美術時評 2020/10/~

by Masaaki Kambara


人間国宝 森口邦彦 

友禅/デザイン—交差する自由へのまなざし

2020年10月13日~12月06日

京都国立近代美術館


2020/10/23

 ブラウン管の砂嵐のように見える微細なざらつきは、いつのころからかこの作家のトレードマークとなったようだ。 繊細で上品で、シャレていてなんていいのだろうと思う。着物でなければもっといいのにと思いながら見続ける。パネルになった抽象の額絵もあり、コーヒーカップのデザインもある。三越の包装紙のデザインもよく知られるものだが、一回りして見直すと、やはり着物がいい。

 画家がキャンバスからはじめ、どんなに実験して、遠回りしても最後にはキャンバスに戻るのと同じく、古い絵画形式に戻っていく。今では日常形式とは遊離したものとはいえ、キモノのもつ日本文化としての安心感は、私たちの血の中にあるのかもしれない。 

コレクションルーム秋期

2020年9月26日~11月29日

京セラ美術館(京都市)


2020/10/23

 特別展「京都の美術 250年の夢 第1部~第3部 総集編 —江戸から現代へ—」を見たあと、旧京都市美術館のコレクション展に向かう。まずは竹内栖鳳の多様な才に驚嘆し、その後のアヴァンギャルドの展開をおもしろく振り返った。

 アンデパンダン展の出品中では河口龍夫の「関係」が圧倒的に面白い。よくこんなことが思いつくなと感心する。出品にまつわる4種類の受付票が作品となって、展示されている。タイトルには「関係」とあり、それぞれに受付印が押されている。どんな作品だったのだろうかと考え始めると、ますます面白くなってくる。蛇が自分の尾を食い続けると最後はどうなるのか、あるいは嘘つきのつく嘘は嘘か否かを問うときに感じる得体の知れない不在感に、それは似ている。

第2回企画展「日本を超えた日本建築―Beyond Japan」

槇文彦/磯崎新/谷口吉生/伊東豊雄/安藤忠雄/隈研吾/SANAA/坂茂

2020年3月20日(金)~11月29日(日)

金沢建築館



2020/11/13


 ほんとうは福井と金沢の間で見たい展覧会がいくつかあったのだが、直前にクマの出没情報を聞いて、恐れをなし行き先を変更する。金津と小松を予定していたが、ともに駅から距離があって、ことに小松市が出している熊の出没マップは恐れを抱かせるに十分な迫力をもっていた。こわがりの自分が嫌になることが多々ある。2001年に自分のライフワークに取り組んできたヒエロニムス・ボスの大規模な展覧会がロッテルダムにあったとき、直前に起こったニューヨークテロにおびえて飛行機に乗ることが出来ずじまいでいた。すべてがこの調子で命をかけて仕事に没入などできたためしはない。

 金沢市内なら安全だと見つけ出したのが、最近開館した金沢建築館だった。開館後2回目の企画展が開催中だった。8人の建築家の海外での仕事を一点選んで紹介する展覧会である。もちろん金沢の人、谷口吉生のニューヨーク近代美術館の模型がひときわ大きく輝きを放っていたが、8人を同列に並べての展示であることを思えば、主観を交えずに説得力のある人選をおこなうことは困難を極める。さらに海外からどの仕事を選ぶかも難しいものだ。人選の基準は、海外での仕事とその評価にある。インターナショナルであり、しかもローカルであることが求められる。しかもそこに通底している建築家自身の作家としての個性が問われる。海外のものは私たちが直に見ることは少ない。それにもかかわらず、同一の印象を宿したとするならば、それは作家の個性だろう。簡単にいえばクセのようなもので、個性が強すぎると、鑑賞者によっては、反発を感じる時もある。

 坂茂のオメガ本社のコーナーで、映像を通して見ていたとき、どこかで見たことのある内部空間だと感じた。作家紹介を見ていて、この人が大分県立美術館の設計者であることを確認したとき、あ、そうかと思った。知らずの間に作家の息づかいを感じていたのだと思う。不合理な無駄な空間を前にしたとき、その印象は強いもののようで、心のどこかに蓄積されている。類似したものを前にして蘇ってくる。あらかじめ情報を得ていれば身構えるが、そうでない場合の出会いは衝撃的でもある。いまだ見ぬ肉親に出会った時のそれに近いと思う。

東慶寺特別展

2020年10月1日(木)~12月13日(日)

鈴木大拙館


2020/11/14

 瞑想を造形する。谷口吉生の感性が際立っている。小さな空間がどれだけ心の中で豊かな広がりを獲得できるかが問われる。前回訪れたときは、雨の中だった。囲われた四方の雨の情景を前に、内面に向かうしかなかったが、その広がりも悪くはなかった。水面に落ちる雨音を聞きながら、四方からの響きの違いを楽しんだ。今回は晴天であり、池の向こうに広がる小道の情景を思い浮かべては、心を彼方に導いていく。囲まれた外壁に施された、ところどころのほころびが、豊かで神秘的な外からの視線を幽閉している。

 四方を水に囲まれた瞑想空間には、壁がない。耳をすませば雨音も風のそよぎも聞こえてくる。日本建築なら当然あかり障子があるはずで、それが開け放されたままの光景である。今はまだいいが冬はどんなに凍えるだろうかと思うと、永平寺の座禅修行にも似た厳しい自然との共生を思い浮かべる。

 今回は大拙の名を授けた東慶寺の特別展として訪れた。副題にはThe Moon in Waterとある。「水月」と書かれた大拙の軸が展示されている。水に映る月と読むことで、この庭の禅的夜景を思い浮かべることもできるが、仏教的境地からすれば、そんなロマンチックはむしろ廃して、曜日でいえば月と水の間に「火」を欠いていると見るほうが、壮大な宇宙論に宿したプラグマティックな思想にはふさわしい。そしてそれは即「金」に結びつくことを思えば、やがては土に戻り、日輪となって循環をなしてゆくのだ。

 水月観音は何を見ているのだろうか。水と月の間には燃え盛る火が見えたに違いない。 女たちのかなしくもおかしい縁切寺の情景を描いた「東慶寺花だより」という井上ひさしの小説を読んだことがある。

バンクシー展 天才か反逆者か (ATCギャラリー)

2020年10月09日~2021年01月17日(予約制)

大阪南港ATCホール



2020/11/20


 こんな商法があるのかと驚いた。ストリートミュージシャンならぬストリートアーティストのハングリー精神が、みごとに商品化されるのだと思い知る。これまでその場限りの落書きに拍手を送ってきたのは、商品にならない作品のオリジナリティのゆえだったはずである。しかしここではオリジナルはいわば下書きであって、実作品はそれを写した版画や複製ということになる。クリストはすでにこの方法を用いたが、これまでの美術の概念を逆転させようとしていたことは確かだ。

 タブロー神話の崩壊は、メディアの拡散によって商品化される。「芸術は表現である」という20世紀のイズムを踏襲しながらも、クールにそれを乗り越えて情報が記録として価値を得る。私たちがバンクシーを知っているのは、時折報道される神出鬼没の行動を通じてである。日本にはかつて鼠小僧次郎吉なるキャラクターがいて大衆のヒーローとなった。

 壁を剥ぎ取ってまで残そうというのは、かつての美術観の名残である。剥がせない場合は、家ごと買うということにもなる。額縁に収まったこれまでのオリジナリティに再度ルネサンスが試みられる。それを壁画の復活と見てもよい。かつてメキシコに起こった壁画運動は高みに上り詰めた絵画を民衆の目線に引き戻す社会運動だった。つまり日常生活のレベルに芸術が紛れ込むことで、背景をなしていた社会に再度目が向けられる。ロンドンやパリやニューヨークの薄汚れた場末の路地が、一枚の落書きによって活性化する。それは大都市の目に見えない現実のルポルタージュだという限りでは、エコールドパリの申し子でもある。

 若者で賑わいを見せる現代展は、老人が訪れる古美術展とは異なって、絵になるスポットを写し込んでは配信する。そこではもはや旧来の美術鑑賞の姿はない。

ヨーロッパの宝石箱 リヒテンシュタイン侯爵家の至宝

2020年09月18日~2020年11月29日

広島県立美術館


2020/11/27

 小国だが格調高いコレクションに、心地よい味わいを感じる。公式の大広間に置く大作よりもプライベートな私室に何気なく置かれたような風景画や静物画の小品がいい。言い換えればロココ調だということだが、大国ぶらない小国にふさわしい肩の張らないサイズが輝きを放っている。

 肖像画には見知らぬ人との出会いに、心ときめく一瞬がある。金髪の柔らかなきらめきに、少年や少女のみずみずしい感性を感じ取ると、自身の失いかけた命の老化に爽やかな息吹きを与えてくれる。古美術なのに新鮮で清々しい。大画家の名も混じるが、無名画家の様式史は、ルネサンスからロココまでの確立された伝統美を伝えていて、安定感がある。

 絵画を中心に王家の歴史が語られるが、陶芸が最後を締めくくっている。かわいいティーカップの品の良さを印象に残しながら、余韻を感じさせるセレクションだったと思う。咲き誇る花瓶の花が、絵画のアイデンティティを主張する。一方プレートやカップは、輝く地肌をきわだたせ、絵画を超えて自己の優位を主張している。

 以前東京で喧騒を避けて素通りした記憶があるが、広島に来てよかったと思う。夕暮れ時に大都市であわただしくそわそわと見る、群衆との同調を避けられただけでも収穫だったように思う。

2020-Ⅱ コレクション・ハイライト+特集「肖像(わたし)」

2020年08月06日~2020年11月29日

広島市立現代美術館


2020/11/27

 かなり長く閉館するというので、これまでの思い出にと常設展を訪れる。20世紀の現代美術を通観するときの重要な作品が、かなり含まれていて勉強になる。アンディ・ウォーホルのマリリンモンローはどこにでもあるものだが、色ちがいが複数枚並ぶとやはりいい。半世紀も前のものだが、古びていないおしゃれな感覚に驚く。

 広報の表紙に使われた石内都の口紅のクローズアップがいい。母の思い出だろうが、古びていて味わいを残してたたずむ姿に、モノに託された愛惜を読み取ることができる。見ようによればライフルの薬莢(カートリッジ)を思わせるところが興味深い。それは戦いの痕跡であり、横須賀や港町の居留地に共通した、酒場女の残した武器にも見え出してくる。

コレクション展Ⅳ 「慶雲-行く年来る年-」

2020/11/28(土)~2021/2/7(日)

華鴒大塚美術館



2020/11/28


 井原鉄道沿いの三つの美術館は、いつも一日でめぐることにしている。今回は半日しかなく、時刻表をにらみながらそれぞれで一時間の滞在時間を確保するには、あまりにも本数が少ない。唯一の選択となったのはお昼に福山を立ち、子守唄の里高屋から矢掛に向かい井原に引き返して福山に戻るというコースだった。

 見たいと思っていた児玉知己展は終了しており、常設展だけだったが、美術館というよりも家屋といったほうがよい趣きのある展示室と庭園の散策は、日常の装いをとどめて心地よい。絵が絵画として自己主張せず、壁に埋没する一体化は、西洋文化に対抗して、風流を前面に持ち出しての美意識だと気づくことになる。それを季節感と呼ぶことで、今回の「慶雲」を思うセレクションとなり、日本画という茶掛け文化の源流に触れることができた。

 丑年にまつわるコレクションの選択が続くなか目にとまったのが、池田遙邨だった。題名には「春日参道の雪」とあるが、雪のなか七つ並んだ灯籠がいい。頼りなげでしっかりと立っていないのが、必ずひとりはいる。軍隊の行進だとすればピンタに値するが、このリベラリズムが私は好きだ。

開館30周年記念特別展 「なばたとしたかこびとづかんの世界展」

2020/10/31(土)~12/20(日)

やかげ郷土美術館



2020/11/28

 かつてこびとづかんを面白がっていた孫も、今は中学生になってしまっている。やかげ郷土美術館をこの前訪れたのはノンタン展だったが、今回もこの重厚なたたずまいの建築との違和感を楽しんだ。土曜日だったせいもあるが、こんなに子どもがいるのかというほど、静かな界隈は賑わっていた。

 作品鑑賞もさることながら、子どもたちのエネルギッシュな喧騒こそが、鑑賞の対象となる。絵本はそれに出会う手がかりに過ぎないといえば、展覧会の企画をおとしめることになってしまうが、郷土が明日に生きるための生命線でもあるはずだ。もはや倉敷の大原美術館を持ち出すには、古びた感がある。若い家族がベビーカーを押しながら訪れるには、それは権威となりすぎてしまったようだ。やかげの取り組みは今後も続くだろうし、応援していきたいと思った。帰りがけにかたわらの池で見事な鯉の群れにこの日も出会うことができた。

没後110年 荻原守衛〈碌山〉—ロダンに学んだ若き天才彫刻家—

2020年10月09日~11月29日

井原市立田中美術館



2020/11/28


 若い才能の評価は作品数が5点もあれば十分だ。「デスペア(絶望)」を見ると、ロダンばりの裸婦の背中が見せる表情の豊かさは、悲痛が先行しているとはいえ、日本人離れして見える。

 最終的には「女」に行き着くが、日本を取り戻すぎりぎりの選択だったようだ。小柄の女性である。不自然なポーズでの停止は、腰をかがめることに苦のない農耕民の土着を意味するのだと私は思う。長い脚で飛び跳ねるバレエダンサーとは対極にある土臭い粘りが、粘土の組成と呼応している。土をこね耕すときと、田に苗を植えるときとは、自然は異なったふたつの表情をみせる。人のがわに立てば、発見と発明の区別となるが、挑戦と祈りと呼び換えてもよいだろう。

 地面から生え出て伸び上がろうとするしぐさは、不在の重さを背に感じている。後ろに回した手がその不在の重みを支えている。前に伸ばされた顔が、その重みを確かめようとして振り返っているようにも見えるとすれば、それは他ならない日本人の見せる「子守り」の姿と重なってくる。西洋美術で定番の聖母子像には子を背負うかたちはない。この日本独特のかたちに託して、日本のロダンを模索した荻原守衛が挑戦をしかけたと受け止めてよいだろう。

 さらに深読みをすれば、不在の子とは何を意味するのか。母と子で言えば、ミケランジェロのロンダニー二のピエタは、母が死せる我が子を後ろから抱きかかえているが、見ようによれば、子が老いた母を背負っているようにも見える。それは子を背負う子守唄の図像学に根ざした日本人特有の解釈かもしれない。背負うもののないはずの女の背に、はっきりとした重みの跡が、肉付けを通して見られるように、私には思われた。モデルとなったのは守衛最愛の相馬黒光である。彼女は息子をひとり亡くしている。夫に代わり守衛はよく子どもたちの面倒を見ていた。道ならぬ恋に悩む封建と自由の狭間での、進歩的な女性のもつ前進と後退が、守衛の手を借りて、見事に造形に象徴されて見え出してくる。

 何年か前、新宿中村屋のギャラリーで見た時は、あまりにも手狭だった。今回、井原であると知り最終日にやっと間に合った。この企画展を最後に長期休館に入るようだ。この先の訪問はいつになることか。冬の日の夕暮れは早く、感慨深く足早に井原の駅へと向かった。

香川元太郎の世界展

2020年12月5日 ~2021年2月7日  

芦屋市立美術博物館


2020/12/05

 これはおもしろい。作者のこだわりが一作一作から伝わってくる。画面は三つの要素から成り立っている。第一はテーマの問題。日本の歴史からスタートして世界史に広がっている。自然に目が向かうと宇宙や恐竜。昆虫と海洋。それらは図鑑に展開できる知識体系をなし、学童を面白がらせながら、知識へと誘導する。道を通して社会構造を教えようとして「迷路」が導入されるが、これが第二の要素であるゲームとなる。ゲームは迷路だけではなく、人間の想像力の問題へと展開する。これが第三番目のテーマ、アートの問題となる。

 レオナルドダヴィンチは目に見える世界をとことん追究したが、それらはすべて絵になった。そして科学を超えて芸術となった。香川元太郎の絵本世界は、美術史のメインストリームに根ざしていて、単なる流行の産物ではないように思う。隠し絵的要素は「ウォーリーを探せ」に同調するが、さかのぼればエッシャーに、さらには同郷のブリューゲルに行き着くし、同じ文化の系譜は遠近法が紹介された江戸の好奇心のなかで、北斎に結晶するものだ。

 具体的にいえば階段の多用は、エッシャー空間と共通するが、違うのはここでは重力の法則にのっとったリアリティを崩さないという点だろう。バベルの塔はブリューゲルが下敷きになっているのは間違いない。アリのような人間のちっぽけな営みを、ブリューゲルは否定しているわけではなく、好奇心をもって眺めている。道が迷路のように続く俯瞰的構図は、北斎の「百橋一覧」を想起させる。本当に橋が百、描かれているのか数えたくなってくるとすれば、ここでの興味と共通するものだろう。

 ロビーに設置された実物大の迷路は、飛び出す絵本と見てもよいが、美術館での展覧会というスタイルを維持するには、欠かせないアイテムで成功している。絵本作家の美術館での展覧会が増えているが、印刷メディアをメインとする場合、原画展だけではあまりにも芸がない。ディスプレイにかかるコストも考慮する必要はあるが、絵本の販売目的と見られないためにも、工夫のしどころだろうと思う。平日のせいもあるのだろうが、意外と高齢者の鑑賞が目についた。65歳以上半額という意味は、学童以上に脳の活性化を求められる世代への配慮だったように思われる。

第10回 I 氏賞受賞作家展

2020年11月8日-12月20日

岡山県立美術館


2020/12/10

 金孝妍、中原幸治、吉行鮎子、小林正秀の4人の作家のオムニバス展示であるが、場の共有を超えて響き合うインプロビゼーションを期待してしまうのは、「シュプール」という統一テーマが掲げられていたからかも知れない。もちろんすべての美術作品はシュプール(足跡)なのだが、これをインスタント(即席)と語呂合わせにすれば、即興のもたらす絶妙の一瞬が渡来するように見える。

 金孝妍の描いた巨大な満月を中原幸治の指先の陶彫が支えている。場の共有が見事に美術館で一期一会の邂逅を果たしている。その一瞬のあるかなきかの出会いを求めて、命なき美術が息を吹き返し、パフォーマンスと化すのだ。オムニバスとはそういうものだと思う。閉ざされた空間の裂け目を狙い撃ちするように、阿吽の呼吸が聞こえだすと、偶然のセレクションが意味を持ち出してくる。

 25歳でのはじめての海外旅行で、エッフェル塔を指先でもちあげる写真を撮ったことがあるが、それは今も私とエッフェル塔の存在証明になっている。

高橋秀の世界 祝文化功労者 

2020年11月14日(土)~12月20日(日)

倉敷市立美術館



2020/12/10


「イヴの果実」のエスキースという作品があった。あっと驚くイメージの連鎖に唸り声があがってしまった。イヴの果実とは、もちろんリンゴのことだが、軸というか芯にあたる部分がないので、タイトルがなければ気づくことはないだろう。そんなふうに見えるのかという驚きだけなら、作家の個人的なレベルの妄想で終わってしまう。

 しかし、ひょっとするとリンゴをふたつに割った時、生命の神秘を宿したカタチが出現するのではないかという生物学に裏付けられた深層の原理に触れた思いがした。リンゴでなくとも、桃尻女ではないが、どことなくエロチックな連想は、果実を新生児になぞらえてみれば、ゆえなきことではない。エロスの画家などという下世話なネーミングではすまされない宇宙の真理の扉が開かれようとしているのだ。

 それは桃太郎伝説の秘密にまでつながるものかもしれない。昔話は大いなる宇宙論の宝庫なのだから。もちろんエデンの園伝説さえ例外ではない。美術館に常駐される大作「出現」を再度見直しながら、黒いリンゴの誕生に大いなるイメージの連鎖を感じ取った。

名都美術館名品展 優艶なる日本画

2020年10月17日~2020年12月13日

笠岡市立竹喬美術館



2020/12/10


 上村松園がずらりと並んでいる。「人生の花」を先頭にして一人立ち美人図が続く。花嫁とその母のようだが、私の目には男女の道行のように見えてしまう。娘の伏し目が哀しみを宿しているように思えるからだ。花嫁姿は必ずしも喜ばしいことではない。ことに花嫁になりそびれた松園が描くと、真実味を増してくる。

 美人画だけかとみくびっていた展覧会だが、ひとまとまりの風景画が続き、ほっとする。風景画は網羅的で作家の数を増やしてバラエティに飛んでいる。美人画から風景画に推移するのを見ると、江戸で終わったはずの浮世絵の展開と見えなくもない。清楚な響きの中に、肉筆画のもつ濃厚な蘭潤が匂い立つ。

 美人画は作家を四人に絞り込んでボリュームを感じさせる。上村松園、伊藤小坡、伊東深水、鏑木清方。男の描く美人画と女の描く美人画の違い。京女と江戸の女の比較などに思いを馳せるよい機会となった。個人的な好みでは鈴木春信から小村雪岱に続く初々しさをよしとする。

 宮尾登美子が描く松園をはじめとした女主人公たちと比較してみたくなる。先般、東京国立近代美術館で見た鏑木清方の「築地明石町」は、きりりとしたたたずまいを残し、確かに江戸情緒の女だった。松園の描くりりしさとは少し異なるようだ。どちらが気が強いだろうかなどと考えてみる。それが江戸と京の違いなのか、男女の目線の差なのかは定かでない。