石内都 肌理と写真

2017年12月9日(土) ~ 2018年3月4日(日)

横浜美術館

2018/2/9


 肌理が細かいという時に使う「きめ」がキーワードであるようだ。肌ざわりと言いかえてもよいが、写真でいえば粒子にあたるのだろう。確かに細かくはないが肌理が問題になっていることは、対象となったさまざまな被写体から見えてくる。横須賀の街を映し出したシリーズが、出世作であるようだが、そこでもすでに肌理細かく写し込まれているが、決してそれは美しいものではない。化粧を落として荒れた素肌がさらけ出されていると言った方が適切か。めくれ上がった壁がポロポロと落ちてきそうなクローズアップは、いつのまにか顔面と重なって見えてくる。

 そして実際の人間の肌の皺が、グロテスクなまでの生臭さで迫ってくる。老いを残酷なまでに切り取るが、さらには皮膚に残る傷跡が、執拗に繰り返される。アウトローの世界と紙一重で、それでも人は生き続けるのだと教える。手術跡ならまだいい。どう見ても日本刀で切られたとしか思えない背中の傷や、入れ墨を消し去ったようなケロイドまで、浮かび上がる。写真家とは因果な職業だと思ってしまうが、まだまだ執拗に肌理は、主題化される。

 被曝のシリーズは、当然たどり着くテーマだったはずだ。多くの場合、人間は不在だ。皮膚をクローズアップしている時でも、それはいわば亀の甲羅であって、柔らかな体温をもった人ではない。原爆投下後の広島では、全てが干からびている。身につけていた衣服が、やけどを負って悲鳴をあげる。人は不在だ。横須賀の街のように、不在の身体だけが、脱皮した殻を残して、さまよっているように見える。亡き人を弔う供養が開始されるのだ。私たちはそれに付き合うことになる。

 体臭を残す衣服に、この写真家の感性は高ぶるようだ。そしてそれを水で洗い流そうとする。浄化と言い直しても良い。シルクと題したシリーズでは、衣装のディテールが、大写しされる。人形浄瑠璃の衣装も写し込まれる。本体の木偶の棒は、そこにはない。着古されてよれよれになった布のふくらみだけが、語り尽くそうとしている。引き伸ばされた布地の写真は、まるで染物を洗い流す工芸作家のようにも見える。経歴を見ると、この写真家は大学では染織を学んでいる。制作風景が映像で紹介されていて、巨大な印画紙を吊るして乾かそうとして、洗濯物のように両手でぱたぱたとたたく動作を見た時、この写真家は布を染めているのだと思った。だからこんなにも肌理が引き立つのだとも思った。

 肌理とは写真家にとって、死後に残された遺品だったようで、それは脱ぎ捨てられた衣服であり、殻であり、死後に母の残した下着や口紅を大写しするまなざしは、恨みを残して死んでいった魂の供養に他ならないように感じた。


by Masaaki KAMBARA