ミーシャ・ラインカウフ Encounter the Spatial—空間への漂流

2022年10月01日~10月23日

京都芸術センター


2022/10/1

 2本の映像作品が上映されていた。寝そべりながら長い画面をゆったりと鑑賞した。「入国禁止のフィクション」Fiction of a Non-Entry 2019では、水中を歩く涼しげな光景が続いている。音響は音楽とは言いがたい日常音で騒音として響いている。文字もナレーションもないので、映像と効果音だけからメッセージを読み取るのは、難しいかもしれない。海底にひかれたロープが長写しになるのを見ながらはっとするには、それが領海を隔てる境界だという説明が必要になる。

 テーマは「国境」にある。この避けがたい不条理な不可視の線について考えようとしているのだとわかると、そのシーンが意味をもって見えてくる。長らく張られていて、ロープは長い経過をへて一部が摩滅して、やがては切れるだろうと予測される。国境だと考えると、確かにこれは暗示的で興味深い。魚の群れはそこでは自由にゆききしている。人間は潜水服を着て足を取られながら前進している。もちろん地上でも空を飛ぶ鳥には国境線はない。

 もう一点「内生的エラー」Endogenous Error Terms 2019は、洞穴から光の方向を見たようなシーンが連続する。地下の下水道に入り込んでの撮影で知られる畠山直哉の写真を思わせるものがある。橋の下から眺めあげ、マンホールのふたごしに空を見るようなシーンは、中世のステンドグラスである薔薇窓を見ているふうでもある。外光をあびてなんの不自由もなく歩く人々が写されている。逆のダークサイドに目を向ける者はいない。自由と束縛という対比をなす対概念が思い浮かんでくる。国境にも似た光と闇の別れ目がある。

 ふつうは穴の中に何があるのかをのぞき込むのだろうが、ここでは逆で外界には何があるのかと観察する。束縛から逃れることのできない牢獄的状況が演出される。闇の側に何があるのか、だれがいるのかは、写し出されることなく不明のままだが、工事現場のような騒音が鳴り響いている。つまりその音は私たち観客が聞いているのではなくて、地下にいる者の耳にこだましている。死と隣り合わせになった炭鉱労働者を思い浮かべてもいいし、牢獄に囚われの身となった罪人であってもよい。

 ともにタイトルを見ているだけでは、何のことかはわからない。地下のシェルターや下水道がインフラ設備であることに気づいたときに、巨大な国家権力の目に見えない怖れにおののくことになるのだが、そんな象徴性をわからずとも、シェルターが内包する安堵感に支えられて、光と影の構成だけで十分に絵になるものだった。


by Masaaki Kambara