第12章 テレビの時代

放送メディア/魔法の箱/電波は飛ぶ/父親の不在/家族の変貌/実況中継/タレント性

第488回 2023年1月30

放送メディア

 映像表現という点ではテレビと放送文化について触れないわけにはいかない。映画をそのままコンパクトにしたテレビドラマもあるが、ニュースやスポーツ中継、さらにはバラエティ番組を含むライブ映像に、テレビの本領はある。常に視聴率をバロメータとして、時代の流れを嗅ぎ分けるアンテナが求められるのも、放送メディアの特徴をなす。映像の実験を回避した、キャスターのキャラクターに依存した番組も少なくない。フィルムや紙媒体ではなく、電波であるという点に、つかみどころがなく、得体の知れない、膨張し続ける現代文明が象徴されている。

空中に漂うという点では「うわさ」に似た性格を有し、国や言語を越えては広がらないという点に特徴があるかもしれない。ゴシップとスキャンダルに奉仕するというのも必然的帰結と言えるだろう。加えてCM映像という鬼っ子的な存在の意義にも触れる必要がある。テレビという茶の間の中心にあった重厚な父親的存在が希薄化し、ブラウン管から液晶へ、さらには携帯画面への拡散となって、存在感をなくしていく現象を、社会学的な視点から捉えなおす目は必要になってくるだろう。

メディアとしてメディア論を考えたときにテレビという存在は、映像表現という枠ではおさまりきらない大きな問題をかかえている。前回のアニメーションは映像のフィールド、分野の一つだと考えることができた。テレビは分野の問題ではない。ありとあらゆるものを分野として取り込んでいく存在だ。テレビの時代という言いかたが適切だ。2013年にテレビの生誕60年を記念した番組が組まれた。テレビの功罪を暴き出そうとした。60年を節目とするというのは、人間の一生でいえば還暦にあたる。十二支が5巡目ということで、区切りの年だった。今ではテレビは高齢者だ。

人間が生まれて成長して老いるという道筋を、テレビもたどってきたような気がする。そう思うのはテレビが人格をもって位置づけられるのではないかという想定からだ。テレビの存在ということから考えてみたい。映像からは離れていくかもしれないが、この得体のしれないものを解き明かす。テレビの前に座ってテレビとは何かというような哲学をおこなうことはない。テレビ番組にどっぷりとつかれるか、つかれないかだけの問題であって、見たくなければ見なくてもよい。

テレビの成り立ちから現代までに、相当な技術の開発があった。その上に立って今日に至っている。日進月歩の感は強い。創成期の小さなモニターを大勢で見ているという風景から、今では一人で何台も持っているというところまで進化した。これは進化だろうと思うので発展と呼んでもよいだろう。メディアではすぐになくなるものも多かったが、テレビは還暦を迎えてもまだ健在だ。

テレビの時代は終わったという声は、よく聞かれるが、たぶんまだ終わらないだろう。放送という領域を抑えている限りはなくならないだろう。テレビという語は何をもってテレビというのか。テレビを見るという言いかたをする。その時のテレビは、昔では箱形の映像が映る仕掛け、システム、機械であり、テレビジョンのことだった。受信機という機械をさしていた。実際にはテレビ放送という、電波が飛んできて、それをかたちにかえる技術の上に成り立っている。

第489回 2023年1月31

魔法の箱

出発点のテレビではなかに人が入っていてしゃべってくれるという魔法の箱だった。音楽に蓄音機があったように、なかに小さな人間が潜んでいて楽しませてくれる。舞台の延長上にできてきた。最初のテレビには幕があった。幕を開いてブラウン管が登場する。ほこりよけという意味もあったのだろうが、舞台の緞帳になぞらえられている。芝居の幕が開くが、映画の場合も同じように幕があり、開くと人はいないで映像がスクリーンに映し出される。同じような理屈が小型化していって、光の詰まったライトボックスとしてテレビは見られた。

小さなモニターを1000人もで見るような「街頭テレビ」の光景が写真に残されている。こんな小さな画面をこんなに大勢でよく見ていたなという驚異の光景だ。これが出発点だが、珍しかったのだろう。テレビ自体が珍しい見世物として存在した。出発点でのテレビは初任給が1万円時代に20万円の値段だった。一年働いても買えない額だった。中央にあるテレビを取り囲んでいて、群衆は後ろにまで回っている。後ろ姿しか見えないが音は聞こえる。つまりそこではブラウン管は人間の頭に見立てられているということだ。街頭演説会に集まった群衆を思い起こすと、テレビはアイドルのように人格をもって見えてくる。力道山のプロレスを見ている。相撲が出発だが、上位まで行かなかったので、プロレスラーに転向し、一世を風靡する。空手チョップは子どもの合言葉となった。いまからみるとバラエティなのだが、スポーツともいえない。

受像機のコストが下がることと、テレビ局数が増えることが発展の条件となる。今では衛星放送も含めて専門チャンネルも多く、とんでもないチャンネル数となった。そこでは選択が重要な要素となる。ものをつくるという限り、誰もがつくったものを見てほしいものだ。テレビの限界はどれかを選択しなければならないということだった。何を選ぶかということで、どんどん競争が激しくなっていった。映画館の場合は封切期間があり、その間にいくつも見ることができた。今では録画システムができたが、テレビの基本はライブにあった。そのとき一度限りということがテレビを成長させてきた。NHKの得意芸となった再放送というライブ感覚を麻痺させる邪道もある。民放はあまり再放送をしない。映画の場合は不思議なことに再放送とはあまり言わないで、「ローマの休日」や「風と共に去りぬ」などはまたかというぐらい繰り返し放映されている。ディレクターズカットやデジタルリマスター版と銘打たれるとまた見ないといけないのかと思ってしまう。

第490回 2023年2月1日

電波は飛ぶ

一回限りなのでなるべくコストをかけないで、毎週のように量産していく。一本の映画を撮るのとは異なった周期ができる。番組もいろいろある。映画とはちがう方向付けがなされる。映画世界のドラマもフォローしながら、原点はニュースからはじまったのだと思う。報道を伝えること。つまりは放送という特性のことだ。放送は電波が飛んでいくので何よりも早い。即伝わっていく。今起こっていることがそのまま伝わる。それがテレビの成長の要因になった。1963年、朝起きて食卓に降りていったとき、ケネディ大統領が一瞬にして死んでしまっていた。繰り返しパレード場面のスローモーションが流されている。ダラスのビルの屋上からライフルの標的にされたのだった。

練り上げてつくりあげるものとちがって、なまのまま伝えるということ。報道の方法は新聞と週刊誌と月刊誌とのちがいがある。新聞は早く伝わるが、しっかりと分析はできない。月刊誌になれば週刊誌以上のことを、いろんな人がさまざまな角度から分析をする。役割分担を考えるとテレビは新聞に先立って伝えるメディアとなる。

アメリカではじまって通信技術の歴史だ。電波として空中を飛ぶモールス信号が最初だっただろう。今はインターネットの回線で、地下を這うケーブルだ。テレビは電波で地上波からやがては衛星放送へと進化する。航空機の時代と対応する形で空を飛ぶ。20世紀は映像の時代だというのは映画が支配した。羽根を生やした情報が飛行機でもたらされるのと同じように、テレビによって地球の裏まで飛んでいく。

テレビの重要なポイントを4項目あげてみる。各国ははじまりが同じではない。それぞれがテレビ番組をもっている。フランスはフランス語で放送するし、日本は日本語で放送する。日本で制作された番組である。他の国と共有しないのがテレビの前提となる。映画会社のようにハリウッド映画が世界中で上映されるというかたちではない。ローカルに根ざしたものだ。世界一斉番組としてはオリンピックの中継などはあるが限界がある。地球は丸く、朝と夜とが同じ時間で同居している。時差は国の統一規格だ。同じ国に時差がいくつかあるのは、国の範囲を超えている。日本には時差がないので同じ時間帯で番組が統一する。

ローカルであり、枠が決められている。日本語の届く範囲ということだ。ファミリーといってもよい。ファミリーを特徴づけるのがテレビというシステムだ。家庭の中心にテレビがある。それがテレビのめざした方向性だ。何をめざしたかというと、家庭の中心になろうとして、重量感を増していった。最初は何百人もが一台のテレビを見ていた。街頭テレビが出発点で、やがて一家に一台へと普及していく。その段階でテレビが大型化していく。体重も人間並みになる。重々しく茶の間の中心に鎮座する。かつてはそこは父親が座る場所だった。父親が家族全員を集めて説教をたれる。その場にテレビが座ることになる。父親はわきに追いやられて存在感をなくす。威厳をもって雷を落とす場がなくなってしまう。父親的役割を担う重量感がテレビに備わっていった。テレビも屋根のアンテナから、ときに雷を呼び込んだ。

第491回 2023年2月2

父親の不在

父親はいつの間にか行方不明になってしまった。そこからは声が聞こえてくるが、しゃべる一方でこちらからは何を言っても答えてはくれない。テレビでは対話が成立しない。それはキリスト教世界では神の存在に対応する。神は答えてはくれない。イエスが死ぬときもそうだったし、苦難の中で神に祈るが、何も語らず黙ったままだ。遠藤周作はこれを「沈黙」という小説にしている。一方通行であるのがキリスト教での神の存在だった。かつてはそれを父親になぞらえられた。街頭テレビを見る群衆の光景を見ると、キリストやヒトラーが演説をする父性を思い起こさせる。異様だが神がかりな存在感を伝えるものだ。テレビジョンがキリストになぞらえるなら、ヒトラーはアンチキリストということになる。救世主が再臨する前に現れて世を乱す悪魔のことだ。

ブラウン管という今は消えてしまった存在に、父親の消滅を仮託する。ブラウン管のもつ重さは、幅と奥行きをもって、父親が胡坐をかいている姿になぞらえることができた。茶の間で座布団の上に座っているような雰囲気をともなっていた。たいそうなものとして珍重された。家具としても一級品だった。上から幕をかけて日頃は見えない存在だった。テレビ放送が始まって当初はそんなに見る番組はなかった。もっぱら重厚な家具として外観を誇るものだった。

安価になり一家に一台が、部屋に一台、磔刑像のように壁に掛けられるという変貌を遂げる。ブラウン管もじょじょに奥行きをなくし薄型をめざした。液晶技術が発明されポータブルになる。壁に掛けたり外したり、隣の部屋にもっていったりできるようになる。女性が提げて運んでいるCMも登場した。これがサユリストでもあった父親の姿の慣れのはてかと思うとはっとする。現代では携帯画面が加わって、様々な形に進化発展していく。

映像表現でブラウン管が液晶パネルに代わったのは技術的進化だけで説明できるものではない。立体が平面へと変化したのだ。重々しい彫刻が軽やかな絵画に変貌したと言っても良い。絵画史におけるスーパーフラットの誕生もこれに連動している。表面がなだらかに湾曲したブラウン管の味わいが、液晶パネルの開発以前に、すでにフラットなブラウン管の登場によって失われてしまっていた。テレビの進化は奥行きをなくしていく歴史だったが、それは存在感を希薄にしていく歩みでもあったのだ。茶の間の中心にいて存在感を主張していた家父長が、権威をなくしていく。父の不在に至る社会史として今日までのテレビの歩みをとらえることができる。

第492回 2023年2月3

家族の変貌

創成期は1953年のことだ。日本でのテレビ番組のはじまりだ。何を見せたか。一つはクイズ番組。「ジェスチャー」(1953-68)は身振りをことばに替える、テレビ型のバラエティだった。水の江瀧子(1915-2009)と柳家金語楼(1901-72)が司会をする。落語家や漫才師がテレビに登場してくる。NHKの長寿番組である。ゲームがテレビの花形となる。やがてはテレビゲームに進展していく。スタジオで集まってゲームをしているのをのぞき見をしているという感覚である。つねに見る側に立っている。モニターであり入っていくことはできなかった。一方向の受け手でしかなかった。電話なら発信と受信があり行き来がある。

長い間一方向に終始した。情報を伝えるには一方向は便利なものだった。合いの手を加えるのはライブ感覚にはなるが、方向性も持ったものを壊しにかかるものでもある。聞く耳をもたないという点で、有効に働く戦略だった。受信と送信はどういう機会でも、プレーヤーからはじまってやがてレコーダーになっていく。レコードの時代は聞くだけであったものが、テープの時代になって録音することができるようになった。プレーヤーがレコーダーになり、行ったり来たりができるように進化していく。テレビは長い間一方通行だった。

軍事政権が起こって制圧するときには、まずテレビ局がねらわれた。放送局を占拠して自分たちのメッセージを一方向性で伝える。雑音を聞かないで一方的に伝えることのできるメディアだった。マスメディアとしては新聞や雑誌があるが、時間がかかりクーデターには対応しない。アジびらよりももっと早いものとして放送メディアがあった。

ラジオと比べるとテレビは映像そのものだ。映像であるべきなのだが、近年は日本語をしゃべっていても字幕が入ったりする。出発点は音楽番組での歌詞のテロップだっただろう。はじめの頃はなかったが、歌詞が聞き取れないことからの導入だったと思う。今は英語でもないのに字幕が入る。聞き取れない人のための親切なのだろうが、映像の進化を考えると逆行する。耳の聞こえない人のためでもない。映像の力がなくなっていっている。ことばに頼る。映像で写しながらそれは何かをことばで説明する。ネームプレートをつける。知名度のない人の登場に名前を知らせる。誰もが知っている場合は、それはない。しゃべりことばの一言ずつが文字に起こされていく。映像の力を考えると否定的な動向と見えてくる。

テレビ中継で字幕はつかない方がいいと思ったことがあった。フィギュアスケートを成功させた選手が、歓声に答えて口もとが動いている。もちろん望遠レンズがとらえた映像で、声は聞こえないが、口の動きからありがとうと言っているのがわかる。それは視聴者が読み取り、聞き取る映像であって、字幕をつけるものではない。

テレビっ子という言いかたがあった。テレビによって育てられた子という意味だ。その場合のテレビは親の役割を果たしている。父親の場合もあれば、母親の場合もある。ことばを教えてくれるのもテレビだった。テレビは一方的に流れ続けるので、何も聞いてくれない親と同じだ。耳をふさげば聞こえない。選択はある程度できる。12チャンネルのうち都会なら6局は見ることができた。チャンネルを替えるということ。消すのではなくて替える。常に何かをしゃべり続けている。朝から晩までずっとがなり立てている。テレビを消すと火が消えたような寂寥感に襲われる。茶の間の中心であり、家族の中心としての役割をテレビは果たしてきた。

そこに映るのは家族全員で見るプロ野球であったり、ニュースだった。出発はプロレスだった。一家で共有する前は、食堂や喫茶店がたまり場となった。大相撲になれば近所のものが集まってきた。街の電気屋もその役割を果たした。その場合は立ち見だった。皇太子の成婚や東京オリンピックがテレビの普及をうながした。社会的エポックに合わせてカラー放送も始まる。大きなイヴェントごとに技術的に進化していく。東京オリンピックはカラー放送はしているが、たいていはカラーでは見ていない。映画はカラーの時代に入っていたが、テレビはまだ白黒の時代が続いていた。記録映画は市川崑が監督をして撮影されたが、その色彩が鮮明に定着している。テレビでモノクロ画面を見ていて、その後記録映画で赤いユニフォームを前にしてアッと驚く。

第493回 2023年2月4

実況中継

テレビの歴史を語るときにはずせない事件やイヴェントがつづられる。時事的なものが重要だ。ジェスチャーなどはテレビという特性にふさわしいゲームで、ことばがなくても身振り手振りで伝える練習が映像時代に加速する。ジェスチャーではまず先に文字が出てくる。視聴者に種明かしを先にして、出演者が文字に書かれたものを黙って読む。それをジェスチャーで伝え、見たものがその書かれた文字を言い当てる。テレビの特性に合わせて開発されたゲームだった。

テレビにふさわしい番組が模索される。番組とは言えないかもしれないが、大きな事件や天変地異が起こった時にテレビが活躍する。大事件とテレビが合体する。ラジオの場合はイマジネーションはどんどん広がっていくが、現実をそのままは見れない。ことばに置き換える。見える通りにどれだけことばで伝えられるかが勝負どころとなる。野球中継をラジオで聞くとアナウンサーの能力がよくわかる。イメージがどれだけことばで喚起できるか。それも野球というものを見て知っていないと、ラジオ放送を聞いているだけではイメージできない。草野球でもよいのでまずは見ることからはじまる。二つのメディアのなかでテレビが大活躍することになる。それがライブ映像ということだ。

大きなきっかけになったのが1972年で、このときにあさま山荘事件が起こった。日本赤軍があさま山荘の管理人を人質にして立てこもった。警察が突入して全員が逮捕されるが、逮捕までの一部始終を長時間ライブで流し続ける。警察が取り巻くなかで、ときどき銃声が聞こえる。警官をめがけて山荘の窓から発砲する。何も起こらないテレビ画面に音だけが響く。何が起こるかと見続けている。夜中じゅう見続けてしまう。何もなかったことに安堵するのでもない。このとき私たちは監視ビデオを見続ける監視員となっていた。逆にテレビの短時間のライブ感で、最高の醍醐味はボクシング中継だった。はじまって30秒でノックアウトされて終わったことがあったが、この衝撃は15ラウンドをうわまわる満足感を、視聴者にもたらした。予定調和は判定に持ち越す前に適当なラウンドでKOされるショーとなって落ち着いていく。

プロレスとともにスポーツはバラエティとなる。いわば殴り合いだが殺さない程度に傷つけあうというゲームである。それは戦争で核兵器や生物兵器を用いないという約束に似ている。ということは戦争もまたゲームとして、ルールをもつという不条理が浮かびあがる。あさま山荘中継でいえば、視聴者に結末を見せるためには、強行突入の時間帯は昼間に置かれることになる。茶の間の視聴者や資金を提供するスポンサーを優先させるとオリンピックも猛暑の季節が選ばれることにもなる。それ自身の自律的な生理によるのではなく、目に見えない大きな力が介在している。

相撲番組も似たようなところはある。仕切りの時間は長い。ダイジェストで見れば30分ですむが、ライブだと3時間はかかる。しかし何が起こるかわからないほうに惹かれるとすれば、相撲中継はテレビ向きということだ。一瞬で終わるものなのに、それに至るまでをとくとくと写し出していく。力士の顔がだんだんと熱気を帯びてくる。顔が赤らんで気迫がこもってくるのをカメラは写し出す。ラジオなら観客の声が大きくなる。表情を伝えることはテレビの得意芸だ。あとで編集するのではない、今を写し出す。このことがテレビを成長させてきた。

言ってみれば24時間流しっぱなしの監視ヴィデオのようなものだ。監視ヴィデオをじっと見ている人はいない。事件が起これば監視ヴィデオを見直すことになる。あさま山荘の時は、その前に連合赤軍が内ゲバでのリンチ殺人が話題になっていて、嗜虐的なイメージが植え付けられていた。拉致監禁の姿を思い浮かべながら見続ける。一向に何も起こらないのに何時間も見続けるのはすごいことだ。視聴率という面からも、工夫を凝らした制作上の成果というわけでもない。

これで視聴率が稼げるとその後同じような路線が引かれていく。テレビを固定して置いておくだけでよいのだ。ドラマなら脚本を書くことからはじまって、俳優がセリフを覚え、演出が加えられて練り上げられていく。事件におんぶされながら、その後の大きな事件も臨時ニュースとして取り上げられていった。あらかじめ想定はできない。番組が中断されて全く違う映像が入り込んでくる。「今入ったニュースです」というアナウンサーのことばにドキッとする。突発性がテレビの命となっていった。

実況中継はそれに近いものだ。臨時ニュースはそれ以上のインパクトを与える。今では慣れっこになったのが、地震の第一報だろう。やがて狼が来たに驚かなくなっていく。定例の番組が消えてしまい、特番が組まれる。震度5ぐらいではああまたかという程度で、驚かなくなってしまった。どんどんエスカレートして刺激を求めていくのも、人間の習性だ。テレビ向きにプロレスからキックボクシングへと展開する。映像に併せて音響も加速する。ビシッという肉に食い込む音が加わるのは、グローブの開発を助長しただけでなく、時代劇でも「三匹の侍」(1963--9)での肉を切る効果音にはじまり、その後定着していった。

第494回 2023年2月5

タレント性

いまテレビから見えてくるものは何か。バラエティ番組は多い。練り上げたドラマやドキュメンタリーに戻れという声はある。テレビをメディアとして自立し、芸術として考えたとき、テレビのアイデンティティを探り出す。報道番組は番組であって作品ではない。テレビでしか実現できない作品を探る。そこにドキュメンタリーやドラマに向ける意志表示が生まれる。練り上げるためには費用がかかる。

日本のテレビの発展史のなかで、1980年代に手掛けられたものが目立つ。映画の世界は少し下火だったころだ。スポンサーも映画よりもテレビに力を入れ、広告でのCM制作費に目が向かう。企業の広告費は、放送局のレベルでいうととんでもない額で、それがバブル経済の実態だった。バブルの崩壊まで日本は世界でトップを走る文化国家だった。世界の企業番付、ベスト50のうち30をこえる日本企業がカウントされたこともあった。そこではCMを制作するだけではなくて、番組を編成し、作品を提供し、企業イメージをアップさせる。

番組のスポンサーはCMを流すだけではない。番組そのものに資金を提供している。日曜劇場や土曜劇場などの枠を組んで優良な作品を提供し出した。見るほうはスポンサー名でその番組を記憶する。いまはスポンサー名が羅列され、単独でスポンサーになることは少なくなった。「ここまでの提供は」のあとにスポンサー名が立ち替わり伝えられる。練られた番組を毎週提供していく。

映画の場合日本では大手の五社があったが、テレビ局はNHKが先行した。自由な発言を期待して民放が育っていく。最初は日本テレビがNHKの次の年に誕生する。一年遅れてTBSがスタートする。映画会社と同じような番組の特徴を打ち出していく。フジテレビは娯楽性を表に出していく。報道は得意ではなく、バラエティに特化することも起こる。放送局はそれほど資金力をもってはいない。スポンサーだのみだったが、バブル経済に向かう絶好期には、海外から名優を招いてCMに起用する。チャールズ・ブロンソン(1921-2003)やアランドロン(1935-)がテレビに登場し、マンダム(1970)ダーバン(1971)の発音をともなって耳にこびりついた。大林宣彦がCMディレクターとして活躍した頃の話である。

東京マネーと呼ばれた日本がトップランナーだったころの話だ。世界のお金が東京に集まる。それと連動するようにテレビ放送が活況を呈した。1990年以降は手軽につくれておもしろいものが探求される。娯楽なのであまり深く考えないで、一家団欒に肩を張って見るものは敬遠される。基本は娯楽性の追究だった。バラエティ番組が始まる。頼るものはタレント性で、登場する人の才能に頼った。練り込まれた脚本に従っているのではなくて、その場で思いついた即興性に期待がかけられる。ジャズのライブ感覚で、しゃべりつづける。即興性と機転を信条とした、その場を取りつくろう能力を至上のものとした。

タモリ(1945-)、たけし(1947-)、さんま(1955-)というような個人、しかもお笑い系のタレントが登場してくる。吉本興業の時代がはじまっていく。バブル以前では大阪ではお笑いは松竹新喜劇が老舗を誇っていた。藤山寛美(1929-90)という天才級の舞台人がいた。チャップリンになぞらえることができるものだ。それを終わらせたのは安価ですむマルチなタレント性だった。政治でも報道番組にでもお笑い芸人が入り込んでいく。吉本一辺倒では困るだろうが、NHKにも根を張っている。

アスリートとしてはゴールドメダリストでも、バラエティ番組に出ると普通以下ということがある。これはスポーツだけではなく、政治家でも学者でも漫画家でもいえることだ。専門性とは別にタレント性という価値基準があることを語るものだ。それはテレビの時代がつくりあげた才能である。なじみやすく身近な印象をもった肩の張らないユーモアを必須の条件としたものだった。タレント性は抜群なのに本業の落語家としては、首をひねる場合も出てくる。何を評価の対象にすればいいのかと考えたとき、埋もれているものの存在に気づく。埋もれたがっていることも多い。東京には行かずに、地方にとどまった能力は多い。それは資質ということで磨くのは環境だというならば、都会に出るという選択肢が成り立つ。発掘されるためには都会に出て歩き回らなければならない。新人歌手から高校球児までスカウトという職種の登場も。テレビの時代のニーズに対応したものだった。

加速化するタレントの広がりに、警鐘を鳴らす流れはあるのだが、視聴率バトルをすると勝負がつく。放送局は視聴率を目安に動く。視聴率がよくないとスポンサーがつかない。視聴率のパーセントが購買力に反映することがわかっているからなのだろう。良い製品をつくればいいと思うのだが、目に触れること、耳に聞こえることがなければどんないいものでも埋もれてしまう。スポンサーの資金力がトップとなる。なけなしの貯えをすべて使って映画制作にかける冒険はある。しかしテレビではシビアで、いい脚本は書いても視聴率が悪いと途中で打ち止めになる。15回のつもりが10回で終わってしまう。

今では録画をしてみるのでどれだけ視聴率があるかは正確にはつかめない。時間帯も加味すると、複雑な数値の判断が予想できる。土曜日曜の7・8・9時台のゴールデンタイムをどこが制覇するか。NHKをはじめ民放各社がしのぎを削る。視聴率合戦は放送局の見識を問う基準にもなる。「8時だョ!全員集合」(1969-85)という番組名が、時間帯だけでなく、内容の在り処を伝える。ヴィデオのない時代、開始時間を伝えることが必要だった。家族は全員、時間になると集合した。テレビはみんなで見る時代だったことも伝えている。

テレビ放送が始まって間もない頃の数値はすごいものがある。一社しかなければ視聴率は100パーセントだ。二社になれば50だ。TBSが1956年にスーパーマンを放映した。アメリカからの輸入番組だが、自転車操業で自作が間に合わないこともわかる。今は海外からの番組は減少した。時折ブームのように韓国からのドラマが続いたりするが、テレビは自国のものだ。草分けの頃、なにもかもアメリカにあこがれていた時代、スーパーマンは74.2パーセントという視聴率が残されている。いまでは20パーセントでも驚異的で、10パーセント台を競い合う。NHKの連続テレビ小説では圧倒的に「おしん」(69.2%)が飛びぬけている。こうした数字が記録としてひとり歩きしていく。


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