あいちトリエンナーレ2019 情の時代

2019年08月01日~10月14日

豊田市美術館・名古屋市美術館・愛知県美術館


2019/8/6

 豊田市美術館に行く道に標識がある。四つ角に来てはたと迷う。やたらに矢印が多い。あいちトリエンナーレの矢印が→と←になっていて、このところの騒動を暗示するかのようだ。右に行くのか左に行くのかまぎらわしい。ウナギに誘われて左に行くが、それが正解だった。館内はオーソドックスな展示だが手がたい写真作品が記憶に残った。トリエンナーレの当日券売り場で長蛇の列ができていた。クリムト展との抱き合わせなのと、窓口の少なさに原因があるようだ。予定外に時間を食って、急いで名古屋に移動。じっくりと見ればいいなという作品が多くあるのだが、落ち着いて見れないのは、昨今の「表現の不自由展、その後」の中止のせいだろうか。社会的意識を問う高水準の作品が目立つ。名古屋市美術館では、二点の映像が記憶に残った。ひとつは「アレハンドロ・ホドロフスキーのソーシャル・サイコマジック」(1)で、新興宗教の教祖と信者のやりとりにも似て、教祖のかけ声に合わせて、集団催眠に陥ってゆく姿が、生々しく描き出される。

 もう一点は藤井光による映像インスタレーション(2)である。戦争当時の台湾での軍国教育のようすが、当時の記録映画によって紹介される。若者たちの一糸乱れぬ礼儀は、空恐ろしい全体主義を思い起こすものだ。 全員が同じ方向を向いて、同じ行動を起こす。絶対服従の教官のことばが、空々しく響いている。この映像だけでもインパクトはあるが、これに合わせて現代の若者たちが、このシチュエーションをなぞって見せる。演劇的演出が戦中の教育を反復する。演じるのは国籍はアジアだが日本人ではない。映像についても途中から見たので、軍国教育下の日本の少年たちの姿だと思った。最後に台湾でつくられた記録映画だと表示が出てきて、混乱し始める。ここに登場するのは日本人ではないのではという疑惑を抱きはじめる。顔立ちだけでは判断できないアイデンティティの問題が横たわる。支配の徹底は軍事教育から語学教育へと進化する。日本語を母国語として教育すれば、日本人は誕生するのだ。考えさせられる作品だった。

 愛知県美術館では、造形力で際立ったものが目についた。広い展示室をピエロの集団が埋め尽くすのは圧巻だった。ウーゴ・ロンディノーネ「孤独のボキャブラリー」(3)である。広い展示室に何十人いるだろうか。孤独であるはずのピエロが、これだけ集まると、「にぎやかな孤独」という現代の大都市がかかえる問題が、浮かび上がってくる。ピエロはそれぞれが群がることなく、自分の世界を保っていて、心地よい距離感を置いている。庭に置かれた飛び石の絶妙を感じることもできる。群れをなす動物の習性と比べると、ピエロの存在は人間の進化を物語っていることは確かだ。長らく絵画や映画のテーマになってきた背景には、現代人のかかえる問題を丸ごと背負ってきたものだったからに違いない。ピエロが不在のもつ実在感を伝えるものでありながら、ピエロ自身が実在するという限りでは、従来の美術のあり方は踏襲されている。それは美術館での安定した展示に結びつき、安心して見れる伝統的な鑑賞法に従うことになる。

 それを揺れ動かすように実在のまま美術館の制度に揺さぶりをかけたのが、文谷有佳里「ガラスドローイング」(4)である。作品を展示するガラスケースにドローイングがされている。ガラスの奥で展示されているのは同じような素描だが、そこにもガラスケースが入っていて、紙に描かれているのか、ガラスに描かれているのかは判別がつかない。作品名は《なにもない風景を眺める 2016.11.11》とある。つまりは紙には何も描かれてはいないということだろうか。これは一つの情報に過ぎないが、それを確かめるには手に取ってみる以外にはない。手を出せない美術館での展示という制度を守る限りは、そこで思考はストップする。もちろんそこまでして確かめようとは思わないから、私自身の解釈でよいのだと納得する。概念としても面白いし、展示としても面白い。全体を見渡すインスタレーションとして、旧来のタブロー概念を踏襲しながら、活性化できるのだという発見があった。

 菅俊一「その後を、想像する」(5)は、映像とオブジェの展示で、一貫した頭の体操を試みる。線遠近法でできた三次元空間を移動するシンプルな線が、思考を裏切るような動きをする。その騙されるさわやかさに満足感を得る。振り込め詐欺の鮮やかな被害では怒りしかないが、ここでは騙される楽しさを教えてくれることになる。動かないことには説明はつかないので、挿絵ははさめない。手品師の手腕は、ガムテープを並べたオブジェで十分に、説明され尽くされている。少しずつ引き出された長さの違うガムテープが並べられている。その後を想像しない限りは、面白くもなんともないものだ。きな臭いメッセージ性の強い中で、ホッとする一作だった。

 「情の時代」という統一テーマは、さまざまな解釈が可能だ。「情念」と取るか「情報」と取るかで、意味は異なってくるだろう。情報の時代の究極の作品は、ドラ・ガルシア「ロミオ」(6)だろう。あちこちにスタイリッシュな若者が並んで立つポスターが貼られている。パフォーマンスの予告のようで、60年代に流行ったハプニング演劇に似たもののようだ。いつどこで起こるかわからないという期待値によって成り立つという限りでは、「その後を、想像する」と大差はない。結局は何も起こらなくってもいい。ゴドーがいつまでたっても出てこない現代演劇にも似ている。

 ひと通り回って愛知県美術館を後にしようとした時、ロビーでバケツをガラガラさせながら床を掃除するパフォーマンスに出くわした。これがロミオの正体かと思って見ていると、警察が出動して大声を上げる事態となった。これもパフォーマンスかと思ったが、何だか物々しくなってきたので立ち去った。次の日の新聞を見るとその男は逮捕されたようである。同日、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」のファックスの主も逮捕され、大阪府知事が愛知県知事を「反日」だとする発言も紹介されていた。情報戦から情念の戦いに移行しつつある、何とも嫌な季節になった。



by Masaaki KAMBARA