第3節 かぶき者と放蕩息子

第522回 2023年3月5

1 アウトサイダーの群像

 近世初頭、「かぶき者」というテーマが、絵画の主人公として登場した。それは出雲のお国のかぶき踊りに端を発し、茶屋女と戯れる狂態であったが、舞台で演じられた者であるのみならず、戦乱の世が平定されてゆく中で現れた現実社会の一風俗とみなされる。風俗画にはやがて「かぶき者」の姿が目につくようになり、芝居見物をする者や京の町並を歩く者の姿に、異風異相の衣裳がふえてゆく。こうした「かぶき者」図の誕生と展開は、西洋でも「放蕩息子」という福音書のテーマが、風俗画として自立する流れと対応している。そこで本稿では、宗教性の風化しつつある一六世紀に東西に現れた、これらアウトサイダーの群像を比較することによって、宗教性と世俗性という問題の一端に触れてみたい。

 「風俗画」(ジャンル)という主題に関して、ことに17世紀オランダ風俗画に注目した東西の比較が、しばしば試みられてきたが、シュテフィ・シユミットは両者の共通するテーマとして、年中行事の絵、祭の行列、遊興と酒盛りをあげている[i]。そこには類似したエネルギッシュな社会背景が予測されるが、日本では庶民の芸術「浮世絵」が成立する前夜で、町絵師が新興勢力として実力を発揮しはじめる頃、オランダでも国の独立とその主人公である市民階層の要求に答えて、いわは町絵師と呼べる市井の画家たちが注文をこなす時期であった。版画というメディアが、その場合重要な役割を果していることも注目すべきことで、浮世絵版画の大衆化は、16世紀後半からのネーデルランド、ことにアントワープを中心とした銅版画の全盛と対応している。

 中世から近世への移行の原理を、版画という新メディアの普及面から考察することも一方法だが、ここでは主に聖俗の問題を時代の推移とからめてとらえてみる。当時の絵画芸術の展開は、ジャンルの上からは一般に、宗教画から風俗画の独立という側面でとらえられる。そこに至る一様態として、確かに「放蕩息子」は宗教改革以降、宗教的意味あいが問われ直す時期に好まれたテーマであるし、「かぶき者」もまた、西洋ほど明確ではないにしても、宗教的倫理観を否定し、これを打ちこわすことによって風俗を勝ちえた人物像の典型であった。


[i] シュテフィ・シュミット「日本の風俗画とヨーロッパの絵画との比較」浮世絵芸術四四号一九七五年 二一頁。

第523回 2023年3月6

2 「かぶき者」の誕生とその造形

 中世から近世への転換期を「かぶき者」なる人物像を通して解釈しようとする試みが文学史及び文化史の分野で行なわれてきている[i]。それは「かぶき」という言葉のもつ異端性より解き起し、歌舞伎という芸能に結晶するまでの推移を過渡期の肖像としてとらえるものだ。かつて林屋辰三郎氏は『歌舞伎以前』という著作を寛永文化で締めくくり、「歌舞伎の本史は実はここからはじまるのであった[ii]」という印象深い言葉で終えられた。そこには元禄文化に対して異端ともいうべき寛永文化の方に、時代の魅力が潜んでいたことが暗示されているようだ。

 「中世の創造的文化の終点であるとともに伝統的文化の起点」(林屋)とされる寛永期(1624-44年)には、異端性を示す造形が風俗画の随所に現れている。その独特の美意識は、岸田劉生が『初期肉筆浮世絵』で述べた「ねちっとした、しんねり強い、でろでろな味ひ[iii]」という造語に集約される。この「でろりとした事象美」は、確かに劉生の言うように、現実の生々しさ、汚さに根づいた深いリアリズムであり、新興の江戸には現れにくい、京都という千年の古都ならではの造形感覚と見られる。このグロテスクなまでの卑俗さの強調は、既成の美意識に対するラジカルな挑戦でもあって、そこに無名の画工たちの影の力が見い出される。これらの作品が岩佐又兵衛作として総称されることもあったが、実際のところは又兵衛もまた同時代の感覚を身につけた一画家にすぎず、皮肉なことに「又兵衛又兵術と云はれてゐたが、実は又兵衛ではなかったといふ作品の中に、又兵衛の真蹟よりは実は数等立派な作品がある」(劉生)ということにもなった。

 「湯女図」(ゆなず)は、こうした寛永の美意識を代表する作例であるが、そこには陽気に浮かれる野外の宴というよりも、重苦しさに押し込められた密室の異常心理を見い出すことができる。それはまた生命感に満ちた群衆のエネルギーが、行き場を失い密室に閉じこめられてゆく時代の流れに対応しており、野外の乱舞から室内の宴席へ、そして背景を持たない単独の人物像へという風俗画の歩みの中間に位置づけられる。このデカダンスの狂宴は、ワトーの描く憂いを帯びた「雅宴画」フェート・ギャラントに通じるものでもあり、「どこか西洋のロココ絵画に通じるような爛熟した官能性があらわれ、世紀末を思わせる頽廃の翳[iv]」が差しこんでくる。ある時は、そこに登場する女たちは、魂のぬけ出た蠟人形のようでもあり、岸田劉生の描く肖像画のいくつかに、その美意識への感化を見い出せる。「湯女図」には、かぶき者の姿は見られない。しかしこの遊女たちは、明らかにかぶき者に呼びとめられ、あるいは呼びとめようとする姿であり、かぶき者の群像がこの作品の対として存在したという推定も試みられている[v]

 「彦根屏風」もまた、かつては又兵衛に帰されたが、そこには茶屋遊びをするダンディーな若侍[図16]が登場する。類廃的気分は「湯女図」に等しく、金地を背景にした豪華さの中に、何かしら息のつまるような閉鎖的空間を現出している。主題は確かに遊興にあるが、三味線・双六などは伝統的な琴棋書画図を、当世風にアレンジしたようで、「放蕩息子」が当世風俗画にかきかえられる状況と一致する。奥平俊六氏は、彦根屏風を遊里の自由が失われてゆく1630年代の作だと考え、「すでに失われつつある遊里の自由といったものを、過去の主題形式に見立てることによってつなぎとめようとする努力[vi]」と述べる。確かにこの若侍は、かぶき者というには艶めかしく、刀を杖に体をくの字に曲げたポーズは女性的にさえ見える。かぶき者が発生から消滅までの短期間に急速に変貌してゆく推移は、乱世の無頼漢としての異端的人物が、舞台上のきらびやかな美男子に姿をかえるという歩みをとる。織田信長にかぶき者の典型を見ようとする試みがあるが、信長の場合は人目をひく異様な風体を取り、異端であることを肯定的に押し進めることによって天下人になった。


[i] 松田修「日本近世文学の成立-異端の系譜」法政大学出版局 昭和三八年。守星毅「かぶきの時代-近世初期風俗画の世界」角川書店 昭和五一年。「日本中世への視座-風流・はさら・かぶき」NHKブックス昭和五九年。小笠原恭子「出雲のおくに」中公新書 昭和五九年。

[ii] 林屋辰三郎「歌舞伎以前」岩波新書 昭和二九年 二五三頁。

[iii] 岸田劉生「初期肉筆浮世絵」岩波書店 全集四 昭和五四年 二七頁。

[iv] 辻惟雄「岩佐又兵衛」集英社 昭和五五年 九九頁。

[v] 辻惟雄「初期風俗図と靖曳図-湯女図の原型をさぐる」日本美術工芸 三七三号 昭和四四年 一一-七頁

[vi] 奥平俊六「彦根屏風について-鏡像関係と画中画の問題を中心に」美術史一〇九号 昭和五五年一八頁。

第524回 2023年3月7

3 かぶき者の変容

 「かぶき」という語は「傾き」(かぶき)に由来し、異風異相の風姿をもち軌道をはずれた振るまいを意味して、安土桃山時代の流行語となった。それは南北朝の争乱期に「婆娑羅」(ばさら)の名で呼ばれた美意識に通じるもので、わび・さび・幽玄という中世の美の本流の影で、祭礼に興奮し狂乱する精神が芽生える。この傍流が「かぶき」という語に集約されるのだが、それは芸能としての「かぶき」が、能を「本業」と呼び、自らを「やつし」と規定した自虐的異端の姿に一致する。この時「かぶき」は能楽の仮面を脱ぎ捨てて、生身の人間を導入した。

 慶長8年、お国が演じたかぶき者は、男装の麗人が示す肉感的な官能表現であるとともに、そうした生身の人間の追悼でもあった。彼女は異風なる男の姿をまねて、茶屋女と戯れる様子を舞台上で演じたが、それは一代のかぶき者名古屋山三の思慕という形をとる。俗説によれはお国と山三は夫婦ということになるが、実際は同じ慶長8年の春に、山三は作州津山で刃傷の末、二十九才(あるいは三十二才)で非業の死をとげている。天下に知れたこの美男の伝説は様々に脚色され、淀君と関係し秀頼は山三の子だとも言われる。お国は念仏踊により山三の死霊を呼び出し、生前の戯れの姿を舞台に再現した。

 かぶき踊りがはじまった翌年の慶長9年、同じく一代の英雄秀吉の死を追悼する豊国神社臨時祭が、京洛をあげて熱狂的に行なわれた。秀吉もまた山三以上に「大きく逞しい、つまりより本質的なかぶき者の典型[i]」であり、山三のように異端のアウトロウではなく、天真爛漫な時代の代表者だった。守屋毅氏はもう一人の異端として千利久をあげ、「両者の息づまるような緊迫した人間関係は、下剋上文化史の有終の美を飾るにふさわしい」とし「秀吉はもう一人の異端を斬ることによって、自らの異端性をも喪失するという皮肉な破目を迎えた[ii]」と述べる。

 天下一のかぶき者山三と秀吉を追悼するお国のかぶき踊りと秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭が、ともに集団的狂気とも呼べるヒステリックな群衆心理にささえられていたことは、当時の群衆がかぶき老に対して示す自己表明でもあったし、自己をかぶき者に同一化する行動でもあったようだ。「豊国祭礼図屏風」は、そうした群衆の乱舞に混じって、かぶき者たちの有様も伝えてくれる。そこでは京の町衆をあげての風流踊りが異常な熱狂の渦となって、最後の集団行動をめざす。慶長19・20年、大阪の陣の頃にも、庶民の動きに異常が現れ、伊勢踊りなるものが全国的に流行する。大阪の陣そのものも合戦は風流をきわめ、見物に京よりおもむく者もいたという。しかしこれを限りに、中世を彩った風流は衰退し、民衆のエネルギーは行動原理を失って、受容の体制を強いられてゆく。

 慶長から寛永への時代の推移は、狂気を取りあげられたかぶき者が、その異端性を失って悪所に押しこめられてゆく姿でもある。これに伴い祭礼を描いた「はれ」の場面は、娯楽色の強い日常性へ、野外図から室内図への視線の移行は、背景を四季から無季へと変化させる。参詣図も行楽図へと変貌し、社寺曼荼羅を描く絵仏師も没落し、絵屋として遊楽図を手がけはじめる。こうした宗教性崩壊の歩みの中で、かぶき者の姿もまた変貌してゆく。寛永6年の女かぶきの禁令以降、若衆かぶきの台頭は、近世的美男の典型を在原業平に見い出し、お国の演じた異風のかぶき者は、いつしか華奢な王朝風の色男にすりかわってゆく。

 かぶき者の群像は、豊国祭の群舞に見る能動的性格から芝居と遊里に埋没する受動的性格へと変貌を強いられ、風俗画も寛永期に入り主題を悪所の風俗に偏じてゆく。それは下剋上の世が去り、前途の可能性が閉ざされゆく若者たちの満たされない感情の反映でもあった。江戸幕府は遊廓と芝居を二大悪所と考えたが、一方でこの悪所に日常生活を脱したユートピアの姿を見た者も少なくない。それは逆に言えば幕府が許した唯一の安全地帯(アジール)でもあったわけで、「かぶき(傾き)」が「歌舞妓(伎)」という当て字を得た時には、すでにその異端性は拭いさられていた。

 お国以来、「茶屋遊び」の場面は、演劇・舞踊だけでなく絵画でも定着するが、様々なかぶき者の様態のうち茶屋遊びの姿がことに好まれたのは、放蕩息子の逸話の中でも遊女のいる酒場で金を使い果たす若者の図がクローズアップされるのと同様である。お国の場合、かぶき踊りは「茶屋のおかか」と呼ばれる茶屋女のもとに町のかぶき者がやってきて踊るという筋書きだが、主役は男装をしたかぶき者で芸達者な狂言師は「茶屋のおかか」役にまわった。そして見どころが性の倒錯による官能性にあったことは言うまでもない。芸能がいつも民衆の官能にささえられ成長するとすれは、風俗画もまた本質は男女のからみにあり常に芸能との接点を持とうとする。「遊楽図」「舞踊図」は、そうした芸能民の舞台を定着させ」巷のかぶき者が着る派手な衣裳も舞台での演者のそれであった。


[i] 松田 前掲書 七頁。

[ii] 守屋毅「『かぶき』以前-もしくは異端としての天下人」日本屏風絵集成 一三巻 講談社 昭和五三年 一二九頁。

第525回 2023年3月8

4 「放蕩息子」の変貌

 「放蕩息子のたとえ」は、新約聖書ルカ伝第15章にもとづいている。すなわち、放蕩の末父親の財産を使い果した若者が、回心をして父のもとに戻ってくるという短い話である。中世以釆、様々な場面が挿画化され、「財産を分与され旅立つ」「酒場で遊女と飲みさわぐ」「貧困のどん底で豚の飼育をする」「帰宅を喜ぶ父の前にひざまづく」等が主要なものであった。

 16世紀中頃より、ネーデルランドではこれらの中でも、ことに酒場にいる放蕩息子の図が好んで描かれる[i]。ルカス・ファン・レイデンの1520年頃の木版画は、同主題の個別描写と思われる早い例だが、そこでは酒場女と戯れる放蕩息子が描かれる。横には酒場の女主人がすわり、戸口の少年にひそかに金袋を手渡す。それは放蕩息子のふところから遊女に盗ませたもので、女は右手を男の顎にあて愛嬌をふりまきながら、左手をうしろから男の腰のあたりにしのばせている。それは腰にさがる金袋を盗む暗示で、窓からは阿呆頭巾の道化役が指さして「風の吹く方向に注意を払え」とつぷやく。この気まぐれな運命への警告は、この場面を一種の教訓劇に仕立て、テーブルに散らばるサクランボは淫蕩の象徴で、戒められるべき罪を暗示する。

 聖書には酒場で金を盗まれるという具体的記述はないが、同場面が独立する過程で様々な脚色を生んだ。1540年代にコルネリス・アントニッツが制作した6枚の放蕩息子の木版画シリーズ一点は、上記の場面と多くの共通点をもつ。そこでは帽子をかぷりテーブルにつく着飾った若者に「放蕩息子」、隣りの遊女に「肉欲」、その横の老女主人に「貪欲」、金袋を受け取り逃げる男に「我欲」の名が与えられる。こうした盗みのモチーフは、やつれた女主人、遊女、放蕩息子の三者が折りなす心理劇となって、16世紀のネーデルランドでしはしは出会う。それは財産を使い果たし無一文になるという聖書の記述から発想され、すでに13世紀に諸例をもつ「酒場から追われる放蕩息子」のモチーフとともに、絵画上の類型となった。こうした事情は当時の民衆文学、ことに放蕩息子劇と対応し、画面での阿呆の登場も、世に満ちた愚かさを客観的に気づかそうとする教訓的意図だった。宗教改革期に多くの放蕩息子劇が登場したが、ともに酒場でのエピソードが重要な役割をはたし、最後に父親が息子を許すことで最高点に達する筋書きだった。しかし、そこでも次第に舞台の興味は、放蕩息子の回心よりも、酒場での遊女とのからみに向かい、エロチックな場面が続出してゆく。

 放蕩息子の教訓は、当時の風俗が要求したものでもあった。それは当時の若者の放縦と放蕩に対する非難として意図され、彼らの異風な衣裳は「かぶき者」を思わせる。向けられた非難は教訓よりも娯楽色の強い温和なものが多く、誇張されたしぐさが狭い空間をおおい、リアリズムの欠如した作品は寛永風俗画の特徴と共通する。かぶき者が従来の宗教倫理の反逆とすれば、放蕩息子もまた聖書の文脈をはずれ、回心しない放蕩息子となって世間に遍在してゆく。実際に放蕩息子劇のいくつかは、そうしたヴアリエーションを描き出していた。

 酒場女と戯れる若者は、「放蕩息子」の他「気ままな仲間」「陽気な仲間」「だらしない仲間」などと題されるが、そこでは「放蕩息子」か否かを論じるのが無意味なほど変質している。宗教テーマに固執しなけれは、放蕩息子から酒場で金を浪費する若者の題材を導き、それが酒場で浮かれさわぐ表現になったというより、酒場絵というものが先にあって、それが放蕩息子に結びついたと言う方が適切かもしれない。

 背景がなくなり物語の性格が失われる現象は、浮世絵の「一人立美人図」の成立とも関係するが、放蕩息子を考える場合にも興味深い。放蕩息子の場合、各場面をシリーズで同等に描く例は多いが、一場面をクローズアップして前面にもち出し、他の場面を背景に添える場合がある。「帰宅」の場面は添景がなくとも間違えることはないが、酒場の放蕩息子の場合、背景のエピソードの有無によってしか、宗教的テーマに位置づけられない時が多い。それに宴席は室内に限らず、屋外の場合もあり、そこに浪費の警告という意味がうすれた優美な雅宴画の場合は、なおさら区別は困難で、放蕩息子を見つけることすら難かしいものもある。放蕩息子が見失われるのに呼応して「かぶき者」も消滅の過程で一時期、うしろ姿で描かれたりしているのは興味深い[ii]

 こうした放蕩息子の変貌、あるいは消滅をたどる過渡的な位置にあるのが、ヤン・ファン・ヘメッセンある[iii]。1536年の「酒場の放蕩息子」は、酒場から追い出される姿や、豚の群れの中で回心し天をあおぐ姿、父のもとに帰る姿とそれを祝う宴席を、それぞれ背景に小さく描きこみ、その限りでは聖書の文脈を保つが、前景の悪所での遊宴には、宗教的・教訓的意図は乏しい。放蕩息子は、二人の遊女の問でファッショナブルに衣裳をまとう。こうした贅沢で派手な若者の集団は、当時北ヨーロッパの諸都市に現れ、しばしば法令により規制されている。それは「かぶき者」が異風、異相の風体で京の町々を活歩し、取締令にょりきびしく規制される姿と一致する。放蕩息子の異風の衣裳は、1550年以降ネーデルランドでスペイン支配が強まると、スペイン流行の異国的なえり首の高いぴっちりした胴着に羽根帽子をかぶって、しはしば登場する。ことに羽根飾りの帽子は、この主題に欠かせないものになっていた。確かにそれは地主貴族である放蕩息子にふさわしく、羽根は人間のみだらさのアトリビュートとして知られていた。

 レンブラントの作品に、この残像を認めるのは困難ではない。彼の興味は「放蕩息子の帰宅」に集中し、晩年の油彩画をはじめ、1636年のエッチングなどで、父の前でひざまづく放蕩息子を描いた。17世紀のオランダ人は、ルネサンス的理想主義からバロック的現実主義への歩みの中で、今まで「巡礼」(ことにイタリア)に見い出してきた理想を、放蕩息子の「帰宅」という形で、自国に回帰したともいえそうだ。しかも遍歴する放蕩息子のエキゾチックな衣裳は、彼らにとっての異国を示し、17世紀後半には、地中海沿岸のイタリア的風土に戯れる放蕩息子すら登場する[iv]

 レンブラント自身も生涯半ばで財産のすべてを使いはたし破産するという事実は、放蕩息子のたとえと重ねあわされ、逆に幸運の絶頂で描かれた妻を抱く自画像が、酒場の放蕩息子の写しかえとするベルグストロームの考えは説得力をもつ[v]。この作品でレンブラントは、羽根飾りの帽子をかぶり、ワイングラスを手に、着飾った若い妻サスキアを遊女に見立て膝にのせる。バックには酒場を示す勘定板(スコアボード)も見える。羽根飾りの帽子を手がかりに画題の追跡はさらに進む。W・ブッシュはベットでの男女のからみを描いたレンブラントの版画に、羽根帽子とテーブルのグラスから、放蕩息子の変奏を見つけた[vi]。C・キャンベルはさらに「ポーランドの騎士」として知られるエキゾチックな作品に、放蕩息子の旅姿を見ている[vii]

 このように羽根帽子は、「かぶき者」の長い刀と同じく、放蕩息子の標準的アトリビュートとなったが、この視点から見ると、イタリア版かぶき者ともいえる生涯を送ったカラヴァジオはじめ、その後継者たちの描く風俗画にこの帽子の若者が目立つ。カラヴァジオの「女占い師」では、女の目つきの鋭さに比べ羽根帽子の若者は凡庸で、占いに事寄せて金を巻きあげられる放蕩息子を喚起させる。同じ羽根帽子の若者は、ネーデルランドでカラヴァジオ影響を受けたユトレヒト派にも度々登場する。彼らは放蕩息子の残像には違いないが、もはや浪費の教訓譚ではなく、浮世の喜びを満喫する「陽気な仲間」(メリー・カンパニー)に他ならない。17世紀を通じて浮世を楽しむ酒場絵・遊楽図がオランダを中心に盛んになる。そしてこの宴にかげりが見え出すのは18世紀に入りワトーの登場を待たねはならない。


[i] K. Renger, Lockere Gesellschaft - Zur Ikonographie des Verlorenen Sohnes und von Wirtshauszenen in der niederländischen Malerei, Berlin, 1970. 拙稿「放蕩息子-16・17世紀ネーデルランドの造形表現をめぐつて」佐賀大学教育学部研究論文集 33集2号(1)、34集1号(1)、34集2号(1)一九八六-七年。

[ii] 奥平俊六「うしろ姿の『かぶき者』」近世風俗図譜一〇巻 小学館 昭和五八年 一一七頁。

[iii] B. Wallen, Jan van Hemessen - An Antwerp Painter between Reform and Counter-Reform, Michigan, l983, pp. 53-66.

[iv] C. S. Schloss, Travel, Trade, and Temptation - The Dutch Italianate Harbor Scene 1640-1680, Michigan, 1982, pp. 55- 7.

[v] I. Bergström, Rembrandt's Double-Portrait of himself and Saskia at the Dresden Gallery, Nederlands Kunsthistorisch Jaarboek, 17, 1966, pp. 143-69.

[vi] W. Busch, Rembrandts 'Ledikant' - der Verlorene Sohn im Bett, Oud Holland, 97, l983, pp. 257-65.

[vii] C. Campbell, Rembrandt's 'Polish Rider' and the Prodigal Son, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, XXXIII, 1970, pp. 292-303.

第526回 2023年3月9

5 風俗としての宗教

 次に「かぶき者」と「放蕩息子」をとりまく宗教的環境の変質について考察したい。確かに「かぶき者」は、織田信長の人格が示すように、従来の宗教勢力を焼き払い新しい美意識を確立する点で、南蛮風俗まで取りこんで数奇を求めたが、それは仏教に代りキリスト教をというわけではない。かぶき者が首からかけるロザリオは、キリシタンだからではなく、今までにない異風な装身具に魅せられたからである。時代は宗教芸術を背景に追いやる方向に進んでいた。そこでは異国の宗教性までも、世俗に取りこもうとする時代のエネルギーがうかがえる。

 「湯女図」の女の一人が、可翁の禅画「寒山図」のポーズから取られたと指摘されるが、こうした聖なるもののパロディー化は、彦根屏風の作者も、遊宴の背後に衝立てを立て山水画を描きこむことで試みた。この画中画としての山水図は「空間の壁の向こうの理想の<山水>であり、時間の壁の向こうの追憶の<過去>[i]」であると同時に、新しい精神が否定しようとした<過去>、つまり宗教芸術としての禅画の象徴でもあった。しかし否定すべき過去といえども町絵師にとっては、画中画ながら本格的な技量が求められたようだ。

 山里にユートピアを求める山水図の画境は、町並を描く都市図では民衆の生活空間へ引き降ろされ、そこに地上の楽園を見い出す。「洛中洛外図」の成立は、かぶき者の主題とともに時代の推移の接点で、そこに見られる「浄土」のありかを遥か彼方から現実空間へ引き下げた精神は、現世を肯定し浮世を謳歌する。そこでは都市全体は風景であることを忘れ、風俗と化している。それは肉眼を近づけるのでなく、遠くから双眼鏡で見るような空間把握ともいえ、17世紀に入って双眼鏡や望遠鏡が実用化される世界観に先立つ。同時期オランダでもブリューゲルの「十字架運び」や「イカロスの墜落」などに代表されるパノラマ的展望が生まれるが、ともに事件は風景の中に埋没し、起こる場所すら見つけがたい。こうした中心喪失は聖なるものの放棄だが、一方で聖とも俗ともつかない科学的価値観の誕生を予測した。

 宗教画の世俗化は、鎌倉時代に時宗の遊行僧が地方を遍歴してはじめた「桶念仏」が、応仁の乱後見物の対象として「念仏踊」に変貌する推移と対応する。南北朝の「婆婆羅」(ばさら)のもつ聖なる宗教性も、室町から戦国にかけて山伏や禅僧の俗化となり変貌する。彼は「遊行」から「行楽」へ、霊所も現世の躍動する娯楽の場と化す。神性の失われた社寺の門前は、縁日を楽しむ民衆の「悪所」となる。成人の悪所が遊里と芝居とするなら、社寺の開帳、縁日は、服部幸雄氏の言うように、老人や婦女子の悪所に違いない[ii]

 16・17世紀の初期風俗画の歩みについて、武田恒夫氏はその基本的動向を「景観内容の豊富な事象性から単一な事物性への移行」つまり「『こと』から『もの』への描写にすすんでいった[iii]」と指摘し、言葉をかえ「観念的に『かくあるべき』規範的人物ではなく、現実的に『かくある』という姿において積極的に形成しょうとした[iv]」ともいう。この発展過程は「放蕩息子」のテーマを含め、オランダでの風俗画・風景画・静物画の独立にもあてはまる。17世紀初頭、風景画はマニエリスム期の理想的な「かくあるべき」山岳風景から、現実のオランダの平担な低地に目を向けて「かくある」風景へと移行する。静物画でもピーター・エルツェンの「マルタとマリアの家のキリスト」などで宗教画から人物が背景に追われて消え去り、さらにヴァニタス(空虚)などアレゴリカルな解釈も除かれるが、これは物語を背景にもたない「もの」への着目を意味し、日本での「誰が袖図」というユニークな画題の成立に対応する。

 「誰が袖図」も又兵衛に帰される「山中常盤物語絵巻」では、牛若が母の恨みをはらすのに盗賊をおびきよせる小道具として用いられるが、やがて単独で衣裳それ自体が主題化されてゆく。「松浦屏風」の類型化した女たちの顔立ちは、画家の興味が衣裳にあることを示し、寛永以降には衣裳美のみに着目した「誰が袖屏風」が登場する。それは「人物不在の風俗画」と同時に、静物画の豊かな実りでもあった。


[i] 奥平 前掲書(7) 二二頁。

[ii] 服部幸雄「江戸歌舞伎論」法政大学出版局 昭和五五年 八七頁。

[iii] 武田恒夫「近世初期風俗画」日本の美術 二〇号 昭和四二年 九〇頁。

[iv] 武田恒夫「初期風俗画とその位置づけ」仏教芸術 四九号 昭和三七年一〇四頁。

第527回 2023年3月10

6 宗教からモラルへ

 風俗画の成立は「聖」から「俗」の分離に見られるが、それがいつ頃かの決定はむつかしい。風俗画の定義にも関係するが、一般にはヨーロッパで16世紀半ばと考えてよい。エミ-ル・マールは「反宗教改革の芸術が、宗教芸術(アール・レリジュー)に集中することで、決定的に世俗芸術(アール・プロファン)を分離した[i]」というが、明らかにそれ以前は「俗」は「聖」の中に組みこまれていた。風俗画を「日常的なありふれたもの」と考え「教訓的、風刺的な意図」を持たないと定義しても、こうした読みとりは見る者の直観に委ねられる不明瞭な領域である。聖なるものが、エリアーデのいう「みずから顕われ[ii]」ない限り区別は不可能であり、「聖なるものはいつでも自分自身を俗なるものから区別するという仕方において存在[iii]」するしかない。

 図式的には宗教テーマと純粋な風俗表現の中間に、教訓的・風刺的作品がある。罪ある生活にふける民衆を批判的に描写するもので、「七つの大罪」や「五感のアレゴリー」として日常悪が戒められる。15世紀末のヒエロニムス・ボスの作品には、こうした風刺が見られるが、そこに登場する乞食や不具者なども日常を写したというより、軽蔑すべき者として批判的に悪を寓意化したものだ。「放蕩息子」も福音書の再現を脱して「五感のアレゴリー」と結びつく。マルチン・ファン・ヘムスケルクヨハン・リスの作品では、娼家の放蕩息子を五感の寓意がとりまく。「視覚」は見つめあう男女、あるいは虚栄のシソボルでもある鏡によって、「聴覚」は快楽へ誘う音楽、「触覚」は抱きあう男女、遊女を膝にのせての愛撫、「味覚」はテーブルに広がる果実、「嗅覚」はまわりをうろつく犬により寓意化された[iv]。こうした放蕩・浪費・金欲へ向かう人間を戒める点で、16世紀前半の世俗的主題はドイツ語で「訓戒画」Warnungstafelnと名付けられ、純粋風俗画とは言い難いが、エラスムスと同時代の風刺精神にもとづく日常観察の賜物といえる。

 放蕩と宴の場面は、「放蕩息子」以外の宗教・神話的主題とも結びついた。一つは大洪水に至るノア以前の人類、あるいは最後の審判直前の生活と結びついて、罪深い生活の警告となり、神話的主題でも「神々の饗宴」「バッカス祭」「クピドとプシケーの結嬉」など飲みさわぐ酒宴の場面となった。16世紀末から17世紀はじめのオランダではこれらのタイトルが無差別に登場し、画題の区別が難解なものも少なくない。コルネリス・ファン・ハーレムの放蕩息子を思わせる作品も、背景にノアの箱舟が描かれたりすると、洪水前の人類の堕落が主題だとわかる[v]。そこでは放蕩息子と洪水前の放蕩とのエレメントが混ぜ合わされる。

 放蕩息子のように罪深い生活を後悔し回心する姿は、一方で世俗的な放蕩場面を下敷に新しい宗教画の誕生と結びついた。ヤン・ファン・ヘメッセンやマリヌス・ファン・レイメルスヴェールなどプロテスタント的傾向の強い画家たちは、聖書の再発見を目ざし新しい宗教画に挑んだ。それらは宗教画の体裁をもちつつも、表現内容から見れば日常生活より取材した風俗画といえるが、逆に見れは「宗教的内容を欠いた単なる風俗場面ではない[vi]」ということにもなる。ファン・ヘメッセンが放蕩息子に着目したのは罪人の回心という点であり、それは彼が同じ年に同じモデルで「マタイのお召し」を対比的に描いたことからもわかる。そこで問題なのは単なる酒場・賭博場での放蕩ではなく、マグダラのマリア、ペテロなどとも共通する改俊者の系譜である。

 「マタイのお召し」では、収税吏マタイの世俗生活がイエスのお召しを通じて浄化される。ファン・ヘメッセンの描く、お召しを受ける酒場のような雰囲気は、放蕩息子の回心と重なり、決定的瞬間として重要な意味を持つ。カラヴァジオが光と影のドラマとしてこの一瞬を描くのは半世紀のちのことだ。16世紀のフランドル地方では、聖マタイの収税吏の側面が強調され、ことにアントワープの商業都市としての発展は、収税吏、金貸し、両替商にささえられ、その批判的意味からマタイは「貪欲」(アヴァリティア)と結びついた。高利貸業により不等に富を蓄えたマタイの「貪欲」は、放蕩息子が快楽のため愚かに財産を浪費した「肉欲」(ルグジュリア)と対比をなす。

 こうした世俗的光景に、聖書のたとえを見る精神は、「聖」から「俗」へという風俗画の流れから見れば、「俗」の側から「聖」への巻き返し、あるいは反動とも受けとめられるが、それは当時の風俗画の全盛が、必ずしも宗教の終わりを意味しない証しでもある。宗教的宇宙観の大系的表現は日常生活のモラルへと視点を移したが、個人の生活のよりどころとして宗教的心情は根づいていた。


[i] E. Mâle, L'art religieux du XVIIe siècle, Paris, 1951, p. 6.

[ii] ミルチャ・エリアーデ「聖と俗―宗教的なるものの本質について」風間敏夫訳 法政大学出版局 一九六九年 三頁。

[iii] 大峯顕「聖と俗」新岩波講座哲学 一三巻 昭和六一年 二七八頁。

[iv] R. Grosshans, Maerten van Heemskerck, Berlin, 1980, Abb. 88 und S. 220. Exh. Cat., Johann Liss, Augsburg, 1975, A15 and p. 80.

[v] W. Stechow, Lusus Laetitiaeque Modus, Art Quarterly, 1972, p. 166 and Fig. 5.

[vi] G. A. H. Vlam, The Calling of Saint Matthew in Sixteeth-Century Flemish Painting, Art Bulletin, l977, p. 569.

第528回 2023年3月11

7 聖と俗

 子の回心と父の許しを通じて「聖」と「俗」の問題を考えさせる点で、「放蕩息子」は振幅の広いテーマであった。それが「かぶき者」と同じく固有名詞でないことは、人間だれもが放蕩息子でありえた。シリーズ表現されたものでも、聖書の記述を忠実に写したものより、当世風にアレンジされた放蕩者の一代記の方が目につく。カトリックとプロテスタントでは「自由意志」についてその解釈を異にしたが、ともに放蕩息子の視覚化には熱心であった[i]。そのうち版画作品が教化的役割で広がり、のちの画家たちにインスピレーションを与えた例も多い。マルチン・ファン・ヘムスケルクやコルネリス・アントニッツのシリーズはレンブラントに影響し、ジャック・カロのシリーズはスペインの画家ムリリョの油彩画や18世紀のホガースの連作版画にまで尾をひく。

 ホガースに至ると「放蕩息子」の表題をとるものの、「実際のロンドンで起こりうるような、あるいは起こった日常の事件を土台に、自ら創作した[ii]」感が強い。こうした放蕩息子の当世風変奏は、すでに16世紀前半のオランダで「ゾルヘロス物語」を生み出し、1541年にはコルネリス・アントニッツに帰される6枚の版画が出された。ゾルヘロスはここでは主人公の名前だが「心配ごとのない」という意味の形容詞で、父から遠く離れた若者がだらしなく女たちと飲みさわぎ、貧困の末に帰宅する点で、放蕩息子のたとえを下敷にしている。

 ゾルヘロスの概念は「陽気な、気楽な」という肯定的意味あいから、「気ままな、だらしない」という否定まで広い幅を持ったようで、それは遊宴を描いた人物群が示す雰囲気の幅でもあった。つまり放蕩息子がテーマか否かにかかわらず、「陽気な仲間」(フリュッヘ・ゲゼルシャフト)「だらしない仲間」(ロッケレ・ゲゼルシャフト)は併存し、それは日本語の「うき世」が内包する意味の幅に似ている[iii]。仏教的無常観に根ざす「憂世」意識は、表裏一体で憂世だからこそ現世を享楽すべきとする「浮世」観を包みこんでいる。「かぶき者」の主題とからめていえば、「憂世」意識から生まれた異端着かぶき者が、時代の閉塞状況を意識して、あえてお道化て浮かれるさまということか。ワトーの「雅宴画」(フェート・ギャラント)がもの悲しく映るのはそんな時である。この時「浮かれた」(ギャラン)というフランス語も「浮世」概念の延長上にある。「雅宴画」の野外での宴は中世の「愛の園」の宮廷的優雅さに結びつくのだろうが、ダヴィド・テニエルスはじめフランドル画家たちのワトーへの影響からみれば、これもまた16・17世紀の放蕩息子の変貌という脈絡の延長と見ることが可能である。彼らは喜びも悲しみも表現せず操り人形のように浮世を浮遊している。

 以上「かぶき者」と「放蕩息子」について、その類似性にのみ焦点をあてて見てきた。これらは絵画のモチーフにすぎないが、宗教芸術と世俗芸術という分類を考える場合、重要な意味をもつように思われる。例えば世俗画が成立するには、まず世俗的人物像が生まれていなければならない。その意味では「かぶき者」の誕生そのものが世俗画を促進したといってよい。それに対して「放蕩息子」の場合は、この宗教的人物像が崩壊する経過の中に世俗画の成立を認めることができる。しかし「かぶき者」も突如として生まれてきたわけでなく、何らかの宗教的人物像の変貌としてとらえられるかもしれない。「放蕩息子」を考える場合、その放蕩の度合いが強ければ強いほど、つまり卑俗であればあるほど「改悛」のインパクトは強く、その落差に明碓な「聖」と「俗」の対立が見えてくる。このことを考えると、「かぶき者」の見せる奇怪な行動様式は、禅宗に登場する寒山や蜆子和尚などの道釈人物の婆を引き継いだもの、つまり「俗」なるものこそ「聖」なるものという中世の禅的思考が「かぶき者」の出発点では色濃く残っていたことを思わせる。


[i] B. Haeger, The Prodigal Son in Sixteenth and Seventeenthcentury Netherlandish Art : Depictions of the Parable and the Evolution of a Catholic Image, Simiolus, 1986 , pp. 128-38.

[ii] 森洋子「ホガースの″描かれた道徳″」美学一三六号 昭和五九年 三二頁。

[iii] 橋本峰雄「『うき世』の思想」講談社現代新書 昭和五〇年。神保五彌「うき世の思想」講座日本思想 四巻 東京大学出版会 昭和五九年。