版画論:美術のアウトサイド

by Masaaki Kambara

第578回 2023年5月2

はじめに 絵画と版画のあいだ

絵画と版画を同時にこなす困難さは、それぞれの技法がかかえる方法論のちがいに由来する。かつて大版画家は大画家である場合が多かったが、その場合、絵画は名声を得るための手段、版画は富を得るための道具として用いられた。ひとにぎりのほんもののアーティストだけが、それぞれの技法の特性をよく理解しそれをひき出そうとした。版画とは何かを考えれば、絵画とは何かという解答もおのずと開けてくる。そして両者をともにこなす必然もまたみえてくる。かつて絵画は素描と仲よしだったが、現代ではそれと決裂し、版画と急接近しているようにもみえる。

 もともと版画家の思考は画家の思考とは異なる。彼らは世界を描き上げるのではなくて刷り上げる。現代絵画が写すのをやめ「表現」となって久しいが、現代版画はまだ写し出そうとしている。誤解のないように言いたせば、表現などという行為はありえなく、世界は写すことしかできないのだという立場が版画家の身の置き所となる。その意味では確かに版画家はひかえめである。刷り出されるのを静かに待つ。実は「待つ」しかないのだという夢想家の思いが、版画への想いにかぶさっていく。版画は個性をヴェールにつつむ技法だ。語感が宇宙の響きを伝えるものだとすれば、シルクスクリーンという語には半透明な幕を世界にかぶせようとする意図がうかがえる。それは世界を透かして見せる現代の技法にほかならない。

 素材や技法は作家の思考を規定する。何を表現するかというモチーフ選び以前に、多くのメッセージが技法のうちにある。鉛筆を手にする素描家の思考は原稿用紙に挑む文学者の思考と似ている。筆を握る画家の思考は、書家の思考をなぞっている。同じくビュランをもつ版画家の思考は、ノミをもつ彫刻家のしぐさとどこか似ている。ちがうのは彫り出した石や木や銅に紙をあて、刷り出すのである。刷り出された紙は意外と多くのことを語り始める。それは複数性という意味からもメディアとして機能する。つまりは媒体なのだ。それ自身としては自立することなく何かに寄りかかり寄生しようとする。強く刻まれた線はそこでは溝に変わり、深みをなくして空白へと至る。どんなに強い思いを込めて彫り出そうとも、すべては空白のまま均一化される。掘り出された輪郭線は、思いを封じ込めた縁取りとなる。

 ねばりとべとつきが油の本性だとすると、にじみやかすれは水の特質である。そこには文字通り水と油ほどのちがいがある。版画の感性は油彩や水彩ともちがってプレスのうちにある。強く押し込むこと、それは一瞬の決断に等しい。ひらたくいえば実印を押すときの気分に一致する。人生に何度もない決意の表明が押印に託される。おもしろいことに実力を発揮するのは印鑑そのものではなくて、それが押された紙の方だ。さらにおもしろいのは一点限りしかない「印」が、複数の「版」をともなうという点で、しかも実印の場合、版は少なければ少ないほどよい。ときには一度も刷り出されることなく眠り続ける場合すらある。その点で版画は絵画と異なる。版画はいつもオリジナルの影をひきずっている。それゆえに版画家は自虐的ですらある。そして最後の切り札は、本体の廃棄へと向かう。刷り出されたのち原版は破棄され、文字通り影だけの世界となる。写し出されたものだけが残り、すべては自然へと戻される。

 そしてこの作家の自虐性は、命を切り刻む行為とともにある。腐食液と鼻を突き刺すような有毒ガスを吸いながら命とひきかえに制作を続けるアーティストにとって、作品は確かに我が身の分身なのだ。詩人は世界を見て、ことばになるものを絞り出そうとしている。画家は世界のなかで、ことばにならないものを見つめている。しかし両者が分かちあえるとすれば、ともに世界を見ているということだ。彼らは同じものを見ている。その限りにおいてすれちがうことはない。

 写真家ははじめ世界を上下さかさにして見ようとした。一方、版画家は世界を左右逆に見ようとする。ともにありえない世界だが、版画家の方がやっかいで、屈折してもいる。よく見ないとトリックにだまされてしまうのだ。そこに写し出されるのは、転倒はしていないが裏返された世界である。画家は真正面からキャンバスとまともに向きあったが、版画家は世界を鏡写しにして、裏面からのぞこうとする。そして強くプレスして引きはがしたとき、そこにこびりついているのは世界そのものだ。ときには肉をもいっしょに引きはがし、生臭い血のにおいすらともなっている。

 個人的には16世紀の銅版画の切れ味のよい刻線や、17世紀のエッチングで、銅版のささくれが示す微妙な階調に出会って、身震いをした経験がある。それらは肉をもそぎ落とす鋭い刃物と、磨き込まれたメタリックな輝きに由来するが、銅版画のもつ伝統技法として今日まで引き継がれている。デューラーやレンブラントは、版画という技法にとりつかれた画家だった。彼らが彫刻家と異なったのはノミを筆のようにしてもった点だ。握りようによってそれらは人殺しの道具にさえなる。この場合、版画は確かに凶器を介して行なう世界との直接的対話なのだと思う。

 写真術が世界を光に還元する印象派の残党だとすれば、版画は摩擦熱を利用して世界をこすり出す実験だ。陶芸のように世界をあぶり出す行為ともちがう。写真は世界を立体化しようとする平面的試みであるのに対して、版画はものとものとの間にある空気や光を排して、直接の接触を楽しもうとする。世界を、もっといえば宇宙をまるごとすくいとった一枚の皮膜が版画ということになる。耳をすませばそこには作家の意図を越えて宇宙と共鳴しあう響きが聞こえるにちがいない。絵画と版画は世界を掌握する車の両輪であったような気がする。

第579回 2023年5月3日

16世紀ネーデルラント版画

 16世紀のネーデルラントは版画芸術の全盛期である。広く北方ルネサンスに目を向ければ、ドイツのデューラーが輝きを放つが、ネーデルラントではルカス・ファン・レイデン(1489-1533)がそれと対抗できるテクニックを備えているかもしれない。もちろん油彩画も描くが版画へのこだわりを示す作家は、エングレーヴィングのもつメディアとしての特性に多くを負っている。一世紀を通じて技法的進化をたどり、ヘンドリック・ホルツィウス(1558-1617)に結晶する系譜がある。私は学芸員として勤務した福井県立美術館で、この間の銅版画史をたどることのできる数十点のコレクションを、昭和55-56年にかけて購入担当をしていたので、その頃の興味にそってホルツィウスの銅版画論をまとめておきたい。福井県立美術館では現在「所蔵品検索システム」を完備しており、ルカスホルツィウスに加えて、ジェラール・デ・ヨーデ(1509or17-1591)、マルチン・ファン・ヘームスケルク(1498-1574)、フランス・フロリス(1519or20-1570)、ヨハネス・サーデラー(1550-1600)、クリスピン・デ・パッセ(1564-1637)、ヤン・サーンレダム(1565-1607)、エギディウス・サーデラー(1570-1629)、テオドール・ハレ(1571-1633)などの作家を確認することができる。