ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター

2020年01月09日~03月08日

Bunkamuraザ・ミュージアム


 足が自然と文化村に向いていた。何年か前にここで同じようにソールライターの展覧会を見ていたので、もういいはずなのだが、もう一度見たいという感覚に襲われる、そんな写真家なのだと思う。今回はカラーにたどり着く前のモノクロ写真を楽しんだ。ニューヨークなら何でも写真になるのだと感違いしてしまうような才能だと思う。パリを描けば何でも絵になると思ってしまう凡庸な画家の気持ちを下敷きにしての話だ。

 縦長の写真に優れたものが目立つのは、現代を先取りしていると言っていいかもしれない。カメラをまともに構えると横長の構図になる。横長でよいものを、あえて縦で撮ると、上下に余白が生まれる。この余剰に実は秘密があるようだ。そこにはシチュエーションが盛り込まれていて、それがニューヨークそのものを自然と映し出している。写真家が自然を信用している証拠だと思う。画家は背景を自分の手で描かないといけないが、写真家はそうではない。土地に慣れ親しむと、無意識がそれをとらえるのだろう。まねしようとしても無理な感覚だが、独自のものとはいえ、そこにはやはりカルティエブレッソンもいて、写真史の年輪を無視しているわけではない。

 モノクロ写真をずいぶん見たあとで、カラーが登場すると、やはり衝撃の一瞬に立ち会った歴史的記憶を追体験できる。大量に見つかった古ぼけたカラー写真という印象が、写真史の常識をくつがえす。私には黒澤明の映画をリアルタイムで見続けてきた体験があるが、突然カラー映画が登場して驚いた覚えがある。それは鮮烈な原色が彩り、ファンタジーに近いものだった。しかしソールライターの場合は、それとは異なる。黒澤明がカラーを手がける少し前に、モノクロ映画で煙突からピンクのけむりを吐かせたことがあった。淡い色彩だったはずだが、この「天国と地獄」での方が、「どですかでん」以上に強烈な印象だったように思う。それはこの場合の煙突のけむりが、物語のシチュエーションから、ピンクでなければならない必然性を伴っていたからだろう。

 見慣れた色彩は必然を伴わない限り、輝きもしない。ソールライターに埋め込まれた赤は、淡いのに鮮明に目に焼きついている。それは傘の色である場合もあるし、タクシーのボディの色である場合もある。ともに人工的に生み出された鮮やかな色彩で、都会を演出する必須のアイテムだろう。それを不鮮明にするのもまたニューヨークの自然であって、傘の場合は雪であり、車の場合は雑踏である。ニューヨークの雪はスティーグリッツを思い浮かべると、都会のもつ異化効果と言えるものだ。村の雪景色以上に、これまで写真家にアピールしてきた。雪に大混乱をきたす東京の無様を思うと、身近なものにも見えてくる。そして無様をセンスに変えて着こなすオシャレがあって、それがソールライターの本領に違いない。ファッション写真からはじまり、ドロップアウトして、ニューヨークの奇人となった写真家に、私はいま江戸の北斎を見る思いがしている。


By Masaaki Kambara