横尾忠則 自我自損展

2019年09月14日~12月22日

横尾忠則現代美術館


2019/10/20

 ゲストキュレーターとして横尾忠則の名があがっていた。ということはこれまでの企画には、画家本人は関わっていなかったということだろうか。そうだとすれば学芸員の努力の成果が、これまでの斬新な展示を支えていたということになる。ロビーに提灯を吊ったり、風呂桶を並べて銭湯を再現したりして、タブロー展示を見飽きた観客に目くらましをし続けてきた企画力に、私は注目してきた。その点で今回は、タブローを前面に出したおとなしい展示だと感じた。

 唯一の例外は、滝のシリーズのコーナー展示で、スリッパに履き替えて、全壁面と天井まで覆い尽くした滝の絵葉書を見た。これは凄まじいパワーだ。恐ろしいまでの執念でコレクションした無数とも言ってよい絵葉書が、きっちりと並んでいる。薄暗い室内は、磨かれた床面に絵葉書の虚像を映し出し、滝は無限に広がり続けていく。代表的な数枚をセレクトして、のぞきケースに並べればすみそうなものを、そうではなくてアートとして生き返らせようとする。突如出現したこの一角の見ごたえは、タブローに備わったオーソドックスを許容して、逆に一点一点を丁寧に見ていこうという気にさせる。

 全体で見ていたこれまでの視点が、部分の描き込みに目を移すと、ニューペインティングと思っていた油彩画が、文学に支えられたシュルレアリスムの源流と出会うことになる。驚くべきイメージ間の異質な出会いは、この画家の独壇場で、個人的妄想なのに説得力をもって私たちに迫ってくる。三島由紀夫はオマージュとして常に脳裏にこびりついていて、繰り返し登場する。

 画面には昭和の衝撃的イメージが潜伏していて、何かのきっかけで浮上する。きっかけはいつも現在そのもので、過去のイメージとは、タイムカプセルでつながっている。少年探偵団やサーカスや日の丸の象徴的暗号が、作者の個人的経験という確固とした歴史にもとづいて、再解釈されていく。

 アンディウォーホルが、マリリンモンローやプレスリーや毛沢東を選び取ったと同じ同時代性は、歴史的証言となる。少しずれていればビートルズになったかもしれない微妙な10年史が綴られていく。登場するイメージを書き上げれば、横尾忠則というプロフィールを隠していても、生没年を言い当てられるような、正直な記憶が提示されている。作為のないなまの深層心理だからこそ、見る者にギクッとした既視感を伝えるのだろう。この日は既視感もないはずの幼児が、手を引かれて画面に見入る姿が印象に残った。

 今回はゆっくりとイメージの宝庫を堪能した。首吊りの縄を背後に置く正面を向いた自画像にすべては集約しているようだ。それはひとことで言えば「自我自損」ということになるのだろう。マンレイのセルフポートレイトと比較も可能だろう。シュルレアリスムでいうデペイズマンという技巧に置き換えた言葉遊びであり、ここからも決してニューペインティングではないことがわかる。


by Masaaki KAMBARA