アピチャッポン本人が選ぶ短編集 3

11月4日(金)-11月6日(日) 各日12:05~ 93分

シネマ・クレール丸の内(岡山)


2022/11/4

 岡山文化交流のプログラムとして選ばれたタイの映画監督の特別上映だった。家でテレビ放送かビデオで鑑賞していたなら、とっくに停止していただろうと思う。それほど広くはないが、8割がた客席の埋まった劇場内では、がまんして見るか、居眠りをするかしかなかっただろう。不可解になんとかつじつまをあわせようと、必死になって字幕を読んでいる自分がいた。予備知識はなにもなく、手がかりは日本語になった字幕と写されている映像しかない。映像が理解できないなら、字幕を信用するしかないのだが、ナレーションがあるわけでなく、会話から物語を推し量るしかない。

 予備知識があるとすれば先に家で見ていた「ブンミおじさん」だが、そこでも日本の慣習とは異なった風土と民族の姿があった。しかしそれが高い評価を受けたというのが、唯一のがまんの要因だった。短編がいくつか続いたが、わかりやすかったのは劇場の幕が写し出されていたもの(1)で、開いたり閉じたりしながら、画面が点滅していた。

 最後のもの(2)は1時間近く、中編と言ってもよい。ストーリー展開はあるのだが、理解不能で、頭が猛スピードで回転しているという意味では、見ごたえはあった。この作家は信頼にたるホンモノなのだろうか。真偽を見極める評価は、かつてキリストを信じるか信じないかが問われた古代ローマ社会に似ている。奇跡でも起こさない限り、誰も神を信じたりはしない。

 解説を読んで不可解のいくつかは氷解した。俳優はしろうとでひとりの役を何人もで演じているのだという。さらに労働者を演じたのは富裕層で、富裕層を演じたのは貧困層だった。正妻になるという話が、何人もの男女間で起こっていると理解していたが、そうではなかった。ひとりの人格がいくつもの異なった顔をもつという発想は理解できるし、それを何人もの役者でリレーするという演出は斬新で興味深い。ダブルキャスティングというのは舞台では、これまでもつねにあったものだ。野卑な顔をもつ貴人は現実社会でもつねに見かけるもので、ミスキャスティングと思わせるねらいは、確かに成功していた。みごとにいっぱい食わされたという鮮やかな手並みだった。しかし解説を読まないでこれを理解するのは、不可能に近い。

 さらには蒸気のただようぼんやりとした家屋と家並みを、無音のまま写して終わるアヴァンギャルド(3)も、20分近いあいだ、こちらもぼんやりとなかば昏睡状態だったが、何日かたった今、鮮明に思い出されてきたのが不思議だ。ぼんやりはくっきりと記憶に定着することがあるのだと、変に感心している。不可解に惹かれる心情は確かにある。アピチャッポンの名は記憶したし、この映像にさらなる映画の可能性を感じている。欧米ばかりに目が向いていたアートの前衛を見直してみようと思った。このあと訪れた会場で押印しながら、シネクレールに行かれたのですねと、微笑を浮かべる本展のスタッフとも不可解は共有できた。頭の悪いのは私だけではなかったようだ、ホッとした。


(1)『Trailer for CinDi』2011年/1分/台詞なし (サウンドのみ)

(2)『幽霊の出る家』(英題:Haunted Houses)2001年/60分/タイ語・日本語字幕

(3)『蒸気』(英題:Vapour)2015年/21分/サイレント(無音)


by Masaaki Kambara 

ブンミおじさんの森 2010

 突然死者が現れるが、だれも驚いているふうではない。ファンタジーという分類に属するが、ごくふつうの日常生活のリアリティが描き出されている。大林宣彦の「異人たちとの夏」(1988)を思い出しながら見ていた。死んだ姉が出てきたときは驚くことはなかった。死者は歳を取らないので、老いた妹が、お姉さんと呼びかけるときに、はっとする。

 死んだ息子が猿の姿で登場したときには驚かされるが、声を聞き分けて息子だとわかると、当然のように会話は続いていく。息子はなぜ猿のような容姿になったかを説明する。死者がともに生きているという世界観は、現代の我々もときおり感じることがある。共通しているのは故人は歳を取らないで昔のままだということだろう。

 記憶とは何だろうかと考えてしまう。記憶力は想像力を排斥する力のことだと思う。しかし美化することは知っていて、故人を語り合うとき、悪人でさえも浄化されて登場する。