美術時評 2018年6月
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2018年6月9日(土)〜7月29日(日)
富山県美術館
2018/6/30
空海のお寺に日本画を奉納する。そのお披露目の展覧会である。主題は崖と滝である。ともに空海という名には不要なものであるという点で興味深い。この高僧にとっては空と海との間には何もない。あるとすればまっすぐに引かれた水平線が一本だけだろうが、それでは絵にはならない。
ニューヨーク在住の画家の手にかかるのなら、滝というよりもウォーターフォールという方が良いだろうか。滝で一躍名を成した日本画家である。横の広がりはナイアガラの滝であって、那智の滝ではない。しかしその深淵に神の存在を認めるという点で、自然宗教に根ざした共通する幻想原理が横たわっている。
滝とは何か。水の落下であるが、よく見るとそればかりではないことがわかる。絵の具は重力に従って下に向かって垂れ下がる。しかし目を凝らすと白い胡粉が樹木のように枝分かれする光景に出くわす。
まるで神秘の森を彷徨する幻想であるかのようだ。木々は重力に逆らって枝を伸ばし上昇する。落下も生命力の発露だが、上昇は成長と言ってよい意志の力を伝えるものだ。自然の猛威が人類の意志とぶつかり合う。そこに生まれたのがこの壮大な構想だったようだ。
さらに目を凝らすと水が立ち上がるようすが描かれている。滝が水面を叩きつけて、反射的に上昇に向かうのは道理であるが、そこではまるで噴水のように機能する。
水は柱となって自己主張をしはじめるのだ。実に多様な水の命が描きこまれる。滝の落下に逆らって登りはじめる奇跡の鯉がいて、登り切ると龍になるという壮大な神話は、東洋の画家たちを魅了してきた。
最近もいくつかの鯉図に出くわして、鯉の滝登り伝説を思い浮かべたが、ここでは逆に水の落下だけが描かれていて、鯉の上昇を思い浮かべることになる。どこを探しても鯉も龍もいない。
闇に輝く水はしぶきを上げて、白い斑点が無数に散りばめられている。それは水しぶきを越えて、宇宙の星辰にまでイメージを広げていく。辰はまさに龍の神秘を語る宇宙原理の語であった。このことは少し前に世田谷美術館で見た高山辰雄の世界観でもあった。
展示は高野山へのオマージュだけでなくこれまでの旧作に加えて、新しい実験も見られた。そこでは滝の白い水しぶきにブルーライトをあてて魔法の美術館になってしまっていた。
しかし今はやりのプロジェクションマッピングの下絵になる必要はまったくなく、チームラボの下請けにならないことで、日本画のアイデンティティを保ってほしい気がした。
静のなかに動を見る。無色のなかに色を読む。これが日本画の本質であり、自力のイマジネーション以外は大きなお世話であって、何よりも画材と技法の妙によって目を近づけさせてきた鑑賞法を、自ら否定する必要はない。
和紙を揉んだり広げたりしながら、手探りで見つけ出してきた遺産は、光のフィルターをかけなくても、それだけで輝いているのだから。
2018年4月28日(土)~ 9月3日(月)
2018/6/16
ガラスが素材であるということを高らかに歌い上げないスタンスがいい。人間的日常が感じられて好感がもてる。そのぶんガラスに頼らず、素材を高邁な哲学的思想にもちこむのではなく、積み木を並べるように遊戯化してみせる。肩の張らないシンプルな形の探求は、「家」というシリーズに集約されている。
将棋の駒は立てて積めるだろうか。窓もないただの立体だが、個々の形が独立して、暖かく温もりのある輪郭だ。家は並べるしかないのだ。そして独立と共生を語り出す。子どもに夢を与えるとすれば、積み木の原点ともみなせるからである。
キューブといえども、表面は柔らかく湾曲していて、上に積み重ねられない形で独立している。そして積めない積み木という一点に、すべての作品群の特性が集約できそうだ。
素材に頼らないだけに、作風の多様性に賭ける作者の遊び心が際立っている。表面の表情の豊かさは、化粧と呼び直してもよいが、多彩で柔らかくもあり硬くもある。その一瞬一瞬の変化を楽しんでいるようだ。
黒曜石のような肌をもつ魅惑的な表面加工に魅せられ、目を移動させると、それが表面だけではない内面の輝きを放っていることに気づく。ぼんやりと内部の組織が感じ取れると、それがガラスであることを改めて認識する。
カモフラージュされた素材感覚は、内部の構造を透かすことによって、透過性という本質に立ち返っていく。奥深いはずの内面が、透けて見過ごされる違和感を、造形原理のトリックとして提供したとき、ガラスは工芸から解放されて現代造形の一員となっている。
そしてその時もう一度、素材の神秘に立ち返るのだと思う。誰もが感じる見え透いたガラスの原理を隠蔽するなかで、まずは形の探求が始まっていくだろう。不透明な表面が見せる内面の透過性は、作品を破壊した時にしか見えることのない表情である。その作為を面白がるところから素材に頼らない造形活動が開始されるのである。
素材は自然に立ち返る技法を宿している。無理に頼らずとも、長年の経験が自然と道を用意するものだろう。それまでは割れないで見つめ続ける受容の美学が求められるように思うのだ。
2018年4月28日(土)〜8月19日(日)
2018/6/29
インドネシアのバンドン工科大学出身の若いアーティストである。日本でははじめての紹介のようだが、西洋圏ではすでに評価を得ている。いくつかの様式的展開があり、絵画を中心にしながらも、インスタレーションに興味深い主題が見出せる。キリスト教的寓意が散りばめられているが、簡単には納得のいく解釈に達してはくれない。
キリスト磔刑の暗示が至る所に見えてくる。順路のはじめに展示される近作の荒っぽいまでの絵の具の動揺が、鑑賞を進めるにつれて、それ以前の作品群の年輪から血であることがわかると、輪郭がくっきりと見え出してくる。赤い鮮血が飛び散るようすは、第一印象で感じ取っていたものではあるが、タイトルでの明示を通じて、その意味が確定する。しかしそれは暗示的で、見る者の鑑賞力を試される。
ギロチン台を使ったインスタレーションは、強いインパクトを持って迫ってくる。第一の要素は音であり、美術館ではこれまで意識的に避けられてきたものだ。重い斧が引き上げられ落とされる。落ちる音は首が身体から離れる瞬間だ。暗い会場内に衝撃音がこだまするのを、鑑賞者は固唾を飲んで待ち受けている。残酷な好奇心だ。
その音の響きに合わせて紐で結ばれた無数の玉が、くす玉の弾けるような勢いで飛び跳ねる。鈍い金属音も聞こえる。球にはライティングがされていて、奥の壁面では無数が無限へと拡大する。もちろんそれは血が飛び散る暗示に違いないが、薄暗い空間演出は、花火のように美しい。
インドネシアという日常の中でキリスト教的主題が扱われているという点に注目する必要があるだろう。イスラム的風土は、キリスト教を悲惨な苦難へと追いやろうとする。鎖国当時の同質的体験のある日本人には、よく理解できるシチュエーションでもあるはずだ。
当然ギロチンはルイ16世やマリー・アントワネットの連想ではなくて、キリストの磔刑と結びつけられる。作品名に用いられたのは、キリストが磔上で発した最後の言葉だ。そのラテン語は人類に向けられたものだけではなく、キリスト教徒にとっては聖戦の呼びかけにも聞こえてくる。
もう一つのインスタレーションは難解だ。放蕩息子の喩えが敷かれている。考えるだけ考えたが、結論は出なかった。綿布だろうか縫われて小さな塊になったものが、いくつか壁面に並んでいる。最後のものは人の形になっている。壁面に固定されている姿は、日本人ならワラ人形が打ち付けられる連想となるが、キリスト教徒ならこれも磔刑像かもしれない。人形の形はずんぐりとしていて幼児を思わせるものだ。
回り込んだ壁面から急に視界が開けると、赤いスポットライトに照らされた実寸大のソファが置かれている。ここでも縫い合わされた大きな綿布が、いくつも組み合わされてソファの形を成している。かたわらに同じ形の小ヴァージョンがあり、そこには黒い人の形をした塊がソファに身を埋めている。
解釈はそこからなのだが、手がかりは「ルカ福音書の有名な一節」という作品名しかない。そこに書かれているはずの放蕩息子を手がかりにして解釈がスタートする。この魅力的な聖書の話は単純だが、これまで多くの画家たちを魅了してきた。テーマは父と子の問題だ。放蕩息子とそれを許して受け入れる父の関係は、父なる神と子なるキリストとの関係であると同時に、キリストと我々一人ひとりとの関係でもある。
大きなソファに横たわる父は不在だが、小さなソファには子が座っている。綿布は犠牲となる羊の刈り取られた毛の暗示だろうか。子羊とはキリストのことであり、血を流して人類の犠牲となる。綿布はやがて人の形をなし、子がはりつけにされている姿を浮き上がらせる。
頭をひねるが、ゆったりとしたソファは父そのものであり、帰宅する父の家であるのだろう。しかしそこには父はいない。父の不在は見えてはくるが、父の許しという放蕩息子最大の主題が見えてこない。作者の言葉を聞きつける前に、もう少し考えてみようと思った。
2018年6月23日(土)~2018年7月22日(日)
石川県立美術館
2018/6/29
若冲は、この何年かの間に見飽きた感があり、もういいかなと思っていたが、石崎光瑤には興味があった。以前富山の水墨画美術館で見て、大画面のはみ出すような迫力に圧倒された記憶が鮮明に蘇った。そして今回、画面をはみ出す構図法の秘密が、若冲影響からきているのだと実感し、改めて若冲を見直すことにもなった。この地域にあっては、若冲は参考程度の展示だと見ていた「若冲と光瑤展」だが、充実した侮れない展覧会だった。
若冲は細美美術館からの出品も多く、それらは見慣れていたが、はじめてのものもあり、やはりこの画家、並みの神経ではないということがわかる。それは同じく画面からはみ出した同時代の長沢芦雪の虎図を見たときの驚きと同調する。画集で知っていたときは紙上のトレミングとしてしか思ってはいなかった。破格という言い方が適切だが、それゆえに長らく、美術史上で相手にされてこなかったことが予測される。
今回の驚嘆で言えば、野菜図の屏風に集約する。堂々とした六曲一双に椎茸や大根など単独の野菜が、十二面に水墨で大きく描かれるが、やはり画面をはみ出し、先が切れている。写真家ならこんなフレーミングは考えられない。あっと驚く構図というのではない。端が落ちてしまった単純ミスに等しい。その印象は画面の向こうにあるという論理的な常識を、少しだけ逸脱している。そこから画面から一歩前に飛び出してくるという感覚的な思いが先行することになる。
オランダを通して遠近法がもたらされ、江戸中期を過ぎると新たな視覚が日本でも芽生え始める。新たな世界観というほうがよいだろう。それは物質世界に対する興味に根ざしたものだ。そうしたモチーフ選択の先見だけではなく、凸レンズで世界をとらえたような歪みが、大写しとなって、私たちの目に焼き付いてしまうのだ。時にはネガポジ法を用いた白黒の逆転が、静かに写し出される。画巻には真っ黒になった空が描き出されている。昼なのに夜のような静けさが、シュールな世界を演出している。
鶏が全面をなす屏風だけでも十分にケバケバしくシュールであったが、野菜だけが鶏に取って代わった屏風は、さらにシュールだった。しかも水墨に若冲の本領は発揮されていた。その文人的気質は、八百屋のせがれが抱く高邁な知的好奇心であったに違いない。極彩色の奇想の画家は、水墨の精神の遊戯を目指していた。
そのことがよくわかる一点があった。水墨の鶏屏風の左の隅にカラスが一羽いて、鶏から発する視線を外して、画面の外にそっぽを向いている。このとぼけた感じのディテールを見たとき、カラスは明らかに若冲その人だった。その世間からの視線の外し具合が何ともいい。鶏は若冲の自画像ではなかったのである。
2018年5月26日(土)〜7月1日(日)
国立国際美術館
2018/6/22
テーマ別に分類してくれたおかげで、難解なはずの現代美術が随分わかりやすくなった。同時にどこに目をつけて見ればいいかを伝える鑑賞教育の絶好のサンプルになったのではないかと思う。視点を変えて肩透かしを食わせる、へそ曲がりな現代アーティストの心情を伝えて興味深い。
突端に出てくる「空間」というテーマでは、「仕切り」や「ひさし」と題した作品がある。仕切りになっているのは竹岡雄二作で、大きな箱が奥の壁面から少し前に置かれている。箱自体を見ていても何の感慨もない。たぶん仕切りに見えるような距離という暗黙の指示があるはずだ。他方のひさしは岡崎和郎作でタイトルは英文で「HISASHI」とあるところから、たぶん庇(ひさし)のことだろうと誰もが思い込んだことからはじまる。壁面から家の軒のように張り出して、目の高さで固定されている。人の眉のような形をしていることから、眉も確かにひさしだということに気づく。
これらは分類でいえば彫刻ということになるが、重要なのは仕切りやひさしという機能の方であり、それらを成り立たせているのは、それが置かれている位置関係、つまりは空間ということだ。単体としての彫刻ではなく、それを設置する場の問題に視点は移される。今日ではインスタレーションという語によって一括されているテーマでもある。台座上に彫刻を置いてきた、かつての芸術概念を覆すことで、現代芸術の方向性を示唆する。壁にくっつけて展示すると仕切りにはならず、地面すれすれに固定すれば、ひさしにはならないということだ。
「光」をテーマにしたコーナーには、「ショーケース」と題してライトボックスが展示されている。中をのぞき込むが何も入ってはいない。この空虚感は何とも言えない。極めて明るい不在である。入れ物自体が作品となる。あるいは台座だけが七台並んでいる。表彰台を思い出し、低めの台だったので、思わずその上にあがりたくなる。ともに作者は同じく竹岡雄二である。
全てがこんな調子で肩透かしをされると、中には苛立ちを感じて、立腹する者も出てくるはずだ。鉛筆で書き込みのある何の変哲もない箱がある。よく見ると文字らしきものがあるようだ。作者名は、ヨーゼフ・ボイスとあり、タイトルは「直感」となっている。肩透かしはまだまだある。「カラー」と題してジョセフ・コスースは、辞書によるカラーの語義を拡大して作品化するが、色は黒だ。辞書だと黒が普通だが、美術だとカラーでないと不自然に感じるのが不思議だ。ともに現代美術の主要な傾向を代表するビッグネームである。
ボイスやコスースを悪く言うつもりは全くない。しかしビッグネームでなければこんなものに国の税金を使うなんてということになるはずだ。もちろんもっとつまらない国税の使い方をしている例は山ほどあるが、それでも購入を決めた学芸員は、自費でのコレクションであったなら、きっとためらいはあっただろう。こうした代々の学芸員たちの心の痛みを積み重ねた40年の所蔵作品展がここにある。常設展なら常設料金でよいはずだが、あまりに安いと客は入らない。今回も通常の特別展より後ろめたい分だけ安めに設定されている。
少し前に岡山県立美術館でも所蔵品展を県美コネクションというタイトルで行なったが、公的コレクションが何十年にも及ぶと、各地で似たような発想の展覧会が始まっていく。経費をかけないで収入を得て、社会的貢献を果たそうと頭をひねる。問題は観客が首をひねることにならないかだ。私的コレクションでは特別展並みの料金で荒稼ぎをしているところも少なくない。ワンコインで見せてくれる良心的な美術館ももちろんある。いまどきワンコインで見れる 私立美術館リストというのを作ればいいかもしれない。
コスースは色をテーマとして分類されたが、実際はもっと波乱を秘めた作家である。色のテーマでは見るからに具象と思える彫刻も置かれていた。横座りをする少女像だが、色はこれまであまり見たことのない黒である。キャプションには作者はマーク・クイン、素材はポリマー・ワックスと動物の血とある。そこからタイトルは「美女と野獣」とあるが、キャプションを読まないと意味は通じない。
少女の体に動物の血を塗りたくったと想像すると、その時点で不気味さを感じることになる。人体彫刻の場合、これまでブロンズや大理石の色のままなのが普通だ。上からリアルな色彩を施すと彫刻ではなくなるという不思議なしきたりが成立していた。ここでも現代彫刻に向けての問い直しがある。
発想としてトリッキーなことばかりを考え続けたという点では、高松次郎にとどめを刺すだろうか。それは規定の概念をゼロから再考する作業でもある。「点・線・面」では、大きな点を描いている。丸くはないし、盛り上がりもあって、なぜこれが点なのかと首をひねる。
隣に置かれたピエロ・マンゾーニの「線13.22m」と対比して見ると、その制作意図がよくわかる。日本の絵巻物のような長い紙の上に太い線を、たぶん13メートル以上走らせてある作品だ。展示されているのは部分で、巻かれて開かれた箇所から見えるのは、線ではなく面である。
高松の「点」も同じように考えると、点とは何か、線とは何かという、絵にならないものを描こうとする不条理を感じ取ることになる。言って見れば「透明を描く」というようなことだ。点は描かれた時点で点ではない。線は止まった時点で線ではない。透明人間は描かれた時点で透明ではない。こうした絵画の構造は「矛盾」のいわれをなす言語の構造にも等しく、嘘つきのつく嘘は嘘かというトートロジーを形作っている。
その点で「物」というテーマに分類された「写真の写真」は興味深い。写真を写真に撮ると写真かという問いが繰り返される。合わせ鏡のようなもので、撮られた写真が写真であるためには、写真であることを気づかせる周縁が必要だ。枠外のシチュエーション、言い換えればナレーションということだ。それが虚構づくりにひと役買うことになる。こうした高松の諸作品は、ここでは空間、視点、物、反復のテーマに散らばっている。考え抜かれたいい展覧会だった。
2018年5月26日(土)〜8月26日(日)
2018/6/17
いつものように自作を用いたインスタレーションである。今回は大掛かりな舞台装置はなかったが、肖像にこだわる画家のまなざしが炸裂する。多くは自画像であり、少年時代から現在まで自由に時を移動している。これまで画家の肖像という括りでかき集めるとこれだけあったという多作ぶりを示すと同時に、それを現在を形成するパーツとして用いる。つまり過去を否定するのではなくて、過去を積み重ねてここまでやってきたという確固とした信念がある。この前向きなエネルギーは傾聴に値する。見ていて説得力があるのは、作者が実在して展示を仕切っているという事実にある。
アクチュアルな現況への関わりは、静かな制作を好んだかつてのアーティストの生きざまとは異なって、生の枯渇を満たそうとする動物的本姓を認めることができる。ポスターに用いられた自画像では、シルエットになった横顔に耳だけがリアルで、大きく目立っている。世界に向けて聞き耳を立てる自身のスタンスを表明しているようだ。
幻想に至るギリギリのところで止まっているが、全身を黒い毛で覆われた耳だけが白いモンスターは、原始への回帰に向かう同時代の思考の内にある。それはワイルドマンと呼び直してもいいが、粗暴ななかにナルシズムを読み取れるのが、一貫した特徴だろうか。
客観的に自己をみつめるまなざしがあり、それが同時代の気分を写し出していて、60年代からはじまる美術史のメインストリームを形作っている。ウォーホルが長生きしていたならば、横尾忠則のような老人になっていたのだろうかと想像してみる。時代を共有した篠原有司男でも草間彌生でもよいのかもしれないが、とにかく元気に芸術が爆発している。
ハプニングの共有もまた時代精神の反映であって、篠原ではボクシングペインティングに開花した。横尾のパフォーマンスはかつては映画や舞台での自身の露出であっただろうが、横尾美術館の誕生後は作品展示に勢力を使ってきたのではないだろうか。その時点で画家と言いながらも、パフォーマーとなる。画家の記念館は没後の顕彰を旨とするが、その逆もまたありうるのではないかと思ったりもする。画家の没年に閉館するというアクチュアルな在り方が、現代と名のついた美術館の使命のような気がする。
2018年5月14日(月)~6月23日(土)
2018/6/16
オランダのグラフィックデザイナー。無駄のない合理性は、いかにもオランダ的だ。プロテスタントの土壌を感じさせるもので、グリッドという味も素っ気もない無個性に、冷静な客観的情報を託そうとする。アムステルダム市立美術館の広報を一手に引き受けていたようで、そういえば思いあたる節がある。スッキリとした書体には見覚えがある。ことにポスターで頻繁に見かけたSMの大きなロゴは、シュテーデリークミュージアム(市立美術館)の略だが、この人のトレードマークだったようだ。スペースデザインをキーワードにした鹿島出版会の建築雑誌「SD」のロゴマークはこれを真似ていたようだ。
長蛇の列をなす国立ゴッホ美術館に隣り合わせていながら、観客の格差を感じさせる難解な現代美術の殿堂としてのイメージづくりに、クロウエルのデザインが一役かってしまったように見える。クールで割り切った思考法は、オランダの感性でもあるが、展覧会には作品の画像を用いるのが普通だろうが、この人の場合、アルファベットの書体のみで完結させる。
確かに目立つし、プロテスタンティズムを体現するものでもあるのだと思う。つまり絵よりも文字に頼るのは、この宗派の布教の基本形であって、17世紀以来身についてしまった型のようなものでもあり、国民感情と呼べるのかもしれない。
世界を水平垂直に還元してしまうのは、オランダの風土的特性でもあって、グリッドへのこだわりは、斜めの角度さえ潔癖に避けようとする。斜体のことをイタリックと呼ぶのはオランダ人の感性ではないということだ。この点でクロウエルのこだわりは同国の画家モンドリアンとも共通する。
画家は潔癖なまでに水平垂直を厳守した。それは水平な土地に杭を打ち、天上を目指して勤勉を重ねてきたオランダの国民性を象徴している。低い土地を意味するネーデルラントという国名に甘んじながら、宿命は足枷のように引きずられ、いつも天上に目を向けていく。
天上を見つめて涙を浮かべるマグダラのマリアの改悛のポーズは、ティツィアーノの発明であるが、オランダ人がことのほか、愛した図像学である。ティツィアーノの育ったヴェネツィアもイタリアの地にあるとはいえ、低い湿地帯を開拓して楽園を築き上げてきたという点で、オランダに先立つ先駆的感情を携えていた。このポーズへの共鳴は、自ずからもたらされるものである。ちなみにマグダラのマリアの改悛は、フランスではじっとローソクの炎を見つめる「瞑想」であって、天上に祈る「懺悔」ではない。
2018年4月14日(土)~6月17日(日)
2018/6/16
大作がずらりと並ぶ。団体展をベースに制作し続けると、知らぬうちに回顧展の作品数はそろう。個人で持つには大きすぎて、美術館が引き取らなければ始末に悪い。一年単位で見ればそんなに変化はない。ああまたかという印象の繰り返しが、団体展を特徴づける。しかし10年単位で見ると確かに進化している。それが巨匠の要件だろう。
高山辰雄にもいくつかの変遷がある。スランプの末に出会ったゴーギャンは転機となった。赤、黄、緑の平板な組み合わせによる人物立像は、ゴーギャンの原始世界への憧憬を示している。しかし高山が独自の域に達したのは、それを捨てて形の単純化を目指し、色さえも捨ててしまったことによる。さらには形は色の中に溶け込んで、目を凝らさないと定められないような茫漠とした世界観に行き着いた。
絶筆となったモノトーンは、未完成には違いないが、ぼんやりと浮かんでくるものがある。岩山か草叢のかたまりを前にして、脚立を立ててそれに登ろうとしている老人のシルエットが、ぼんやりと見えてくる。まだ見ぬ風景を求めてやまない画家の魂が浮かび上がっている。
こうしたイメージの溶解は、色彩をなくして背景をぼかし、ちりぢりになった髪の毛と視線を結ばない目の描写を特徴とすると、ゴーギャン影響を脱した末にレオナルドにたどりついたのではないかと推測できる。高山がレオナルド・ダ・ヴィンチから影響されたかどうかは調べてはいないが、天然パーマをかけたような女性の髪の毛は、レオナルドに特徴的なカールした女性の髪に対応する。
しかも同じ苛立ったようにタッチを重ねた描法は風景にも応用されており、人体と自然のコレスポンダンスを思想的バックボーンとして読み取ることになる。そしてはては両者は一体となって混じり合い、溶け込んでしまう。高山辰雄晩年の死生観としては、見事な宇宙論に支えられた境地だったように見える。
展覧会名として用いられた日月星辰や森羅万象という語に、それは集約されているように見える。辰年でもないのに辰雄と名付けたときに、宇宙に向ける意志の力を感じ取ることもできるだろう。ちなみに同じ名前の文学者、堀辰雄は辰年生まれである。澁澤龍彦や河口龍夫も同じ星のもとで生まれている。
2018年4月14日(土)〜8月26日(日)
2018/6/16
オプティカル・アートの名で知られるライリーの回顧展。オップアート自体、知覚検査の図版を展覧会サイズに引き伸ばしただけのものと、評価をしないむきもあるが、一堂に会するとそれなりに時代の息吹を感じさせるものだ。60年代のポップアート全盛期に描かれたカーブ(曲線)のシリーズは、その後のライリーの展開を見ていても際立っている。
知覚検査表を拡大すること自体は、マンガの一コマを拡大するのと大差なく、元になるのが具象であろうが抽象であろうが、引き伸ばして一点もののタブローとするということが問題なのだ。ライリーの位置付けはその後のストライプや菱形の図形への展開を見ると抽象絵画の系譜に属するが、波形のリズムに関しては、テレビ放送のテストパターンを写した具象絵画だと主張してもよく、抽象を写すと具象になるのだという意味では、星条旗や数字を絵にしたジャスパージョーンズとの共鳴も見出せる。
今回の展示作の中で、カーブのシリーズの内、どの作品が最も「ゆらぐ」かを観察してみた。セゾン現代美術館のものが、他を引き離していたように思う。それを上回るものが個人蔵であったが、いずれはどこかの美術館に収蔵されることになるのだろう。
以前埼玉の近代美術館でオップアートを含むキネティックアート展があったが、目だましのトリックだけで、一度見ればもう二度と見なくてもいいという類いのものが、氾濫していたように思う。機械で動くものや見る者の移動に合わせて見え方が変化するものなど、恣意的な作画にはじめは驚くが、一過性の消耗品として忘れ去られることになる。一発芸のお笑い芸人のようて憐れでもある。
ライリーの評価はまだまだ流動的だと思うが、川村美術館での今回の取り組みは、ひとつの視点を与えるものだっただろう。マークロスコの常設室に続く抽象表現の系譜として、視野に入れて良いのだと思った。それは単独のタブローとしてだけでなく、空間の拡張を下敷きにした壁画への回帰を含んだものだった。近年の壁画制作の再現を建築空間に組み込んでしまった実験は、あっと驚くものであったが、サイトスペシフィックに推移する現代系の美術館のあり方を示唆していた。
こうしたコンテンポラリーを重視する姿勢を打ち出しながらも、一点のレンブラントを一部屋に鎮座させる意図は、これが分からなければ現代アートを見るべきではないというメッセージに聞こえてくる。誰かも定かではない肖像画なのだが、目を近づけて絵の具の層や盛り上がるタッチを見ると、絵画とは何かがわかってくる。
ちょうど大原美術館にただ一点のオールドマスターとしてエルグレコがあるのと同じようにである。現代絵画は決して過去を否定するものではないのだということがわかる。ライリーを持ち出すことで、河村美術館は油彩画を遡って壁画にまでそのルーツを求めようとしているように見える。第二のロスコルームが生まれるとよいと思った。
2018年5月30日(水)~2018年9月3日(月)
2018/6/15
美術史をジャンルで分類し見ていくと、抜け落ちるものも多い。今回は世界一の美の宝庫から肖像を抽出した。これによって古代から現代まで時代を越えて一つの道筋をつけることが可能になる。しかし定義が曖昧だと論理性を欠くことにもなる。肖像画とはそもそも何を言うのか。人物画とはどう違うのか。
ルーヴルには所蔵されていない原始美術を引き合いに出すと、議論はクリアになる。肖像表現はいつ頃に成立したのか。原始美術では、裸体表現は成立しているかもしれないが、風景や肖像という概念はなかっただろう。それが概念としての人であって、個人としての人ではないとすれば、肖像画の成立は細部を描き分けるテクニックの問題に還元される。
記録にとらわれる時代には肖像画が開花する。それは個を描き分けるということだが、これと対立するのは個を理想化するという方向だろう。古代ローマはそんな時代だったし、この時代を憧れた19世紀はじめのフランスも、肖像画の時代だった。ナポレオンの肖像がこの時代を象徴的に語っている。
時代の衣装を身につけて、着飾ってみせる。これが肖像芸術の基本だとすると、ギリシャ彫刻は真っ向からこれと対立する。普遍的な人体の美を求めるからだ。当然裸体表現が増える。裸体の肖像もなくはないが例外的だ。人間には興味はあるが、肖像には興味はないということだろう。そこにモデルが誕生する。神像の表現であっても、具体的には誰かモデルの肖像ということになる。ミロのヴィーナスにも、誰かモデルがいるということだ。
今回の肖像芸術展の最後を飾るのはアルチンボルドだった。今までの展覧会なら考えられないことだが、確かに肖像画のジャンル分けが可能だろう。カリカチュア全体を肖像表現として読み直してみると、新たな視点が開けてくるように思った。肖像を理想化して英雄を創り出して行くのとは対極にある風刺とパロディに根ざしたコミックの系譜は、今では第9の芸術としてルーヴル美術館に入っている。
ただし19世紀後半から20世紀の大半がルーヴルには抜けているため、肖像芸術というテーマ設定にも限界がある。時事漫画のルーツともいうべきドーミエの肖像に向かう目は、このテーマでは必須の人選であったはずだ。
2018年6月13日(水)~6月24日(日)
2018/6/15
一歩足を踏み込むと、例年のあの熱気が蘇ってくる。ざわざわとした若者のエネルギッシュな発散が会場を取り巻いている。明らかに美術鑑賞ではない。ブースごとに応対を変える見本市の様相を呈している。ゲームセンターの熱気にも似て、あまり長くはいない方が身のためだと、多くの大人は思っている。ひそひそ話はこだまをなして響き渡り、鑑賞よりも参加というアクティブラーニングに志向を定めている。
旧来の美術鑑賞に慣れてきた者にとっても、共有できる部分が少しは残っている。マンガやアニメーションのコーナーでは、ガラスケースの中に原画や絵コンテが並んでいる。手の跡を見たいという鑑賞者の欲求に答えたものだろう。制作の秘密を解き明かそうとして暴露本やメーキングビデオなどを見せるのは邪道であって、完成作のみで勝負するべきだという芸術論は確かにある。
そうすればマンガの場合、出版された冊子ということになり、展覧会自体を自己否定するものとなる。ガラスケースに出版された本を並べるとすれば不思議な光景であり、手に取ることを、見事に否定している。マンガは手に取ることを第一にした一種の工芸品であって、ガラスケースに入るものではない。しかし工芸品と同じく、美術品をめざしてガラスケースに入ろうともしている。
読書コーナーを別に設けるのは自然の流れだし、今回もそうしていた。そこには熱心に時を忘れる若者の姿が見える。つまりはガラスケースには原画をということになるが、今回もそんな旧来のガラスケースに出くわした。
ところが原画が並んでいて、キャプションを見ると、著名な作家の場合には複製という表示が見られる。レプリカを並べるのは博物館の流儀、美術館では原画が基本だ。足を運んできた観客への礼儀もあるが、オリジナルへのこだわりがあるかないかという理念の問題だ。
時代が大きく変わろうとしているのは事実だ。パッシブからアクティブへの転換は今日の学校教育の動向でもある。しかし説明を要さないで、物自体との直接の対話を残して、芸術の存在意義を体感しようとする目は残されている。複製が完成品となり、オリジナルは完成品の下図であるというねじれた現況を前にして、美術館を取るか見本市を取るかの選択がある。
マンガの場合は、コミックマーケットとなるが、見本市に並ぶのは複数あるもののサンプルである。商業ベースで統一を図ると、美術館不要論に行き着く。美の殿堂として君臨してきた高みへの上昇は、パッシブラーニングの極みである。ガラスケースというバリアは、美に存在するオーラの実在証明となる装置だ。
参加型の鑑賞教育が叫ばれる中、参加して触れることさえはばかれる神秘の力を本来の芸術は持っていたように思うのだ。名作に接し、ひれ伏しては沈黙の余韻を残すメディア芸術展を鑑賞するには、今のメディア芸術祭が一段落ついてからになるだろう。祭の内はまだまだ混沌とした熱の塊のままなのだろうと思った。
参加することのできない絶対的な芸術の力はあると思う。メディア芸術の領域でも、淘汰されたのちにスタンダードとなるナンバーが確定し、時代を経ても古くはならない芸術史を綴ることになるだろう。それまでしばらくはお祭り騒ぎが持続すればよいと思っている。
2018年3月24日(土) ~ 6月24日(日)
横浜美術館
2018/6/15
ヌードというテーマを扱っているが、何を今更と思いながら見始めた。しかし、これを人類普遍の課題として見るのではなくて、イギリスの場合という限定的な特殊事情があるのだとわかると納得できた。日本人がそんな限定的テーマに付き合う必要もないのだが、テートギャラリーという美の宝庫には魅力はある。ナショナルギャラリーや大英博物館とは異なり、ここには震えるような繊細な感受性がある。
ザ・ヌードという美術史の名著を残したケネス・クラークがイギリス人であったというのも、わかる気がした。彼はまた風景画論という著作も書いており、これもイギリス人ならではの視点なのだと今更ながら気がついた。サーの称号をもつ厳しい相貌の内に、ヴィヴィッドな感性を備えた美の思索者である。
このテーマをまともに扱い、ヴィーナス像からスタートすると大変で、おそらく古代を論じるだけで終わってしまうだろう。本展の冒頭で説明がある。イギリスではプロテスタントに根ざす宗教的感情から、裸体表現が遅れたのだという。これに対応させて、ここでも展示の始まりは19世紀のラファエロ前派周辺からだった。そういう目で見ると、ミレイをはじめとした当時のイギリス人画家たちの描く裸婦像は、確かにみずみずしい。まだ成熟していない、少年がはじめて裸婦を目にした時のような初々しさがある。それは母親の乳房を忘れ去った少年が、新たな第一歩を踏み出す瞬間だ。これを裸体表現の成熟したイタリアやフランスなどの目から見ると、表面的で深みに欠けたものに見えたに違いない。
このうぶで無垢な魂は、ラファエロ前派の画家たちが敬愛したボッティチェリに起因するものかもしれない。ヴィーナスの誕生には、はじめての裸婦に驚嘆したイタリアルネサンスの喜びがある。長い中世を通して忘れていたものと言った方が正確だろうか。イタリアでの裸体表現の再発見が数百年の時を経て、イギリスで再燃したということだろう。
ロダンの接吻を360度まわりながら、おもしろくみた。押したり引いたりする男女の心の揺れが、ヌードであるがゆえにみごとに表現されている。男の腰を見ると女の強い力に抗って、確かに引けている。
2018年4月21日〜6月17日
平塚市美術館
2018/6/15
現代アートとはいえ、誰もが楽しめる面白アートと言ってもよいものが多い。そのために深みに欠けるところはあるが、美術に深みなど求める必要もないと割り切れば、エンターテイメントとして十分に楽しめる。タグチコレクションは以前に何度か見ているので、見覚えのある作品もあった。
ポップアートからネオポップへと至る具象性を前面に出した大衆的基盤は、日本の持ち分でもあり、オリジナリティを主張する高等な芸術性を表に出すことを嫌っている。展示品を撮影可能としている良心的判断は、作品は作者の手を離れた時から、共有財産だという思想に基づくものだろう。
一部例外が混じっていて、撮影不可となっている。作者名を見ると奈良美智と杉本博司とある。一方はペコちゃんを意地悪くした少女像で知られるが、古い体質の作家意識が強いのか、取り扱い画廊の意図的操作なのかはわからない。ペコちゃんなら撮影しても注意されることはないはずで、つまりは不二家をすでに離れて、大衆的キャラクターとしての市民権を得たということだ。
他方の写真家の場合は、写真に向けて写真撮影不可という諧謔性にパロディともギャグとも取れるスタンスを感じ、著作権というもろい良心に頼ることで生き延びる写真という分野のプロとしての使命感を感じ取った。画家をも越えようとするオリジナリティへの自負は、確かに写真とは思えない質感を伴った海景に、思わずシャッターを切りたくなる鑑賞者の心情の内にも宿っている。
写真撮影は無名の画家なら喜んで受け入れるものだろう。評価された証拠であり、拡散を秘めた広報戦術でもあるからだ。アヴァンギャルドがときに保守にしがみつくことがあるが、一定の評価を得てのちに、自身を権威づけることによって精神的安定を得ようとする規定の行動のようにも見える。
もちろん作家には無関係の企画側の忖度の場合もあるだろう。一部撮影不可という最近よく展覧会で見かける現況は、考察に値するものに違いない。
2018年4月21日~6月24日
平塚市美術館
2018/6/15
とにかくすごい仕事量だ。それだけでも圧倒的なパワーを感じさせるが、そこに塗り込められた、あるいは刻み込まれた情念は、見る者をイメージのるつぼに落とし込んでしまう。日本画家なのに木彫のレリーフとしか思えない重量感は、たぶん実在する重量によってのみ支えられるものだ。
ついつい触って重さを体感したくなるとき、インスタレーションとしての展示にかける一瞬とアトリエでの祈りにも似た単調な繰り返しの永遠が、私の脳裏によぎりながら重なっている。一字一字を書き写す写経にも似て、完成を引き伸ばしては、宇宙の果てにまで目を向けようとするまなざしは、祈りとしてしか言いようのない宗教性を秘めている。
プリミティブな原初のイメージは随所に現れる。魚の鱗のような無数の繰り返しの中から目が出現する。大写しにした魚の細部だと見えるようになるのだが、そこに突然目が二つ並ぶと、童子の顔へと変貌する。
このとき魚の鱗は無数の人の顔に変わっている。目の周りにギザギザのジグザグ模様を伴うと目は、モンスターの口へと変化する。口を大きく開いて、見る者を飲み込むように迫ってくる。
薄暗い中から目を凝らすと出現する確実な存在がある。人の妄想の実在が、共有する人類のイメージだと感じると、巨大な屏風は洞窟壁画へと変貌する。そもそもが屏風の形式を備える日本画が、原点であるはずの和室空間を越えて、美術館の展示空間に対応したとき、会場芸術となって美のありかを証明する。
展示空間は人の命に似てはかなく、終わりに向けて燃え尽きようとしている。打ち上げ花火に集約される美の開花は、やがて折りたたまれて再生の時を待つ。長い眠りは、再生を忘却へと誘導する。一瞬の輝きはそれを目撃した者の脳裏に刻まれる。場に立ち会った幸運は、出くわした奇跡を実感としてとらえようとする。