第66回 2023年1月8

我等の仲間1936

 ジャンギャバン主演、ジュリアンデュヴィヴィエ監督作品。宝くじが当たるといいことばかりではないという教訓が下敷きにされている。安宿に暮らす5人の仲間が出資しあった宝くじが当たる。一夜にして大金持ちになる。均等に分けて宿を去ろうとしたところで、みんなで経営するレストランをつくろうという声が起こり、話がまとまる。廃墟となった邸宅を購入し協力しあっての建設途上で天災や人災が起こり、ひとりづつ姿を消し、二人だけが残る。

 一人の女をめぐる三角関係にあるこの二人がどうなっていくかが、見どころになっている。互いに誤解しながら仲間割れを起こし、最後には「そして誰もいなくなった」というほうが、ミステリアスでおもしろいはずだが、そうした悲劇を回避して友情は持ちこたえる。その分だけ宝くじが当たるとロクでもないというわかりやすい教訓は抜け落ちてしまう。

 二股をかける二重舌の性悪女の存在が話をおもしろくしている。惚れた弱みというのがわかるだけに、簡単に仲間の絆は崩壊するものだ。若きジャンギャバンが軽快に踊っている。のちの「フレンチカンカン」を思い起こすものだ。というよりもこの映画が先で、その後同じステップを踏ませて、若き日のオマージュとしたというほうが正しいか。

第67回 2023年1月9

舞踏会の手帖1938

 ジュリアンデュヴィヴィエ監督作品。もう一度会いたい人というのは誰にでもある感情だ。でもたいていは会わないまま生涯を終えてしまう。ここでは夫が死んだので昔の男たちを訪ねてまわる未亡人の話である。わからなくもないが男たちにとっては心をかき乱すことにもなるので考えものであり、罪な話ではある。ことに家庭を設けている場合は、相手の妻にとっては迷惑千万だろう。昔の面影を残さないほど老け込んでしまっていたのなら、会わなかったほうがよかったということになるが、昔と変わらない美貌で現れると、若き日の甘酸っぱい思い出が蘇ってしまう。

 16歳のころに舞踏会で知り合って、心を寄せてくれた男たちが、その後どうなったかを知りたいという好奇心は、衰えない容貌の自信に裏打ちされたものである。男たちの年齢は同年代だけではない。その時すでに40歳を数えた者もありさまざまだ。そして多くはかつてつれなくされた日を思い出しては、この再会に胸躍らせている。ある者は娘に彼女の名を付けていた。そんななかで、失意の末に神父になったひとりだけが、冷静に彼女との再会に別れを告げて、丁重に追い返した姿が記憶に残る。たいていは今さら会っても仕方がないものだ。

 舞踏会の手帖に書かれた氏名を頼りに訪ねてゆくなかで、過ぎ去った郷愁にたどりつきたいのだと思う。そこでは誰もが若く華やかな衣装を着てワルツを踊っている。なかには直後に自殺をしてしまった者もいる。母親は気が触れたように、今も息子の帰宅を待ち続けている。悪の道に身を染めてしまった男もいて、今まさに犯罪の渦中にある姿をルイジュヴェがみごとに演じていた。最後に訪れた相手は、意味慎重に事情が明かされないままでいる。最も会いたかった秘密の相手にちがいないが、会うことを恐れてもいた。近くに住まわっていたことがつきとめられ、邸宅を訪ねると庭先に息子だけがいた。20年の歳月がタイムスリップして、その姿はいつの間にか、自分の息子に変わっていた。このとき彼女もまた舞踏会へと向かう我が子のデビューをエスコートする母の姿に戻っていた。過去と現代が錯綜し、未来に向けて歴史は繰り返されていくのである。

第68回 2023年1月10

アンナカレニナ1948

 ジュリアンデュヴィヴィエ監督、ヴィヴィアンリー主演。人妻であろうが関係なく、恋は燃え盛り、破滅へと至るものだという教えを伝えている。いや教えなどでは決してない。人妻だからこそ燃え盛る人の世の非情ともいえるのか。悪魔につかれたように奈落へと落ち込んでゆく。それは快楽に支えられた自虐的な自己愛に根ざしたものだ。二者択一しかありえない恋の非情は、愛の共有を拒絶するものであり、我が子をふたつに引き裂くことができないように、愛の結晶はふたつのものがひとつになってしまうことをいうのだろう。

 夫が極悪非道なら、不倫に拍手をおくることになるが、理解がある場合はみているほうも、登場人物と同じように苦悩する。かたいと思っていた恋の信頼感はいつも揺らいでいる。博愛ですらそれは同じだ。二重人格のように一貫性のないのが人の世であり、ここでも演出の失敗では決してない。列車に轢かれて死ぬのは、自殺なのか事故なのかはわからないが、映画では轢かれる場面が二度描かれる。雪の日の停車場での出会いを思い出しながら、絶望は死という結末を導き出した。ガルボのサイレント映画では、結末が再会の喜びで終わったのと対照的に、寒々とした悲しい最後だった。

第69回 2023年1月11

埋れた青春1954

 ジュリアンデュヴィヴィエ監督作品。サスペンスじたての犯人探しをベースにしているので、エンターテイメントとしておもしろい映画になっている。サスペンスというには後半の展開で謎解きの興味が薄れ、緩慢な印象を与えるが、盛りだくさんのさまざまな問題を提起しているからだろう。無実の罪を着せられた冤罪とそれを認めない司法のめんつという問題。父と子の不信と不和の問題。二人の女性の間で揺れ動く男の苦悩。これらはそれぞれが単独でも十分に物語を成り立たせるものだろう。結局は何も解決しないまま、悲劇的結末は冤罪者を自殺に導き、検事の父を理解しないまま親子関係は決裂する。

 18年間牢獄につながれた息子の無罪を信じて奔走した父と、殺されてしまった姉の無念と、傷つけるだけで終わった妹の美貌と、特赦というかたちで表沙汰にされなかった検事の父としての人格は、何ら問われることもなく、宙ぶらりんの状態で曖昧に残されたままである。腑に落ちない社会の実像をあぶり出しただけのことだったが、若者と同調して社会の不正に怒りをあらわにすることが、この映画への接し方であるのかもしれない。

 妹の罪を不問にするには、その色香に迷わされた男たちの愚かさを、自業自得だと納得するしかないだろう。一言でいえば、美の虜になった美術史家美術評論家の没落の物語だった。このふたつの知性がいがみあういわれは、どこにもない。整理して二項対立を図式化すると、この二人の知性と、二組の父と子、姉と妹の関係になるが、彼らがからまりながら織りなす人間関係の糸が、なぜ不幸を生み出してしまったかを、もう一度解きほぐして再考してみる必要があるだろう。真実解明に挑む検事の息子を見まもり援助する祖母の存在も重要だ。この老婦人は息子の不誠実を見抜いている。

70回 2023年1月12

わが青春のマリアンヌ1955

 ジュリアンデュヴィヴィエ監督作品。ありえないような幻の話だが、人は夢に生きなければならないことを教えてくれる。寄宿舎となっている城館に連れられて来た若者が、美しい母親と別れを告げるところから話ははじまる。迎えにくると言い残して車で去ってゆくシーンは、母の姿を映さない。あの美人は誰だという声が聞こえ、母と子の秘められた絆を予感させる。息子には母への強い思いがあるが、母は子を捨てて別の男へ走ろうとしていることが、のちに明かされる。

 湖をはさんで対岸に霊が住むという謎めいた伝説の邸館がある。若者はこの謎の館に幽閉された美女を助け出そうとする。ほんとうに実在しているのか、妄想なのか。誰もその美女を見てはいないのだ。男世界の寄宿舎での話だが、もうひとり女性が登場する。ここを管理する教授の縁者のようだが、学生たちにまじって生活をともにしている。この娘はピアノがうまく、主人公のギターの弾き語りと合わせて、良好な関係が築かれるようにみえるが、やがて奇怪な人格を露呈していく。

 アルゼンチンからきたこの未知の美青年の気を引こうとするが、幻の美女しか目に入ってはおらず見向きをされない。突然衣服を脱ぎ捨てて目の前に現れたり、はては嫉妬のすえ主人公が可愛がっていた牝鹿を惨殺してしまう。その後牡鹿に追いかけられる場面が挿入され、それ以降は登場しない。気になる娘だったが、最後に主人公が寄宿舎を去る場面で、みんなから励ましを受ける場面でも、顔は見えなかった。なんの説明もなかったが、姿を消してしまったのは、鹿に襲われて命を落としたということなのだろう。

 主人公は鹿よりも速く走ることもできた。つかまえた鹿を手なづけ、敵の番犬までも味方にする能力を備えていた。にもかかわらず亡霊の魔力には敵わなかった。信頼にたる友をともなって邸宅を訪ねたとき、美女も伯爵も怪力の下僕豪華なベッド家具も消えていた。彼らは立ち去ったのかすべてが主人公の見た幻であったのかはわからないが、人がいたあたたかみが残っていたと友は語った。青年は幻の美女を救いにゆくのだといって寄宿舎を後にした。なんとも不思議な映画だった。


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