美術時評 2018年6月
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2018年6月9日(土)〜7月29日(日)
富山県美術館
2018/6/30
空海のお寺に日本画を奉納する。そのお披露目の展覧会である。主題は崖と滝である。ともに空海という名には不要なものであるという点で興味深い。この高僧にとっては空と海との間には何もない。あるとすればまっすぐに引かれた水平線が一本だけだろうが、それでは絵にはならない。
ニューヨーク在住の画家の手にかかるのなら、滝というよりもウォーターフォールという方が良いだろうか。滝で一躍名を成した日本画家である。横の広がりはナイアガラの滝であって、那智の滝ではない。しかしその深淵に神の存在を認めるという点で、自然宗教に根ざした共通する幻想原理が横たわっている。
滝とは何か。水の落下であるが、よく見るとそればかりではないことがわかる。絵の具は重力に従って下に向かって垂れ下がる。しかし目を凝らすと白い胡粉が樹木のように枝分かれする光景に出くわす。
まるで神秘の森を彷徨する幻想であるかのようだ。木々は重力に逆らって枝を伸ばし上昇する。落下も生命力の発露だが、上昇は成長と言ってよい意志の力を伝えるものだ。自然の猛威が人類の意志とぶつかり合う。そこに生まれたのがこの壮大な構想だったようだ。
さらに目を凝らすと水が立ち上がるようすが描かれている。滝が水面を叩きつけて、反射的に上昇に向かうのは道理であるが、そこではまるで噴水のように機能する。
水は柱となって自己主張をしはじめるのだ。実に多様な水の命が描きこまれる。滝の落下に逆らって登りはじめる奇跡の鯉がいて、登り切ると龍になるという壮大な神話は、東洋の画家たちを魅了してきた。
最近もいくつかの鯉図に出くわして、鯉の滝登り伝説を思い浮かべたが、ここでは逆に水の落下だけが描かれていて、鯉の上昇を思い浮かべることになる。どこを探しても鯉も龍もいない。
闇に輝く水はしぶきを上げて、白い斑点が無数に散りばめられている。それは水しぶきを越えて、宇宙の星辰にまでイメージを広げていく。辰はまさに龍の神秘を語る宇宙原理の語であった。このことは少し前に世田谷美術館で見た高山辰雄の世界観でもあった。
展示は高野山へのオマージュだけでなくこれまでの旧作に加えて、新しい実験も見られた。そこでは滝の白い水しぶきにブルーライトをあてて魔法の美術館になってしまっていた。
しかし今はやりのプロジェクションマッピングの下絵になる必要はまったくなく、チームラボの下請けにならないことで、日本画のアイデンティティを保ってほしい気がした。
静のなかに動を見る。無色のなかに色を読む。これが日本画の本質であり、自力のイマジネーション以外は大きなお世話であって、何よりも画材と技法の妙によって目を近づけさせてきた鑑賞法を、自ら否定する必要はない。
和紙を揉んだり広げたりしながら、手探りで見つけ出してきた遺産は、光のフィルターをかけなくても、それだけで輝いているのだから。
2018年4月28日(土)~ 9月3日(月)
2018/6/16
ガラスが素材であるということを高らかに歌い上げないスタンスがいい。人間的日常が感じられて好感がもてる。そのぶんガラスに頼らず、素材を高邁な哲学的思想にもちこむのではなく、積み木を並べるように遊戯化してみせる。肩の張らないシンプルな形の探求は、「家」というシリーズに集約されている。
将棋の駒は立てて積めるだろうか。窓もないただの立体だが、個々の形が独立して、暖かく温もりのある輪郭だ。家は並べるしかないのだ。そして独立と共生を語り出す。子どもに夢を与えるとすれば、積み木の原点ともみなせるからである。
キューブといえども、表面は柔らかく湾曲していて、上に積み重ねられない形で独立している。そして積めない積み木という一点に、すべての作品群の特性が集約できそうだ。
素材に頼らないだけに、作風の多様性に賭ける作者の遊び心が際立っている。表面の表情の豊かさは、化粧と呼び直してもよいが、多彩で柔らかくもあり硬くもある。その一瞬一瞬の変化を楽しんでいるようだ。
黒曜石のような肌をもつ魅惑的な表面加工に魅せられ、目を移動させると、それが表面だけではない内面の輝きを放っていることに気づく。ぼんやりと内部の組織が感じ取れると、それがガラスであることを改めて認識する。
カモフラージュされた素材感覚は、内部の構造を透かすことによって、透過性という本質に立ち返っていく。奥深いはずの内面が、透けて見過ごされる違和感を、造形原理のトリックとして提供したとき、ガラスは工芸から解放されて現代造形の一員となっている。
そしてその時もう一度、素材の神秘に立ち返るのだと思う。誰もが感じる見え透いたガラスの原理を隠蔽するなかで、まずは形の探求が始まっていくだろう。不透明な表面が見せる内面の透過性は、作品を破壊した時にしか見えることのない表情である。その作為を面白がるところから素材に頼らない造形活動が開始されるのである。
素材は自然に立ち返る技法を宿している。無理に頼らずとも、長年の経験が自然と道を用意するものだろう。それまでは割れないで見つめ続ける受容の美学が求められるように思うのだ。