ストラスブール美術館展 印象派からモダンアートへの眺望

姫路市立美術館

2019年11月12日~2020年01月26日


20/01/08

 印象派のビックネームよりもストラスブールの地元の作家が紹介され、新鮮な絵画史の多様性を教えてくれた。なかでもロタール・フォン・ゼーバッハ(Lothar von Seebach,1853-1930)がいい。実験的な前衛性をよしとするモダニズムの嵐が過ぎ去ると、落ち着いた詩情あふれる風景の地域性に目が向いていく。パリやニューヨークを起点とする美術史の教科書は、崩壊しても構わないと思う。

 〇〇美術館展というのは最も魅力のない展覧会にちがいないが、観客動員という点からは、安上がりで安直なものとして、これまで頻繁に開催されてきた。ロシアの美術館からも印象派展の名で、繰り返し企画が組まれている。もちろん印象派のフランス人画家が中心になるが、ついでに混じってきたロシア人画家が話題をさらうことも少なくない。一般的にはビックネームだけでは点数が足らず。地元作家を加えたということになる。観客は名の売れた二流作品を好むのでしかたがないが、要は一流画家の二流作品と、二流画家の一流作品となら、どちらが鑑賞に値するかという選択だ。その前にそもそも一流や二流という価値基準はどこにあるかという根本問題が横たわっている。

 たとえば日本の近代美術館が、海外向けに印象派展を企画したとする。マネやモネやゴッホだけでは足りないので、黒田清輝や青木繁を混ぜたと考えればわかりやすい。青木繁の超一流の名作が加われば、モネの凡庸な作例は上回るはずである。青木繁の名はインターナショナルとは言えないが、世界に向けてデビューするきっかけにはなるだろう。そうすれば〇〇美術館展をそう悪くも言えないことになる。それは印象派展としないと見にこない観客側の問題でもあって、私もロシア人や東欧の画家ばかりじゃないかと、不満を感じた印象派展を、これまで見てきた。たぶん初めて聞く画家の名をスルーしていたのだと思う。画家名でなく作品そのものと向き合っていなかった証拠だ。

 印象派の美術史上の偉大さは確かにわかるが、見慣れると別の美のカテゴリーに目が向かうことになる。それが今回の場合で言えばルーマニアのヴィクトール・ブラウナー(Victor Brauner 1903-66)や地元ストラスブールのゼーバッハだった。しかもおもしろいことに、ゼーバッハという名は、どう見てもドイツ人の名である。つまりアルザス・ロレーヌというこの地域のもつ特殊性が加わってくる。町の名も綴りを見ていると、ドイツ語式にシュトラスブルクと読んでしまいたくなる。フランスとドイツの国境線で、今はたまたまフランス領になっているという認識でよいだろう。日本の場合で言えば、北方四島や沖縄のことを思い浮かべると、現実味が増す。

 ストラスブールは魅力的な町だ。何度も訪れたわけではないが、大聖堂の黄金色の輝きが目に焼き付いている。ゼーバッハも大聖堂のある街並みをさまざまに描いている。ケルンの大聖堂が黒い岩の塊が迫ってくるようだったのと対照的だが、ともにドイツの風格を備えていて、シャルトルやランスのようにフランス的ではないような気がする。同じようにドイツルネサンスの画家グリューネヴァルトの代表作を見るのにフランスのコルマールという町に行ったことがあるが、実にドイツ的なたたずまいの街並みだった記憶がある。


by Masaaki Kambara