Hello! Super Collection 超コレクション展 —99のものがたり—

2022年02月02日~03月21日

大阪中之島美術館


2022/3/11

 黒い不気味な外観の出現に驚くが、館内は意外と明るい。30歳で肺結核で没した大阪出身の画家佐伯祐三からスタートするのは、ゴッホを売りにするアムステルダムになぞらえてのことだろうか。インパクトは強く、開館展のせいもあり、長蛇の列は入り口付近ではなかなか動いてはくれない。あきらめてその先から見始める。ここでは油彩画のもつ素材としての発信力が、短命の画家を讃美している。病魔にとらえられたとは思えない重厚なエネルギーの発散を前にして、私たちはやっと日の目を見た不遇のリベンジに感嘆するのだ。佐伯祐三の場合もゴッホと同じく長くはかかったが、遅ればせながらも落ちつき先を得たことになる。絵画に向けての愛情がほとばしっている。晴れがましい場を得ても恥ずかしげではなく、堂々としているのは、画家が自作に対していだく自信と確信のあらわれだろう。人物も建物もゆがんでいるのにしっかりと立っている。色彩もあいまいではなく、確固としたタッチで画面に定着している。油彩画にまだ信頼感があったよき時代は、美術館の壁面が頼もしい時代でもある。

 超コレクションは脈絡なく続いている。節操なくと言った方がわかりやすいだろう。コレクションは一貫性をもって続いていく執念の思想のことだが、ここではそれはない。スーパーコレクションと英文名をつけてはいるが、超はむしろコレクションを超越しているという意味だ。コレクションがなすはずの一貫性を欠いたものだという自戒を示すように、佐伯祐三のあとは墨絵が続く。禅画をベースにした達観した略筆が、絵画とは何かを問いかける。佐伯をひぎずることなく、絵画というわずかなつながりだけで、バトンが渡される。壁面にかけられるという点では同一だという現象面での共通が、美術館に収まろうとしている。それは美術館への信頼を裏づけるものではあるが、この時期になって遅ればせながらの披露というのが、どうみても見えてしまう。晩婚のもつ隠れた老いをつくろう無理をさらけてしまうのだ。美術館の外装が黒い衣裳に身を包み、喪に服しているように見えるのは、遅れに遅れた美術館建設の後悔の念だっただろうか。準備室に30年を要した美術館は珍しい。

 隣接する国立国際美術館との対比が際立っている。それは企画内容のことでもあるが、近代以降にターゲットを当てながらも、内ゲバに近いような対立につながるものだろう。ついつい比較してしまうのだ。相乗効果をめざして、共倒れでおわるということも多い。紳士服でも「はるやま」に隣接して、決まって「青山」がある。家電店、コンビニ、ホームセンター、ファミリーレストラン、病院でも同じような現象がおこる。中之島美術館が開館して繁盛するほどに国際美術館に観客は流れるかという問題だ。せっかく来たのだから両方見ようというには、昨今の入館料を考えれば、どちらにしようかということになりそうだ。行列をなす店と閑古鳥がなく店が連なるラーメン街や、広島焼き横丁に似た構図が見えてくる。この日の中之島美術館で盛況を感じたのは、マグリッドの作品の前に群がり、携帯画面を向ける観客の姿だろうか。これを写真に撮るとマグリット以上にシュールな光景だ。一方国際美術館の飯川雄大のインスタレーションは盛況だと成り立たない。体験型作品に列をなすのも今日ではよく見かける光景ではあるが、喜んでいいのかどうかは微妙だ。

 美術館の広報誌で両館の館長が対談をしている。協調的な融和を感じさせるおだやかな対話だが、腹の探り合いをしているのだと解すると、より興味深くみえてくる。超コレクションのバラエティは今後の企画展を予想させるものだ。所蔵するモジリアーニの一点は、次にモジリアーニ展を企画させ、一年先の佐伯祐三展のチラシまで置いて広報している。吉原治良をかなりの点数で並べていたので、「吉原治良と具体美術」という企画も必須のものとなるはずだ。椅子やポスターにも多くのスペースが割かれていた。大阪港にあったサントリーミュージアム(天保山)が撤退し、商業美術を受け継ぐ役割もここに課せられている。いずれ大掛かりなグラフィックアート展で身を結ぶだろう。今回は所蔵品ばかりのお披露目展なら、いわば常設展であり入館料は高すぎる気もするが、次回の企画に向けての期待と投資と考えればいたしかたないか。大阪市の入館料収入が次年度の予算獲得に功を奏することを願いたい。厳しい財政事情にかつての大阪商人の気概が文化事業に反映していけばよいのだが。


by Masaaki Kambara