2018年10月24日(水) ~ 12月3日(月)
国立新美術館
2018/11/8
国民的画家だという表記に対して、面目躍如たる混雑ぶりである。併設のボナール展との落差は歴然としている。どこがそんなにいいのかというと、とにかくわかりやすい。印象派が好きな日本人なら、東山魁夷が好きだ。風景画家だといってよいだろうが、人物はいないのに人間的な温かみのある自然を、見事に描き出している。
唐招提寺の襖絵などは、波(1)だけしか描かれていないのに、生命感を持っていて、呼吸をしているのではないかと思ったりもする。波を描いているというよりも、波を起こしているといった方が正しい。同じように雲を起こし、風も起こす。
それは自然に対して目で見ているのではなくて、体で見ているからだと思う。だからこそ風景は明暗ではなくて、冷温で体感される。特徴的なブルーともグリーンともつかない独特の色あいは、寒色なのに温かみのある大気に包まれている。「道」という代表作もそうした一点だ。道以外には何も描かれてはいない。わかりやすいという定評が、これまでの大衆性から脱して、芸術へと昇華した記念碑ではないかと思う。その後に描く真っ赤に紅葉した山の幾何学的抽象のフォルムもいい(2)。
道を見ていて、さまざまなアートシーンが脳裏をよぎる。チャップリンのモダンタイムスも見えてくるし、クォヴァディスでもある。植田正治や杉本博司の写真の一コマも内包しているし、岸田劉生の切り通しの道が下敷きにされてもいる。シンプルな形の中に、人類の普遍的な歴史を丸ごと閉じ込めようとしているようだ。
道は中心から少し左にずれている。それは道の先で右に折れているからだろう(3)。バランスを保とうとしてシンメトリーが崩れる。確かに一本の道なのである。それは旅人が真っ直ぐに進むための意志の道標でもあって、二股に分かれるY字路ではないという点に注目する必要がある。人は常に迷いの存在であり、そのためにYという字が用意された。キリスト教文化では、最後の審判と結びつけて、左右のシンボリズムを形作った。右は英語ではライトで、正しい方向で天国に通じる。左の道は地獄に向かうが、こちらの方が広くて歩きやすい。
そんな西洋の図像学を通して見ると、ここでの道は天国に向かっていることがわかるし、画家は道の左の下隅に落款を押すことで、自らは地獄の方向に向かっているのだという自戒の念を見せようとする。晩年の仏教の帰依も、若い日のドイツ留学で果たした西洋との出会いに基づいているのではないかと思う。
突如現れる白馬のイメージは、光り輝く仏陀を描いた平山郁夫と連動するし、何よりもユニコーン伝説が下敷きにされているのだと思う。インドの山奥に生息するこの霊獣は、たった一頭で突如現れては、いつのまにか消えてしまう。まぼろしにしか過ぎないのにはっきりと見えることが、ドイツのメルヘンの森の描写を通して実感できる。
仏陀はここではブッダという方がいい。ゴッダマシッダルタというカタカナ表記を通して、ドイツの文豪と出会うことができるし、東山魁夷の宗教観とも通底する。ドイツ時代に描いた石の建築のディテールに寄せるまなざしには、確固とした物質文明に支えられた、重厚な西洋精神に挑む東洋の若者の、ナイーブな心情が吐露されている。
そして印象派がしたように、その後それを大気のヴェールで覆い尽くそうとするのだ。ある一定の固有名詞で語れる風景ではなくて、明暗の階調を伝える、作品名の頻出を通して見えてくるものがある。残照、秋翳、映象、月篁などお茶碗の名前のような二文字が続いている。ここには印象日の出に始まったジャポニズムの完結を、日本画という手段を通して、試みようとしているようにも見える。これらもまた明暗ではなく、冷温だという点で、印象派を超えた予感が、西洋人をも魅了したに違いない。
「青響」と題された、森を俯瞰した一点で、本展の解説者は青銅器の色合いを引き合いに出している。そして饕餮文に興味を示した、画家のイマジネーションを考えようとする。青銅器に広がる緑青は、庭をおおう苔のようなものだが、目に映る明暗を越えて、本体を温かくヴェールで包むものだ。饕餮とは目だけの怪物のことだが、この生命体誕生の予感は、ここでも森の緑の間に、深く切り込まれた谷合いに、シルエットとなって見え出してくる。目を凝らすとそこには、一人の影が立っていて、私の目には鑑賞者を誘う、剃髪した画家の輪郭がぼんやりと浮かんでいる(4)。