むすびーバロックへ

ルネサンスの宇宙観/ホルツィウスのこと/むすび

第372回 2022年9月24

ルネサンスの宇宙観

 岩肌に刻み付ける人類の存在証明からはじまった絵画の歴史は、やがて壁面に窓枠をつくり、次に窓枠を取り外してタブロー画を成立させた。その段階で現実の重力から逃れた絵画は大宇宙に対抗する小宇宙を築き上げたのである。そこでは遠近法にもとづいた人間中心の世界観が語られた。宇宙は人間の目によってとらえられた秩序にしたがって配置された。しかしこうしたルネサンスの宇宙観は、ブリューゲルがそうした秩序に疑問を投げかけたのち、やがてバロック絵画は主役を人間存在ではなく、人間存在にあたる「光」と人間存在によってさえぎられる「影」にスポットをあてはじめていく。

 ブリューゲルの時代から次にくるバロックのはじまりに至る30-40年の美術の動向について、沈黙のまま済ませるわけにはいかないだろう。イタリアではミケランジェロ・カラヴァッジオ(1571-1620)が現われる直前の頃であり、ネーデルラントではブリューゲルからルーベンスまでの空白期間をさす。ルネサンス的理想主義がバロック的現実主義に置き換わるダイナミズムを探ることは、たぶん重要なことにちがいない。巨匠の出現という意味では、その時期はいまだ隠れこんでしまっている。そのなかでひとりヘンドリック・ホルツィウス(1558-1617)というオランダで活動した画家を取り上げることで、「絵画のルネサンス」の結びとしたい。

第373回 2022年9月25

ホルツィウスのこと

 ヘンドリック・ホルツィウス(1558-1617)はすでに絵画に代わる新しいメディアを手に入れていた。かつてドイツルネサンスでデューラーが試み、ネーデルラントではルカス・ファン・レイデンからブリューゲルに引き継がれる画家を志向した版画家の系譜がある。ルネサンスによって打ち立てられた理念によれば、絵画はアーティストにとって「名誉」の手段だった。それに対して版画は「名声」の手段だったといってもよい。若きデューラーは版画によって名声を得たが、やがて絵画に深入りしていくのは、実を捨てて名を取ったということだ。現代日本に置きなおせば売れっ子のシナリオライターや劇作家が芥川賞や直木賞をうらやましく思ったとすれば、それは芝居や映画のためでなく純芸術としての文学の自律をめざしたということだ。チェーホフの残したのが、戯曲ではなく小説であったなら、文学史に今以上の名を残していただろう。ただチェーホフの芸術性が劇作にあることは確かなのだが。

 デューラーやブリューゲルやレンブラントが版画も試みた画家だったとすると、ホルツィウスは絵画も描いた版画家だった。彼は版画という手段を武器に、絵画に挑戦を仕掛けていく。いわば名を捨てて実を取った。絵画が独立した小宇宙に埋没したのに対して、版画は当時「知」の最前線にあったことはまちがいない。ブリューゲルはいわば版画制作については「下絵師」に甘んじていたが、その半世紀あとに活動するホルツィウスは「彫り師」であった。

 彼は彫版という手段によって、いわばマスコミの中心にいた。彼のもとに当時の知性が結集したという意味では、版画はメディアを制したということだ。エングレーヴィングという彫版技法がもつ確実な手ごたえは、しょせんはイリュージョンとなって消え去ってしまう絵画制作に肉体を与えた。ホルツィウス特有の何重にもつらなったハッチングの波動刻線によって瘤のようにふくれあがった肉体は、まるで網タイツをまとったセクシーな女神のようであったが、それによって彼はマニエリスムを乗り越えて、次の時代へと一歩踏み出していたにちがいない。版画は描かれるのではなく、彫り出されるのである。ミケランジェロを表層で継承するマニエリスムの画家を脱して、生命を彫り出す彫刻家の魂を受け継いで、彫版技法を確立させた。イリュージョンの世界にうつろいと空しさを感じたマニエリスムの果てに再び重みをもった生々しい肉体が姿を見せはじめたのである。ルーベンスの世界は実はここからはじまっていく。ブリューゲルのずんぐりとした人物像もまたその先駆けとなっただろう。

 かたちを彫り出すという作業の中で確実につかんだものがあった。ミケランジェロに倣いながら多くのマニエリストたちが見失っていたものは何か。それはイメージの写しにこだわるあまり、すべてが絵空事になってしまったことだ。彼らはミケランジェロを写しながらも、たいていは彫刻家にならずに画家になってしまったのである。マニエリスムの段階での絵画と彫刻の相克は、彫刻が対象の実在感を味わうのに対して、絵画は不在感を楽しんでいた。目だましの効果に終始するむなしさを薄々は感じながらも、そのつかの間の虚無感に酔いしれていた。

 もちろんホルツィウスの場合も、画家になる夢は捨てきれなかった。人並み以上に遅れてしまったイタリア旅行も、彫版師としての多忙さからであり、その旅行も短期間で戻らなければならなかったのも同じ理由からだった。残念ながら画家とならなければ名声は得られても名誉を得ることはできなかった。ブリューゲル以降も北方の若い画学生にとってイタリア行きはその試金石だった。しかし旅行中、偽名を使わねばならないほどホルツィウスの名は当時のイタリアでは知れ渡っていた。無名のアーティストとして学びたかったが、彼はすでに有名なアルチザンだった。ましてや無名の職人がノーベル賞を授賞するにはまだまだ道のりは長かったのである。

 イタリアからの帰国後、ホルツィウスは彫版をやめ、さかんに絵画制作をおこなうが、残念ながら彼の成果はそこにはない。17世紀初頭、彼の素描集の中からオランダ風景が発見される。カラヴァッジオが風景画を描くことはなかったのと対比してみてもよい。それは彼の住むハーレム近郊の田園風景だったが、地平線の広がる見渡す限り何もないあの風景である。それは絵にならない代名詞だったが、それに目を向けたということはいわば印象派に匹敵する「風景の発見」であった。その半世紀前ブリューゲルが山岳風景を発見したとするならば、正確には風景の再発見と呼んだほうがよい。それを見る目はもはやルネサンスでもマニエリスムでもなかった。残念ながら彼はそれを絵画にすることはなかった。ヤコブ・ファン・ロイスダール(1626c.-82)によって地平線の低いオランダ風景画が描かれるのは半世紀ものちのことである。

第374回 2022年9月26

むすび

 以上見てきたように、「ルネサンスの絵画」はまさに「絵画のルネサンス」だった。絵画というジャンルが他を退けてアートの第一位にのし上ってくる歴史が、ルネサンスという時代だったといえる。絵画の支配はその後19世紀の写真の誕生まで続く。そして20世紀には映画へと、さらには21世紀にはコンピュータをはじめとする電子メディアによる映像へと、視覚分野のアートは主役を転じてはゆくが、ルネサンスのはじまりで生み出されたタブローという額縁をもった絵画の概念は、写真でもモニターでも確実に引き継がれ、枠のなかに大宇宙に対応する小宇宙(ミクロコスモス)をかたちづくっている。

 つまりそれらは世界を写し出す鏡であって、その限りではちっぽけな作家の個性の表現を越えている。モダニズムが作家性を強調したとたんに、絵画は主役から外れていったといってもよいかもしれない。モダニズムが額縁をはずす方向に進んだのに対して、写真から映像へと進化するヴィジュアル・アートは世界を枠付け、小さな箱のなかに閉じ込めようとしてきたようだ。それはルネサンスのはじめに遠近法を武器にして壁に「窓」を開いて、外の世界を写し出そうとした精神に類似する。しかし映像の箱としてはじまった写真も、やがて暗い箱から開放される。キューヴとしてのモニターもやがて進化の過程で奥行きをなくし、ふたたび壁にかかる窓へと戻ろうとしているようだ。技術的進化は限りなく薄く平面にいたることをめざしている。これが進化なのか退化なのかは、実際のところ分からない。

 社会を写す鏡であればこそ、それを読み解くイコノロジーも成立し得た。もちろんそれは個人の内面を写し出す鏡であってもよいのだが、そこに作家個人を越えた時代の肖像であればこそ、鑑賞者は目を向けるのだ。モダニズムの崩壊を前に、再度ルネサンスに目を向けることは無意味なことではないのではと思っている。18世紀のある一時期、額縁に鏡を入れることでイメージが不在となることもあったが、それも考えてみれば目に見える、より現実に近い、描くよりもさらにリアルな世界を求めてのことだった。絵画が教えること、それは現在とは過去と未来を取り除いた一瞬ではなくて、過去も未来も取り込んだ永遠なのだということだった。


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