國久真有—絵画を生きる

2022年04月10日~07月24日

西脇市岡之山美術館


2022/7/22

 一番奥に一点だけ展示された大作がじつにいい。タイトルは「WIT-WIT HOLE HONG KONG CLOUD」とある。中央に窓のように抜けた空白は、描き残しの部分だが、その余白が彩色された部分以上のインパクトをもって迫ってくる。不思議にも光り輝いてみえるのだ。そこに向かって抜けていて、白い柔和な空白が近寄りがたい薄明の光を発散している。この空白の前に人が立つとすっぽりと白枠が頭部を縁取る位置で、さらに輝きを増す。香港の空をビルの谷間から見上げた写真を見たのがきっかけになったのだという。そしてそれを確かめるために画家は制作を中断して香港に出かけた。

 もちろんそれは空であってもいいのだが、身体性からいうと手の届かない聖域と呼べるものだろう。画家が見つけた制作技法は、手を思い切り伸ばして人間コンパスとなって無数の円を重ねることだった。無意識に重ねがきがされると、自然と絵画としての自立が作者の意図とは離れたところで成立していく。絵としてのバランスは絵がみずからの意志で考えはじめたようで、画家はそれに立ち会いながら無作為の動作が繰り返されている。

 線に迷いはない。思い切りよく機械のように正確に、書家のようなパフォーマンスが繰り返されている。制作場面を真上から写したメーキング映像があり、それを見ていると、ジャクソンポロックの制作風景にも似て、キャンバスは立てかけられるのではなくて寝かされて、画面と一体化するように陶酔して、無心に手が動いている。四方から円弧がリピートされ、キャンバスはやがて重心を喪失していくが、逆に中心は浮かび上がってくる。

 完成作を見ていて、ついつい最後の筆はどこだろうと探りたくなってくる。絡まった糸の先端はどこにあるのだろう。それは絵画が終わった瞬間であり、地点でもある。重なっていない円弧があればそれが最後の一筆に違いない。この鑑賞法は同じく円弧からなるフランクステラの抽象絵画を、遠近法的に解釈しようとするときの気分に似ている。線は重ねるとかならず奥行きができるが、それはイリュージョンではなく、実空間である。

 身体性からいうと空白はじょじょにせばまっていく。訓練によって少しずつ身体は柔軟になり、手は前に伸びていくからだ。この動作は背中がかゆいときにどうしても届かないときの経験に似ている。それもまた犯しがたい聖域であり、思うように動かない人間の身体性の実感を味合わせてくれるものだ。このミクロの体感をマクロの世界に連動させると、かつて地球は広かったが、今では狭くなったことに対応する。未開の地の喪失は、楽園を失ってしまった人類の悲劇を象徴している。

 キャンバスのサイズが3メートル近い正方形だということは何を意味するのだろうか。レオナルド流の人体比例によれば両手を広げた長さは身長に等しい。ならばこのコンパスは身長の半分の長さだ。つまり四辺のどちらから手を伸ばしても余白ができるということだ。みごとに身体がまるごとキャンバスに反映した絵画となるのである。

 絵は頭で描くのではなく、手で描くのだという原点回帰は、「具体」の伝統、ことに白髪一雄と結びつけたくなるが、それよりももっと軽やかでプリミティブな精神の造形なのだろう。前者が意識的にねじ曲げようとする魂の実現だとすると、こちらは抑制された精神の再現なのだと思う。運筆を思わせる手描きの円は書家の精神的鍛錬の賜物であり、そこからどうしてもたどりつけない地点があるとすると、それは残された楽園にちがいない。空白が白く輝きを放つのはそのときなのだと思った。


by Masaaki Kambara