野田弘志 真理のリアリズム

2022年07月02日~09月04日

姫路市立美術館


2022/7/8

 存在の重さを表現するのにリアリズムは必要だろうか。ものの表面をなぞるのをリアリズムだと考えているうちは、写真のような絵という評価で終わってしまうだろう。風景画を称して「地球の存在そのものを描く」ことなのだと画家は言う。表面のヴェールをはぎ取ったところに存在そのものがあるのだと考えれば、表面のリアリティを超えなければ、存在へは行きつかないように思う。しかし表面にとことんこだわることによっても、真理に行きつくのではないか。

 職業としての初期のイラストレーターの仕事ののち、画歴をたどると静物画からはじまって、風景画をへて肖像画に至る。何でもこなすオールマイティと見えるが、それらに一貫しているのは静止して動かない安定した空間の実現という点だろうか。ルネサンスが希求し、油彩画に結晶した五百年を越える伝統技法を安住の地としていて、画家はレオナルドやミケランジェロに範を見いだそうとする。クラシックが動きを内包した静止に特徴をもつとすれば、目に見える表面はつねに内面の動揺を隠そうとしている。

 表面とは何だろうか。人体でいえば「皮膚」ということだが、画家が好んだのはその対極にある「骨」でもあったようだ。様々な動物の骨を描いている。しかもその骨の表面は皮膚のように描かれている。展示の最後に登場したのは谷川俊太郎の肖像画だったが、私にとってもかつてホキ美術館でみて衝撃を受けた一作だった。不気味ともいえる全身像だが、自然体で立っている。その印象は蝋人形にも似て冷ややかで、等身大からうかがえるリアリティは、目に忠実というよりも、表皮を一皮むいたときに現われる内面像のような気がする。皮膚を剥いでみないと存在は現れないが、画家のリアリズムは常に表面をなぞるしかないというジレンマを抱えている。

 等身大へのこだわりは、新聞挿絵の仕事にも反映していたようにみえる。加賀乙彦「湿原」に付された挿絵は、600点に及ぶが150点ほどしか残っていないという。絵本の原画に近いあつかいを予想すれば、散逸もしかたない時代だったかもしれない。今回その多くが展示されたが、それらが下絵とは思えない完成度を示していたことは、それらが原寸大だという点に由来するようだ。その緻密な描写は銅版画を見るようで、サインまでもミニチュアサイズで付けられている。最終的には新聞小説の挿絵になるのなら大きく描いて印刷段階で縮小すれば、いくらでも緻密な描写は可能だっただろう。毎日の仕事はノルマを課したウォーミングアップにもなっていたにちがいない。

 静物、人物、風景が網羅され、その後大作となる「鳥の巣」も10センチに満たない空間に同じ密度で描きつくされていた。実物大という点から言えばともにリアリズムを逸脱しているが、そこに絵画のトリックをおもしろがる作為がある。等身大のリアリティを踏まえたシュルレアリスム的展開といってもよいだろう。こうした遊びごころは、イメージと実在との混乱をしかける絵画テクニックの自信に由来しているようだ。油彩画の出発点でファンアイクが、額縁まで描いてみせた目騙しを踏襲している。初期の静物画では岩は浮き上がって突出しているが、その後の表面に貼り付けたボードやロープは実空間にできる影によって、絵ではなくモノが貼り付いているのだと知ることになる。しかしこれも画集を見ている限りでは、区別はつかない。オリジナル礼讃へと向ける作家の意志の勝利なのだろう。もちろんオリジナルを前にしても、手で触れないとわからないというレベルにまで達したものだ。野田弘志が東京芸大で師事したのは小磯良平だったが、「湿原」での挿絵の仕事を、先日武田コレクションにみた小磯の薬草シリーズの原画と対比してみたい気になった。

 描写力に向ける驚きは、息詰まるような体験で、こころなごむ美術鑑賞とは言えないかもしれない。究極を求める修行僧にも似た厳しいまなざしは、一年に一作しか完成できないと嘆く「絵画」のステータスを保証するものだ。安易に誰でも描くことができるというのが、その後の絵画に繁栄をもたらし、絵画のモダニズムを形成したが、あまりにも安直になりすぎると、もう一度絵画誕生の奇跡と信仰に向ける目が必要になってくるだろう。絵画はだれもの身近にありながら、近づきがたい神聖なものでもあるのだというメッセージに接したひとときだった。


by Masaaki Kambara