イサム・ノグチTOOLS

2023年03月04日~05月07日

竹中大工道具館


2023/3/31

 みどころはイサム・ノグチにとっての道具である。この美術館で有益なのは、この彫刻家が何よりも道具にこだわったということだろう。彫刻を頭でつくっているのではない。道具でつくっているのだという表明がそこにはある。彫刻を並べずに道具が並んでいた。美術展を見慣れた目にはそれは衝撃的な光景だ。絵画展で絵が並ばずにパレットが並んでいるのを思い起こすといい。

 奇妙な光景ではあるが、両者はネガとポジの関係にある。切っても切れないパートナーといってもよい。ふたつが合わさったところにアートが生まれる。道具がえぐれば、素材はえぐられる。それぞれに介在した作者は、両者を取り持ったかけがえのない存在でありながら、何と短命なことだろう。道具は錆びてはいるが健在だ。素材は輝きを増してさえいる。

 道具がすでに美しいが、それはそれを使う人の思い入れ、あるいは思いやりのせいだろう。道具にはノグチの手のあとが残っている。木材や石材よりももっと手の汗が、体臭が、情念がじかににじんでいる。にもかかわらずそれらの道具をみて、イサムノグチを思い浮かべることはできない。職人の手のあとが、同じようにしみ込んでいるのに、それによって生み出され、変貌する石や木はノグチそのものである。

 このことは何を意味するのか。筆を選ばずという教えもある。いくらよい道具を集めてもものにはならないということは、古人の有名な随筆にも書いてある。反対に素材や道具に頼る場合も多い。もちろん作家の資質にもよるのだろうが、ノグチの場合、道具に神的なパワーを感じていた。それは神秘の国ニッポンがもたらした霊気といってもよいものだ。

 いい道具を持っているのになあという感慨で、ため息が出る場合がある。書道の場合は、墨や筆や硯ということになるが、そんなものを無視した破調に、書の本質はあるのだということもできる。利休は茶の湯は、ただお茶を飲むだけのことだと言った。にもかかわらずお道具には、格別のこだわりを示す。この分かちがたい両者の緊張に、ノグチの追い求めたものもあるにちがいない。ブランクーシからもらった道具は、霊気をやどした神器だっただろう。古来より道具が用途をなくして神に捧げられてきた系譜がある。そうした自然に対する信仰を、この展示のすみずみに感じ取ることができる。作品を借りてきたのではない、作品を生み出した道具が、はるばると海を渡ってやってきた。月の石が展示されたときの、くらくらっとした感動に似ている。それは作品以上にノグチそのものだったようにみえた。いい道具はおしなべて、使い込まれている。一度錆びて、再生してきた姿だといってもいい。これを西洋ではルネサンスと呼んだ。キリスト教的にいえば復活の思想ということになる。

 ノグチは放浪者だったが、林芙美子のように親に連れられて各地を遍歴したのではない。自ら選び取って訪ね歩いた。放浪者と言わないほうがいいだろう。この魂の巡礼者が放浪記の最後にたどり着いたのは、香川県牟礼町だった。そこには大理石よりもかたい確固とした素材があった。弘法大師の生まれ育てた確固とした信念といってもいいか。野辺のお地蔵さまの頭に感動しているのは、それを高僧がなでたからではない。無数の無名の民の手がなでたからだ。それはブレることのない、まだ見ぬ父の国だった。なまの素材と道具と、忘れ去ろうとする日本語の息づいた、英語で美辞麗句を並べ立て、おだててくれるような地ではなかったのである。


by Masaaki Kambara