第5章 斎藤義重

第1節 造形思考

第1節 造形思考

 現代美術の達人斎藤義重の造形思考を理解するのは一筋縄ではいかない。アウトサイダーの視角を持った幾分へそ曲がりとも思える屈折した思考を語るには、彼の生涯の歩みを、まずは各年代の主要作品で点描することからはじめるのがわかりやすい。

第557回 2023年4月10日

1 「カラカラ」―原作はすでに焼失

 斎藤義重の過去は、すべて伝説によってつづられている。斎藤が戦前において、極めて新しい仕事をしていたことは、ごく限られた、しかし信頼にたる証言者たちの語る伝聞によって支えられている。にもかかわらずそれを証明する作品が全く存在しないのである。

 この不条理を埋めるために、氏は1973年、残された写真と記憶を頼りに「再制作」を開始した。東京画廊を舞台に続けられたこれら「再制作」の発表は、多くの反響を呼び、「再制作」の持つ、哲学的意味すらも盛んに論じられた。

 「カラカラ」は、この時発表された作品で、合板の上にナイロン糸を張りめぐらせたものである。原作は1936年に制作されたが焼失している。

 20歳を過ぎたころから、絵を描くことに絶望し、表現の可能性を求めて文学を摸索し、その果てに、再び絵画の世界に戻ってくる。しかし、その再出発は、「絵は何も表現しない」というある種の開き直りに満ちた虚無感からであった。カラカラはそのころの作品である。

第558回 2023年4月11

2 「あほんだらめ」―重なる飢えの形象

 戦後すぐの斎藤義重の仕事は、はじめて人間をテーマにした具体的なイメージを示すものとなった。それは戦後間もなくの美術界の全体的な傾向であり、ヒューマニズムの精神が人間をテーマに、戦争の傷跡を伝えるというバターンである。

 「あほんだらめ」と題された作品についても、馬上の人物が、もがき叫ぶ様子がうかがえ、飢えのイメージと重なる。何か人間存在の原点のようなものを見つめたいという目が、そこにはある。

 しかし、斎藤自身は、そういった人間主義的な訴えをむしろ排して、冷静な目で現実を見つめようとする人のようで、枯渇・飢餓の中にも、常にユーモラスな表情が残されている。つまり、喜劇こそが最大の悲劇であるという逆説がそこにはある。

 それゆえ、ヒューマニズムをいったん否定した中から生まれてくるのが、真に革新的なヒューマニティーであるという論理が、戦後の斎藤の作品の展開を跡づけている。人間をテーマにした絵筆によるカンバスの仕事は、やがて斎藤氏から完全に消えて行く。

第559回 2023年4月12

3 「やじろべえ」―人間喜劇のテーマ

 「やじろべえ」というモチーフに対する斎藤の執着は古い。それは、極めて不安定でありながす危うくバランスを保っているという姿に、人間存在の喜劇としてのテーマが見いだされることと、重心と支点による力学が純粋な意味での根本の造形原理に由来するからである。

 「やじろべえ」という作品は先に制作された「トロウッド」のやり方と同じく、板を重ねて置いてゆくという形だが、イメージはやじろべえがバランスをとって立っている姿に一致する。原作は1950年に制作され、1973年に再制作されたものである。

 この時期の作品も、戦前のものと同様、現存するものが少ない。伝えられている話では、そのころ斎藤氏はペンキ職人の手伝いをしながら、ベニヤ板を使ってレリーフ作品を作っていたが、ペンキ職人が作品とともに引っ越してしまって、いまだに行き先不明というのである。

 その時に運よく写しておいた写真が残っていて、それをもとに再制作を行ったものである。今も原作はどこかに存在しているのかもしれない。

第560回 2023年4月13

4 「鬼」―重荷を笑い飛ばす

 斎藤義重の作品が、代表作の一点「」が制作された1957年時点で、生活の糧になっていたとは到底考えられない。戦前から続けられ、当時53歳を迎えそろそろ老域に達しようとする斎藤の抽象作品を、やっと世間は理解しはじめたばかりだったのである。

 そのころ、斎藤は極貧と病苦の中で離婚の末、千葉県浦安での漁村生活の中で極限状態を次第に回復しようとしていた。「鬼」は当時の斎藤の心情を如実に表している。

 斎藤氏は、そのころ「鬼の笑い」に興味を持っており、ことに仏像の足下で、踏みつけられている悪鬼ばかりを見て歩いたという。それは虐げられたものが見せる笑いであって、ぶざまにもがき苦しみながらも、その重荷を笑い飛ばすという反骨精神に満ちている。

 この年、斎藤義重は「今日の新人57年展」で小野忠弘とともに新人賞を受賞した。53歳の新人の誕生であり、「鬼」はこの受賞に対し皮肉な笑いを浮かべているようにも見える。

第561回 2023年4月14

5 「作品R」―機械の震動まかせ

 1957年の「鬼」以来、斎藤義重は、次々と内外の国際展で受賞を重ねて行く。1960年には現代日本美術展に「作品Q」「作品R」を出品し、最優秀賞を受け、また同作はグッゲンハイム国際美術展でも優秀賞に輝いた。

 1960年ごろからの斎藤の作風は、合板に電気ドリルをはわせ、それによって生み出される線の軌跡を作品化して行くというものである。斎藤は「表現する」ということを極端に嫌っており、「絵は何も表現しないこと」を信条に、ドリルでの制作は「表現というより、いきなり物体を作るというに近い」と言う。

 人間臭さの残る絵筆を捨て、さらにそれを左石する手を捨て、機械の震動に身をまかせることになる。「最も高度のテクノロジーによって生まれる不合理なもの」の探求が、ドリルによる制作の課題となるのである.穴を開けるのが目的のドリルが板の表面を筆の代わりにはうのであるから、確かに不合理なものの追求に違いない。しかし、そこに今まで見落とされていた造形の可能性もまたひそんでいるのだ。

第562回 2023年4月15

6 「ペンチ」―危険な可動の作品

 1965年を境に、過去5年間続けられたドリルの仕事が一変する。再び合板の上に板を配置する作品に戻るのだが、今度は支点によって動く可動性の作品となる。タイトルは「ペンチ」「クレーン」「ハンガー」などと題されて、ともにかつての「やじろベえ」の原理に従って連想されるものである。

 こうした一連の可動作品を制作していたころ、富岡多恵子が斎藤にインタビューしており、それが禅問答のようで面白い。富岡の触れてもよいかという質問に対して、触れていけないことはないが、触れれば落ちるような心もとない作品を作ったのだと語っている。

 確かに作品は動くのであるが、「動かすためというよりも、触れば動く危険な作品」という、心理的意味の方が強いようだ。同対談で斎藤はまた「宇宙船やロケットやミサイルが現代の彫刻」で、いま絵や彫刻と呼ばれているのは「女のするレース編み」のようなものだと言っている。そこには苦悩の人間臭さが売り物であった過去の芸術家意識はない。

第563回 2023年4月16

7 「反対称・正方形」―当惑する鑑賞の目

 1973年に、過去の失われた作品を「再制作」することによって自己の歩みを確認し、しかも、それが次の飛躍に役立ったことは、その後の斎藤義重の作品群が証明している。

 1976年、彼は突如として奇妙な作品を発表しはじめる。白木の板を並べて張って、その上を桟で止めたような一連の作品が、「反対称」のシリーズと題して展観された。

 それは、板べいをそのまま切り取ってきたようにも見え、あるいは梱包の木枠のようでもあり、そのあまりの卑近さのために、従来の美術鑑賞の目は、随分と当惑したに違いない。日常ありふれたものが、美術作品として市民権を得るには多少時間がかかる。かつての浮世絵がそうであったし、アメリカのポップアートもまたしかりである。

 われわれが日常目にする板べいに斜めに入れられた桟は、時には台風に向かう補強であろうし、時には悪魔の封じこめであるかも知れない。台風も悪魔も目にすることはできないとしても、斜めの桟がその破壊力を体現している。斎藤義重の「反対称」には、そうした桟の持つ威力が秘められている。

第564回 2023年4月17

8 「複合体」―様々な連想へ誘う

 1984年の斎藤義重展のために作者自身が制作した新作には「複合体」という名称がつけられていた。それらは更に不思議というほかない。何を意味するか分からないが、それでいて何かを意味しているに違いない黒い諸物体は、あるものは木馬のように見えたり、脱穀機、車輪、投石器など、さまざまな連想へと誘う。

 それらもまた、われわれの気づかない巨大なもくろみの一部なのだろう。それら複合体が会場に組み合わされ、配置された姿は、ヨーロッパ中世の民俗博物館に足を踏み入れたようでもあり、時代を経て、シルエットと化した不可解な物体を前に、はてこれは当時、いかなる実用に供されたものかと、首をひねるのである。

 そうしたなぞに満ちた得体の知れないものは、当時80歳の老人の体内から出てきたというよりも、もっと深い宇宙の神秘から発しているように見える。

 80歳の祝いの席で斎藤氏は次のように言った。「近作が黒一色なのは目が見えなくなったからとの声もあるが、色が見えすぎた結果の黒です。頑張ろうとかふるい立とうという気持ちはまったくない。若気のいたりが残っているので、仕事はやります」。