むすび

映像の伝えるもの/文字データのこと

第507回 2023年2月18

映像の伝えるもの

映像表現の歴史は長い間、視聴覚に限られたものだったが、やがては五感による体感へと向かうだろう。匂いを嗅ぎたいという欲望は、やがて満たされる。電波に凝縮されて変換され送られる。匂いは花や料理だけではなく、ウィルスも運ぶことが可能になる。ことばだけはすでにコンピュータウィルスとして運ばれている。映像が伝えるものは何だっただろうか。夢には重さはないが重量感はある。悪夢は実際の重量以上にのしかかってくる。ヒュスリの「夢魔」は女の胸に座り込んでいるが、実際には目に見えず重苦しさだけを感じているはずだ。目に見えるのに存在しないものを映像だと考えてきたが、映像の本体は目に見えないのに重苦しく迫ってくるもの、ときに狂おしく迫ってくるものだった。眼を閉じれば見えないはずなのに、夢は見えている。しかし目で見ているというわけではない。「脳裏に浮かぶ」という。「瞼の母」ともいう。映像とは存在ではなく存在感、満腹ではなく満腹感、幸福ではなく幸福感ということになる。それは人間にとって欠くことのできない大切なものだった。いくら高級な料理を食っても満足感を得られない人はいる。逆に粗食でも幸福感は得られるという意味で、映像のもつ能力を見直してみる必要はあるだろう。

ヴァザーリはレオナルドの絵画を賞賛し、実物でもこれ以上に本物らしくは見えないといった。それは実物は本物であって、本物「らしく」見えてはこまるということでもあった。イメージメーキングの不在感を、20世紀の百年をかけて楽しんだ映像表現は、ふたたび確実な物質性を取り戻そうとして21世紀の模索が続いている。映像と見まちがえるほどの物質感、さらには触覚性をともなって、確実な手による把握に戻ろうとしているように見える。美術展としての展示を通じて、空中に電波が飛ぶのではなく、足を運び体感することで、映像に肉体を与えようとしているようにみえる。山奥に入り込んでしか鑑賞できない映画祭では、一回限りの上映が確実に身体性をもって鑑賞者の実体験となる。映像ならばデータだけをもらって自宅で鑑賞するという効率化を否定して、映像であるからこそその場でしか実現できないパフォーマンスに頭をひねる。かつて無声映画が活動弁士をともなってパフォーマンス化されたときの躍動が繰り返される。

その時の映像とはきっかけでしかないが、音楽会での初演と考えれば、それ以降はデータが初演のコピーとして世界中に拡散していく。初演に立ち会うことに価値が生まれる。不便この上ない地域で芸術祭が繰り返されているのが、21世紀の芸術形態を特徴づけている。その場に身を置いたことに誇りを感じることが第一だろう。便利な地の利に築かれてきた美術館のモダニズムが崩壊し、芸術はもう一度自分の足で歩こうとしている。そしてそれも行き過ぎると地域活性という経済優先のありかたが問われ、淘汰された末にまた美術館に戻ってくるだろう。そして否定してきたホワイトキューブの展示術に人類の知恵の偉大を改めて気づくことにもなる。芸術学上のそんな先読みをしても残るのは確かに作品と呼ばれるもので、それは商品でも製品でもないのだ。作品概念を問い直し解体し、徹底的に否定するべきで、そのあげく耐え残ったものを「芸術作品」(アートワークス)と呼べばいいのだろう。

絵画のアウトサイドとして映像を見ようとする試みは、古めかしい絵画論を妄執する危険をともなうが、人類の歴史とつなげるならそこにしか道はないように思われる。もちろん歴史学を否定して、今しかないという哲学や美学はある。しかし人類は絶滅したわけではなく、血によって継承されている限りは否定できないものがある。親がいない限り、子は生まれない。唾棄すべき親も多いのだが、同じほどにそんな子も多い。絵画の遺伝子を引き継いで写真が誕生し、今日の映像表現にたどり着いた。その折々で格闘してきた人類史として映像表現史を取り込む視点が必要だろう。

第508回 2023年2月19

文字データのこと

視覚データとしての「文字」のことは言い忘れたかもしれない。文字データは骨組みだけを抽出した、いわば素描にあたるものだ。それに皮膚をかぶせ衣服を着せることで画像データが誕生する。文字を写した写真を見ると、写真でありながら文字でもあることがわかる。文字でさえも写真のテリトリーで語ることができる。しかし画像データに変換された文字は、身体をもたないのだ。イメージだけで構成されているとすれば内にまで踏み込むことなく表層だけをとらえているに過ぎないものだ。にもかかわらず写真で写された文字と、文字だけのテキストデータとの容量の差を通して気づくことがある。容量から見ると一枚の画像はときに一冊の書籍の文字データに匹敵する。五千年前にさかのぼる文字の発明に人類の偉大さを、あらためて感じ取ることになる。しかしさらに裏返すと一枚のイメージがいくら文字を駆使しても語りつくせない容量をもっているということでもある。人の表情ひとつとっても無限の感情をことばで尽くさなければならない。一対一対応でない、決して表層だけにとどまらない豊かな深淵が映像をかたちづくっているのだろう。それが映像というものの重さであるにちがいない。

手書き文字から文字データを抽出するコンピュータ処理は、今日では進化している。手書きで残された個人の筆跡を読み取っていくが、残されたデータが多いほど精度はあがる。同じ操作を映画に応用することもできる。映画全盛期の時代に無数の出演作を誇った名優は今では故人となっている。しかし出演作で写されたさまざまな角度から撮られた仕草や表情を集めてコンピュータ処理をする。そこでは特徴的な身のこなしを再現するだけでなく、新たな出演作を誕生させることもできる。身振り手振りだけでなく、肉声も加わり新たなセリフも発声可能となる。

メディアアートは忘れかけていた身体を取り戻した。テレビゲームが頭と指だけの操作から、身体を取り戻して太鼓を叩いたり踊り始めたりする。単なる健康ブームに支えられて、ストレス解消に終わるのではなく、何かひとつ精神的要素が加わったときアートとなる。芸術とはほんのわずかなプラスアルファのことに過ぎないが、とてつもなく心に響くものであるにちがいない。それは魂の重さと同じで21グラムほどにすぎないとしても、50キロを超える人間を支えているものだろう。映像とは実はそういうものだ。アートとは実はそういうものなのだ。