、疑惑を感じたのは妻だった。夜遅く帰宅したとき、夫の手は血だらけだった。子どもを助けたときに暴漢と揉み合いになり、殺してしまったかもしれないという。妻は冷静に血痕のあとしまつをして、夫をかばおうとする。同じ夜に友人の娘が惨殺されたことから、疑問を持ちはじめる。殺したかもしれないと、夫のいう事件は、いつまでたっても報道されなかった。娘がいた酒場にこの一般人もいたことから、友人の刑事が捜査にやってくる。黒人の刑事は辛らつな質問を投げかけるが、刑事は友人を信じている。娘の父も手下を使って犯人探しをはじめるが、妻が夫の不信を伝えると、子どもの頃のトラウマを重ね合わせて、狂気の殺人を思い浮かべはじめる。

 容疑者を呼び寄せて警察も聞き込みを始めている。娘の父も被疑者を捕まえて、疑惑を追究する。脅し文句は娘を殺したと認めれば助けるというものだった。凶器を突きつけての恫喝が殺人を認めさせてしまう。その直後に被疑者は刺し殺されてしまった。刑事は別ルートから娘の恋人周辺に探りを入れ、この殺人が恋人の弟とその仲間によるものだという確信を得た。それを知らせに娘の父を訪れたとき、報復殺人はすでにおこなわれてしまっていた。ボスの指図にしたがって手下たちが死体を川に沈めていた。

 ミスティック・リバーは実在する川の名のようだが、謎めいた川に沈み込んだドロドロとした恨みやしがらみが暗黒の海へと流れ去り、連れ去ってしまったようにみえる。川にかかる特徴的な橋が繰り返し写されている。誤解による殺人は、ふたりが最後に出会ったとき、刑事が旧友に向けて拳銃をまねた手のゼスチャーで告発されたが、自分では捕えようとはしなかった。その後、逮捕されたのだろうか。死体は発見されたのだろうか。夫を信じきれなかった妻の罪も重いし、それを信じ切って殺人にまで至った友の罪も重い。血だらけの姿は、かつて大人のおもちゃにされた男が、子どもに手を出す大人の手から救おうとして、打ちのめしたときの、確かにその血痕だったのである。あのとき3人とも連れ去られていればというセリフが、感慨深げに語られたのが、印象に残っている。

第197回 2023年6月6日

インビクタス/負けざる者たち2009

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はInvictus。南アフリカでネルソン・マンデラの大統領時代に、当地で開催されたラグビーのワールドカップをめぐる物語。主人公の大統領をモーガン・フリーマンが演じている。ものものしい身辺警護が続くなか暗殺者でも出てくるアクションシーンを予想させるが、南アフリカが優勝するまでのスポーツもののサクセスストーリーだった。ただ人種差別の問題は根強く引きずっていて、ラグビーの代表選手には黒人はひとりいるだけで、あとは全員白人のチームだった。

 住民は黒人が大多数をしめる国なのに、一部の白人たちが政治も経済も支配してきた。そんななか民主主義が根づくと、投票により黒人の大統領が選出されるのは当たり前のことだろう。白人の職員たちは解雇を恐れた。大統領は分断を避けようとして、白人よりと思える姿勢を取ろうとしている。対立の図式のままでは国はひとつにまとまるわけはない。そこで国別の対抗で競われるスポーツ大会は、極めて有効な手段となった。そのためには大統領が戸外にでて身の危険をかえりみないで、いわば旗振りをする必要がある。

 ラグビーチームの主将役をマッド・デイモンが演じている。マンデラの思想に影響され、その考えに同調するようにチームの結束を高め、優勝にまで導いた。彼は大統領が30年近く収監されていた独房を訪れて、感慨深げに「負けざる者」の不屈の精神に思いを馳せてもいた。勝利のヒーローインタビューで何万人もの観客を前にして応援のパワーを問われて、4000万人をこえる国民の声援のおかげだと言ってのけた。

 チームで子どもたちの指導に行ったとき、人気がたったひとりいる黒人選手に向かっているのを見ながら、避けがたい人種問題の根幹に触れたような気がした。大統領の身辺警護にあたるガードマンの役割と責任は大きいが、ここでも黒人のチーム白人のチームに分断して対立していた。白人チームは大統領の希望により、のちに加わったが、それも考え抜かれた末での判断だっただろう。ラグビーが優勝したとき、一瞬警護の任を忘れ、肌の色をこえて自然とお互いに肩を抱き合って喜びあっていたのが、ひとつの国を共有する連帯を暗示するものとなった。

 最終戦の相手国のチームは、「すべてブラック」All Blacksという名称なので、全員黒人なのだと思ったが、そうではなかった。東洋系も加わり多数の人種が混ざっていた。見ると全員が黒のユニフォームを着ていた。この映画の言わんとするところを象徴しているように思った。競技場に向かって航空機が低空飛行をしてくるのを、テロではないかと緊張感が走ったが、大会開催を祝い盛り上げるためのパフォーマンスだった。白人の機長の個人的判断によるものだったようで、映画に緊張感とサービス精神の花を添えていた。

第198回 2023年6月7日

アメリカン・スナイパー2014

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はAmerican Sniper。クリス・カイルという伝説的な狙撃手(スナイパー)の短い生涯をたどる。はじめはカウボーイを憧れるが、イラク戦争やニューヨークテロの悲惨な現状に憤りを感じて、新兵募集に応募、過酷な訓練を経て、狙撃手として名をなすに至る。

 市街戦が至近距離で続いている。荒廃した道路を母子が歩いている。遠方からイラクの子どもに照準を定めているが、幼い命に向けて引き金は引きたくない。母親が隠しもった大型の手榴弾を子どもに手渡す。子どもが戦車に向かって駆け出していく。狙撃手の役割は味方の米兵の安全を確保するために敵を狙撃することである。子どもが手榴弾を投げようとした瞬間に引き金を引く。母親が落ちた手榴弾を拾って投げようとしたので、それも撃ち殺す。子どもに銃は向けたくない。その後も狙撃した兵士のロケット弾を拾い上げて身構えた少年がいた。カイルは狙いを定めながら兵器をおろしてくれと念じている。このとき少年がなぜそれを置いて走り去ったのかはわからないが、主人公は胸を撫で下ろしていた。ロケット弾が重かったか操作方法がわからなかったのだろうが、ファインダーごしにスナイパーの思いが通じたようにもみえる。

 極限状況での過酷なまでの神経のたかぶりは、精神に破綻をきたしたにちがいない。戦闘が一段落つくと、何度かの帰宅があった。子どもには強い愛着があった。ときには狂気に近い姿も見せた。その休暇中は妻と子に囲まれたが、妻は体は帰ってきても、心は帰ってきていないと嘆いた。しばらくのちにはまた戦地へと向かうことになる。仲間が最前線で倒されたのは、敵の狙撃手からのものだった。オリンピックにも出場した射撃の名手が加わっていた。驚くべき腕前は1000メートル以上も離れたところから、照準をあわせての狙撃が可能だった。その後の派兵は仇討ちを目的に敵のアルカイダに立ち向かうことになる。死に隣り合わせた戦闘のなかで、2000メートルに近い標的を狙い、目的をはたし、従軍はこれで終わりにしようと決意する。

 退役後、200人近い狙撃による殺害には、精神的な後遺症が残り続ける。冗談で妻に拳銃を向けたとき、ほんとうに撃ってしまうのではないかと思わせた。この殺気が、のちの主人公の死とも連動する。精神科も訪れたが、精神の安定を求めて退役兵のためのボランティア活動をおこなっている。ある日、退役兵のひとりを相手にしていたとき、その元兵士からあっけなく殺害されてしまった。妻はその兵士を見て不吉な予感をもっていたようだった。ナレーションでも理由は語られなかったが、戦禍がもたらした狂気であったことが予想される。

 追悼のセレモニーが大規模におこなわれるようすが写し出され、実話にもとづく悲劇なのだと、私たちも改めて確認することになる。朝鮮戦争とベトナム戦争に続くアメリカの試練であったことは確かだろう。正義を旗印にしているが、不条理な殺戮が繰り返されている。目には目をでは癒えることはなく、まだまだこの国の病魔は続いていて、立ち直れてはいないことを、この映画は教えてくれる。平和宣言とはいってみても、いつも思うのは、殺した悔いは癒えても、殺された恨みは簡単には癒えないということだろう。

第199回 2023年6月8日

ハドソン川の奇跡2016

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はSully。サリーはハドソン川に不時着した航空機の機長の愛称である。この主人公をトムハンクスが演じている。鳥の群が両翼のエンジンに飛び込んで火を噴き、飛行困難になった旅客機が空港に引き返さずにハドソン川に着水した。乗っていた155人は全員無事だったが、真冬の極寒での救出だった。機長は最後まで機内にいて、水に浸かりながら取り残されたものがいないかを確かめた。真っ先に逃げた船長や機長がいて、問題になったことも記憶に新しい。最後までひとりも欠けることのない155という数字にこだわり続けた機長は、英雄として讃えられたが、調査報告書を作成する会社側や保険会社は、冷ややかな対応を示す。

 機体の損害もさることながら、乗客を死の危険にさらした責任が問われることになる。判断をめぐっての検証は、コンピュータによるシミュレーションでは、十分に空港に引き返すことができたという結果を出した。これが通れば機長は責任を取って職を失うだけでなく、法的にも罰せられる。無事に助けられた乗客が機長に感謝を伝える報道も写し出されていたが、そんな英雄としてのマスコミの注目が逆転してしまう。それを受けて一部の報道では機長の判断ミスを伝えはじめた。紙一重の差で、審判が逆転するのは、有罪か無罪しかない法廷の非情に似ている。そこでは全員が無事だったという事実が置き去りにされている。

 機長の一人芝居だったのかの判断は、隣にいた副機長の発言が大きく左右する。この人物が冷静で頼もしい。ユーモアもあり、機長のあとに意見を求められると、深刻になる機長の気分を和らげた。副機長にもう一度事故が起こるならという質問がなげられると、7月ならばと答えてみせた。機長にはこれまでの経験により判断には確信があった。コンピュータのあと、人員が乗り込んでの実験でも、空港に引き返すことが可能だという結果を導いていた。機長はとっさの判断に至るまでの人的要因を強調し、タイムラグの必要を申し出た。30秒ほどが認められてそれに従ってシミュレーションをおこなうと、機体は滑走路にたどり着くまでに、地面にたたきつけられていた。

 航空機がエンジントラブルで空港に引き返したという話はよく聞く。その場合は到着が大幅に遅れるというだけで、大問題とはならない。自信がなければ川に降りるというようなアクロバットは思いつかないはずだ。この前代未聞の奇跡によって、乗客は運命共同体となった。その後も機長を囲んで、集まりが続いたようだ。最後は機長と乗客が登場して、映画を締めくくったが、それぞれの乗客が座席のナンバーで自己紹介をしていたのが印象的だった。忘れがたい時間を共有した感慨は、「シンドラーのリスト」で救われた人々が画面に登場したのにも似て、実感に裏打ちされたものだった。

 これまでのイーストウッドの監督作品では、こんなに簡単にハッピーエンドにしてしまってよいのかという疑問が残る。実話なので曲げることはできないが、英雄視された主人公に判断ミスの審判が下され、もっと過酷な未来が待ち受けているという展開もありえる。機長が副収入を得ていたという話も、職を失うかもしれないと懸念が出てきたときに語られたが、これも不利にはたらく要素だろう。事故後の尋問で健康面や飲酒癖などを問われ、家庭は円満かという質問に対して、顔に陰りが見えたように思った。家庭の事情を複雑にしてしまうのも、フィクションならばできただろう。もちろん悪い作品ではなく、さわやかな感動作であったが、これまでの監督のアクの強い主人公を期待していたファンにとってはものたりないエンディングだったかもしれない。イーストウッドの年齢はこのとき86歳、それだけでも充分、この映画は奇跡だった。

第200回 2023年6月10日

アウトロー1976

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はThe Outlaw Josey Wales。南北戦争を背景にした西部劇仕立ての物語。家を焼かれ、家族を殺害された男が、復讐に立ち上がる。南部の残党グループと行動をともにするが、政府が組織した北軍に加わることで擁護されると聞いて、多くの者が移動する。裏切り者の仕掛けた罠だったが、主人公ジョージー・ウェールズだけは誘いに乗らず別行動をして生き残った。グループは一箇所に集められて、全員無惨にも射殺された。彼は抜き打ちの名手であり、ひとり戦いにいどむ。この無謀なアウトローをイーストウッドが演じている。

 多額の懸賞金をかけられて、関係もない賞金稼ぎからも狙われることになる。逃亡するなかで出会うのは、孤独な先住民や戦いに負けた弱者たちで、やがてファミリーを形成して連帯感を強めていく。抜き打ちの名手だけあって拳銃さばきはあざやかだ。ホールドアップさせられて二丁拳銃を裏返して渡そうとする一瞬をついて、もとに戻して引き金を引く早わざを目にして、プロのガンマンがぴったりの西部劇俳優なのだと改めて納得した。アメリカがまだ統一されず、ことに南部の諸州では先住民といってもいくつもの部族が覇を競っていた。言語も異なる多民族国家が歩む苦難を、アメリカ史に立ち帰って学ぶことになる。

 主人公が助けたなかに白人の娘がいた。先住民の男女に加えて、この母娘が増えた。一軒家での共同生活がはじまって、落ち着きを取り戻し、敵襲に備えて武器の使い方にも慣れ、心に余裕が生まれる。主人公と娘は心を通わせて一夜を共にする。明け方に夢にうなされて目が覚める。父を呼ぶ子どもの声だった。誰にも知られずに主人公は決意して、旅支度をして出かけようとする。まだ自分は追われる身であり、ここにいないほうがファミリーは安全なのだ。ひとりになったところで追っ手に出くわす。ひとりになるのを待っていたようだった。取り囲まれて銃を突きつけられ、発砲寸前に家の窓から何丁もの銃口が一斉射撃をはじめた。ファミリーは知っていたのである。主人公は救われた。肌の色の違いをこえて結束する力が、そこにはあった。

第201回 2023年6月13日

荒野の用心棒1964

 セルジオ・レオーネ監督作品、イタリア映画、原題はA Fistful of Dollars、イタリアではPer un pugno di dollari。クリント・ イーストウッド主演。イタリア製西部劇、通称マカロニウェスタンである。メキシコとアメリカの国境沿いでの話。主人公はアメリカ人でメキシコにやってきた。日本では三度笠に雨合羽ということだが、粋なファッションに身を包んでいる。荒れ果てた町で、すぐに立ち去るよう警告されるが、意に介さず二つのグループの勢力争いの狭間で、どちらも手玉にとって、町を一掃しようとしている。4人の男たちがラバに乗ってやってきた主人公をピストルで威嚇する。ラバは恐れて逃げ出し主人公は置き去りにされる。棺おけ大工が登場し、主人公が3人分を用意するよう頼んで敵に向かったが、戻ってきたときには4人になったと訂正した。ラバが驚いているので、ラバに謝ってほしいと持ち掛けると男たちは怒りはじめ、銃を抜いたとたんに、それよりも早く撃ち殺されてしまった。早撃ちの名手だったのだ。相手より先に拳銃を抜くことはない。4人が属していた組の方に、自分を売り込んで用心棒になる。手薄になったはずなので、4人分の代わりができるという意味である。

 棺おけ屋が唐突に登場しているが、黒澤明の「用心棒」をリメイクしているのだとわかる。町には店など何ひとつないのに居酒屋と棺おけ屋の需要だけはあり、ことに後者は大忙しである。それほど棺おけが必要なのか、誰が注文をし支払うのかなど、疑問をだきながらも、仏教とキリスト教に共通した東西文化の一致をおもしろく思った。どちらとも主人公が打ちのめされて、瀕死の状態で逃げるのは棺おけのなかに隠れてだった。ともに棺おけ屋が手伝ったが、日本ではあぐらをかいて入る丸い樽、西洋では横たえられた棺だった。

 小さな男の子が通りを横切って、窓から部屋に入り、ならず者に殴られて追い払われるところから物語ははじまる。母親の名を呼びながら泣いている。何か事情があるのかと、主人公は見ている。やがてわかってくるのは母親の美貌に目をつけたヤクザのボスが、夫から妻を掠奪したのだった。夫は泣き寝入りしながら子どもを抱きしめている。見るに見かねて主人公は3人を助け、逃してやる。三船敏郎の演じる用心棒でもそんな場面があった。そこでは弱い男に露骨にいらだちをあらわにしていたようだった。気弱気な男は大嫌いなのである。

 人質の交換がおこなわれる通りの設定も共通している。三船敏郎が高みの見物をするのが印象に残っている。からっ風が吹いて砂ぼこりが立つ荒涼とした雰囲気は、黒澤に軍配が上がるが、本来は西部劇にふさわしい風土なのだろう。黒澤映画を西部劇に置き換えたいという企画が起こってきた意図はよくわかる。日本映画以上に大ヒットしたのは、日本の関係者にいらだちと嫉妬をいだかせたにちがいない。殺し合いだけの殺伐とした映画なのだが、サウンドトラックが大きな役割を果たしたように思う。ビヨヨーンという、間の抜けたような効果音が繰り返されるエンリオモリコーネのテーマ曲は秀逸で、これまでの西部劇とはちがった新感覚を体感させてくれるものだった。

第202回 2023年6月14日

夕陽のガンマン1965

 セルジオ・レオーネ監督作品、クリント・ イーストウッド主演、イタリア製西部劇、原題はFor a Few Dollars More。前作の「荒野の用心棒」に引き続き、シリーズ第二作。あいかわらずやたらと撃ち合いと殺し合いが続く。主人公は賞金稼ぎを生業としているが、いうなれば殺し屋である。もうひとりの賞金稼ぎがいてリー・ヴァン・クリーフが演じている。同じターゲットを取り合うことにもなる。商売がたきではあるが、やがて銀行強盗の一味に、ふたりして立ち向かう。ともに早撃ちには自信をもっており、初対面では相手の帽子を打ち落として腕前を披露しあった。

 エルパソを舞台にして、メキシコに近いエキゾチックな雰囲気を醸し出している。銀行はあるが簡素な町である。やり口は荒っぽく、壁をダイナマイトでやぶり、金庫ごと強奪する。20人近い一団で、ボスには懸賞金10000ドル、手下もそれぞれ1500ドル、2000ドルなどと値段がついている。ふたりの賞金稼ぎは役割分担をして、ボスをしとめるのと、手下を何人もしとめるのとどちらを選ぶのがよいかを計算しながら考えめぐらせている。

 策略をしかけるが、相手の方が一枚上で捕まって、主人公は痛い目にあわされる。顔が知られていないので、偽って仲間に加わっていたのだ。そんななかでプライベートな事情も見えてくる。主人公は相棒の賞金稼ぎの持っている懐中時計に女性の写真が入っているのを見ていたが、同じ写真入ったコンパクトをこのお尋ね者のボスも持っていた。恋人同士の男を撃ち殺し、女を奪ったが、女は抱かれながら自殺をしてしまった。この写真を持ち続けたということは、それ以来忘れられない存在となってしまったということか。ボスを撃ち殺したあとで、賞金稼ぎは自分の妹だということを明かしている。彼は懸賞金も金庫の中身も受け取らず主人公にゆずって、その場から立ち去った。目的は賞金稼ぎではなく復讐だったということなのだろう。

 主人公はすべてを独り占めにして、死体を積んだ馬車を町に向けて走らせた。ただ強いだけで、ヒーローでも見習うべき人格でもない。前作ではまだ良心は持ち合わせていたように思う。殺してくれれば賞金を出すという社会構造は、とんでもない委託殺人のように思えるが、今も情報提供に謝礼を出す制度として、日本でも公然と残っているものだ。今回も音楽はエンリオ・モリコーネ、メロディラインは心地よく美しいのだが、その夢見心地はときおり入る非情な高音の響きによって、冷徹な現実に引き戻される。同時にかけ声のような肉声が効果的に入り、テンポよく、後押しをするように場を盛り上げていた。

第203回 2023年6月15日

続・夕陽のガンマン1966

 セルジオ・レオーネ監督作品、クリント・ イーストウッド主演、イタリア製西部劇、原題はThe Good, the Bad and the Ugly。前作に引き続きリー・ヴァン・クリーフが登場するが、物語につながりはなく、ここでは極悪非道として、突端から殺しの依頼を受けて家族を前にして、父子を撃ち殺した。報酬は500ドルだったが、その家でも1000ドルを受け取った。依頼主に報告して金を受け取ったあと、先に手にした1000ドルを殺しの依頼だと解して、さらに殺人を重ねる。律儀にも報酬に見合った仕事をするのがプロだと言わんばかりだ。

 この「悪人the Bad」に対して主人公は「善人the Good」と紹介されるが、殺し屋であることに変わりはない。ここでもお尋ね者を捕らえた懸賞金とお尋ね者を助けた謝礼を、捕まえる側と捕まる側の両方から手に入れるという、とんでもないことを考えている。縛り首の綱を処刑の瞬間に、遠方から狙い撃ちにして助けてやるのだが、綱に的中しないと絞首刑は執行されてしまうし、的を外れると本人に当たってしまうことにもなる。もちろん腕に自信がなければできない。

 もうひとりは「醜人the Ugly」で、南北戦争での北軍の金貨20万ドルのゆくえを求めて、金の亡者となって奔走する。醜いまでに悪の限りを尽くし、自身にも懸賞金がかけられていた。主人公が助けて二重に金を手にしようとして出会ったのもこの男だった。今度はこれまでの賞金かせぎの数千ドル程度の仕事ではない。墓地に埋められているところまで突き止めるが、2000人もの眠る墓のどこにあるかは、善人が聞き出して知っているが、教えようとはしない。聞き出すまでは殺すわけにもゆかない。やっと墓の名を聞き出すと、醜人は善人を残して墓地に向かう。それでも2000人もの墓から見つけ出すことには変わりはなく、血まなこになって探し回り、やっと見つけだした。そこに善人が忍び寄って銃を突きつけて、スコップで掘れとおどす。そこに今度は悪人まで登場し、さらにスコップを投げつけて二人で掘れとおどす。墓は掘り出されたが白骨しかなかった。善人は嘘を教えていたのだ。本当はその墓の隣りにある無名兵士の墓に埋められていた。瀕死の略奪者から聞き出したのは、そのとおりだったから、善人の言うのは嘘ではない。途中までしか言ってはいなかったということだ。

 確かにかそこには金貨の入った重い袋が八つでてきた。大金を前にして3人が三つ巴になって向かい合い、距離を置いて対峙する。誰れが先に拳銃の引き金を引くかと待っている。3人とも早撃ちには自信をもっている。長い緊張感が続く。一瞬で決着はつき、悪人は撃ち殺され、醜人の銃には前もって弾が抜き取られていた。善人と醜人が生き残るが、醜人は後ろ手に縛られて、墓標になっている十字架の上に立たされ、首吊りの縄を巻かれる。踏み台の不安定な十字架が揺れている。

 今にも足を踏みはずそうとする姿を見ながら、善人は分け前を半分残して馬で立ち去っていく。かなり離れたところまできて振り返り、ライフルでねらいを定める。首吊りの縄に命中して倒れ落ちたときに石に頭をぶつけたので、死んでしまったのかと思った。そんな結末でもおもしろかっただろうが、醜人は立ち上がり分け前を手にすることになる。救われて喜びの表情を浮かべてもよさそうなところだが、悔しがって憤りをあらわにしている。人間の欲望のすさまじさを愚かなばかりに見せつけて映画は終わる。善人が金袋を半分残したのは、善人の思いやりではなく、たぶん馬に乗せるには重すぎたからにちがいない。

第204回 2023年6月16日

荒鷲の要塞1968

 ブライアン・G・ハットン監督作品、リチャード・バートン、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はWhere Eagles Dare。アルプス山頂の城に築かれたドイツ軍の要塞に潜入するイギリス軍の精鋭部隊、アメリカ兵がひとり混じっている。スパイ工作がなされ、複雑な話の裏筋はあるのだが、見せ場は銃撃戦をともなったアクション場面にある。イーストウッドの腕前の見せどころだが、年齢を考えると、アクションスターとは思えないバートンがそれにも増して輝きを示す。ことにロープウェイでの攻防は、迫力に満ちていて、脱出に至るまでの、長く引き延ばされたアクションの連続は、息をもつかさないものだった。

 ドイツ軍なのに英語をしゃべっているのは、どうしても違和感を感じてしまう。軍服だけでは判断がつかないことも多く、ナチスの鉤十字が出てきて、やっとドイツ軍だとわかるのだから、基本的知識がなく情けない話ではある。ヒトラーも含めて意味がわからなくても、チャップリンが演じたようにドイツ語の高圧的な響きのなかに、すでに重苦しさが内包されているのだ。

 アルプス山脈を飛行機で移動するが、雪景色が間近に写し出され、厳しい環境を浮き彫りにしている。敵地に潜入するため、パラシュートで落下するところから映画ははじまる。その際ひとりが不審な死を遂げることから、スパイによる情報の漏えいが危惧され、スリリングに物語は展開していく。重要人物がドイツ軍に拉致され、その奪還のため送り込まれたのだが、その重要人物というのも実は替え玉であったり、イギリス兵がドイツ兵をよそおったりと、あいまいなままの真偽に揺れ動かされながら、誰もを疑い深くスパイではないかと疑心半疑をいだき続けることになる。

 ダイナマイトと時限装置を次々と仕掛けて、爆発が繰り返されていく。橋やロープウェイにも仕掛けられて、一瞬のうちに破壊される映像は、ダイナミックで見ごたえのあるところだ。ロープウェイから見える足のすくむような光景は、いつまでも脳裏に焼きついている。格闘のすえ落下していく敵兵の叫びが眼下に響き渡っていた。追われて逃げる設定は、追いつかれるのではないかという心理的圧迫感をうまく引き出して演出がなされていた。

 ロープウェイにたどり着き、乗り込んでほっとするが、考えてみると運転操作は敵側にある。止められてしまえば万事休すとなる。ロープウェイに爆破装置を仕掛けて、全員川に飛び込むのだが、カメラを引いて写されると相当な高さがあり、必死の脱出劇となった。待ち受けるドイツ兵に向かっていくロープウェイは適時にみごとに爆発した。ロープウェイのあとはラッセル車のような重厚なバスを奪っての逃走が続く。これも銃撃戦をともなって長い。ドイツ軍が執拗に追いかけてくる。

 女性の工作員が敵地に潜り込んで重要な働きをする。ドイツ兵士とは異なった身なりのゲシュタポがいて、日本軍では憲兵隊にあたるものだ。そのひとりが彼女の美貌に惹かれたようでつきまとうが、話を続けているうちにドイツ人なら知っているはずの地理的な知識があいまいなのを不思議がっている。ハラハラとさせる場面だが、ゲシュタポという陰湿で冷酷な響きが、恐怖心を加速させていた。この男が策略を見破り、銃を手に優位に立つが、西部劇じこみのイーストウッドのみごとな銃さばきの前ではひとたまりもなかった。

第205回 2023年6月17日

戦略大作戦1970

 ブライアン・G・ハットン監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はKelly's Heroes。ドイツの敗戦が近いフランス、ナンシー近郊での攻防の物語。主人公ケリーはアメリカ軍兵士。ジープを運転しているが、制止するのを振り切って暴走する。理由がわからないまま見ていると、逃走してたどり着いたのは、英米兵のいる基地だった。前線での戦いは時として味方からの攻撃にもあう。ひとりドイツ軍の幹部をともなっていて、敵地に乗り込んで連行してきたのだとわかる。情報を得ようとして聞き出すと、情報よりも興味を持ったのは金の延べ棒を持っていたことだった。まだ隠されているといい、問いただすと銀行のなかに保管されていて、どのくらいかと聞くと140個にゼロが3つと答えた。

 そこから戦争そっちのけで強奪の計画が練られていく。まだドイツ軍が占領している地域なので、それを奪い取っても犯罪にはならないという理屈だった。何人かに声をかけて少人数での決行を考えるが、戦車をともなって参加し仲間を大勢連れてくるものもいた。このとぼけた役をドナルド・サザーランドが演じている。秘密裏のことなので脱走とみなされるのを怖れていたが、前線に向かっての脱走もないだろうという判断があった。敵をかいくぐりながらの進行だったが、一番の恐れはタイガーという名の、敵のもつ最強の戦車の存在だった。これには歯が立たないので、その攻略に頭をめぐらせる。お尻に弱点があるとのことで背後にまわり、狭い道路に引き込むことが提案された。

 町に到着するまでに敵と出くわして銃撃戦になり、死者も出しながら目当ての銀行を探り当てた。基地の本部では戦況の分析がされていて、膠着状態が続いているがナンシー付近では、ドイツ軍が苦戦をしていると報告されていた。幹部たちはその理由がわからずに、頭をひねっている。銀行の前にはタイガーが、敵に奪われるなという命令を受けて、行く手を閉ざしていた。これを突破することは不可能と判断して、いちかばちか主人公を中心に3人の兵士がゆっくり歩いて戦車に近づいていった。攻撃してくるのかと思ったが、そうではなくドイツ兵が戦車から降りてきて、燃料漏れを起こしていて危険な状態だと告白した。

 戦況はドイツ軍が敗北寸前であり、これ以上無益な殺し合いをやめて、金塊を山分けにしないかともちかける。ドイツ兵は命令を受けていただけで、何を守っているのかさえ知らなかった。膨大な金塊に目がくらみ申し出を承諾する。戦車の砲口が銀行に向けられて、あっという間に壁を破壊して、金塊がさらけ出された。ドイツ兵は積めるだけ積んで引き上げていった。主人公以下それぞれの英米の兵士たちも、笑顔を見せながら、平和の喜びを感じて、金塊を持ち去っていった。何という話だとあきれながらも、何か落ちがあって悪事には報いがあることを教えようとするのだろうと思ったが、それもなかった。殺し合いをするよりもマシなのだと思うと、このブラックジョークに拍手を送る気にもなった。ポンコツの戦車で参加した兵士は、分け前の金塊と交換したドイツ製戦車に乗って勇んで帰還する姿がみえた。液漏れを起こしているのもかえりみないような喜びに満ちていた。

第206回 2023年6月20日

ダーティハリー1971

 ドン・シーゲル監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はDirty Harry。サンフランシスコを舞台にした刑事ハリー・キャラハンの活躍を綴った事件簿。ダーティな(汚れた)仕事ばかり回されるのでダーティハリーの通称をもっている。猟奇殺人を含む都会に起こる陰惨な犯罪の解決に挑む。はじめはビルの屋上にあるプールで泳いでいた女性が、一撃で射殺された。撃たれた方向から見ると、かなり離れた高層ビルからの射撃だったようだ。犯人はスコルピオン(さそり)と名乗り、次の殺人を予告する。

 少女を誘拐して市長あてに身代金を要求してきた。ハリーは引き渡し役に選ばれ、大金の入ったバッグをもって、公衆電話を引きまわされる。犯人から公衆電話にかかってくるベルが4回鳴るまでに取らないと、少女の命はないと脅されている。あまり見かけない光景だが、夜の公衆電話の呼鈴がなるのが不気味さを増幅している。ハリーは少女はすでに殺されていると思っていたが、犯人の指示に従っている。相棒の刑事は捜査方針にそった命令を守らず、遠巻きに無線でハリーと連絡を取り合っていた。犯人が現れて、ハリーに身の危険を感じて助けに行くが、逆に犯人から撃たれてしまう。ハリーも銃を突きつけられたが、すきをぬって隠しもっていたナイフで、犯人の脚に傷を負わせた。サンフランシスコのベイブリッジを背景に少女の遺体が引き上げられるのが、何の説明もなく挿入されていた。

 犯人は逃げたが、病院に駆け込んだという情報から、医師の記憶を引き出して、住まいを突き止めることができた。部屋に侵入し犯行に使われたライフルを押収し、逃げた犯人も捕まえたが無罪となってしまう。犯行に使われた銃であったとしても、捜査令状を取らないで押し入ったので、効力がないという判断が検事から伝えられた。野放しにすればまた殺人をおかすとハリーは断言した。なぜかと問う検事に向かって、それが快楽だからだと彼は答えた。

 無罪となった容疑者は、足を引きずりながら町に出る。ハリーは尾行を続けている。見知らぬ黒人のもとを訪れて札束を手渡すと、黒人は急に容疑者に殴りかかってきた。何の抵抗もしないのでマゾヒスティックな欲情を楽しんでいるのかと思ったが、そうではなかった。顔中に包帯を巻いた姿を、報道陣が取り巻いている。刑事がつきまとって暴行されたのだとマスコミに訴えるためだったのである。

 次の犯行はスクールバスを乗っ取って園児を人質に取って、身代金を要求するというものだった。子どもたちははじめ楽しいお兄さんと思ってバス内で歌っていたが、やがて泣き声に変わっていく。犯人の狂気が迫真の演技で緊張感を高めていた。市長はまたもハリーに引き渡し役を依頼したが、今度はことわった。捜査を退き、乗っ取られたスクールバスを待ち受け、屋根に飛び乗って、単身で解決しようとした。犯人はバスを置いたまま逃げ、ハリーと銃撃戦となる。追い詰められて、落とした銃に手を伸ばす犯人に向かって、ハリーは銃を構えて言う。弾は6発を撃ってしまったか、5発かを考えているだろう。自分もわからない。

 このセリフは前に一度使われていた。別件で銀行強盗に出くわしたとき、犯人に傷を負わせたあと、銃を突きつけて言った。そのときは引き金をひいたが弾は入っていなかった。ハリーは犯人にニコッと笑ってみせたのだった。今回も同じように引き金をひいた。弾丸は入っていて、犯人は川に吹っ飛んで死んでしまった。ハリーは警察手帳を出してながめ、バッチを川に投げ捨てて去っていった。抵抗をしていない犯人を射殺したということになるのだろう。

 負傷した相棒の刑事を見舞ったとき、付き添っていた女性との話の中で、刑事の妻にはなれないということばを受けて、自分の妻は死んでしまったことを伝えている。相棒は熱血漢ではあったが、大学卒で教員免許も持っているので、転職することになりそうだ。ロンリーウルフであるとはいえ、ふたりで組になってパトロールをするなかで、良きパートナーになっていった日々を懐かしんでいるようだった。

第207回 2023年6月21日

ダーティハリー2 1973

 テッド・ポスト監督作品、クリントイーストウッド主演、アメリカ映画、原題はMagnum Force。前作からの続きであることは、前の相棒が今は教師をしているというセリフが出てきたときにわかった。刑事は長続きはしないで前は2週間だったと言ったとき、それまでのケースと同じく命を落としたのだと思わせるものだった。この黒人の相棒も、ハリーとともに狙われ、自宅の郵便ポストに仕掛けられたプラスチック爆弾で死亡する。

 主人公の人となりが少しずつわかりだしてくる。女性と何人かの子どもたちが室内で遊んでいる姿が写されたとき、家族がいて自身の妻と子どものようにみえたが、私たちは前作で妻は死んだことを知っている。子どもたちも親しげなので妹の家にでも招かれているのかと思った。話を聞いているとそうでもなく女友だちなのだとわかってくる。さらに女のほうが誘惑してくるので、どんな関係なのかと気になっていたところに、電話がなり緊急の事件で呼び出されてしまう。

 住んでいるアパートのようすもわかる。下の階に住む東洋系の娘から、いきなり一緒に寝たいときはどうすればいいのと聞かれ、驚くでもなくドアの前まできてノックをすればいいと答えている。その後、自室にある亡き妻とのツーショットの写真が写し出される。娘を招いて関係が深まるかと思いきや、またしても出動要請が入って待ちぼうけとなる。娘が買い物をして帰り、郵便ポストに手をかけるのを突きとばして、爆発物を処理する姿も見られた。身近に刑事がいると、心休まるときはない。

 冒頭では、まちがいなく犯人だと思われる悪党が、法廷で無罪となり、市民たちが怒りをあらわにしてプラカードを掲げて抗議をするところが写されている。悪党仲間が車に乗り込んで走らせていると、白バイが追いかけてきて停車させ、なかにいた全員はあっという間に射殺されてしまった。警官はサングラスをかけており、顔は見えないままだった。ハリーは出動するが、相棒はまだ経験が浅く、殺害場面を目に食欲をなくしている。その後も合法下で不正をはたらく悪人が殺されていく。プールサイドでのパーティーの席でも、茂みから銃が乱射され皆殺しとなった。やはり白バイに乗って警官を装っていた。私たちは犯人の姿を見ているが、実際には正体不明の何者かによって殺害されたということだ。

 ハリーの射撃の腕前は、部内の大会でいつも優勝をするほどで、夜になると署内の射撃場を訪れて練習をするのを常としていた。ある夜、行くと先客がありまだ新米の警官たちだった。腕前はともに優れていて、ハリーは先が楽しみだと期待した。このとき私たちは、ひょっとするとこの内に犯人がいるのではという予感をすることになる。彼らが使用している銃の機種を確認している。銃口の長いマグナムという銃はハリーも使用しているもので、一撃で頭が吹っ飛ぶ威力をもっている。

 ハリーと対立する警部補がいた。一匹狼のハリーに対して組織力を重視する姿勢があった。そしてそれが無力であることも知っていた。実はこの男が黒幕若い警官たちを使って、非合法的に悪を一掃しようとしていたのだった。ハリーは犯行に使われた弾丸と、新人警官の銃のそれとが一致するのではと、警部補に相談しているのだが、にせものの銃痕を証拠品として手渡している。警部補の関わりを探ろうとしての罠を仕掛けたということなのだろう。仕掛けられたプラスチック爆弾も警部補に見せた。その後この爆弾が警部補の命を奪うものとなる。目には目をというのが、ここでの原理である。

 ハリーはこの粛清に参加するよう誘われるが、ことわるとハリーと相棒の身に危険が迫りはじめる。いくら悪人でも個人でさばくことはできず、法を遵守するというのが、彼の立場だった。悪人ではないのにふたりの刑事が殺された。ひとりは若い相棒、もうひとりは警部補とともに同世代の同僚で、犯人が犯行後に戻ったときに巻き添えになった。このとき遺族の姿が写されたが、妻と子どもたちをみてあのときの女性だと気づくことになる。同じくハリーもまた警官を4人も粛清してしまった。またしても警察手帳を返還しなければならないことになりそうである。

第208回 2023年6月22日

ダーティハリー3 1976

 ジェームズ・ファーゴ監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はThe Enforcer。今回も相棒がふたりとも死んでしまった。最初は現場には似つかわしくない太り気味の年長刑事、ハリーが行き過ぎの捜査で殺人課をおろされ、別の相棒とコンビを組んで、捜査を続けているあいだの殉職だった。もうひとりは復帰してからの新米の女性刑事で、人事課にまわされていたときに面接を担当したひとりだった。

 事件はガス会社のトラックを奪うところからはじまる。乗務していたふたりを撃ち殺したのは、過激派の組織だった。白人と黒人が混成して政治的メッセージを含んでいるようにみえるが、実体は金目当ての犯罪グループである。ガス漏れの点検を装って武器工場に押し入り、対戦車用のロケット弾まで盗みだした。はては市長を人質にして身代金を要求する。ハリーは市長に頭の上がらない警部や警部補を尻目に、独自で捜査を進める。市長は有権者の票の数しか頭にはない。市長を助け出したとき、ヘリがアジトを旋回して、ラウドスピーカーから聞こえるのは、身代金は用意したので市長を開放するようにという声だった。

 市長が嫌ったのは暴力に対して暴力で対抗するハリーのやりかただったが、それによって救出されることになる。事件との直接の関係はないが、街中で起こる事件に出くわしたときに、ハリーのやり口がよくわかる。大都会ではそれほど大事件が多いということだ。今回は商店に押し入った強盗グループを捕えるのに、話し合おうと言って、人質を取る犯人に近づいていく。店内に入り丸腰になって、犯人の要求を聞いたときに、グループの人数や武器の数、配置などを記憶に留めていたのだと思う。要求内容を持ち帰るが、上司に伝えるのでもなく、要求された車を渡すように見えるが、車に乗り込んで発車した。驚いたことにスピードをあげて店の入り口から突っ込んでいった。窓が割れて混乱しているすきに、あっという間に犯人を全員射殺していた。このあと被害額として一万ドル以上の補修費と公用車一台があげられていたが、そんなものは命には代えられないものだろう。とはいいながら加害者の命とは代えられていたという問題は残っていて、市長にとっては温厚な立場を取る方が、市民票の獲得には有利であるにちがいない。市長はサンフランシスコ市警のトップに位置している。

 相棒の女性刑事はハリーを気に入ったようで、ハリーのほうもまんざらではない。卑猥な会話をして気を引こうとするが、ハリーはビールをいっしょに飲もうという程度で収めている。足手まといになりながらも、ハリーを助ける。最後はハリーを前にして、その背後に銃を構える犯人を見つけて叫んだとき、ハリーが身をかわしたために、自分が銃弾を受けてしまった。白人ではないが、エキゾチックで魅力的な女性だった。ロケット弾の威力を見ようとして真後ろにいたのを、ハリーが引っ張りだしたのが、ほほえましく思い出された。

第209回 2023年6月23日

ダーティハリー4 1983

 クリントイーストウッド主演、第4作では監督も兼ねている。アメリカ映画、原題はSudden Impact。主演している自作を監督としてどのように演出するかが見どころである。不良グループに暴行されて今も心身を喪失したままの妹の復讐に、犯罪者を探し出してひとりづつ殺害を続ける女性画家がいた。自身もそのときに被害にあっている。法は裁いてはくれないという思いは、ハリーも共感できるものだ。はじまりはハリーが違法捜査で逮捕した犯人が、法廷で裁かれないという矛盾した仕組みを考えさせることからだった。遅れて法廷に入っていったハリーを、冷ややかに見つめる目があった。

 このテーマは第一話でも問題にされていたものだ。真実はひとつしかないのだから、どんな方法でもそれを明らかにすればいいではないかと思うが、そうではない場合もあるのだろう。なぜそんな犯罪者に有利な法が誕生してしまったのか。そうなったにはそうなるだけの理由があったと考えるべきなのかもしれない。長い時間をかけて整備されてきた歴史だとすれば、尊重しなければならないだろう。違法捜査で有罪となるケースは、たとえば拷問による自白の強要を考えるとわかりやすい。誘導尋問もこれに該当するものだろう。拷問によって真実が語られる場合もあるが、無実の罪で刑に服することがないように、考えを深めていったということだ。そしてそれが犯罪者ののさばる温床にもなってしまった。

 ハリーは連続殺人を犯した女性に惹かれているようだ。はじめての出会いは同僚の刑事からプレゼントされたブルドッグを連れてジョギングをしているときに、自転車に乗ってきた彼女とぶつかって、怒りをあらわにする表情からだった。ブルドッグはとぼけているが、ときにハリーの命を救うことにもなる。同僚は黒人だったが、ライフルを手にハリーに近づいたとき、はじめてみる私たちの目には暗殺者とみえた。同僚もブルドッグも、のちに殺害されてしまう。

 娘とはその後の再会で関係を深めたが、真犯人と確信してからも、画家だと聞いて意外な印象をいだいている。画商もついて個展も成功している。彼女はハリーを思い起こしながら肖像を描いた。彼女自身の自画像のようにも見えるが、肉の剥がれた醜悪な顔はムンクを思わせるもので、繰り返し写し出されていた。自身の心の傷とその歪みの屈折率を示すと同時にハリーへの思慕を伝えるものでもある。二人のシンパシーが共鳴しあっている。ハリーの妻の死については、これまでいっさい語られてはいないが、私はハリーを憎む犯罪組織からの犯行で命を落としたのだと思っている。

 画家の復讐は完結しなかった。不良グループには警察官の息子もいた。罪を悔いていたのだろうか、訪れたときには心身を喪失して車椅子生活だった。殺人に失敗して、残った何人かに彼女はつかまり、過去と同じようにレイプされようとする。そのときもっていた愛用の短銃コルトを取り上げられる。これまで陵辱者の命を奪ってきたものだ。ハリーのもつ銃身の長いマグナムと対比をなしている。ともに不条理な犯罪に対するやり場のない怒りの象徴としてみることができる。

 一連の殺人に残された弾痕から、そのとき彼女から取り上げたコルトを保持していた一味のひとりを殺人犯に断定することで一件落着となる。犯罪者を擁護する法律にあらがうささやかな抵抗だった。ハリーはその結末に何も言わなかった。ラストシーンで、ハリーが背後から娘の肩をだくようにして歩むツーショットが記憶に残る。本来それは犯人逮捕の連行の図であったはずである。

第210回 2023年6月24日

ダーティーハリー5 1988

 バディ・バン・ホーン監督、クリントイーストウッド主演、アメリカ映画。原題はThe Dead Pool。今回はマスコミで話題となったハリーが、すでに初老のロマンスグレーになっていて、女性のニュースキャスターとのラブロマンスも楽しめる話となっている。ハリーのおかげで犯人逮捕にたどり着き、マスコミの人気者にもなり表彰ものなのだが、あいかわらず荒っぽい逮捕劇で公用車を3台つぶしてしまった。上司はその被害額を伝えている。加えてテレビ局はハリーの単独インタビューを試みて、行き過ぎた取材合戦に怒って、ハリーがテレビカメラを叩きつけたので、損害賠償の訴えまで出てきた。

 著名な女性キャスターが局を代表して、警察に交渉にきて、訴訟取り下げる条件を聞くと、食事だと答えた。ハリーは誘われて出向くが、マスコミ批判をするだけで決裂した。キャスターはその後、独自の捜査から警察も知らない情報をキャッチし、今度はハリーが先日の無礼を詫びて、食事に誘う。ふたりはひとときを過ごし、彼女の生い立ちやマスコミの過酷な競争を話題にして打ち解ける。帰りのエレベーターに乗り込んだとき、ハリーが狙われて機関銃が乱射される。巻き添いになる彼女をかばいながら、逃走が続いていく。

 事件はあるゲームから始まった。ホラー映画の監督が出演を依頼したロックシンガーが麻薬により急死してしまう。その歌手を含んで10人ほどの名が記されたリストがあり、その内の何人が死ぬかを競うゲームだった。映画の原題はこのゲーム名からきている。ほおっておいても死ぬわけはないので、当然犯罪組織が関わっていた。リストには著名人があがっていて、ハリーの名もあったのだ。

 銃撃戦ののちハリーは、無事だった彼女を認め、近づいていった。彼女はマスコミにさらされるのは避けたいと言った。取材陣から離れ、後ろめたそうにしながら、ふたりは姿を消した。行動をともにしていないとならない相棒の刑事は、ハリーの単独行動を見ながら、批判するでもなく、冷静に受け止めている。今回の相棒は中国人だった。マスコミにも話題になるとの警察広報課の判断から選ばれた。彼はみごとなカンフーの腕前も披露している。しかしいつも通り負傷してしまうのは、ミニチュアカーに仕掛けられたプラスチック爆弾によるものだった。はじめ道路をさっそうと走る姿が写されるが、カメラを引くと無線のおもちゃだとわかる。それが執拗に追いかけてきて、通常のカーチェイスとちがわない迫力映像となっていた。

 はじめはホラー映画の監督が疑われたが、犯人は別にいた。女性キャスターが人質にとられ、ハリーは愛銃まで奪われたが、最後にしとめたのは捕鯨にでも使われそうな銛(もり)だった。映画の小道具だったが、発射された銛は、ひとたまりもなく犯人を串刺しにして、壁に吊り下げてしまっていた。ここでも犯人が引き金を引くまでは、発射されることはなかった。犯人を追い詰めたとき、これまでも何回か出てきた、おなじみのセリフが語られている。3度目なのでヴァリエーションをもたせて、今回は「銃弾はもう入っていない」とハリーは断言してみせた。私はほんやりとだが数えていて、犯人が撃ったのは5発だったと思うのだが、6発だったかもしれない。弾は入っていないと言ったとき、おとなしく銃を投げ出していれば、こんな残酷な殺されかたにはならなかったはずだ。

 ダーティハリーは5作がシリーズとして続いた。毎回相棒が代わっていたが、多くは命を落とした。もっと見たい気がするがハリーも老いてしまった。これを毎回マドンナが代わる「男はつらいよ」と比較すると、圧倒的な作品数のちがいがある。あらためて全盛期の日本映画に驚異をおぼえる。キャラクターとしては対極にあるが、ハリーもこわもてであるのに、割合と女性には興味があるという点では、寅さんに似ている。

第211回 2023年6月27日

父親たちの星条旗2006

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はFlags of Our Fathers。硫黄島での日米の激しい戦いで、アメリカが勝利するまでの裏話。山頂に星条旗を掲げる有名な写真をめぐって、英雄にされていく兵士たちの矛盾した心情を追っていく。やらせの写真だという疑惑は、構図的にも決定的瞬間があまりにもみごとに写されている点にあるが、新聞に掲載されると、全米に話題になった。戦費がかさむなか、国債を発行し、その販売のキャンペーンに使おうという思わくに、これが利用されることになる。

 3人の兵士が選ばれた。これに踊らされて、ひとりの兵士はほんとうの英雄は戦死した仲間たちで、彼らのためにも国債を買ってほしいと訴えた。この兵士には恋人がいて、マスコミへの露出を好んででしゃばり、兵士に付き添って向けられたカメラの前に現れては話題をさらおうとしている。見苦しい光景だが、目を引くので主催者側も容認している。

 一方にいやいやながら引き込まれた原住民出身の兵士がいた。戦死した勇敢な兵士のかたわらで自分は逃げてばかりいたと述懐し、自分たちがはやされることに嫌悪感をいだいている。それをまぎらせるために、パーティの席だけでなく、公式の場でもアルコールにおぼれてしまうような感受性の強い、弱いこころの持ちぬしだった。

 この写真に写された兵士は6人だったが、顔は見分けがつかない。半数は戦死をして、生き残った3人が見つけ出され、脚光を浴びることになる。全員が生きていては楽勝にみえるし、全員が死んでしまったのでは話にならない。最大の裏話は星条旗は2枚あったということだ。最初の星条旗を記念にほしがった有力者がいて、そのためにもう一枚の星条旗を使って、再度撮影し直したというのである。

 当然最初に写っている兵士と、2度目ではメンバーが異なっているということもあり得る。それよりもこの3人は誰でもよかったのであり、ひとり原住民出身の兵士を加えることも、国家として一丸となるために、戦略的に意図された思わくの範囲内にあった。酔いつぶれた姿を見て、冷ややかに先住民を侮蔑する目があった。6人のうちのひとりは、戦死した自分の息子にちがいないという母親も登場し、兵士に尋ねるがわからないのだが、「たぶんそうだったと思う」と言ってなぐさめた。

 前線に送られた兵士の傷ついた心身は、長期にわたって引き裂かれていく。かつて若者として戦地に送られた父親たちが、子どもに聞かせる述懐として、暗く重々しくつづられている。名声に浮かれていた兵士は、すぐに忘れ去られると、相手にされなくなって、就職先さえ思うように見つけられないでいた。先住民の兵士は酔っ払ったはてに、野垂れ死をしてしまった。ことの真相を伝えるためには、冷静な目をもった3番目の兵士が必要だった。

 衛生兵は多くの死者と対面してきた。残虐な死体を見た心は、仲間のアメリカ兵だけでなく、洞穴で集団自決をとげた敵の日本兵の姿にも、強い反応を示していた。闇の中に浮かび上がる死体を映し出した映像には、おどろおどろしい怨念があった。見てはならないものを見てしまった心の闇は、悔いることもできないままいる。誰もが忘れ去りたいことにはちがいないのだ。老境に入った親の悶々とした心の告白を、息子は目を背けることなく聞いてやっていた。そのときの息子の父をみる優しい目は印象に残るものだ。

第212回 2023年6月29日

硫黄島からの手紙2006

 クリント・イーストウッド監督作品、アメリカ映画、原題はLetters from Iwo Jima。硫黄島の激戦地から、地面を掘り起こしていると大量の手紙が出てきた。日本に送ろうとして、通信をとだされて、自決のさいに処分しようとしたものだった。書いたのは玉砕した司令官栗林中将で、渡辺謙が演じている。アメリカ通で知人も多い。理不尽な任務である。留学中の対話が写され、両国が戦争となるとどうするかという問いに、国を守るために戦うと答えた。

 書類の処分を頼まれたのは若い兵士、硫黄島の数少ない生き残りのひとりだった。燃やすよう命令を受けたが、手紙だけは燃やさずに土に埋めたようだった。それを通してこの悲劇のありさまが伝えられる。兵士はパン屋で妻と幼な子を残しての出征だった。何とかして生きて帰ろうとしている。司令官が硫黄島に赴任してきた日、海岸での塹壕を掘る過酷な労働で、上官から暴行を受けたときに、栗林から助けられている。2度目も敵前逃亡と見なされて殺されかけたときに救われた。栗林はこの兵士を覚えていて、2度あることは3度あるといって、死を決しての総攻撃の日、機密書類の焼却の任を与えて、生き延びさせた。

 憲兵隊から派兵された男がいた。兵士たちの行動をうかがうようで、スパイではないかと疑ったが、パン屋と打ち解けるなかで、心優しい青年であることがわかった。国旗掲揚を怠り非国民の扱いを受ける家を訪れ、上官の命令でうるさく吠える犬を処分するよう命じられる。家の裏庭に連れて行き、飼い主の母子のいる前で、銃を構えるが、空に向けて発砲した。上官とともに立ち去りかけたとき、犬の鳴き声が聞こえた。あとには子どもの泣き声が続いた。上官は黙って家に引き返し、銃声をひとつさせて戻ってきた。若い憲兵は殴り倒されて、従軍し戦地に送られることになった。

 アメリカの大軍による攻撃が激しさを増すなかで、摺鉢山に立てこもるために掘られた洞穴内で、兵士たちは手榴弾を抱えたまま破裂させて自決していったが、このふたりの若者は生き延びようとした。味方と合流して戦い続けるという名目であったが、生き残るための執念だったようにみえる。憲兵は白旗をあげて捕虜になった。アメリカ軍の扱いは紳士的にみえ、さすがにアメリカ映画なのだと思った。ところが突然見張りのアメリカ兵は足手まといになると言って、ふたりいた捕虜を殺してしまった。そのあとに日本兵の一軍が通りかかり、白旗を上げたままの死体をみながら、これが捕虜の最後だと、上官は言った。

 硫黄島での悲劇をアメリカ側からと日本側からと、それぞれ一本の映画にしている。ともにモノクロ画面なのに、爆撃で発せられる火炎はあざやかなカラーとなっていて、視覚効果として実験的ではあるが、印象深いものとなった。鉢伏山に築かれたトーチカからの機関銃の乱射やそこから見える海岸風景などは、同じ映像が用いられているようで、両者を対比的に見せるために、誘導しているようだ。アメリカ艦隊が硫黄島に押し寄せるおびただしい数は、海にひろがっていて、日本の敗北は誰の目にも明らかだった。

第213回 2023年6月30日

チェンジリング2008

 クリント・イーストウッド監督作品、アンジェリーナ・ジョリー主演、アメリカ映画、原題はChangeling。子どもが突然いなくなった。日本では神隠しという現象だが、神のしわざではなくて、犯罪に属するものだ。チェンジリングを取り換え子の訳語で知られるようになるのは、生後まもなく病院の手違いで赤ちゃんが取り替えられていたという事件がかかえる問題であった。

 我が子と思って何年も育ててきたのに、我が子ではなかったと告げられたときにどう対処するか。実の子がいないわけではなく、取り替えられていたのだという事実をどう受け止めるか。血のつながりの問題であるが、そんなものはたいしたことではないという割り切りかたはある。遠くの血縁よりも近くの他人ということも、常に用いられる格言だ。

 ここでのチェンジリングは、神隠しにあった子が見つかって、会いにゆくと全く別人だったというミステリーにある。警察は住所と氏名をはっきりと答えたので、長らく探していた子どもが見つかったのだと断定し、報道陣も取り囲んで、再会を写真に取ろうと待ち構えている。子どもにとってはシングルマザーで、母はキャリアウーマンとして忙しい日々を送っていた。電話会社の主任で、大勢の電話交換手をたばねる重要なポストにいた。子どもと遊んでやれないことを悔やんでいる。子どもも自分を殺しておとなしくしている。その日も上司から呼び止められて、昇級の連絡を受け、帰りのバスに乗り遅れてしまった。

 見つかったのは自分の子ではないと、母親が言ったとき、担当刑事はとまどった。出した結論は捜査ミスではなく、しばらくの別離で、わからなくなっているのだということだった。身長も低くなっている。母親が自分の子をまちがえるはずはないが、「とりあえず」連れて帰ってくれと、警察は提案する。とんでもない対応だが、見ず知らずの子ではあるが、不幸な生い立ちを思い浮かべて報道カメラの前に立ち、とりあえず連れ帰る。子どもが嘘をついてでも、幸せになりたいと願うのは、わかるような気もする。

 近所の知り合いや通っていた学校にも連れて行くが、別人だと証言してくれた。警察だけが認めず、捜索はストップしてしまった。足手まといになる子どもが邪魔で、独身の身軽さを求めての嘘だとまで考えている。さらに強固に否定すると、精神病院に隔離までしてしまった。医師は警察の側に立っての判断を繰り返し、当てにはならない。警察の権力を告発する市民運動の助けを借りることで、母親は屈服することなく立ち上がる。警察に逆らうつもりはなく、子どもに戻ってきてほしいだけだった。

 子どもを手当たり次第に誘拐して、20人もの子を殺害したという狂気に満ちた犯行が明るみに出てくる。犯人の元にいた少年が、写真をもとに誘拐されたひとりであることを確認した。その単独犯がつかまって、法廷では自分は殺していないと言った。判決は2年間の投獄ののち絞首刑というものだった。処刑を前にした日に、自分が殺したので、真相を伝えておきたいという死刑囚からの連絡が入る。出向くとやはりはっきりとは言わない。「あなたは私の息子を殺したのか」というセリフを、何度も繰り返し叫び続けた。

 立ち会い人の見守るなかで絞首刑が実行された。13階段をのぼり、首にロープがかけられ、目隠しがされ、床が開いて、宙づりになって、けいれんを起こし、死の瞬間までの一部始終をカメラは映し出していた。これですべては終わったはずだったが、7年後になって監禁されたなかを逃げて、生き延びていたひとりが姿をあらわした。両親は再会を喜んで涙を流している。

 その証言のなかで脱走したのは3人いて、そのなかに例の少年もいて、逃げ遅れた自分を助けるために、引き返してくれた恩人なのだと語った。3人はバラバラになって逃げたのでその後の消息については知らなかった。その少年と両親との再会を見ながら、まだ自分の息子も生きていると母親は信じた。生涯を終えるまで探し続けたという語りが入って、実話のもつ重みを伝えるものとなっていた。北朝鮮の拉致問題を引き合いに出すと、日本人にも身につまされるものとなる。喜びの再会が一部で実現しているだけに、なおさらのことである。

第214回 2023年7月1日

サンダーボルト1974

 マイケル・チミノ 監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はThunderbolt and Lightfoot。のどかな田舎の教会からはじまる。牧師が信者を前にして語っているときに、車を乗り付けて銃が発砲される。牧師がねらわれたようで、何が起こったのかと思わせるが、牧師は仮の身で、銀行強盗を本業とする一味のひとりだった。仲間から追われて隠された金のありかを聞き出そうとして狙われていた。牧師の名はサンダーボルトといい、イーストウッドが演じている。

 追われながら新車を乗り逃げした青年と出会い、ふたりのロードムービーがはじまっていく。名はライトフットといい、このふたりの名が原題となっている。悪事が続くが最後は金庫破りを、命を狙ってきた昔の仲間を加えて4人の強盗団が組織された。加わった二人はどこかとぼけたところがあって、凶暴なのにコミカルで、成功はしそうもないだろうと予測される。前の犯罪では、略奪品は学校の教室の壁に埋め込まれたが、その学校は廃校となってしまって、すべては水の泡となった。

 そのために新たな金庫に目がつけられた。アイスクリームは好きだったようだ。準備資金を得るために、みんなでアイスクリームの販売員になって稼いでいるのもとぼけた光景だ。大型の高射砲まで用意しての金庫破りとなった。周到な準備がなされ、金は手に入れたものの、警察に追われることになる。仲間に加わったふたりは車のトランクに隠れての逃走中に、警察の発砲でひとりは撃たれ、残ったひとりがサンダーボルトとライトフットを殴りつけて、金をひとりじめして逃げてしまった。主人公と相棒は、警察の注意が車に集まるすきに逃れることができたが、分け前となる戦利品はない。

 逃亡のはてに、見知らぬ場所にたどりつき、ふとみると、かつての学校が歴史的建造物として、移築されているのを発見する。まさかと思いながらも、おそるおそる黒板をはずしてみると隠してあった金が、そのままになって発見された。小心者の相棒は大金を手に、これは犯罪ではないのだと自分に言い聞かせている。高級車を買ってふたりで乗り込むが、相棒は病いを得ており、ふたりの幸運を喜びながら、あっけなく死んでしまった。少し前からようすがおかしかったようだ。金は手に入れることができたが、主人公は気がふさいでいる。犯罪者と知りながら、近づいてきて親しくなっていった相棒は、チンピラの不良だったが、義足をつけていて、憐れでもあった。徴兵され戦地で負傷した帰還兵であったかもしれない。主人公の腕のなかで死んでしまったが、犯罪者とはいえ愛おしく見つめる目に、私たちは人間の真実を感じ取っていた。

 ボニー&クライドをパロディにしたような、このコンビ名を日本語にすると、雷電と軽足となる。ライデンは強そうな名だが、ライトは軽いと光のふたつの意味をもち、稲妻をともなう雷と対応させてあるようだ。軽い足といいながら義足なのも、笑いをねらったもののようで、足軽という日本語を連想すると、主人に付き従う家来とも受け止められる。ドンキホーテとサンチョパンサになぞらえるのもいいだろう。相方を失った芸人の悲しみにもみえた。

第215回 2023年7月2日

アルカトラズからの脱出1979

 ドン・シーゲル監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はEscape From Alcatraz。サンフランシスコの沖、一マイルにあるアルカトラズ島にある刑務所に収監された囚人が脱獄に成功するまでの物語。独房の続く見晴らしのよい、白亜の刑務所である。どんな罪状だったのかは明かされることなく、刑務所内の囚人と看守との、緊迫するやりとりが見どころになっている。実話にもとづいたようで、3人が脱獄に成功したことと、その一年後にこの刑務所が閉鎖されたことが、ナレーションで語られた。

 実話だけあって派手なアクションも少なく、地道に壁に穴をあけて掘り進む作業が続く。主人公は刑務所に送り込まれると、素っ裸にされて独房へと導かれていく。一癖ありそうな視線が、新入りに向けられている。受刑者全員そろっての食事ではまずパスタが出たが、刑務所ではフォークとナイフはなくて、スプーンしか使わせないのだと知った。食べにくそうにするようすを、離れたところから興味深そうに見つめる男がいた。アルカポネを思わせるギャングのボスふうの大男である。刑務所内でも凶暴で知られる囚人だったが、近づいてきて誘いをかけるので同性愛者だと気づく。力づくで迫ってきたため、腕力で跳ね返すと、さらに付け狙ってくる。恨みをいだいて隠しもった凶器でも襲ってくる。殴り合いになったのを看守に取り押さえられて、ふたりとも窓のない真っ暗な特別房に隔離された。主人公の腕力は優れていたが、知能指数が高いことも、人物調書には書かれていた。獄中で読書にもふけっている。

 食事のときは囚人同士で会話をすることができる。この機に脱獄計画を話して、仲間を集める。さまざまな技能の持ち主が必要だった。泳いで逃げるので、救命胴衣もそろえておかなければならない。その点、刑務所は手先の器用な連中が集まりやすい場所でもある。警戒するのは看守だけでなく、恨みを買った同性愛者にも注意を向けていなければならなかった。仲間ははじめ4人いたが、ひとりは逃げ遅れてしまう。途中にある天井の梁には、誰かの肩を借りなければ、ひとりでは届かない。

 はらはらとする展開で、結末はあざやかな姿ではあるが、ヒューマンドラマとも言いがたく、脱獄が成功したからといって、もろてをあげて喜べるものでもなかった。サンフランシスコ沖に浮かぶ小島の情景は、絵になるもので、犯罪都市の象徴として、モニュメンタルな歴史的景観を、今も残している。私もはじめてのアメリカ出張で、この島を目の前にした記憶がある。橋と坂と波止場とともにサンフランシスコの思い出となっている。

第216回 2023年7月3日

ザ・シークレット・サービス1993

 ウォルフガング・ペーターゼン監督作品、クリント・イーストウッド主演、アメリカ映画、原題はIn the Line of Fire。大統領を護衛するシークレットサービスの活躍を描く。かつてケネディ大統領を暗殺されてしまった責任を、今でも引きずっていて、老体に鞭打って任務をはたそうとするが、年齢による息切れや誤認逮捕の失敗などから、部内でも冷ややかな目で見られている。妻子はいたが、暗殺を許した失意の時期に、ともに去ってしまったようで、いまはひとり暮らしをしている。少し設定を変えればダーティハリー6とも取れるが、還暦を過ぎたイーストウッドの年齢を考えると、アクション映画はさすがに厳しい。それでもさっそうとしていて、親子以上もちがう若い同僚との恋愛を楽しんでいる。

 犯人役をジョン・マルコヴィッチが演じていて、すごみのある演技力が光っている。大統領暗殺を暗示する狂気じみた部屋を残し、軽くて白いおもちゃのようにみえる殺傷能力の高い改造銃も用意している。主人公をつけ狙い、変装した姿はごく一般人に見えるのだが、謎めいていて不気味なまでに迫ってくる。主人公の相棒は、ふたりして犯人を追跡中に撃ち殺されてしまった。家庭があって、この命がけの仕事をやめたがっていたのを無理に引き留めていた。無慈悲な殺害を前にして、主人公は責任を痛感している。

 この職種は身の危険をかえりみずに、要人の命を守ることを使命としている。失敗した過去は、屈辱として残り続けている。今回は大統領暗殺を身をていして阻止することができたが、犯人は主人公を盾に銃を突きつけて、エレベーターで最上階へと向かう。ガラス張りで外からは見えるが、暗くて人は見えにくい。無線を耳にしながら、銃を構える犯人に答えるように、狙撃の指示を出している。犯人はわかっていないので、少し上向きに発砲するよう指示を出したとき、不思議な顔をしている。ガラスが割れ衝撃が走ったすきに銃を落としてもみあいになる。

 主人公がなぐり勝って、犯人は手を離すと落ちてしまう。手を差し伸べて助けてやろうとする。それは以前のお返しだった。屋根伝いに逃げる犯人を追いかけて、飛び損ねて落ちかけたときがあった。そのとき犯人が手を差し伸べて助けていた。銃口を突き付けられてそれを口にくわえ、撃てるものなら撃ってみろというあたりの演技には、身震いするものがあった。相棒が追いついて、銃を構えたとき、犯人の手にある銃を見損ねたために撃ち殺されてしまったのである。今度は犯人が力尽きて手を離してしまい、高層階からまっしぐらに落ちていった。同じシチュエーションを前にして、相棒の死を一瞬、感慨深く思いだすことになっただろう。これを復讐だと考えると、手を離したのは犯人ではなく、主人公だったかもしれない。どちらとも取れるあいまいな演出がされていて、心にくいものだった。

第217回 2023年7月4日

人生の特等席2012

 ロバート・ロレンツ監督作品、クリントイーストウッド主演、アメリカ映画、原題はTrouble with the Curve。老齢のプロ野球のスカウトマンが意地をみせる一作である。イーストウッドは80歳をこえているが、役柄でもかなりの高齢だ。老人になると気難しく怒りっぽくなる。尿も出にくく、緑内障もすすんでいて、視野が欠けて新人の発掘に支障をきたしている。一人暮らしが心もとなく、友人が娘に連絡をして、父親の失明に注意をするようにアドバイスをしている。娘は33歳で独身、弁護士として華々しいキャリアを積んでいる。母親は6歳の時に死んで、それ以来親戚に預けられ、学校も寄宿舎で、今も離れて暮らしている。父親とは疎遠だが、唯一の肉親で気にはかかっていた。父親は亡き妻の墓を訪れて報告を欠かせない。墓碑銘には生没年が読めるので、もっと細かな事実はわかる。野球のことしか頭にない父の影響もあり、娘は野球についてはやけに詳しい。

 休暇をもらい父に付き添ってスカウトの仕事を見守ることになった。携帯電話には勤務先の法律事務所から問い合わせが続いている。父は娘の付き添いを嫌がりながらもうれしそうだ。高校球児に目をつけて、打者としての資質を観察している。父親は見えにくいが、耳で聞き分けてその弱点を見つけ出す。娘が近づいていって目で確かめた。直球には強いが、「カーブに弱い」ことがわかり、データの蓄積から一位指名しようという会社の判断に反対する。

 契約が残すところ3カ月となり、経営陣は引退させて新人を入れたいと考えている。コンピュータを使わず、時代の流れであるデータによるスカウト活動には取り残されている。言い分はある。データでは見落としているものがあり、自分の目で対面することで得られる直感に頼ってきた。それによってこれまで将来性のある選手を発掘し、数多くの実績がある。そんな選手のひとりが肩を壊して、スカウトマンになっている。娘とは意気投合したようで、野球の知識を競いあって盛り上がり、父親もふたりのゆくえを見守っている。娘は同僚の弁護士からもプロポーズを受けていて、返事は保留したままでいる。

 経営陣は意見に耳を貸さずに高校球児の入団を決めてしまった。娘は高校野球で物売りをしていた若者がピッチングをする姿に出くわし、その資質を見抜く。みずからキャッチャーを買って出て、速球だけでなく変化球の球威を確信する。父に話してバッティングピッチャーとして試してみることになる。入団した高校球児が打撃練習で連発していた打球が、このピッチャーの変化球を前にして、空振りを繰り返す。高校球児は物売りを覚えていて、何だお前かとみくびっていた。以前買ったものを離れたところからみごとなストライクゾーンに投げてきて、アレっという顔をしたことがあった。

 思わぬ新人の登場にざわめき立ち、親子で見出した才能発見を認めて、契約の更新を持ちかける。父は考えておこうと言って対応し、娘はもっていた携帯電話をゴミ箱に投げ捨てた。もとピッチャーのスカウトマンが娘を待ち受けていて、プロポーズをする。娘は考えておこうと言った。抱き合う姿を見ながら、父はバスで帰ろうと言って、ふたりを残した。自虐的に自分の人生を三等席だとうそぶいて、娘のエリートとなってゆく姿を喜んでいたが、野球が結ぶ三人の輪は、人生の特等席を用意したようだった。