みる誕生 鴻池朋子展

2022年07月16日~09月04日

高松市美術館


2022/8/26

 これまで美術雑誌にも数多く取り上げられ、著作によっても話題をさらってきたひとだけに、一度まとめて見ておきたいと思っていた。2年前アーティゾン美術館が開館し、第二弾として個展が企画され、楽しみにしていたがコロナ騒ぎがはじまり、東京に行く機会を逸した。今回瀬戸内芸術祭に組み込まれて、大規模な見世物が実現したようだ。

 企画展示室だけではなく、常設展示室、さらには通路や倉庫にまで鴻池ワールドが浸透している。美術館の総体を用いてこれまで築きあげてきた、美術館という「みる」システムを問い直そうとしている。興味深いのは高松市美術館の所蔵作品をセレクトして、動物の糞と並べた点だろうか。作品のセレクションの絶妙に感心するのと同時に、高松市がこれまで収集してきた年輪の確かさのほうに目は向かった。旧態とした美術館への問い直しなのに、そのコレクションへのオマージュとなっているのが興味深い。それらはキャプションをもたないので、作者名が伏せられている。作品の発するオーラのみを手がかりにして、私たちの眼力が問われている。一種の民藝運動なのだが、知識として固定観念を有する場合は注意を要する。

 作者名を思い出せないまま宙ぶらりんの状態で、展示室をあとにしようとしたとき、このコーナーの最後に展示作品のキャプションの一覧表があって、答え合わせができるようになっていた。それぞれは現代美術をかたちづくってきたビッグネームだが、思い出せないまま、誰だったかという落ちつきのないフラストレーションが、ここで氷解した。同時にそんなたねあかしに何の意味があるのかという問いが起こる。このお節介はほんとうはなかったほうがよかったのではないか。誰だったかといつまでも不安を引きずるほうが、脳の活性化にとっては健全なのだ。

 それでも一覧表をメモしておこうと写真撮影をしかけたとき、監視員から待ったがかかった。この展覧会には資料や記録の展示が多数あるが、作品の撮影はオーケーなのに資料パネルの撮影は不可という、旧来の美術館の通念とは逆転したルールを課している。そこにはじっと文字を読みこんで記憶にとどめようとしている自分がいた。

 このいら立ちが動物の糞と混じり合う。動物といっても犬や猫ではない、ツキノワグマなどと表記がある。クマの糞はもっと大きいのではといぶかりながらも、キャプションはやはり重要で、信憑性をともなっている。糞はあちこちにミイラ化して散らばっている。固く引き締まっていてにおいはない。近づいてにおってみない限りは本物なのか模型なのかは区別がつかない。かつては路上をにぎわし、今は持ち帰るものとなった日常の光景が、いま名画のわきに展開している。絵も糞もともに時を経て、標本として自立してはいるが、同列に並ぶことが可能なデモクラシーを、そこでは形成している。

 美術館を否定して博物館を肯定すると、視野は広がる。博物館は複製を堂々と並べて後ろめたさを感じない施設のことだ。剥製はオーラを剥ぐことでものの本質を見せようとする静止画のことだ。美というカテゴリーが機能するためには,美の範疇を拡大しなければならない。醜を美に含めることで近代は美学を成立させてきた。そして現代は美醜をひと回りして、美が手がかりを失ってしまった時代のようにみえる。何を良しとするかという基準が拡散してしまったのだ。そこに登場したのが、順路を示す細いロープ、あるいは太い糸だった。このアリアドネの糸に導かれながら、さらなる迷宮へと誘い込まれていく。糸は作品にかぶさり、作品の前に立ちはだかっている場合もある。

 触れることに敏感なのが美術館だが、今回のロープについてはさわれという指示があった。それをたどりながら歩めという意味なのだろう。始まりから終わりまで長くはりめぐらされた糸の存在は、指標は同時に束縛でもあるという点で重要なものとなる。ときにその糸は展示室を外れて倉庫にまで導いて、展示品を発見させる。かつてボルタンスキーが東京都庭園美術館で見せたような影絵が、そこには隠し込まれていた。動物の皮は剥がされて天井から吊るされている。その間をすり抜けるように先を進む。作家は自在に鑑賞者をあざむく。もちろんそこにはにおいはない。

 雪のイメージが盛んに出てくる。作家は秋田県出身だという。寒々としているのに内面は煮えたぎっている。北国が宿した熱帯的情念がほとばしる。以前見た映像で、この作家が雪に閉じこもって、ドラえもんの主題歌をやけくそになって歌っている遠望を思い出した。モノクロの画面が寒々とつづく絵本の原画もあった。日本画を学び、子どもの玩具の仕事を経て、現代アートの世界で頭角を表してきた。芸術の根源を問い、芸術という語を空中分解する姿勢は、20世紀初頭のプリミティヴィズムからの系譜であり、正統派に属するものだろう。

 ことばに向ける感性も制作を支える強力な武器となっている。「みる」ことを考える場合、ことばとイメージは同等な位置にある。それはことばの場合、文字と音声に分けられる。顔に置き直せば、口と表情がことばとイメージを考えるときの起点となるものだろう。展示の最後のコーナーには、ひとりの歴史家との往復書簡が並んでいる。プライベートには踏み込みたくないと思いながらも、読みはじめると、書式や書体も含めて手書き文字のもつ表情と表現力に圧倒される。長くて途中で断念したが、文中の渋谷の海岸通りギャラリーでの百瀬文の映像作品に触れた箇所に目がとまった。見ることと聞くこと、文字と音声の関係を考えさせる極めて重要な作品だと、私も思ったことを記憶している。そしてあの木下さんがこの歴史家とは結び付かないが、同一人物であるらしい。文字と音声の乖離という点では、もちろん別人であってもいい。


by Masaaki Kambara