写真家ドアノー/音楽/パリ

2021.10.23 土-12.22 水

美術館「えき」KYOTO


 戦後すぐのパリの日常が音楽をともなってよみがえる。1951年のムフタール通りと題した写真に登場する少年を見ながら、よく知られたブレッソンの同名の写真「ムフタール通り」(1954)を思いかえす。ワインボトルとともにラッパを手にしていたように思っていたのだが、あらためて見直すと二本とも酒瓶で、両脇にかかえていた。ラッパ飲みなどという語があるのだから、得意げな少年の表情に気をそがれて、そんな勘違いの連想をしたのもしかたのないことかもしれない。


 アコーデオンとチェロが頻繁に登場するが、演奏者を女と男で描き分けている点が興味深い。前者はもの悲しいジプシーの響きを、後者はユーモラスな足手まといを写し出して、下町に流れるパリ情緒を定着させている。アンニュイな表情がアコーデオンをかかえる流しの女の憂いに連動する。美人というわけではないが、謎めいたたたずまいに、肉屋の男たちがじっとこの女の無表情を見つめている。一方、セロ弾きの男は、どんなに名手だろうと、写真ではコメディアンに変貌する。大きな楽器をかかえて地下鉄を移動する姿は、現代日本でもときに目にする情景であり、ヴァイオリンぐらいにしておけばよかったのにと、おせっかいにも思ってしまう。


 ドアノーの本領はユーモアにある。クスッとした笑いのことだ。豪快な高笑いではない。エスプリの効いたフランス式微笑といってもよいか。長らくルーヴルに定着してきた、イタリア人を脱したレオナルドのフランスへの帰化の一瞬のようにも見える。今回は音楽とパリをテーマにしたセレクションなので、チェリストが目立ったが、総点数が45万もあるというのだから、ピカソどころではない。多作の画家がいくらがんばっても、写真家に追いつくものではないだろう。これまで絶妙な切り取りがさえわたり、特に私の印象に残っていたものは、残念ながら今回セレクションには含まれていなかった。


 ピカソの手がフランスパンに見立てられた遊び心「ピカソのパン」(1952)はよく知られるものだ。パリの街並みに向かってイーゼルを立てる日曜画家もいる。そこではカンバスには風景はなく、なぜか裸婦が描かれている。画家の背に隠れてベンチと女の足がのぞいて見える。さらに犬を連れて散歩をする紳士が、屋外でのヌード制作に興味をもって、ことの真実を探ろうと、のぞきこむように身を伸ばしている。犬はこの顛末を撮影するドアノーに目を向けている。タイトルは「芸術橋のフォックステリア」(1953)とある。もちろんベンチの女性が裸婦かどうかは曖昧なままだ。着衣を見ながら裸婦像を描いているというのが、もっとも安全な解釈となるが、そのときにドアノーのユーモアは最高に達する。


 画廊のショーウインドウに並んだ裸婦像が気になる男たちを、内側から写し出したシリーズも、ドアノーの残した秀作だ。多少の差はあるが、おしなべて共通した男たちの「斜めの視線」(1948)と、いちように顔をしかめる連れの女たちの対比が絶妙な連作だった。無防備な通行人が見せる欲情の一コマだ。ときには鏡がわりに自分の容姿を確かめる場合もあるだろうが、それはそれでおもしろいスナップショットとなるだろう。笑いのルーツは見られていないはずの無防備にある。ショーウインドウを内から写し出してチャップリンの表情をとらえた映画「街の灯」の撮影術を連想した。


 ドアノーを決定づけるこれらと同類のユーモアは、今回では被写体としてジャックプレヴェールを追った一連のポートレートに見つかる。ブレヴェールは切り取られたフレームのさまざまな位置に登場する。画面のわきに見つかったあと、次の一点ではさがしまわるが見つからない。遠景を探したあと、死角になった真正面に大写しの顔が見つかって驚かされた。階段を登ってきて顔だけがのぞいた一瞬をとらえた一点だった。まるで鎌倉時代の山越え阿弥陀図のようだ。


 逆にジュリエットグレコは正面から全身をとらえて、それだけで文句なくカッコいい。小細工はいらないと、自己主張して自立している。アズナブールもマリアカラスもいる。なじみの顔に出会うと、パリの歴史の年輪を感じる。アウグストザンダーの無名の職業人づくしもいいが、真っ黒な画面の左下の隅に、小さくライトを浴びているスタアは、まぎれもなくエディットピアフであって、大竹しのぶではない。見たこともないはずなのに、ピアフのものごしと身のこなしなのである。


 古き良きパリは、もはやアジェの写し出した時代ではないが、50年代のパリのほうに私たちの青春はあった。お蔵入りのLPレコードが、確かまだあったはずだ。帰宅して探してみようと思うが、レコード針どころか、プレーヤーも残念ながらない。にもかかわらずCDよりもひとまわり大きいジャケットと、ドーナツ版を見ているだけで、音はきっと聞こえてくるにちがいない。会場ではグレコのCDがエンドレスで流れていたが、私の場合はアズナブールのLPレコードを擦り切れるほど聞き続けた青春がある。そのアルバムには確か「帰りこぬ青春」という曲も含まれていた。


by Masaaki Kambara