ジョーン・ジョナス展

Five Rooms For Kyoto: 1972–2019

2019年12月14日~2020年02月02日

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)


2020/1/24

 京都は近いようで遠い。名古屋に向かう途中下車でやっとたどり着いた。3年前の岡山での芸術交流でジョーン・ジョナスに接して以来、ずっとまち続けていたが、京都賞受賞のおかげで、まとまって見る機会ができた。

 ヴィデオとパフォーマンスを学んだという経歴から、必然的に誕生してきた作品形式だと思った。生身の身体とそれを写した映像との間を、スリリングにゆききするトリックは、ヴィデオ・パフォーマンスというネーミングの究極の姿を見せてくれる。

 映像なんだと思って見ていると、生身の身体だとわかって、驚かされることがある。逆に生身の身体だと思っていると映像だったりする。巧妙に仕組まれた演出は、さらに複雑に絡み合い、最後までわからないままということもある。

 出発点は舞台の上に持ち込まれたスクリーンにある。プロジェクターの前に人が立つと、カメレオンのように映像と一体化する。カラフルな帽子をかぶっていると、それだけが浮き上がるが、映像にも同じ帽子が登場すると、圧倒的に面白くなってくる。

 映像となった身体と生身の身体をつなぐものは「影」であるが、影だけが登場する作品がある。壁に映された影だと思って見ているが、多くの人物が交差する姿に出くわすと、影ではなく、全身を黒く塗り込んだ人たちを写した実写なのではと思いはじめる。もちろん本当のところはわからない。

 影と同時に「鏡」が導入されると、さらに複雑化する。鏡では左右は逆になるが、顔の中央に鏡を置いて撮影し、カメラと鏡を動かしていく。何でもない実験映像のようだが、見ていて飽きない面白さがある。セルフポートレートのはしり、自撮りのはじまりなのだろう。シャーマンもモリムラもヤナギもサワダも、この系譜に属する。

 パフォーマンスは上演、ヴィデオは上映ということになるが、パフォーマンスを見る機会は限られている。そこで展覧会では記録映像ということになるが、パフォーマンスそのものよりも、こちらの方が面白いのではないかと思う。それは生身の身体が二重に映像化されているからだ。

 絵画では画中画にあたるが、画中画の箇所だけを写真に撮る場合のことを考えるとよい。映像の場合は、それ以上に面白い。舞台中継とも言えるが、なかには素人の撮ったようなカメラの揺れに出会うと、さらに臨場感が増す。そしてその素人臭さもまたヌーヴェルバーグの演出ではないかと思ってしまう。

 カメラがズームアップして、部分が映し出されると、全体との関係を思い浮かべる。舞台では複数のパフォーマンスが同時進行していて、全体を複眼的に見ている。カメラはそのひとつを選び取るということになる。この現象はフィールド競技を見ているのと似ている。球技ではカメラは球の動きを追えばいいが、広い競技場のあちこちで異なった種目が同時進行する場合、マルチな視覚が要求される。

 パフォーマンスが不可能な展示を、インスタレーションが補っている。映像の前に球体のぶら下がるセットがある。はじめ映像とその装置は切り離して考えている。黒い影で球体のセットと同じ映像が映し出されている。突然手が現れて、黒いセットの向こうにくるのを見て、ハッとする。どんな撮り方をしているのだろうと考えはじめる。そして足もとにプロジェクターがあって、そのセットを投射しているのに気づくと、またしてもやられたと思う。

 はじめからこの仕掛けに気づいている観客には、何ら面白くはないはずだ。そこを面白がるかどうかは、映像とは何かを考えてみたことがあるかないかの問題だろう。絵画とは何かを考え続ける絵画論があるが、絵画とは何かを考える絵画もある。メタ絵画と言ってよいが、ここではさしずめメタ映像ということになる。向かい合って置かれた鏡を見た時の、クラクラとなる心理体験に近い。何だこんなのと立ち去る現代美術嫌いも多いに違いない。説明すると野暮になる真の芸術体験に触れたひとときだった。


by Masaaki KAMBARA