第1節 内なる西洋

第530回 2023年3月13

1 横浜-環境としての西洋

 清見陸郎は天心にとっての横浜の重要性に触れて、次のように言っている。

 「少なくとも天心が横浜ではなしに越前福井を生れ故郷としていたならば、その幼年時代において彼を育成したところの雰囲気は、あのような特異なものではなかったろうし、さすれば彼の人生行路もより平凡なものになったかも知れない[i]」。

 天心の父である岡倉覚右衛門(勘右衛門)は、三十余歳で福井藩主松平春嶽の命を受けて藩籍を離脱して横浜に移り、石川屋善右衛門と名乗って商人となる。天心が生まれたのは横浜に移ってからであるが、福井から呼び寄せられた乳母つね女の語る橋本左内の話などを通じて、郷里である福井を意識するようになった。幼年期の天心にとって、乳母つね女と橋本左内の存在は大きく、後の天心の行動を決定した感もある。彫刻家雨田光平によれば「先生は福井には親しみがなかったかも知れない。併し橋本左内やつね女への思慕の情は永遠の姿で、新たなる理想境を心の中に築いて居たことは確実である[ii]」。

 5歳の頃、天心は春嶽公のもとに預けられ、公より短刀を賜わったという話も伝えられているが、父親覚右衛門の藩士としての地位はそれほど高いものではなかったようで、約半数の福井藩士の名を記した「慶永公御代給帳」(1852年)には、岡倉姓を名乗るものは見当たらない[iii]。このことは福井市近郊の西超勝寺に残される岡倉家の墓からも察せられる。墓は三基あり、その内立派なものは明治23年以降に建てられたもので、それは覚右衛門の商人としての成功及び天心の東京美術学校長としての地位に由来したものと考えられる。つまり、それ以前の小さな墓が大きく建てかえられる推移からも、それまでの岡倉家の規模も逆に推察できる[iv]

 ところで明治初年の横浜という特殊な環境は、英語は読めても日本の手紙が読めないという奇妙な少年たちを生んでいた。福沢諭吉は慶應義塾でもっぱら英学をすすめ、漢学には重きを置かないので、塾生の中には漢書を読めないものが随分いると書いているが、これが明治初年の基本的な動向でもあった[v]。天心もまたそうした少年の一人だったようで、7・8歳頃からジョン・バラーについて英語の基礎教育を受けており、国字教育を受ける前に英字の初歩を体得したということは興味深い。学校に通いはじめて間もない頃、「父に伴われた彼が、川崎大師に参詣した際、東京府と神奈川県界に立つ標示杭を示され、読んでみろといわれたが、その一字をも解することができなかった[vi]」という。

 天心が漢籍を学ぶのは明治4年、10歳の頃からである。父覚右衛門が大野しずと三度目の結婚をした折りに、天心は長延寺に預けられ、住職の玄導和尚よりこれを学び、外典の大学から論語、中庸、孟子へと進めていった。東京大学在学中16歳から18歳までに創作した「三匝堂詩草」という漢詩集が残されているが、当時の詩作については三宅雪嶺によれば、「私は大学の寄宿舎に在った当時、紙といわず板といわず、白いものを見つけると、必ず絵を措いていた。然るに、岡倉君はこれと反対に、暇さえあれば古詩を詠み散らしていたようである。絵ばかり措いていた私が、文章に始終することとなり、詩ばかり作っていた岡倉君が美術に携わろうとは全く思いがけぬことであった[vii]」という。東京大学在学中、漢詩は森春涛に、琴曲は加藤有隣に、さらに入学以前から女流南画家奥原晴湖にもついていた。

 南画をはじめる事情については弟岡倉由三郎によれば「16歳の少年として、日本画の修業を自ら思いたち、是非とも師事したいと父にせがんで弟子入りしたのが、誰あろう土佐派、狩野派、四条派など、在り来りの画風の師匠ではなく、当時下谷の御徒町に画塾を開いて、詩にも書にも長じていた、南宗画の閏秀画家、奥原晴湖その人であった[viii]」という。天心がその後フェノロサとともに文人画(南画)を排斥することになるのを考えれば、このことは興味深い。

 この時期、男子も及ばぬ健筆をふるったこの女流画家の活躍は知られ、木戸公に引立てられたこともあって、争って晴湖に師事する役人が見られたという。政界の要人たちとの派手な交際は、自己の宣伝のみならず、様々な話題を提供したようで「職業画人としての優れた経営手腕[ix]」も認められる。しかし明治16・7年には晴湖は熊谷に隠退しており、それは伝統絵画復興の新気運が高まってきたことを意味する。

 ここで天心が当時の役人たちと同様の思考をしたことは重要で、このことは彼が在学中に上記の詩作等の趣味に徹したとはいえ、卒業論文に「国家論」を選んだということとも通底する。岡倉一雄の『父天心』の中には、天心の言葉として極めて比喩的な言い回しがあげられている。

 「あれは全くママさんの焼餅が崇ったのだ。おいらは、折角二月かかって書き上げた『国家論』を焼かれてしまったから、己むを得ず二週間で『美術論』をでっち上げた。その結果は尻から二番目、而も一生この『美術論』が崇って、こんな人間になってしまったのだ[x]」。

 二カ月、二週間、二番目、一生という数字の押韻もさることながら、ここでは以後の天心がエリート官僚をはずれて、アウトサイダーとして生きる予感にみちた意志表示さえも読みとれる。そしてそのアウトサイダーとしての生き方を演出したものが「英語」であり、その時に偶然出くわしたのがフェノロサということになる。その意味では天心は、いわば「通訳から身をおこした男」といってもよい。「美術」はこの場合、「でっち上げられたもの」であり、天心がアウトサイダーになるための方便であった。のちに天心は学生時代フェノロサの手伝いをしたことを次のように語った。

 「元来日本の書物はちっとも読めぬ故、私に種々の書物を調べて呉れと頼まれて、能く使はれたものだ、其時はまだ書生であったから、夏蝿と思った事もある。やれ探幽の経歴を調べて呉れの、四条派の沿革を精査して呉れのと、使われたものだ。有賀君なども矢張り其中の一人で、時折洋食位の御馳走にありついた[xi]」。

 ここにはフエノロサヘの批判に加えて、天心の英語力に対する自負も見え隠れする。若き東京美術学校長時代、美術をバネにして将来は文部大臣になろうと考えていた天心の野心は、美術を利用するはずのものが、やがて美術に利用されることになってしまう。当時岡倉家の書生であった早崎梗吉は、天心の机上のメモを見ている。それは「四十歳に九鬼内閣の文部大臣となる、五十にして貨殖に志す、五十五にして寂す」という生涯の予定表だった。この点でフェノロサは天心への火付け役を果たすわけだが、両者の歩調の食い違いはその後徐々に明らかになっていったようだ。


[i] 清見陸郎『天心岡倉覚三』(昭和二〇年)中央公論美術出版 昭和五五年 八頁。

[ii] 雨田光平「天心先生と故郷」文協第二号(福井)岡倉天心特集 一九五一年 四頁。彫刻家雨田光平は、一万で琴の名手としても知られる。明治四四年東京美術学校彫刻科に進み、大正九年からはハープと彫刻の研究のため一〇年間欧米に滞在した。明治期の洋楽の影響の強い時代に、伝統のわく内で新様式の楽曲をめざした京極流の鈴木鼓村に学び、その筝曲を持ってハープ研究に渡欧する精神は、天心が終始求めていた世界観と一致する。天心が同郷であることを知らず、正木校長から言われて赤面したことを同誌の座談会で語っている(一七頁)。

[iii] 青木茂「岡倉覚三と横浜」神奈川県美術風土記・幕末明治捨遺篇 昭和四九年 七頁。

[iv] 清水英夫「岡倉家の墓について」福井県立美術館・美術館だより6 昭和五四年 二-六頁(のち茨城大学五浦美術文化研究所報第9号に再録)。

[v] 福沢諭吉『福翁自伝』(明治三二年) 岩波文庫 昭和二九年一九七頁。

[vi] 岡倉一雄『父岡倉天心』中央公論社 昭和四六年一二頁。

[vii] 同書一七頁。

[viii] 清見陸郎 前掲書 三一頁 参照。

[ix] 山内長三『日本南画史』璃瑠書房 昭和五六年 四〇六頁。尚、森慶造『近代名匠談』春陽堂 明治三三年 所収の「狩野芳崖」では「この頃は実に小児の徒ら書の如き奥原晴湖女史の画が世に珍とせられたる時なりき」(一一頁)とある。

[x] 岡倉一雄 前掲書 二四頁。

[xi] 「日本美術界の恩人・故フエノロサ君」太陽 明治四一年一一月号(岡倉天心全集3 平凡社 昭和五四年 三二七頁)。

第531回 2023年3月14

2 フェノロサ

 小山正太郎は、フェノロサと天心が性格的に似通っていたとして、「有賀博士の如きは、最も多く且つ熱心にフェノロサの通訳の努々取られて、岡倉君よりも、よりよくフェノロサに親奥してゐられたわけだけれども、其後のやり口は全く異なってゐる、畢竟両君の性質が異るからであろう[i]」と言っている。しかし、一般的には「思弁的学究的なフェノロサ、直感的天才的な天心[ii]」という資質の違いに加えて、両者は東西文化の交流についても「一はその未来の融合、他は永遠の相剋[iii]」という結論の違いを引き出してゆく。それは確かに天心の場合、活動家としての挫折ののちの嘆息に違いないが、実際には東西両洋に引き裂かれて育った自己を奮い立たせる唯一の命題でもあった。

 フェノロサは、明治41年、死の直前に自己の東西融合論を証拠づけるアラスカの牙彫刻を発見した。それはアメリカと東洋を結ぶ環太平洋構想という、いわば楽天的な広大な夢想の、遅すぎる出発点であった。一方この二年前天心は『茶の本』の中で「いつになったら西洋は東洋を理解するだろうか。理解しようとするだろうか[iv]」と嘆いた。

 こうした両者の思考の違いはまた、もっと穿った見方をすれば、その死の姿に反映してしまったと思えなくもない。互いに東西を駆け巡りフェノロサは55歳でロンドンに客死、天心は日本に戻り赤倉山荘にて52歳で没ということだが、前者が不慮の事故のように急に襲ってくる狭心症の発作によったのに対して、後者は徐々に進行してゆく慢性的疾患によって、いわば死に場所を選び得たし、言いかえれば『茶の本』の末尾で利休の壮絶な死を描写して以来、「遺言の練習[v]」さえ繰り返しもした。確かにフェノロサの客死は、発作により故国にたどり着けなかったものでもあるが、彼がアメリカに生まれた時から、すでに移民の子であったという故国の喪失感にも由来している。フェノロサは13歳の時に母を失い、その後十年余りして父も変死している。一方天心が日本に戻り、病を押して死に場所を「赤倉」山中に定めたことは、彼の挫折感がもはや「五浦」の地のように海に臨んでアメリカに向かうことを否定した表われでもあり、隠遁の場に思いをはせる老荘思想に根づくようにも思える。

 しかし、こうした両者の妙に符合しあう対比も、共に彼らがアウトサイダーとしての道を歩んだという点では、大差のないことかもしれない。フェノロサはハーバード大学哲学科で最優秀の成績を修めながら、スペイン移民の子であるがゆえに就職口を閉ざされ、日本に釆ざるを得なかった。その意味では哲学徒としては「ドイツに留学しそこねた男」として、彼の出発点を位置づけることもできる。河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』に天心をあげて、「自分のヴイジョン幻想を追う人」とアウトサイダーを定義づけ、「美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自らの筆をとることなく、プロデユーサーの形で行われた[vi]」というが、同様にこの点ではフェノロサもまたアウトサイダーに違いない。

 木下長宏氏の記述を借りれば「ゴールドラッシュの嵐が吹きまくり、乾いた物質欲がほのかな精神の正義をも踏み躙っていく時代」に、フェノロサが「こういうアメリカの文化情況からどんな疎外感をもって生国を離れようとしたか、それは一切ことばにしなくとも、おそらく異国の文化へかかわろうとする熱意の程度が物語る[vii]」と見てよい。さらに木下氏は、こうしたフェノロサの背後にある孤独が天心の人格形成期の原体験と触れあう条件となったと考える。

 フェノロサが「お雇い外国人」として、幾ら高給を取ったとしても、日本政府で高官のポストを得ることができなかったと同じように、天心もまた薩長の藩閥からはずれた福井藩という「維新の飛沫を浴びて翻弄される環境[viii]」にあったという点では、やはり異端者であって、それゆえに両者にとって美術は無償の世界でしかありえなかった。というよりも「美術が無償の世界である」ということによって、アウトサイダーを自認しえたという方がよい。そして、その場合に彼らが、没落した狩野派にあっても、長州出身である芳崖に目をつけたということは興味深い。

 いずれにせよ、工部美術学校の廃止によって、美術はその無償性を獲得したが、それは逆に「美術に対する国家理性の関心が低下した[ix]」ということでもあって、そこには工部省から予算も発言力も少ない文部省への移行という構造が下敷きにされている。このことは、工部美術学校と東京美術学校の教師の給与の差にも、明白に現れている。明治10年前後、工部美術学校教師は年俸3300余円であったのに対し、明治22年に東京美術学校では、例えば高くて橋本雅邦の700円、高村光雲は年給500円しか支給されていない[x]

 天心が美術学校創設のためにフエノロサとともに欧州を視察した時には、名目上は少なくとも純粋美術よりも産業美術に多くの目がそそがれていたようであり、現存する「欧州視察日誌」を見る限りでも、忠実にその職務を果たそうとするエリート官僚の姿が浮んでくる。しかし一方で旅行中、ギルダー夫人にあてたウィーンからの手紙(明治20年3月23日付)には、西洋美術が「その形でというより、その精神において」次第に自分を圧倒するようになってきたと語っており、多少は儀礼的な美辞麗句とはいえ、西洋が天心の中で確認されてゆく経緯を読みとることもできる。同じ文面で天心は東西の美術の対比を「欧州の美術は具体的自然に自らを結晶化するのに対し、私たちは形体の抽象のなかを漂っています。前者は岩や山の如きものであり、後者は風や水の如くさすらいます[xi]」と書いた。それは東西を結ぶ第三の道を模索する、フェノロサに学んだヘーゲリアンの思考のように見える。


[i] 梅沢和軒『芳崖と雅邦』純正美術社 大正九年 三六五頁。

[ii] 原田実「岡倉天心の『日本美術史』 について」東京国立博物館紀要 一五号 昭和五五年 三〇八頁。

[iii] 山本正男「岡倉天心の美学思想」岡倉天心と日本美術展図録(福井県立美術館)一九八一年 九貢。

[iv] 『茶の本』桶谷秀昭訳 岡倉天心全集1平凡社 昭和五五年 二六八頁。

[v] 木下長宏『岡倉天心-事業の背理』紀伊国屋新書 一九七三年 七七頁。

[vi] 河上徹太郎『日本のアウトサイダー』新潮文庫 昭和四〇年 一四八頁。

[vii] 木下長宏 前掲書 七五貢。

[viii] 丸山真男「諭吉・天心・鑑三」 昭和三三年(橋川文三編『岡倉天心-人と思想』平凡社 昭和五七年一五九頁)。著者は、福沢が豊前中津藩、内村が上州高崎藩、天心が越前福井藩という薩長系からはずれた徳川家家門や譜代の藩士であった点に注目して、三者がともに大阪・江戸・横浜という開国の衝撃の強い都市に育ち、英語力を身につけたことに共通性を見ている。

[ix] 殺田量「日本美術教育史の再検討-美術教育の内容と形式」美術教育学 第5号 一九八三 三頁。

[x] 栗原信一『フエノロサと明治文化』六芸書房 昭和四三年 四二三頁 参照。

[xi] 岡倉天心全集6 (平凡社)昭和五五年 二三頁。

第532回 2023年3月15

3 欧州視察-西洋からの出発

 18歳で大学を卒業後、文部省に務め、本格的にフェノロサの通訳として古美術調査に従って以来、天心は欧化主義を排して日本の伝統絵画を保存しようとするフェノロサと歩調を合わせることになる。その間、書が芸術かどうか、さらには図画教育調査会で普通教育に毛筆を採用するか鉛筆画を用いるかで、洋画家小山正太郎と論争を展開したが、時代の流れは国粋化の方向をたどり、フェノロサと天心の主張は受け入れられることになる。しかし、この時点で両者はともにヨーロッパを知らない。とにかく欧米を自分の目で見ることが必要と考えた首相伊藤博文及び文相森有礼は、美術取調委員としてこの二人を明治19年10月より、約9カ月間欧米視察の旅に出す。この時フェノロサにとっても、自己の果たしえなかったドイツ留学にかわるものを、日本政府が果たしてくれることになる。西洋を見る必要さという点では、洋画家の小山正太郎の方が急務であったはずだが、あえて国粋を主張する二人に視察を命じた点に、すでに「文部当局の方針が大体において決定していた[i]」とも読みとれる。この時、天心24歳、フエノロサ33歳、そして小山30歳であった。

 天心の書いたこの時の日誌で現存するのは、明治20年3月2日から8月7日までの一冊で、全期間にわたるものではない。同年の2月頃には恐らくパリにいて、ルーヴル美術館を素通りして、西洋美術に対する理解の浅薄さを「フィガロ紙」の消息欄で揶揄されたと言われるが、この日誌を見る限りでは、各作品についても丹念に見ているようであり、自己の批評をも付け加えている[ii]。ともかくこの欧米視察をもとにして東京美術学校創立の準備が進められていく。

 ヨーロッパでは当時ベルリンにいた浜尾新を委員長として、3人は行動をしており、イタリアでは当時留学中の彫刻家長沼守敬や洋画家松岡寿を訪ねている。その時、松岡は3人に「欧州芸術の所感を叩いたところ、三氏は欧州芸術には全く学ぶ可き者なしと一蹴した[iii]」と言われる。一方、長沼は4月7日にウィーンよりヴェネツィアに来た3人を案内しているが、当時30歳だった長治は若き天心の眼力を認め、のちに次のように書いた。

 「其折岡倉氏は日本の美術学校の為めに美術の写真を沢山買い求めたが、熱々私が感心したのは、氏が写真屋で買い込む中にラファエルの下絵のスケッチを版にした物に目をつけたので、これは中々絵の鑑賞眼に富んだ人だと思った[iv]」。

 その他、この欧州視察中の記録としては余り多くは知られていない。天心の日誌から見ると、3人は各自別行動の方が多かったようである。正式な欧米視察報告書は現在発見されていないが、山口静一氏によれば「印刷すれば数百ページになる[v]」ほどの膨大なものであったようだ。フェノロサの書いた草稿の下書きがハーバード大学ホートン・ライブラリーに残され、それからは具体的な行動をたどるのは難しいが、彼がヨーロッパのうちイギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・オーストリア・イタリア・スペインを訪問したことは知られる。天心の方もほぼ同様であっただろうが、既述の日誌の範囲では次の通りである[vi](30)。

 リヨン (3/2)、ヴォワロン (3/3)、グルノーブル (3/4)、リヨン (3/5)、クリュニー(3/6)、リヨン (3/7)、ジュネーヴ (3/8)、フエルネ (3/10)、チユーリッヒ (3/11)、ウィーン (3/13-4/6)、ヴェネツィア (4/7~4/10)、フィレンツェ (4/11~4/⊥9)、ローマ (4/20~4/26)、ナポリ(4/27~4/28)、ボンベイ(4/29)、ピサ(5/1)、ミラノ(5/2)、ジェノヴァ、マルセイユ(5/4)、バルセロナ(5/6)、マドリード (5/7)、コルドバ、リヴァプール (8/7)

 日誌の付けられた5カ月間のうち、はじめの2カ月ほどは丹念に付けられているが、あとの3カ月は思いついた時にのみ記している。日本美術院蔵の原本を拝見した限りでも、5月に入った頃から書きなぐりの感じが強くなっており、詩作やオペラの構想が書き散らされてくる。天心がアメリカを経由してヨーロッパに到着したのは1月はじめのことであり、恐らくヨーロッパでの1・2月の訪問先を綴った日誌が、少なくとももう一冊はあったはずだが、現在のところ不明である。現存のものは最初の一週間ほどの部分がノートの罫線に沿ってびっしりと英文でていねいに書き込まれ、頁を追うごとに徐々に文字が大きく乱雑になって、最後は投げ出したようにして終わっているのを考えてみると、これに先立つもう一冊の方は、はじめてヨーロッパの風土に接した天心の印象が、プライベートな事柄も含めて最後の頁まで持続して書き連ねられてあったに違いない。1・2月というヨーロッパの冬空を天心はどこで見ていたのだろうか。フランス、スイス、オーストリア、イタリア、スペイン、イギリスが日誌に記載された国々だが、当然訪れたと思われるロンドンやパリ、あるいはオランダ、ベルギー、ドイツが現存のものには漏れている。いずれにしてもこの冬の時期、天心はこうしたどんよりとした陰鬱な北国にあったに違いない。

 大久保喬樹氏の叙述を借りれば、幼児期から「自分の存在を保証する根源的なものを奪われ」、天心にとっては「世界の不条理性の認識と葛藤、自己存在の確認、始源世界への回帰」というテーマが、「はるか日本を離れ、春まだ浅い、時には雪のちらつくヨーロッパの町から町へひとり旅を続けていく旅愁の中で一層烈しくふくれあがり二十四歳の覚三を内側からしめつけた[vii]」ということになろう。

 ところで、ロンドンでの彼らの行動については一つの逸話が、のちの『早稲田文学』(明治29年3月)にあげられている[viii]。それによるとサウス・ケンジントン美術館に日本人で「明珍」という作家の鋼彫の鷲が「妙技一等室」に陳列されているのを見て、日本美術の真価を確認して、美術学校設立の自分たちの意を強くしたという。一方、パリでの行動については、何ら確証は得られないのだが、当時日本にいた小山正太郎が、どういうルートでかパリで出た「フィガロ紙」の記事を知っていて、天心とフエノロサがルーヴルを素通りして同紙に冷笑されたことなどを、折りにふれて語ったようだ。

 当時パリには、画商であった林忠正をはじめ留学中の日本の洋画家も含めて、小山に情報を提供できる者は多かったと思われるし、小山の方も日本でのいきさつもあったので、こうしたゴシップについては積極的にストックしておいたに違いない。小山は別の場所で次のような談話も残している。

 「仏国のフィガロ新聞は、フェノロサが巴里滞在中、雑報に記していふには、日本政府は可笑な事をする。自国の美術を知らぬ外国人を、自国の美術調査の為めに海外に派遣してゐると冷笑したので、流石のフェノロサも、巴里には一週間許りしか滞在せず、行李を収めて伯林(ベルリン)に去ったとのことだ[ix]」。


[i] 清見陸郎 前掲書 四五頁。

[ii] 高階秀爾「『欧州視察日誌』の意義」岡倉天心全集(平凡社)月報2 昭和五四年 参照。

[iii] 『小山正太郎先生』不同舎旧友会 昭和九年 高村真夫巻末言 三一七頁。

[iv] 長沼守敬「岡倉覚三氏の印象」大正二年 (岡倉天心全集別巻 平凡社 昭和五六年 三二一頁)。

[v] 山口静一『フエノロサ(上)』三省堂 一九八二年 三三一頁以下。

[vi] 「欧州視察日誌」は、岡倉天心全集5 (平凡社) 昭和五四年 に収録(高階秀爾訳)。

[vii] 大久保喬樹『岡倉天心-驚異的な光に満ちた空虚』小沢書店 一九八七年 六二-三頁。

[viii] 岡倉天心全集別巻 (平凡社) 昭和五六年 一三一頁。

[ix] 梅沢和軒 前掲書一一八頁。また、これに関してはホートン・ライブラリーのフェノロサ資料の中にも見られ、フェノロサ自身も意識するところであったようだ。「以上が海外視察の目的であり、一年という短い期間に負わざるを得なかった重任であるが、このための取調委員の人選に関して一言してもよいだろう。特に、この任務に対する取調委員の適格性が最近出版物の批判するところとなったからである」。村形明子編・訳『アーネスト・F・フエノロサ資料 (第一巻)』 ミュージアム出版 一九八二年 八六頁。

第533回 2023年3月16

4 フィガロ紙の謎

 パリでの天心の行動を知るには、岡倉家や天心周辺を調査するよりも、案外小山正太郎を調べる方が近いかもしれない。私は以前小山家の御遺族宅で、1888年3月23日パリで出たフィガロ新聞の抜粋という翻訳文を見せていただいたが、これもそうした小山の収集した情報の一つであったと思われる。以下、その記事の概要をあげてみたいが、その前にこの内容が実際のフィガロ紙と対応しているかどうかが重要なので、早速同紙にあたってみた。しかし、私の見る限りこの翻訳に該当する部分が見つからず、前後何日間かも目を通したが、見当らなかった。さらに日付が1888年とあるが、実際は天心の視察は1887年なので、翻訳者の誤記かとも思われ、その後前年分についても同様に調査し、さらにフィガロ紙にはウイークリーもあるので、両年にわたってその前後も探してみたが、該当の3月23日は、両年ともウイークリー発刊日ではなかった。

 また、筆跡については明らかに小山正太郎のものではなく、一つの可能性として林忠正を考えたが、忠正のものとも違っていた[i]。筆跡の可能性として考えてみると、天心の訪れた明治20年はじめにパリにいた洋画家としては、山本芳翠、黒田清輝、久米桂一郎、藤雅三、五姓田義松らである。このうち黒田、久米、藤はまだパリで日も浅いので除いたとしても、山本と五姓田は小山とともに明治9年の工部美術学校に入学して、フォンタネージの指導を受けた仲間である。山本は明治11年から、五姓田は明治13年からフランスにいるので、様々な事情にも通じていただろう。ことに山本は明治20年の7月に10年間のパリ滞在を終えて帰国し、小山らとともに「明治美術会」にも参画するので、明治20年春に出たフィガロ紙ならば、直接小山にこの情報を伝えることもできたはずである。しかし、このフィガロ翻訳が1888年(明治21年)3月であるとすれば、山本はすでに日本にいて不可能となり、明治22年5月に帰国する五姓田の可能性が高まる。五姓田もやはり帰国後、明治美術会に加わり小山との関係が続いている。

 加えてもうひとり情報源の可能性に松岡寿を加えることができる[ii]。確かに松岡は小山とは近い関係にあり、イタリア留学組とはいえ、ローマ国立美術学校を1887年7月11日に卒業後、その年内にパリにゆき、留学中の藤雅三と隣りあわせてアトリエを借り、研究を続けている。日本への帰国は1888年10月6日であるから、松岡が同年3月のパリのフィガロ紙を目にすることは可能である。

 フランス語についても松岡は、留学前に東京芝区の近藤塾でスイス人について学んでおり、イタリア語の修得はその後1880年(明治13年)に鍋島直大のイタリア公使赴任に際し、従者としてローマに着いてからであり、その後、当時書記官でいた百武兼行らの援助も得て、1883年(明治16年)に美術学校入学という道を歩む。

 問題は松岡の筆跡であるが、書体が違うのと執筆時の年齢差もあって、現段階では確定ができない[iii]。ただ私の見る限りでは同一筆者でないような気がする。一方五姓田義松の筆跡は、隈元謙次郎『近代日本美術の研究』東京国立文化財研究所 昭和39年の「大久保利通像」の書き込みにカタカナ混り文が見られるが、これを見る限りでは、翻訳文の筆者とは認めがたい。とにかく小山周辺の洋画家を含めて、当時のパリには十数人の日本人が留学していたようであり、この情報は比較的容易に日本に届けられたに違いない。そして恐らく翻訳文だけではなく、フィガロ紙本文の切り抜きも小山の手元にあったと見る方が自然で、そうすれば小山がフィガロ紙をもとに、日本でフランス語のできる者に直接訳してもらった可能性も生まれる。

 重要なのはむしろ、フィガロ紙本文との対応であるが、これについては見つけられていない。雑報の割りには詳しい内容なので、見落すこともないと思われるが、私の場合フィガロ紙はパリの国立図書館からのマイクロフィルムに依ったが、そのことに問題があったのかもしれない。フィガロ紙の各地域での内容の差違についても、今後検討する必要がある。本稿ではフィガロ本紙の未発見のこともあって、翻訳文の紹介は要約のみにとどめたい。

 いずれにしても、この筆跡を鑑定し、フィガロ紙を丁寧に隅々まで時間をかけて目を通すことによって、さらに詳しい事情は見えてくるだろうが、こうした調査は今後のこととして、ここではフィガロ紙の掲載については未確認ながら、以下、記事の要点を箇条書にしておく。

1)フィガロの読者には知らない人もいるだろうが、「マコモ」(Macomo)という日本人がいて欧州の美術を軽蔑した発言をしている。

2)彼はたぶん儀礼のためか、宮廷風の黒色服を着用している。

3)彼は日本政府の命で欧州の美術と美術館の状況を取調べにやってきた。

4)彼はルーヴル、ロンドンのナショナル・ギャラリー、大英博物館、ベルリンなど各美術館の館長をたずね、ギリシア王にはパルテノンへの案内を受け、その他ウフィツィ、バチカン美術館などヨーロッパ中の美術館を、あわただしく観過(parcouru)した。

5)ボンペイ出土の猥褻物を展示したナポリの秘密館については、注意深くこれを見学した。

6)「マコモ」が東京での演説で言うには、欧州では至るところで北斎を賞讃し、欧州にはこれに匹敵する画家はいない。

7)フィデイアスやプラクシテレスといえども、日本の「ねつけ」一個さえ製作できないし、ラファエロ、レンブラント、ドラクロアといっても日本画家にかなうものではないとも語っている。

8)ただしミレーについては賞讃し、フランス人はその艮さを知らないのだと嘆いた。

9)彼は欧州滞在中に当地の技術者の状態をよく知り、短期間の間に彼らの談話を理解するまでに達していた。

10)「マコモ」は狩野派と雪舟が世界で最高の画家といってやまなかった。

11)彼が演説でいうには、少しの面倒と勉強をもってすれば、日本は技術ではすぐに第一の地位に達し、数年のうちにヨーロッパを越え、20年のうちに世界の美術の中心はパリから東京にうつると。

12)「マコモ」は傲慢で奇怪な人物であり、ビュルティ氏の日本趣味を圧倒するものだ。

13)ヨーロッパにも優れたものはあるので、まずは1889年に草花を描いた日本画を送ってもらえれば、その時にヨーロッパの逸品と比較して、その優劣を明確にしようではないか。

 以上の内容から、「マコモ」という人物は恐らく天心のことだと思われるのだが、なぜマコモと呼ばれたのかは不明である。もし天心が自らそう名乗ったのなら、彼がその後『茶の本』を書いて東洋の精神を紹介することを考えると、茶器の銘として知られる「真熊(まこも)」と結びつけたくなるが、確証はない。海外の新聞記事での紹介の場合、しばしば理解しがたい語にぶつかるが、天心に関しても誤記か筆記体の読み違いの場合も少なくない。しかしMacomoについては、私には思いつくものがない。

 またこれが天心のことだとすれば、すでに25歳という時点だが、奇妙な衣裳を身に着けていたことも他の証言と一致する。さらにまた彼はギリシアにも訪れてパルテノン神殿を見たことになるが、それがいつどういうコースをたどっていったかは不明である。イタリア旅行中の見聞がのちの「泰西美術史」の講義に結晶したことは、すでに推察されている[iv]。同様に同講義がイタリアルネサンスとともに、古代ギリシア美術に多くの時間を割いていることを考えると、その内容はローマンコピーや大英博物館等のギリシア彫刻からの類推だけではなく、実体験にもとづいていたとも考えられる。尚、最後の1889年云々はフランス革命後100年を記念したパリでの万国博覧会のことを指しているようだ。

 また「東京での演説」とあるのは、帰国後の報告講演と考えるのが妥当だろう。天心が帰国したのは1887(明治20)年10月11日であり、この講演は11月6日にフエノロサとともに鑑画会例会として行なわれ、『大日本美術新報』(第50号)にその内容が掲載されている。ここでは天心はむしろ、西洋論者、日本論者、折中論者を否定して、「自然発達論者」として「東西の区別を論ぜず美術の大道に基き、理のある所は之を取り美のある所は之を究め」と言っており、「軽々しく西洋の真似をなす事勿れ」と言いながらも、イタリアの大家や油絵の技法も必要なものは利用すべきだとさえ考えている。そして、「美術は天地の共有なり、豈東西洋の区別あるべけんや[v]」と結ぶ。

 どうもこのフィガロ翻訳文には、現実とかみあわないところがあるようだが、さらにこの記事が真実であるとすれば、天心とフェノロサが見過したのは、ルーヴル美術館だけではなかったということになる。ただこれに関しては、その後二人が疎遠になってからのち、生涯の最後に出会うのが、やはりルーヴル美術館であったということは、25年前に見過したことの因縁であったとも思えなくはない。天心がフェノロサの没後、ルーヴルでの立話しが最後になったことを、次のように書いたのも、以前の事情を踏まえた上での意識的発言であったかもしれない。

 「私が今年4月仏国に行き、ルーヴル博物館に行き、種々の美術を熱心に見て居ると、偶々私を呼ぶものがあるので、不図見れば氏である。偶然の会見なりで、暫し立話しをなしつゝあるの間に、巳に館が閉ぢる時が来たので、一体貴方は何処に宿って居るかと尋ねると、実は今着したのみで、まだ宿は定まらん、定まったなら直ぐ通知するが、一体何日滞在するかと聞くから、三・四日滞在してベルリンの方へ行くのだといって其時は別れた[vi]」。


[i] 林忠正の筆跡については、高岡市立美術館定塚武敏氏より、資料の提供をいただいた。定塚武敏『海を渡る浮世絵-林忠正の生涯』 美術公論社一九八一年 参照。

[ii] この示唆は茨城大学金子一夫氏による。小山正太郎の美術教育に関する詳細は、金子一夫「図画教育調査会報告に関する資料的考察」茨城大学五浦美術文化研究所報11(一九八七)、および同「小山正太郎と明治期美術教育」新潟県美術博物館『近代日本洋画の夜明け展』図録所収(一九八八)等を参照。

[iii] 松岡の経歴と筆跡については、岡山県立美術館の宮本高明氏と守安収氏より資料のご提供を頂いた。

[iv] 森田義之「岡倉天心の『泰西美術史』講義の検討」茨城大学五浦美術文化研究所報9 一九八二 一〇六ー一二八頁。「泰西美術史」講義は、明治二三年度から「日本美術史」に続けて東京美術学校で開講され、日本初の西洋美術史の講義となった。岡倉天心全集4 平凡社 昭和五五年 に収録。

[v] 岡倉天心全集3 平凡社 昭和五四年一七三-七八頁、「鑑画会に於て」と題して収録。

[vi] 「日本美術の恩人・故フエノロサ君」前掲書 三二九頁。