ジャンルノワール

カトリーヌ1924/水の娘1924/女優ナナ 1926/マッチ売りの少女1928/のらくら兵1928/坊やに下剤を1931/牝犬1931/十字路の夜1932/素晴らしき放浪者1932/ゲームの規則1939/スワンプウォーター1941/南部の人1945/1952大地のうた1955/大河のうた1956/大樹のうた1959)/草の上の昼食1959/ 

第32回 2022年11月28

河1952

 これまで見てきたジャンギャバンの映画「大いなる幻影1937」「獣人1938」「フレンチカンカン1954」を手がけたジャンルノワールの監督作品を、次にまとめてみておきたい。まずはインドを舞台にした「河1952」から。

 インドのことがよくわかる情報番組とも受け止められるが、普遍化できる原理として、三人の娘たちがひとりの男をめぐって繰り広げられる、心の動揺がメインストリームとなっている。三人のうちの一人が私という名で、ナレーションを語り、揺れ動くデリケートな娘心のありかを告白している。負傷して義足となったアメリカ兵の若者は、見ようによれば三人の娘を手玉に取るプレイボーイなのだが、さわやかな博愛精神を宿している。おおらかなアメリカ人の典型といってもよいだろう。監督のジャンルノワールはフランス人で、アメリカに渡りメガホンを握る。人種の問題が底辺に横たわっており、これも普遍性をなすテーマだ。そこで舞台に選んだのがインドというのがおもしろい。白人の目を通してだが、肌の色のちがいを越えようとしているのがカメラワークからわかる。

 ショッキングなシーンがふたつあった。一つは別の娘がアメリカ青年と濃厚なキスをする。そのあとに続くショットで、私ともう一人のライバルが並んで、それをのぞきみしているシーンがはさまれて、思わず笑ってしまった。もう一つは縦笛を吹いていた弟がコブラにかまれて死んでしまい、しげみの中で倒れているシーン。インド式の葬列も興味深く、カラフルな花で飾られている。淀川長治はこのカラー映画をアメリカで封切り時にみて、その色彩を感動的に語るのだが、半世紀を越えたいま、私の見たフィルムは無残にも劣化していた。

 インド人との間に生まれたもう一人のライバルがインド舞踊を披露する場面は、いろあせることなく感銘を受けるものだった。西洋にはないしぐさのはしばしには、奈良の仏像に残されているそれとそっくりな一瞬があり、興味深かった。必要以上に長い舞踊場面は、これに魅了された監督の姿を思い起こさせるものだ。インドの風習が散りばめられている。地面に描く砂絵から映画は始まるがこれも美しい。白人によるアジア支配という時代の現実も、見落とすことのできない無意識の構造だと思う。

第33回 2022年11月29日 

南部の人1945

 ジャンルノワール監督作品。家族が新天地の土地を耕してやっと一息つけるまでに至る話。河や大樹や大地といった自然の恵みに人間の営みを委ねる一連の作品群に同調するように、ここではアメリカ南部の自然が映し出されている。綿花の咲き誇る畑からスタートするが、綿の収穫など見たこともない目には新鮮に映る光景である。そうした自然の描写を伴いながら、そこに息づいている人々のドラマが上書きされていく。


草の上の昼食1959

 ジャンルノワール監督作品。科学的に割り切る理知的な知能が、割り切れない愛に目覚める物語。笛を吹くと嵐が起こり、人心を狂わせる。ここでは執拗なまでに長い嵐の光景が、ルノワール映画の特徴をなし強調されている。合理主義は非合理を前にして、それでも何とか科学的に説明しようとするのだが、どうにも説明できないものがあるのだということを、映像を通して考えてみようとする。インドにカメラを向けるのもそのゆえである。そこには超然として流れ続ける「河」があった。

第34回 2022年121 

ゲームの規則1939

 ジャンルノワール監督作品。ドタバタ喜劇のふうはあるが、最後はしゃれた終わり方をしている。殺人事件にまで至るが、嫉妬を起因とする人間関係の悲劇である。夫婦がそれぞれに不倫をおかしているという複雑な関係があり、それに別の夫婦が加わり、さらにはこの映画の主人公である飛行士が、英雄像を演じきれずに誤射のすえ、殺害されてしまう。不倫には深入りしないというゲームの規則があるが、その禁をおかすと死にまで至るのだということでもある。狩猟の場面が必要以上に長く撮影されていて、逃げまわるウサギが狙い撃ちをされて即死する姿が何度も繰り返される。主人公が死ぬのもまた、何も知らないままの即死だったが、相手の人妻は悲しんでいるふうでもない。

第35回 2022年12月5 

スワンプウォーター1941

 ジャンルノワール監督作品。見ごたえのあるよくできた映画だった。おどろおどろしい沼地の自然で撮影されたワニの迫力はその後いつ出てくるかと恐怖をいだかせるもので、ルノワール独特の自然主義へのこだわりが示されている。これまでにもヘビやサルやウサギを生々しく登場させていた。このままハッピーエンドで終わるのかと、最後まではらはらさせるのは、スリリングな映画の醍醐味となっている。無実の罪だが逃亡して密林の湿地帯にすむ男が、残してきた娘と再会するまでの物語。愛し合う男女や親子の間に横たわる愛情と不信が、みごとに描き出されていて、アメリカの田舎での狭い世界の話ではあるが、普遍性のある教訓を含んだ内容だった。人を信じるか信じないかのぎりぎりのところで、命を賭ける選択があるのだということも教えてくれる。無実の罪人を救う若者が主人公だが、この若者が真実の愛を見つけるまでの姿が並走している。無謀な息子を叱りながらもそれを見守り助けようとする父親の存在も見逃せない。悪人がくっきりしすぎているのは、今では物足りないかもしれない。

第36回 2022年12月6

大地のうた1955

 ジャンルノワールがインドで「河」を制作したことから、その影響下にインドの映画人が誕生した。淀川長治の推薦と解説に導かれてサタジット・レイ監督のインド映画を楽しんだ。色彩のみごとさが強調されていたが、60年以上を経過してフィルムは色あせている。年月を経ても、民族が異なっても変わらないものがある。だれもがいだく感情の普遍性を感じ、考えさせられるものとなった。ここで目を向けられているのは、母であり妻であるひとりの女性の感情だろう。夫は学歴はあるが収入はない。子どもふたりをかかえて貧困を生き抜いている。叔母も身を寄せるが、ついつらくあたってしまう。夫は稼ぎに出かけたまま何ヶ月も帰ってこない。二人の子どもは姉と弟。弟のほうをかわいがり姉はヘソを曲げている。姉は弟を憎むがすぐになかよしに戻っている。日本でもよくある人間関係が展開する。夫は極楽蜻蛉いつもニコニコしている。妻は憂鬱げいつも暗い顔をしながら、手は常に動いて内職をしている。経済的には困窮していても僧侶の妻というプライドを持ち続けていて、隣人の好意も素直に受けようとはしない。雨にうたれて熱を出した娘をなくしてしまう。

第37回 2022年12月7

大河のうた1956

 サタジット・レイ監督のオプー三部作の二作目。ガンジス川を背景に事件は進行する。ジャンルノワールの「河」を思い起こさせる。聖なる水を口に含んだ途端に息絶える父親の姿が衝撃的だった。母ひとり子ひとりとなってしまった家族のゆくえは、子が学問に目をひらき、母を捨てるところで終わる。貧困のなかなけなしの蓄えを手渡して息子を都会にやる。母と息子の関係はよくある話として、普遍のテーマとなるものだ。息子は学問にめざめ、僧侶という家業を継ぐことを拒絶する。家を去り都会の大学に進学するが、思うように成績は上がらない。母は息子といっしょに暮らしたいと願っている。母の死に目に会えない結末は、息子の自立の意思表明でもあるのだが、待ち焦がれながら死んでゆく母の姿はさすがに悲しい。

 映像美という点からは、寺院にすくう猿の群れを長く写していたのが印象的で、それにエサを与える少年オプーの姿があった。時の経過はオプーが少年から青年に突然変わる俳優の交代によって示された。頼もしい知性あふれる姿だったが、家を捨て母のもとをさる第一歩でもあった。第三部はオプーのその後のいきさつが描かれるようだが、野望をいだいて都会をめざすよりも、幸福論からいえば、死んだ父のあとを継いで貧しい僧侶となって母のもとで暮らす選択肢もあったのになと思った。

 家族の死が最大の、かつ普遍的なテーマなのだと思う。第一作の大地のうたでは、姉が死んだ。ここでは父と母が死に、弟であるオプーが、母に代わって主役となって終わる。余韻を残すラストシーンだった。

第38回 2022年12月9

大樹のうた1959

 はじまりはスコールからだった。日本では見かけることのない大雨からスタートする。オプーはシャワーを浴びるように雨を楽しんでいる。第一作ではこの雨にうたれて、まだ幼い姉は死んだ。死は避けては通れない定めだ。ここでも突然の死が運命をかえてしまう。今回は若妻である。幸せになりかけると、急転直下、逆転してしまう。出産で子が死ぬ場合もあれば、親が死ぬ場合もある。どちらか一方の選択を迫られれば、母体をえらぶことになるだろう。子が生き残った場合、母を死に追いやった恨みにつながるのかもしれない。子の顔も見ることなく放浪を続ける非情を憤りながら、見るほうは期待している。いつか母のおもかげを残す子と出会うにちがいないと。ラストの10分間は感動的だったが、やはり都会がいいのかという懸念も残った。三部作を通じてジャンルノワールの魂がインドで開花したのだと思った。

第39回 2022年12月10

素晴らしき放浪者1932

 ジャンルノワール監督作品。とんでもない人間だが筋の通った生き方というのはあるものだ。身投げをしたのを助けられた浮浪者ブドゥが、助けられた家で好き放題をする。主人が自宅に住まわすことになると、飲み食いだけでなく家の女中に手を出すわ、おかみにも手を出して、野蛮なまでの男のフェロモンを発散する。笛を吹くと心が動揺して事件が起こるというのは、その後の映画でもルノワールが繰り返し用いるモチーフである。

 古書店を営む旦那が川に飛び込んで溺れるのを助けるのだが、この勇気ある行動で表彰を受けることになる。主人はこの厄介者をなかなか追い出せないでいるところ、浮浪者のもっていた宝くじがあたり、偶然手にした大金で世界は一変する。目をつけていた女中と結婚することになる。女中は旦那から目をかけられていたが、これまで嫌悪していた浮浪者の強引さに惹かれてもいた。おかみも同様にこのたくましい野生に身をあずけてしまう。

 結婚を祝って正装をしてみんなで舟遊びをしていると、急に舟が転覆する。浮浪者だけがひとり流されて行方不明になるのだが、どうも計画的に姿を消したように見える。再び浮浪者の生活に戻り、気楽な生活を楽しむようにして映画は終わる。浮浪者には飼い犬がいて、冒頭で逃げ出して追いかけるのだが、最後まで出てこなかった。この黒犬が何らかの関わりをもってくるのだろうと注意して見ていたが、犬はその後どうなったかが気にかかる。浮浪者のように気の向くまま暮らし、そしてまた浮浪者のもとに戻ってくるのだろう。この映画に限らずルノワールは動物の使い方がうまい。


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