山口啓介 後ろむきに前に歩く

2019年06月08日~09月04日

広島市現代美術館


2019/7/31

 版画をスタートとするが、その後大規模な絵画制作へと向かう。大型の版画は迫力があり、高く評価されている。「方舟」という聖書のイメージに基づくが、壮大な光景を描き出している。大画面はよく見ると小さな版画が並べられ、継ぎ目や色調の違いに気づくが、離れてみると気にはならない。それ以上にこんなに大きな版画は見たことがないという驚きが先にくる。

 ノアの方舟は地上のあらゆる動物をつがいで乗せたはずだから、どんなに大きかったのかと想像力が羽ばたく。これに呼応するように版画のサイズを大きくはみ出すことで、驚異の演出を試みている。なぜ版画でなければならないのかという疑問は当然生まれてくる。エッチングには独特のマチエールがある。銅版画に魅せられた人は、この強く押し込められた実在感にふさわしいモチーフを探し続けてきた。レンブラントの「貝殻」はその究極の選択肢だったと思う。深々とした闇の中から光り輝く貝殻の表面が立ち現れている。小さいのにゆったりとして、生命体を宿すまるで方舟のように見える。

 山口の方舟とどことなく似ている。それはモノクロの厳しい秩序を維持しながらも、命を運ぶ船という共通点に由来するからだろう。貝殻は抜け殻ではない。生命の実在をまるごと描き出した輪郭のことだ。このミクロの視点を逆転させ大型版画で方舟に転換したということではなかっただろうか。

 船は容器であるが、うつ伏せると墓になる。このイメージの連鎖は、飛躍しているが、説得力はある。方舟を離れて近年は、全く違うテーマに移行したように見えるが、通底するものがある。アミーバのような生命体の原型を描き出しているように見えるが、それは方舟から流れ出してきた命のみなもとにあたるのだろう。ヤドカリが貝殻から抜け出た姿に対応するだろう。

 そして近作「歩く方舟」では、さらに進化したイメージが誕生した。方舟をかぶって歩くという驚きの発想は、方舟をひっくり返したかつてのイメージが下敷きにされているようだ。王の墓をかつぐ姿であり、ヤドカリが這いはじめる姿でもある。巨大なモニュメンタリティを宿したイメージは、版画を原点としながらも、大きな建造物へと展開しているようである。瀬戸内芸術祭や大地の芸術祭などは、その格好の場でもあるのだろう。

 もう一つ別の顔があって、生命のフォルムを探る延長だろうが、カセットを容器としたカプセルプラントの試みがある。積み重ねられて何千という生命体が、集合をなす。命を運ぶ容器としての方舟が、ここではカセットテープの廃物利用として、用途を終えたプラスティックケースに置き換えられている。それはまたヤドカリの姿でもあるが、光に透かして見ると、文句なく美しい。緑の葉が樹脂で固められ標本のようにケースに入っている。中身を異にした同じ外形のあつまりは、人間社会の縮図のようでもある。

 同じものを繰り返し量産していく試みは、3.11以降書き継がれているという絵日記にも反映している。定形のノートにぎっしりと手書きの文字が鉛筆で埋められている。内容を確認する前に、その視覚に圧倒される。きっちりとしたアナログの響きが伝わってくる。写経にも似た祈りのパワーが伝われば、書かれている内容を凌駕する呪文にもなり得る。パソコンやスマホで打ち込めばすむ時代に、筆圧のパワーがよみがえる。しかしそこでは書のタッチを披瀝するパフォーマンスはない。淡々とひたすら同じ筆圧で繰り返される文字の並びに、驚きを超えた宗教的啓示までも感じさせるものになっている。経典と言ってもよいのかもしれないが、展示ケースの中で輝きを放っていた。


by Masaaki KAMBARA