第11章 アニメーション

実写とアニメ/手塚治虫/アニミズム/クリエーター(創造主)/白雪姫の衝撃/無国籍性/短編アニメ/人形アニメ

第480回 2023年1月22

実写とアニメ

  写真が実写映画へと展開したとするなら、マンガはアニメーションに進化する。すべての出発点はディズニーにあったようで、ジャパニメーションとして今日日本の基幹産業にまで発展したきめ細かな作り込みは、「白雪姫」(1937)の滑らかな動きへの感動に起因している。しかし実写に対抗して膨大な時間と資金を投入する長編アニメよりも、短編作品にアニメーションのアートとしての可能性は開かれているかもしれない。

シュヴァンクマイエルをはじめとする東欧や、カナダ、オランダなど映画制作にとっては周辺に位置する諸国から、優れた映像作品が生まれている。ストーリーを追った文学性の排除という点からは、映画よりも映像という名にふさわしいものと言えるかもしれない。加えて商業アニメとアートアニメという二極化も明確になっていった。スタジオジブリの大衆性と同時に、川本喜八郎手塚治虫山村浩二加藤久仁生などアヌシーを舞台にした日本勢の短編アニメは注目に値する。

映像という点でいえば、アニメーションと実写の違いを明確にすることは重要だ。それぞれの特性を生かした表現が追究される。前回はアナログとデジタルという問題を扱った。デジタルでしか表現のできないものがあるが、デジタルの登場でアナログが廃れるわけではない。それぞれが自分の得意芸を生かした表現を見つけていく。両者がミックスされて作品化される場合もある。デジタルがアナログに歩み寄る姿は、時計の文字盤が証明した。見かけはアナログだが、内部はデジタルで出来上がっている。アニメーションなのに実写のような進化が起こる。

ロボット工学や医学では、逆に中身はアナログで、外側がデジタルという逆転劇が起こる。人間と人工知能や人工臓器のことを考えてしまう。老朽化した臓器は、移植手術によって、延命が永遠に近づいていく。すべてが置き換えられてしまうと人間はどうなるのか。意志で四肢や臓器は制御できるなら、それを制御するのは魂や心と呼ばれるものだろう。アニメーションとして石や無機物に命が吹き込まれたとする。そのときそれを制御するのは創造主(クリエイター)であるはずだが、作者の意志に反してアニメーションがひとり歩きしてしまうということはないのだろうか。

第481回 2023年1月23

手塚治虫

映画ではまだ圧倒的に実写のほうが多い。アニメーションは限られた少数派の領域だ。アニメーションが映画史のなかで抜きにできない状況が誕生した。マンガが芸術だというのと連携を果たす。テレビのコマーシャルひとつとっても、実写とアニメーションは区別なく間断なく流れている。アニメの特性を浮き上がらせ、歴史的な流れを見る。ここでは映像表現のなかでのアニメーションの立ち位置に注目していく。

美術館の展覧会でアニメーション作家やマンガ家が取り上げられはじめた。専門とする学芸員が育ちはじめてきたということだろう。いままでは個展をするといえば、絵画を中心とした巨匠に限られていた。美術館の企画としてアニメーターが取り上げられ、観客動員も果たされた。アニメーションの映画監督だけでなく、スタジオジブリなど企業名も表に出された。

きっかけになったのは東京国立近代美術館の企画した「手塚治虫展」(1990)だっただろうか。図録も充実した大掛かりな展覧会だった。マンガからアニメへというジャンル評価の出発点となった。そこに何を並べるかという課題はあった。絵本の場合と同様に原画をターゲットにする。映像の場合はそれに対応すると絵コンテということになり、映画そのものではない。美術館で美術鑑賞をするというこれまでのスタンスとは異なった。二次的な資料展にならざるを得ない側面があった。出版物であったり、映画館での鑑賞であったりしたわけで、美術館での鑑賞自体が再考されることになる。

その後の「高倉健展」(2016)などではダイジェスト版でかなりの映像展示をして見ごたえのある美術館企画だった。そこでは映画そのものの二次的資料としての作品の扱いをこえて、時系列に追うことで、東映を起点として、その後の俳優としての内面の葛藤を伝えることで、単なる作品鑑賞にとどまらない視点を提示した。東映で育てられ、その商業路線から離れて自立する姿に、誰もが拍手するが、フィルモグラフィーをトータルで見ると、圧倒的に東映時代が作品数を誇っている。日本のヌーヴェルバーグが大手の映画会社から起こったのと対応して考えることができる。大島、吉田、篠田という松竹を抜け出た3監督と同年齢だった。

アニメーションを考える場合、手塚治虫(1928-89)の名が出てきてマンガからアニメへと展開していったのはテレビアニメだった。大型のスクリーンで鑑賞する劇場よりも、ブラウン管で放送として家庭の茶の間に流された。アメリカではディズニーが劇場用の実写と対抗するようなアニメをつくりあげていく体制ができあがった。実写とアニメを比べたとき、コストと手間を考えるとどちらが容易だろうか。

アニメの出発点がパラパラ漫画だとすると、スムースな動きを見せるためには一秒間に24コマが必要になる。一分間のアニメーションをつくるのにどれだけの手間がかかるかということだ。少しずつ動かしながら同じ絵を描き続けるのは、書道に似ている。書道でもお手本にまねて何枚も同じ字を書いている。習字と名づけるが、山ほどたまった手習いを重ねてパラパラ漫画にすれば、最後にお手本に限りなく近づくアニメーションになるだろう。

一秒の100分の1を競う短距離走を見ながら、そこまでして優劣をつけないといけないのかと、オリンピックがはじまったころのおおらかな、参加に意義があったころを思い浮かべる。そこまでしなくてもという印象はともに共通している。役者に一分間演じてもらうのと比べてみれば、かかる手間のちがいは歴然としている。テレビの短時間の枠のなかでなら可能かもしれないと考えた。大型のスクリーンだと精密な絵を描かなければならない。手間を考えると道楽でやりはじめることはあっても、アニメーションをつくり続け、会社として成り立つとは思えない。ところがディズニーやスタジオジブリがおこない、みごとに成功した。後続はあるか、一世一代限りのことのようにみえる。

第482回 2023年1月24

アニミズム

それではどうしてアニメーションに夢中になったのだろうか。ディズニーにしてしかり、日本でアニメーションに取りつかれ、のめり込んでいったのは、東映の社長である大川博(1896-1971)だった。東映動画(1956)を立ち上げる。東映は実写映画の制作会社として実績を重ね、スクリーンのエンディングロールでいつも目にした氏名だった。テレビ時代を見据えてアニメーション会社を起業するが、出発はディズニー作品に魅せられたからだった。ディズニー映画が日本に入って、最初に大ヒットしたのが「白雪姫」だった。子ども向きのものだと考えられていたが、映画制作のプロを魅了したということだ。子どものころからマンガが好きでその延長でのアニメというのではなくて、今まで実写映画の世界でプロとして仕事をこなしてきた目にもアピールするものだった。その理由は何だったのか。東映はその後、任侠映画に転身しても、夏休みの子ども向けのマンガやアニメ劇場は続いており、親は複雑な思いで映画館に足を運んだ。

アニメーションという語のもつ語源が、パワーの原点としてあるのだと思う。アニメーションからアニマルという、動物を意味する語が派生する。生命の源流につながる語だ。命を吹き込むという言い方がある。息を吹き込むようにして生命が宿っていく。日本のみならず世界の宗教の原点、あるいは宗教になる直前の状態をアニミズムという。日本ではすべての自然物に神が宿っている。多神教であり自然物への信仰が神道には残っている。今日の日本のアニメの隆盛は太古からある民族の血に由来するようにさえみえる。西洋のキリスト教世界とは異なった、はるかに原始的な、石にまで生命が宿り、動かないものまで動きはじめる世界を見定めている。

アニミズムとは動かないものが動き出すことだ。動かないものは何か。動物はもともと動くものだ。貝殻や石が動き出す。動かないものが動きはじめた場合、動いたようにみえるという判断をくだす。心霊現象という受動だけでなく、動かして見せるという一念のもつパワーを念力という。神がかりの出発点となるものだ。土俗的なパワーと結びつくと考えると、東映のアニメからヤクザ映画への展開も理解できるものとなる。

第483回 2023年1月25

クリエーター(創造主)

キリスト教の出発はキリストが病気を治し、死者を生き返らせることだった。教祖は動かないものを動かして見せた。それがアニメーションで、失われていた命を吹き込んだ。でくのぼうに命を吹き込むと、たとえば人形劇になる。人形浄瑠璃という日本の芸能は、木切れに命を吹き込んだとたんに、奇跡の美女にも変身する。上から糸で操ったり、なかに入って手で動かしたりするのだが、その技をもった人はキリストのような存在となる。奇蹟に近いような行為となる。

ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に描いたアダムの誕生は、まさに命が吹き込まれる瞬間を描き出している。天地創造であると同時に、ミケランジェロ自身のクリエーターとしての芸術家の表明でもあった。土や石に命を吹き込むことが彫刻家のステータスとなった。

クリエーターという語が盛んに用いられる。クリエイト(創造)できるのは神しかいない。世界をつくった「創造主」をクリエーターといってきた。何もない無から有を創り上げていくことだ。人間はクリエーターにはなり得ない。つくる者ではなくてつくられた者をさす語だ。本当はアレンジャーなのだろうが、ことに映像分野では映像クリエーターという語を使うようになった。命を吹き込むだけではなくて人となりまでつくってしまう。神を恐れぬ行為かもしれない。実写の場合は俳優を通じて作者や監督の思いが伝えられる。アニメーションは一から自分で全く自由に創造できる。そこが実写とはちがう大きな特徴だろう。

それが動物のかたちの場合もあるし、貝殻に手足が生えてもいい。ディズニーの最初のアニメは樹木だった。樹木が手足を伸ばして歩いていた。ふつうの画家はクリエーターとは言わない。ゲームクリエーターということになれば、新しくそこで神が誕生したということだ。それはアニメーターと近い立ち位置にあるということだろう。

神の仕事とみなされた創造も、出産という営みを考えれば、原点はそこにある。ただの肉の塊に命を吹き込むということでは、女性はアニメーションの仕事をしている。生まれた子どもは、容姿に関わらず動くだけで十分だ。なかには死んで生まれてくる子どももいるだろう。まずは泣き声とともに動き出す不思議を体験する。妊娠をしてすでに胎内で動きはじめた生命を、見るというよりも体感するところから、アニメーションの感動ははじまっていく。母性的なものであり、人類の原点に位置づけられるものだろう。

ただアニメと出産がちがうのは、子は思うようには育たないという点だ。しかし自立ということから言えば、いつまでも親の思い通りにはならないことが、人類を進化させてもきた。もちろん子を見ていて進化とは思えないことも多い。ロボットが誤作動を起こし出すパニック映画が登場するのも、こうした思考を下敷きにしてのことだっただろう。

第484回 2023年1月26

白雪姫の衝撃

日本では東映アニメが出発点で1958年のことだ。第一作が「白蛇伝」で、ディズニーアニメ「白雪姫」の衝撃からの誕生だった。白雪姫は現代のアニメと比べても遜色はない。動きひとつとってもそれだけで魅了される。こびとや動物がそれぞれの動きをする。ヒトはヒトの動き、ウサギはウサギの動きをする。これを1秒24コマに分析してつくるとなると、とんでもないことのように思われる。奇蹟的に命が吹き込まれたとしか言いようがない。同じ画面のなかで一個の動物だけが動くわけではない。それぞれが別個の動きをしながら、なおかつリスはリスのように動いている。リスに目を止めるだけではない。他の動物に目を移して何度も繰り返してみてみる。最後には全体で大掛かりなオーケストラになっている。コーラスをする場面もよく出てくる。オーケストラのコンダクターの役割を、監督は担うことになる。

ディズニーは楽器演奏家よりも指揮者になりたがっていたひとだ。その延長上にディズニーランドも成立する。コンテンツにこだわってよりいいものをつくるというよりも、どう見せるかという仕掛けづくりへと向かうエンターテイナーだった。劇場からテレビ、そして遊園地、アミューズメントパークへと夢を広げていく。アニメにものたりなくて遊園地をつくる。手に触れる確実なものを求めたということだ。動産から不動産への指向性の変化とみると、ユダヤ思想に対立する、定住への帰結ともとれる。ハールバックの「大地」を読むと、土地がどんなに頼りになるものかがよくわかる。ただし第一巻のみでそれ以降は、社会主義の浸透からその安住は崩壊してしまう。

アーティストとしてディズニーの名をあげるよりも、起業家として大きく展望することが必要だろう。個人名ではなくディズニーという企業名を母体に、ピクサーなどの制作会社がしのぎを削る。大川博はこうした文化の担い手を夢見ていた。東映という指折りの映画会社が手がけただけに威力をもった。この安定した職場からアニメーション作家が続出し、独立してプロダクションを設立する。東映が日本のアニメの起点になったのは、松竹ヌーヴェルバーグから日本映画の革新がはたされたのに対応させることができるだろう。

第485回 2023年1月27

無国籍性

ジャパニメーションという語がある。世界的に通用する作家が続出していったことを意味する語である。日本のアニメを考えた場合、劇場用の長編と短編のショートフィルムがある。劇場用は短くて一時間半、長い場合は三時間も続くものはなく、二時間少しというのが基準か。大友克洋(1954-)の「アキラ」(1988)は日本のアニメが世界的に高く評価された時代を代表する。その後「千と千尋の神隠し」(2001)やその前の「もののけ姫」(1997)は題材が日本的でフォークロアな因習を下敷きに制作された。「アキラ」でも宮崎アニメの初期のものにしても、無国籍的なのが特徴だ。

無国籍はアニメを考えるときの強力な武器となる。どこの国かわからないという設定は、やがて土俗的なものを加味するようになり、背景や小道具がはっきりとした国籍をもったものに変わっていく。無国籍性はインターナショナルだということだ。実写の映画は国名を付加して映画を特徴づけることができる。フランス映画や日本映画という分類が可能だ。アニメーションに関しては、ジャパニメーションという言いかたはあるが、各国が自前の特徴をもったアニメーションをつくっているわけではない。ディズニーアニメはアメリカで制作されてはいるが、アメリカアニメとは言わない。「アルプスの少女ハイジ」(1974)はだれも日本人のつくったアニメとは思わなかった。

アニメーションはことばを介さない。何をしゃべっているかがわからない口の動きを示す。フランス語にもなるし、日本語にもなる。実写の場合はアフレコ、クチパクとなる。少し動きが異なると違いが目立つ。アニメでは原作ということはあるが、何語でも対応可能だ。世界中どこにでも広がっていく素地をもっている。今日的な目で考えれば、耳の不自由な者にとって、アニメは唇を読むことはできない。その点では、小津安二郎の映画と対比をなしている。小津映画に特徴的な、真正面から口もとを大きくとらえた撮影術は、耳の不自由な身障者が唇を読むには心優しい試みだった。

同時に作られたキャラクターのことがある。キャラという語がある。実写の場合は俳優はキャストだが、キャラクターという語で置き換えられるようになった。俳優が演じているのではなくて、クリエーターがつくりあげたものだ。人格をもった人ということだ。個性(パーソナリティ)をもったものだが、特徴は年を取らない点にある。鉄腕アトムもサザエさんも年を取らない。ロボットの場合、年を取らないのは当たり前だ。役者ではできない。コマーシャルに使われると、何年も前のものが今も使われる。役者だと何年もたてば使いものにはならない。子役を使っていてヒットした商品の場合、あとは続かない。ドラえもんがでてくるコマーシャルは何十年後もそのまま使うことができる。俳優の場合、事件を起こしたりするとその場でCMから降ろされてしまう。年を取らないことと不祥事を起こさないことは、アニメのキャラクターの特徴をなす。作者が不祥事を起こしたとき、アニメのキャラクターはCMから降ろされるだろうか。これに対して社会がどんな反応を示すかは興味深い。子が不祥事を起こしたとき、親が責任をとるか。あるいは親が不祥事を起こしたとき、子が社会的制裁を受けるかという問題に近い。どれだけ社会が成熟しているかを知るバロメータとなるにちがいない。

第486回 2023年1月28

短編アニメ

 長編アニメがエンターテイメントだとすると、短編アニメはアート系に向かう。千と千尋でアカデミー賞を獲得したが、アート系としても認められたということだ。アカデミー賞は短編から出発した。アメリカのオスカーははじめは実写だけだったが、アニメが加わり短編だけだったのが、長編部門ができた。今は二本立てだが短編と長編の区切りは難しい。短編は20分くらいまでか。そのなかで日本のアニメーション作家が活躍している。長編でアニメ好きの子どもが育ち、個人的な制作に入っていく。

短編アニメの原点はどこにあるか。アメリカは長編に特化して企業としてまわしていく。短編の土壌は旧社会主義の地域に広がりをみせた。チェコやポーランドの名があがる。大国ではなくて周辺諸国から短編アニメの秀作が誕生する。研ぎ澄まされたアート系の作品群である。首をひねるような難解なものも含めて、子ども向けとは思えないものを生み出している。

短編部門で話題になる語はアヌシーという語だ。国際アニメフェスティヴァルを開催する地名である。一年のうちでは一番早く、アヌシーで評価されてグランプリを取ると、そのあとに続く賞も獲得するというジンクスがある。アヌシーのあと広島のアニメフェスティヴァルがあり、最後のアカデミー賞が来る。この三つを制覇するというパターンが定着している。アヌシーや広島では大した話題にならないが、アカデミー賞を取ると一躍有名になる。部門は異なるが一般部門の名だたる監督や俳優と同列に並ぶことになる。ローザンヌバレエやフィギュアスケートとともに日本の誇る活躍の場となった。もともとは日本のものではない。年輪は東映アニメや手塚治虫など先駆者が支えてきた。

加藤久仁生の「つみきのいえ」(2008)も一躍ときの人となった一作だった。10分ほどの時間に人生の悲哀が凝縮されている。短いけれども永遠を感じさせる。セリフはない。日本人だからことばがあってもわかるが、インターナショナルな身振り言語が共有する優しさを演出している。どこの世界かもわからないが、イタリアのヴェネツィアを思わせる。地球の温暖化で水位が上昇し続けている。それによって水没していく町の話である。

チェコの短編アニメは一目置く必要がある。ヤン・シュヴァンクマイエル(1934-)の名は外せない。香り豊かな芸術性をにじませる。シュルレアリスムに分類できるが、ダリの絵を見るような驚きを基本形とする。アニメも芸術的追究をしていくと多様性に気づく。ふつうは紙の上に描いた絵が動いていく。マンガの延長としてみるが、今ではアニメの一分野に過ぎない。

第487回 2023年1月29

人形アニメ

人形アニメがある。クレイアニメがある。人形を動かして実写で撮るのと同じではないか。たとえば文楽の公演を実写で写す。人形アニメではパラパラ漫画のようにして、一秒間に24コマ取ったなら、静止画の連続だが動画で見える。何ら変わらないようにみえる。人形を使う必要がどこまであるのかという疑問も出てくるが、人形を使ったアニメの秀作はある。シュヴァンクマイエルもそうだが、日本では川本喜八郎(1925-2010)が輝いている。

道成寺」(1976)という秀作がある。人形の表情がアップで出てくるが、人形そのものを実写しているのと変わらない。人形アニメといいながら人形を作ることが出発となる。クレイアニメなら土をこねて生命体をつくる。土を少しずつ手を加えながら写し続ける。彫刻家のメーキングヴィデオに見え出してもくる。ちがうのは完成に至るまでの一部始終を写し出していることで、最終が完成ではないという点が彫刻とは大きく異なる。究極のところでは彫刻と大差はない。ミケランジェロは石に命を吹き込んだが、彫刻は動くことはなかった。500年後に生まれていたら、このルネサンスの巨匠は人形に命を吹き込むアニメーションに手を染めていただろう。

文楽を人形アニメとして映像化することで、文楽の魅力は爆発的なものとなるはずだ。舞台では顔を隠した黒子は不自然だし、人形づかいはもっと隠れるべきだろう。舞台はいわばメーキングであって、舞台裏はそれなりに人形づかいの手技のみごとさに感嘆はする。しかし観客はもっと人形そのものの表情をアップで見たいし、所作の細やかさに目をそそぎたいはずだ。

これをさらに展開していくと人間アニメもありうる。人間を少しずつ動かして写し出す。ここでは人間自体が自発的に動くのではないという点が重要だ。シュヴァンクマイエルのもこのかたちの作品がある。ズビグニュー・リプチンスキー(1949-)の「タンゴ」(1980)も人間アニメの結実だろう。ジャンルは異なっていてもねらいは同一だというものがある。

どんどんとバーチャルリアルが加速化していくと、最後にはフルCGアニメが登場する。今まで見たこともないような登場人物があらわれる。どこの誰でもないようなアニメのキャラクターが動きはじめる。その登場人物に魅せられてファンになる。アニメの主人公に恋をする。フルCGではそこに生きているかのように思い込んでしまう。ピグマリオン現象といってもよい。つくられた彫刻に恋をする話だ。ロボット化すれば犬が尾を振りながら反応するだけでリアリティをもってばバーチャル化を受け入れる。一方でロボットにリアリティが行き過ぎると、「不気味な谷」という現象も起こってくる。人間が種のアイデンティティを保持するための拒否反応とみられている。子どもやペットだけでなく、老人アニメというのも出てくるかもしれない。思うように身体が動かなくなったロボットアニメとみえるかもしれない。「つみきのいえ」は老人アニメ特有のいい味を出していた。

しかし人間アニメも考えてみると実写映画のことだったのではないかと思ってくる。銀幕のスターに恋をするということはよくある。この場合の女優は生身の人間ではない。それが往年の大スターだとすれば、百年前の女性と今出会っていると思うだけで、映画という魔法が奇跡に見え出してくる。


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