美術時評 2026年
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2025年9月20日(土)~2026年2月1日(日)
2026/1/9
4ヶ月を越える長い会期だったが、終わりがけになってやっと訪れた。いまさらゴッホでもないのだが、世代が代わってもいつまでも古びることなく、人気が続いているのに驚く。大変な人混みだった。最近は混まない展覧会をねらって見ていたので、腰が引けてしまう。
油彩画がすごいところは、描いた画家がすぐそばにいて、息づかいを感じさせる点だと思う。ことにゴッホの場合は際立っている。はじめて見た頃から何十年もたっている。ゴッホが生きていた時代から数えれば、どんどんと時間は過ぎ去っているはずだ。
油彩画ははじめ物を客観的にとらえようとして、15世紀に誕生したが、そんな冷静なはずの画材を、作家個人の感性の発露として、ねじ曲げていったのが油彩画の歴史である。
ゴッホは19世紀から続くそんな系譜の完成の時代に位置する。「夜のカフェ」にしても、黄色の絵の具の盛り上がりを見ながら、その一番近い位置に今もゴッホがいるのだという気がする。気づく。
クレラーミュラー美術館へはこれまで二度足を運んだ。最初は1977年のことなので、半世紀も前になる。二度目は若い日の記憶をたどる、青春プレイバックの旅だった。
アムステルダムのゴッホ美術館とは、ついつい比較してしまうが、偶然なのか今回の日本でのゴッホ展でも同時期に、二つの展覧会が開催されていて、両美術館の力くらべの様相を呈することになった。どちらのコレクションが充実しているかというバトルだが、私見では交通の便を考えれば、クレラーミュラーに軍配をあげたくなる。
今はもっと簡単にアクセスできるのかもしれないが、1977年当時、ローカル鉄道と路線バスを乗り継いで、美術館近郊まで行き、そこからてくてくと歩いてたどり着いた。アムステルダムからの日帰りの旅だった。
牧草地のホルスタイン種の牛を、横目で見ながら写した写真が、今も手もとに残っていて、美術館やゴッホ以上に、みごとな田園風景が輝きを放っている。徒歩ではもう限界だと思ったころに、自転車が乗り捨てられているのを見つける。園内を自由に乗り回せるようで、何台も放置されていた。
乗ろうとしたが、どれもサドルがなくなっていて、あきらめるしかない。立ち去ろうとしたときに、ひとりの若者がやってきて、草むらからサドルを取り出して、自転車につけて走り去っていった。
隠していたのである。なるぼどと感心しながらも、腹立たしい記憶としてクレラーミュラーといえば、今も思い出す光景となった。このときゴッホの「夜のカフェ」も見たのだろうが、画集で知っていた以上の印象はない。
残っている写真アルバムから判断すると、スーラの大作や、マルタパンの池に浮かぶ彫刻に向けて、夢中にシャッターを切っていたようである。今と違ってフィルムは貴重だ。一日一本で100本もってのバックパックだったが、それだけでも結構重たい。だから乗り捨てられた自転車の写真はない。
もう訪ねることもないだろうと思っていたが、向こうからやってきて、思わぬ拾い物をしたような気がする。ゴッホを評価し、継承してきた意志の力に、あらためて敬意を表しておきたい。