石橋財団コレクション×森村泰昌 

M 式「海の幸」ー森村泰昌 ワタシガタリの神話

2021年10月2日(土)〜2022年1月10日(月)

アーティゾン美術館

 常設展示をどのように見せるかという課題に、常駐の学芸員を外して、著名な文化人やインディペンデント・キュレイターにたよるというのが、昨今の流行になっている。その流れに属するものだが、意欲的な展覧会だった。ジャムセッションとあり、石橋財団がモリムラに場を提供したという印象だが、そのオーダーにみごとに答えている。映像作品では、青木繁に語りかけるモリムラ演じるアンドロイドが、「海の幸」の実像を浮き彫りにする。20分続く長ゼリフは、熱い思いに裏打ちされていて、露出の人にして実現可能なチャップリンの独裁者を思わせる一人芝居だった。

 九州なまりが大阪弁になったとたんに、まじめくさった暴走が、パロディとして緩和され拡散する。冗談なのか本気なのかわからないところに、ことの本質はある。散りばめられたメーキングが手のうちを明かすが、舞台裏を見せない限りは、ただの冗談としか思えない。周到に準備された虚構が、スリリングな作品解釈を提示している。

 「海の幸」の妄想は硫黄島で玉砕する日本兵から、東京オリンピックの入場行進ゲバ棒をもった全共闘のデモ行進をへて、二人から、はてはひとりとなり、遮光器土偶をかぶりひざまづく。キーワードは海である。海を前に演じてきたパレードは、青木の生涯では、「海の幸」にはじまり、「朝日」に終わっている。

 時を同じくして九州国立博物館で「海幸山幸:祈りと恵みの風景」という展覧会が開かれていた。青木繁を加えることができれば、古代神話の文脈理解に広がりを示すことができただろう。「海の幸」(1904)はもとは九州にあった。久留米の石橋美術館の所蔵で、永久にそこにあり続けるものだと思っていた。ところが石橋がつぶれて、横文字にしただけのブリヂストンに統合され、さらにアーティゾンと名を変えた。

 「海の幸」も東京へと持ち去られたが、「朝日」(1910)は佐賀に留まり、県立小城(おぎ)高校にあったのを記憶している。佐賀大学に勤めていたころ、同校の美術部から進学してくる新入生が、青木繁に重なって見えたことがある。私の大阪の母校にも校長室に小出楢重がかかっていて、甲子園とともに過去の栄光は、生徒を野球部と美術部へと駆り立てていった。

 絶筆が朝日だというのは気にかかる。対して海の幸は大きな獲物を仕留めた帰宅の歩みだが、収穫であるはずが、葬列のように見えて不気味だ。モリムラは登場人物をまねるなかで多くのことを発見している。考え抜かれた経過は、制作過程の下絵やマケットが展示されていて、創作の秘密が見え、手のうちが明かされる。

 行進の先頭が老人だという発見は、メーキングがメーキャップとならないと気づかないものだろう。人類の進化のように若者から老人へと進んでいる。人はどこからきて、どこへゆくのかというゴーギャンの問いを、ワタシガタリも語っている。海の幸では行進に隠れているが、背後には夕日が沈んでいるにちがいない。

 夕日にはじまり、朝日におわる。青木の28年の生涯が、今日ではありふれた82年の生涯とは逆転しているとすれば、28歳ははじまりの年齢であっただろう。並べて展示された「大穴牟知命」(1905)や「わだつみいろこの宮」(1907)と抱き合わされると、九州での「海幸山幸」展に出品させるべきだったと思ってしまう。しかしモリムラのパロディをひと通り見おわったあとで、もう一度私は「海の幸」を見直しに戻ったことを思うと、この無意識を通して、あらためて青木繁の魅力に触れることになった。つまりそれは海幸山幸のパーツなどではなかったということだ。同時にM式の作品解説が、みごとなアートにもなっていたことに気づく。

 九州人の古代に寄せる情熱は邪馬台国論争も含め、根強いものがある。外来文化が海を渡り九州にたどり着く。佐賀県でいえば唐津から南下して、山越えをして佐賀市を経て、久留米へと至る。久留米は青木の出生地である。それは海幸が山幸と出会う道であり、青木が最後にたどった行路でもあった。邪馬台国は東に向かえば海路をたどり畿内に至るが、南下を続ければ、有明海へと至るのである。まっすぐな九州人は東になど向かわない。畿内の人は、はたして青木をうまく解釈できただろうか。

by Masaaki Kambara