第1章 ボスの絵画世界

第628回 2023年8月4

現存作品

まずはじめにボスの代表的な絵画作品を網羅的に紹介しておきたい。これ以降はそれぞれの作品を細かに見ていく予定である。ここではボスの作品をひととおり眺めてみよう。生涯のわかっている記録からスタートしてみる。重要なのは絵画作品が残っているということだ。それは何よりも第一史料となる。歴史の研究なら文献が残っていて、その文献も古ければ古いほどいい。対象となる作家が生きていた頃に書かれた文献がある。自身が書いたものがある。文学者であれば印刷になる前の手書きの原稿がある。同じように画家の場合は描かれたものがまずある。同時に手紙を書いたり、日記を残したりしている。それも同じくらいの値打ちがある。その後その作家についての評価がある。当時のと後世のと、かなり食い違っている場合もあるが。当時、誰かが何かを言っていないか。なるだけその当時に戻してやること。現代では高評価でも、当時は評価されなかったという場合もあるし、その逆の場合もある。そんなことを含めて当時の文献を探る。文献がなければ、美術の場合なら作品そのものが出発点となる。

 ボスの場合、今から500年以上も前なので、ふつうなら現存は奇跡に近いものかもしれない。保存しようという意志がなければ500年は残らない。何千年前のものでも現実にはある。石でつくられたものなら残りやすい。素材には耐久年度があり、ここに出てくるのは油彩画だ。油彩の耐久年が問題になってくるが、今500年以上たってみて、残っているものはかなりある。剥落して表面がぼろぼろのケースも多いが、ボスと同時代のドイツの画家アルブレヒト・デューラーが500年は大丈夫だろうといったようだ。ボスもデューラーもメンテナンスを加えて、今もなんとか持ちこたえている。それがなければ剥落していただろう。表面の亀裂(図1)は生きぬいてきた年輪のように、あるいは老人の皺のように重厚でさえある。100年に一度は修復をおこなってきただろう。油彩画は強い顔料で、日本画や版画に比べれば長もちできる。同じ油彩でも近年の、たとえば日本の洋画家で梅原龍三郎をあげれば、50年たった段階でぼろぼろの状態だということがある。油彩画の発明以来、技術的に進化していない。あるいは画家自身が気にもとめないで、絵を描く人というだけに終始した結果か。描いて短期間もてばいいとして、何百年の単位では考えていなかったのだろうか。500年もつといったのは、500年は持たせようという意志の表明だったのだと思う。それに比べると現代では油彩画といっても消耗品扱いで、その場限りで描いているほうが多いかもしれない。 

図1 ボス「快楽の園」部分

第629回 2023年8月5

美術館の所蔵状況

美術館に入れば永久に保存されるということになるので、描く側としては美術館に入るまでは自分の責任であるが、美術館が収蔵すればあとは美術館の仕事で保存のことを考えてくれればいいということになるだろう。ほおっておくと絵の具は剥落してくる。美術館泣かせだが、それを今日の技術でなんとか定着させていく。メンテナンスをしながら生きながらえさせている。ボスの作品も重要なものはおおかた美術館に入っているので、これから先も永久保存されるだろう。ボスが描いてまっさきに美術館に登場するのはスペインのプラド美術館で、ボスギャラリー図1)にまとめられている。これから先もボスの作品がでてくれば、どこの美術館もほしがるだろう。しかしその可能性は極めて少ない。個人コレクター所蔵のものが何点かあって、美術館は鵜の目鷹の目でほしがっている。世界の主要な美術館もボスの入手を欲している。ルーヴル美術館は一点だけ所蔵する。大美術館は網羅的に作家を整えようとしている。ボスも一点はほしいということになれば、現在真作が40点ほどだとすると、40以上の美術館は所蔵できないということだ。このうち重要な10点以上がスペインにある。美術史の流れを解きほぐしていく場合、ボスがいないとものたりないということはいえる。

マドリッド(プラド)以外ではパリ(ルーヴル)、ワシントン(ナショナルギャラリー)、ロンドン、ウィーン、ヴェネツィア、リスボン、ロッテルダムなど世界の美術館が分けもっている。アメリカにあるものは比較的近年、何らかの形で購入されていった。プラド美術館にあるものはかなり早くから、ボスが亡くなってから4、50年たって16世紀中頃にはスペイン王のコレクションとして入っていた。スペインに流れていったものが現在ボスの核となっている。もしプラド美術館蔵のものがなければボスの今日ある位置づけは成立しなかっただろう。「快楽の園」というメインの作品を中心に10点ほどあるが、ボスの住んだ地域はスペインにより支配される。ボスは1516年に没するが、当時の支配状況はかなり揺れ動いている。

図1 プラド美術館ボスギャラリー

第630回 2023年8月6

カトリック対プロテスタント

ボスの生まれた地域は、はじめはブルゴーニュ公国というフランスのディジョンを首都とした小国に属した。フランス語をベースにした文化構造であったが、ボスがなくなる頃にはハプスブルグ家のマクシミリアンが統治する神聖ローマ帝国によってドイツ語圏に移行する。ハプスブルグ家はウィーンやプラハを根城にした大きな帝国であり、その血筋にある新勢力としてスペインが台頭した。マクシミリアンの孫にあたるのがスペイン王フェリペ2世である。フランス語圏からはじまりドイツ語圏とつづく。もちろん現地語としては今のオランダ語あるいはフラマン語があった。さらにはスペイン語も加わり、ことばとしてはかなり錯綜している。スペインとネーデルラントの間にはフランスがあり、スペインはフランスを通り越しての遠距離支配となる。ネーデルラントは宗教的にはカトリックであったものが、ドイツの支配下でプロテスタントの勢力が入り込んでくる。プロテスタント勢力はドイツやスイスやイギリスに広がるのに対し、イタリアやスペインやフランスはカトリックの根城だった。オランダにはプロテスタントの新教が入ってきて宗教戦争が起こる。

ボスが亡くなってからあとの話だが、16世紀中ごろまでの間に、ネーデルラント地方はふたつに分裂してしまって、カトリックとプロテスタントが覇権を争う。北はプロテスタント、南はカトリックが残り、現代の国名ではオランダとベルギーにあたるが、南のほうは、当時はベルギーになる以前で、フランドル地方といわれた。フランダースの犬という名が出てくるのはこの地域名によっている。ルーベンスの絵を見て感動する少年の話だが、舞台であるアントワープという都市が繁栄するのは、16世紀から17世紀にかけてのことだ。ボスとの関連でいえば、16世紀を通じてスペインが軍事力をもって支配しにかかる。スペイン王フェリペ2世が勢力をもったが、風変わりな趣味をもった美術収集家でもあった。現在プラド美術館に入っているコレクションは、他と比べて異質なものを含み、ウィーンのハプスブルグ家やプラハでアルチンボルドの奇妙な絵画図1が、ボスと同質なものとして収蔵されるのと似ている。

図1 アルチンボルド「水」

第631回 2023年8月7

破壊された祭壇画

ボスからアルチンボルドへの異色が、その後スペインでゴヤ図1)が出てきて、さらには20世紀のダリのイマジネーションの産物を生み出すまでにつながっていく。ボスをはじめとしたマカロニック(風変わりなもの)に影響された形跡を残している。一目置かれる収集癖は、何としてでもボスを集めようとしたことからもうかがえる。当時からボスの作品が少なかったのは、プロテスタントが勢力を伸ばしてオランダに入り込んでいったときに、イコノクラスム(偶像破壊)を掲げたことに由来する。プロテスタントでは偶像崇拝をしない。キリスト教ではキリストやマリアの像があって、それに対して手を合わせて祈るというのが基本形だが、もともとのキリスト教のはじまりは、仏教でもそうだが偶像崇拝はしない。キリスト像が出てくるのも、キリストが亡くなってから相当たってからで、仏教にしても仏像の誕生はブッダがなくなってから久しい。最初のうちは人の姿をとった神というのは想定しないことが多かった。そのうちに拝む対象として、人の姿をとっていたほうが、手を合わせやすいという単純な論理に従ったもので、そこからキリスト像やマリア像が出てきて、教会にはそれを祈るための祭壇ができあがる。そこに北方では絵画が盛り込まれていって祭壇画という形式が成立する。祭壇画は教会のメインの空間に置かれ、それがキリスト教会のかたちとなった。プロテスタントがやってきて偶像崇拝をしないというときに、目をつけたのが祭壇画で、それを壊しにかかる。祭壇画はふつう観音開きのものが多く、それを叩き壊したり燃やしてしまったりした。ボスの作品も当時ボスのいたころには教会からの注文では祭壇画をつくっていたはずだ。貴族から個人的な注文を受けたものは被害にあわずに残っているが、教会からの注文はほぼ全滅に近いものではなかっただろうか。

図1 ゴヤ「理性の眠りが怪物を生む」

第632回 2023年8月8

カトリック文化圏

そういう状況下にあってプラド美術館にあるものは、それ以前に難を逃れたといえる。スペインに早めに入っていたおかげで、ボスの作品が日の目を見ているということだ。現存する以上の作品があったはずだが、イコノクラスムはオランダだけではなくかなり広域にわたった運動で、プロテスタント圏では相当数が被害を受けているはずだ。プロテスタントの運動はマルティンルターが1519年に口火を切るが、15世紀末のルネサンスの真っただ中にあるような頃に制作されたものがターゲットになった。この例外となったのはイタリアで、プロテスタントが入る余地はなかった。イタリアルネサンスが誇れるのは現存作品の量にもよっている。プロテスタント側からの主張としては、信仰の対象は目に見えるものではないぞということだった。何よりも聖書を読むことだった。それには文字がまず重要で、極端にいえば視覚メディアはなくてもよかった。聖書を読むことでそれぞれがイメージを膨らませる。絵画作品はイメージを固定させるものだった。同じキリスト教内での内部分裂といえる。ボスの場合は作品がスペインに流れていった。スペインはイタリアと並ぶカトリックの拠点であり、フェリペ二世は強肩なカトリック信者であり、そのもとで安泰でいた。そこにはキリスト教異端が入り込む余地はなく、ボスが異端だとする説は考え難いものだった。カトリック内部にボスの図像を許容する広がりがあったと考えたほうがよいだろう。カトリックとプロテスタントを対比してみると、カトリックはかなり緩やかな規制で、女性の裸体が描かれても目くじら立てて否定するものではなかった。プロテスタントはその点では潔癖で、イギリスに入って清教徒革命を引き起こす。そしてピルグリムファーザーたちがアメリカに渡っていくという流れを築いていく。カトリックのもつ豊満な物欲を拒まないものに対して、質素倹約を掲げるのがプロテスタントだった。清貧をよしとする考え方があった。ボスの中に出てくる豊かで贅沢な世界はカトリック的で、豊満なイメージはボス作品の随所に登場する。当時としては飢餓に苦しんだり、天変地異があったり、変動の時代でもあったが、余裕のある世界、余裕をもってしか描けないスタイルが生み出されている。豊満な者への責め苦図1も頻出する。グロテスクなものが出てきたり、貧しい人々が道ばたで物乞いをしているような光景に出くわすが、これらは好奇心をむき出しにして、おもしろがって描いている面が強い。哀れみや同情という社会性よりも、好奇心をもって上から目線で見ているような感じがする。これもカトリックの土壌から出てくるものだろう。

図1 ボス「最後の審判」部分

第633回 2023年8月9

生い立ち

ボスの生没年は、没年のみわかっていて1516年。場所は生没ともにオランダのスヘルトヘンボス、当時オランダ地方では4番目の規模の都市だった。今も同じ都市名だが、ボスが生まれた頃はフランス語圏であったので、ボア・ル・デュクというほうが普通だった。ともに意味は「大公の森」、英語のデュークは爵位として日本語でも定着している。この地名からボスは自身の画家名をとったということだ。本名はヒエロニムス・ファン・アーヘンで、この名で戸籍には記載されている。「ファン・アーヘンまたの名をボス」と記載されたものもある。ボスの亡くなる以前にこの記載はみられる。アーヘンはドイツの地名であり、ケルンとともにオランダに隣接した古都である。父はアントニウスといい、代々画家の家系だった。もともとはオランダ人ではなくてドイツから移住してきた。なぜやってきたかといえば、この内陸都市がじょじょに規模を拡大しており、新興都市として画家の受容があったということだろう。ナイフなどの刃物を生産する工業都市として頭角を現してきていた。ボスの絵の中でしばしばナイフが出てくる図1)が、それは町の地場産業に由来するものだ。拡張する都市を背景に周辺から人口の流入がはじまっていた。町が大きくなり富裕層からの絵画の注文も増えてきただろう。あるいは町の行事としてイヴェントをおこない、催し物を取りしきる仕事が必要になった。カーニバルの舞台衣装や仮設の舞台をつくったりするのは、当時の画家の守備範囲でもあった。今ならボスの職業は画家だということになるが、美術品といえないような消耗品的な仮設の装置も手がけていただろう。その場限りでつくってはこわし、つくってはこわしするので、残ることはない。残っているものはボスの描いた絵としては、祭壇画の形式をもった教会に置かれるものや貴族のコレクションに限られる。板の上に描いたものだけではなく、紙の上や布の上に描いたものも数多くあったはずだ。張りぼての屋台やモンスターの人形もあったかもしれない。見世物小屋の飾りもあっただろう。職業として画家とはいいながら余興に駆り出されていて、今でいう画家のステータスとはかなり違っていただろう。消耗品制作であるからこそ、年中行事として職業が成り立ちもしたということだ。今日では油彩画だけが日の目を見ているということになる。

図1 ボス「最後の審判」部分

第634回 2023年8月10日

祭壇画の断片

 断片的なものも多いが、多くは祭壇画を形成していたものだろう。トリプティークという三枚続きの画面が標準だが、開くと中央画面と左右の翼面、閉じると左右の外翼面という5面構成になる。例えばルーヴル美術館に「愚者の船」(図1)という一枚ものの油彩画がある。これと組み合わせて「大食のアレゴリー」(2)という小品がアメリカにある。今は別々の作品だがエックス線や赤外線をあてて観察すると、この二点はもとは上下でつながっていたことがわかった。そうするとずいぶんと縦長の画面であり、祭壇画の翼面ではなかったかということになった。

「大食のアレゴリー」にはビヤダル腹をした男が載るが、頭にジョウロをかぶっていてその先端が切れている。「愚者の船」を観察したときに下部にそのジョウロの先が認められたので、両者を並べるとぴったりと一致した。いつかの時点で切断されて、それが今フランスとアメリカで分けもたれている。アメリカのエール大学の付属美術館が所蔵するが、アメリカにはこれとは別にワシントンのナショナルギャラリーに「守銭奴の死」というボス作品がある。これらのアメリカへの入手経路は伏せられているのかわかってはいない。現在ボスの絵がこういう形で断片化されているものはかなりある。「手品師」や「愚者の治療」も小品だが、もとは大きなものの一部であった可能性がある。もとは祭壇画であったものを断片にして、小分けして売ったということになる。このグループはさらにロッテルダムにある「行商人」まで巻き込んで議論を膨らませていった。「行商人」はワシントンとルーヴルの作品の裏面であった。中央に描かれていたのは何かはわからない。祭壇画の翼面の裏表に描かれてあったものを剥がして二枚にした。かなり精巧な作業である。ルーヴルとエールのものの裏にロッテルダムのものが描かれていたとすると、まずは祭壇画があって翼面が左右そろっていた段階で、裏表を切り離したということになる。ルーヴルとエールが切断されたのは、そのあとである。図柄の関係で見ると、ワシントンのものはどこかで二分しようとしても、人物が出てくるのは上方に集まっているので絵として成立しない。「愚者の船」のほうは二分すると2作品となって購入者が増える。祭壇の翼面なので、通常の絵画としては長すぎるのも二分する要因となっただろう。展示効果とタブローとして見せかけるために、考えつかれた操作だっただろう。

図1 ボス「愚者の船」

図2 ボス「大食のアレゴリー」

第635回 2023年8月11

切断のミステリー

それではいつの時点で切断されたのかという疑問が出てくる。先ほどのイコノクラスムの話と連動させれば、はじめ祭壇画のかたちであったものが破壊され、扉の部分だけが生き残った。それを修復しながら破損部分を除き、4つの作品につくりかえられた。このことが想定されると割合古い段階でなされた作業だったかもしれない。それが今世界の著名な美術館に収まっていることを考えれば、現代に近いところで、画商が売りさばいていったとも想像される。出所はひとつだったはずだが、誰かが何も言わずに操作したという、探ればミステリアスな話でもある。美術品売買をめぐる知られざる謎というのは多い。価格の駆け引きもあるだろうし、所有者を伏せておく必要も生じるだろう。日本の場合でも源氏物語絵巻は、もともとは巻物であったものが切断されて、現在は古美術を誇る複数の美術館が持ち合っている。額装にして展示しているが、絵巻なら展示もしにくいし、現代の美術館というシステムに合致した美術形式に対応させたということだ。こうした考えは売る側の論理で、保存や当時のかたちをそのまま残すということはあまり考えずに、現代に生かすことを優先した。

ボスについても切断の事情を知っていたものはいたはずだが、それは隠されて表には出ずに研究者は踊らされていた。ルーヴルの「愚者の船」とワシントンの「守銭奴の死」(図1)はそれだけを単独で研究され続けてきた。それが今回、年輪を調べるなど科学的調査を通じて、定説はひっくり返ってしまった。それは近年のボスの作品をめぐるトピックだ。制作年についても「愚者の船」は比較的早い時期のものと考えられてきた。それに対してロッテルダムの「行商人」(図2)のほうは、ボス晩年のものとされていた。両者が一つの祭壇画であったということになれば、訂正が必要になってくる。科学調査が定説を覆すことは多く、ボスに限らずあちこちで出てきている現象だ。

図1 ボス「守銭奴の死」

図2 ボス「行商人」

第636回 2023年8月12

主題の問題

ボスの一群の作品に共通する「愚者」というテーマがある。愚か者といわれている人間がいる。人間はもともと愚かだという一般原理でもある。当時では一種の病気だった。病気だから治癒する。愚か者というのは治らないものだろうが、外科の治療によって治るとされた。当時の愚かな光景を描いたものとして、全体を把握することができる。絵画のジャンルとしては風刺画に分類される。今までは比較的ボスの早い時期に出てくるとされたが、ボスのテーマのひとつの核を占めるものだ。

次にはサイズの比較的大きな、世界を俯瞰的に見た一群がある。人物の数も多くうごめいている。観音開きの祭壇画形式が多く、「最後の審判」というタイトルがキリスト教世界では重要で、それと対応するような作品である。祭壇画形式なので教会に置かれる祈りの対象にみえる。プライベートというよりも少しは公的な立場にある置かれ方だっただろう。

聖アントニウスの誘惑というテーマは、ひとかたまり集めることができる。リスボンにあるものが大作で出来栄えもいい。これ以外はキリスト教でオーソドックスにでてくるテーマ、聖ヒエロニムスや聖ヨハネ、キリストの十字架運びがある。オーソドックスではあるが、ところどころボス的アレンジがなされ、謎めいた雰囲気を伝えている。十字架を運ぶキリストはいろんな画家が扱うが、ボスの場合は顔だけをクローズアップで並べ、異色な雰囲気を漂わせている。しかめっ面をした人物の百面相図1)がキリストのまわりを取り巻いている。今ではボスの真作から外されてしまったが、インパクトの強い迫力のある作品になっている。

図1 ボスの下絵による「十字架を運ぶキリスト」部分

第637回 2023年8月13

素描の問題

素描もそれほど多くはないが気になるものが混じっている。素描は大作の下絵として描かれたものなら、現存の油彩画と対応があって普通だが、ボスのものでそのまま絵画と対応するものは極めて少ない。ボスはデッサンを描き、それをもとに大作を仕上げたかどうかは、定かではない。素描は素描として独立して描いていたのではないかというふしがある。素描が芸術として独立していくというのがこの時期にあたる。中世を通じては下描きというレベルを超えなかった。素描芸術というのはまだなかった。素描が独立し、コレクターの収集の対象になっていく。版画の価値とも連動するが、素描は価値はなく、消耗品扱いがされていた。今でいえば絵本の原画と対応させて考えるとよいかもしれない。今は絵本の原画は重要視されているが、出版文化の中では重要なのは出版されて印刷物となったもので、それがオリジナルであった。原画というと高級に聞こえるが、没にされたり、そこにいろんなチェックが入ったり、書き込みを加えられたりするものだった。素描も下絵からやがて鑑賞の対象として、あるいは収集の対象としてステータスをあげていく。

そうした流れのなかでボスの素描を見直す必要があるだろう。その意味でボスの現存の素描が絵画として反映されないで、独立して見えることは興味深い。「木男」(図1)という素描がある。実際には「快楽の園」の右翼「地獄」の場面に登場して、木を足に履きながら背中から振り向いた怪物だ。素描は地獄ではなくて、日常の風景の中に置かれている。生活空間に怪物めいたものを置くという転換がある。ここには樹木人間を日常空間に置けばどうなるだろうかという興味がある。現代ではシュルレアリスムのデペイズマン(転位)に近いような発想で、はっとするような驚きを演出している。このようにみると素描が新鮮に見えてくる。

森は聞く、野は見る」(図2)という素描も、同様の操作がもくろまれている。ことわざを絵にしたもので、イメージ世界でシュルレアリスム的な効果がねらわれる。ことわざはそのまま絵にすると奇妙なものだ。これはネーデルラントのことわざで、よく見ると森の中に人間の大きな耳が置かれている。一方野原には人間の目が地面に散らばっている。中央にはフクロウがいて身をひそめている。対応する油彩画はない。ボスがこれに込めた思いを、ボスの自画像として解釈した論がある。ボスは森という意味で、背後の樹木群は森を表している。森というと大きなイメージだが、ボスは英語ではブッシュにあたるので、林というほうがよいだろう。フクロウの背後にあるのはボスそのものということだ。森のフクロウがここでのモチーフとしては重要になってくる。ボスは大作で盛んにフクロウを描きこんでいる。ボス自身がフクロウに興味をもって、自己の自画像のように、ここに置いたのではないかと考えた。

モンスターを描いた素描もある。これらも絵画との対応は見つかっていないので、素描として独立したものだろう。矢をもちながら振り向くモンスターなどは生き生きとしており、架空の生物ではあるが、いかにも血が通って生きているという印象を与える。ボスのデッサン力を認めることができる。

図1 ボス「木男」

図2 ボス「森は聞く、野は見る」

第638回 2023年8月14

【質問】祭壇画が切断されたということだが、それぞれを切り離さずにもとの状態で見ることはできないだろうか。

 世界の大美術館に入っているので、何らかの機会に4点が一堂に会して、それぞれを額から外して、並べてみるということは可能だろう。4点が一つの祭壇画だったということがわかったときに開かれた展覧会が2001年だった。オランダのロッテルダムでボスの回顧展が開かれ、このときこの4点は集まった。額装をはずしてくっつけてみせるというところまではできなかった。修復の場合でもなければ、額縁をはずすことは少ない。裏側は一枚剥がさなければ見えない状態なので、そこまではやらない。額装の状態で保存される。研究のためにおこなうには、大きな組織で美術館の了承を得てということになる。美術館側としてはいやがる。手がつかないことが望まれるし、作品の貸し出しすら嫌がるケースが多い。板絵の場合、温湿度がしっかりと管理されていないと、少しの乾燥でも板の面がひび割れを起こしたり、剥落したりするので、気を使いながらの展示となる。スペインにあるものがオランダに行くと、同じヨーロッパの範囲だが温湿度が異なる。ルーヴル美術館のものにしても、たった一点しかないボスなので、貸し出さない。オランダでの世界規模での開催でも、「快楽の園」はスペインからは離れなかった。2001年はボスの展覧会としては、代表作を網羅したというよりも、新発見を見せるためのものだった。その後のボスの没後500年を記念して2016年にボスの住んだスヘルトヘンボスで開かれたときも、「快楽の園」はこなかった。

スヘルトヘンボスには2001年の展覧会をきっかけにボスアートセンターができて、研究の拠点になった。この地にはボスのオリジナルの作品は一点もなく、ボス周辺のものや代表作の複製を展示している。ここでなら複製を使って祭壇画の復元も可能だろう。ボスの怪物を立体にしたフィギュアが数多くつくられて、ミュージアムショップを彩っている。現代によみがえるという点では、ボスの影響を受けた現代作家のものも見逃せない。シュルレアリスムの作家も、ダリをはじめとしてボスの影響がかなりある。ボスの怪物をそのままそっくりに借用しているケースもあり、それらをターゲットにして、それらを集めてボス影響を探る展覧会も企画されている。現代のものなら収集するのも手軽で、15世紀のものの不足を補って、現代によみがえるボスという点で、見ごたえのあるものになっている。2001年からボスプロジェクトがはじまり、繰り返しアートイヴェントが企画され、ボス記念フェスティバルとして音楽会やフィルムフェスティバルにも広げられていた。ボスにかこつけながら、オランダは小さな国だが盛り上がりをみせ、幻想絵画のファンタジーあふれる夢のワンダーランド(図1)が演出された。

図1 ボス・アートセンター

第639回 2023年8月15

【質問】教会の祭壇画として置かれるには、諷刺的色彩が強すぎるのではないか。抵抗はなかったのか。

 確かに祭壇画という教会に設置し、手を合わせて祈るには、不自然にみえるものもある。サイズの大きなものもあり、ことに「快楽の園」などを置いた教会など想定できるのかという話になる。「快楽の園」の個別的な研究はかなり進んでいて、たどってみると教会に置かれた祭壇画ではなかったようだ。これが最初に記録されるのはボスが亡くなって次の年に、ブリュッセルの貴族の館にあったらしいということがわかっている。教会ではなくて貴族のコレクションのひとつであったようだ。教会に置かれる祭壇画のかたちはしているが、貴族が自分の屋敷の中に部屋をつくって、教会のチャペルのようなつくりにしていて、そこに置くというケースは考えられる。あるいはその当時は、祭壇という形をはずれて、このかたちが定着していた可能性もある。「快楽の園」の外翼パネル図1)は、劇的な効果をねらったものだ。

観音開きの大きな祭壇画の場合はそうでもないが、二つ折りのディプティークの場合は、開けて蝶番で、ちょうど本を開いてテーブルに載せるような形をとる。家庭用の祭壇画として普及していったかたちで、ボスに先立つ画家ではメムリンクがさかんに二つ折りの家庭用祭壇画を制作している。小規模なのでプライベートな個人の祈りの対象として制作された。祭壇画の形式は個人の家庭内にかなり入り込んでいたことがわかる。ボスのものも祭壇画の形式はとるが、貴族のコレクションとして注文されて、しばらくはそこにとどまって、その後スペインにたどり着いていった。祭壇画のかたちをとるので、しっかりとした備品として管理され、閉じるとコンパクトになるので、収蔵しやすい形ではある。祭壇画形式自体がキリスト教の祈りのためのもの、手を合わせて祈るものから、鑑賞の対象として用途を変えていく時代の流れがあったのだろう。

祭壇画形式自体はボスあたりで終わってしまう。半世紀のちに出てくるブリューゲルは、ボスと同質の絵を描いていくが、祭壇画という形式はとらない。今でいうタブローという四角い枠をもった一枚の絵というものだ。祭壇画も個別的にみればタブローで、絵画を縁取っており、額縁にあたるといえる。中央の場面は正方形が多く、両端は縦長になっている。タブローなら風景の場合は横長の画面となり、広がりのある絵が登場してくる。日本では掛け軸で風景を描く場合、横の広がりは期待できないので、高山をそびえたたせる。パノラマ的な風景を見せるためには、横長がふさわしい。ヨーロッパでは祭壇画という形式が解体されて、タブローに向かうなかで、新しいジャンルの絵も登場していったということだろう。

図1 ボス「快楽の園」外翼パネル